第181話 "Innocent Vision"襲撃事件
2日後、文書の作成を終えた葵衣は放課後になってから2年1組を訪ねた。
ここでリーダーである叶のいる2年4組ではなく1組に向かうのは…"Innocent Vision"の役割の分担がしっかりしているからだ。
リーダーの叶はまさに理想のシンボルとして存在しており、八重花はそこに落ちる影を担当している。
だからこの手の実務的な話は八重花に回るのである。
仕えるべきお嬢様が学内にいなくなっても執事服を貫く、ある意味琴と双璧を成すアウトローの葵衣が3階の2年の教室に向かうと廊下にいた女子がにわかに騒がしくなった。
乙女会の葵衣が来れば当然だが何故か1組の前に女子が集まっていた。
「東條八重花様にお取り次ぎ願いたいのですが、何事ですか?」
葵衣の丁寧な願いと疑問に女子たちはテンパっていたがその中でも比較的冷静な1人が前に出てきた。
「東條さんは今教室にいます…けど、今はちょっと止めた方がいいかもしれません。」
女子は歯切れが悪くなんとも言いにくそうにしていた。
そのせいでなぜ止めた方がいいのかが分からない。
「この書類をお渡しするだけですのですぐに終わります。」
葵衣も暇ではないので今出来ることをさっさと終わらせようとドアを開けた。
女子たちの小さい悲鳴が背中から聞こえ、ようやくその意味を知ったときには遅かった。
「…ああ、ちょうどいいところに来たわ。これから"Innocent Vision"とヴァルキリーの全面戦争の日程を決めるから同席して。」
教室の中で由良と2人差し向かいで座っていた八重花は、過去最悪に不機嫌さを全身で表していた。
葵衣としては書類を渡して去りたかったが全面戦争とあっては看過できる内容ではない。
虫の居所が悪そうなので書類を隠しつつ葵衣はゆっくりと教室へと足を踏み入れた。
外にいた1組の女子は中から溢れ出てくる圧力を恐れてドアを閉めた。
八重花はピリピリしていて今この場で戦争を起こすことも辞さない様子で、由良は困惑しているようだった。
「全面戦争とは穏やかではありません。詳しい事情をお聞かせ願えますか?」
少なくとも今のところヴァルキリーは"Innocent Vision"と事を構える気はない。
優先して倒すべき敵が他にいるのに一番厄介な相手に手を出す愚は犯したくはないからだ。
「…。」
八重花はギョロリと葵衣を睨み付けるが葵衣のポーカーフェイスは崩れない。
文書に関しては若干危ういが、まだ内容を見ていない八重花が不機嫌になる理由にはならない。
訳の分からない状態では疑問しか浮かばなかった。
「俺も少し纏めたいからな。悪いがヤエ、もう一回頼む。」
由良が助け船を出すように口を挟むと八重花は咳払いをして視線を外した。
「…分かったわ。」
葵衣が由良の隣の席に腰かけると八重花は語り始めた。
「まず第1の事件よ。」
「事件、ですか?」
いきなりのサスペンスか探偵物風の流れに葵衣が首をかしげる。
なんだかミステリアスなBGMまで聞こえてきそうな雰囲気である。
「そうよ。今日の2時間目の休み時間。真奈美は次の時間の体育の準備をしていたけど義足の関係もあって遅くなったらしいわ。慌てて更衣室から校庭に向かった。階段に差し掛かったときにカードが落ちていることに気付いて手に取った。誰かの落とし物かもしれないから確認しようとしたらしいわ。次の瞬間、真奈美は誰かに背中を押されたのよ。押された先は階段で、不意を突かれた真奈美は踏ん張ることもできずに階段に落ちた。」
「それで、どうなったのですか?」
葵衣も既に八重花の言いたいことは理解したが状況は正しく知らなければならない。
「咄嗟に片手をついてハンドスプリングの要領で踊り場に着地したらしいわ。」
「…マナ、あいつは曲芸師になるべきだな。」
それに関してはこの場にいた全員がまったくの同意見だった。
「真奈美はすぐに振り返って見上げたけど逆光だったし歩いて去るスカートがほんの少し見えただけだったそうよ。ちなみにカードは死神の書かれたトランプのジョーカーだったそうよ。」
「しかしそれではヴァルキリーである証拠にはなりません。」
「それは確かにそうね。でも学内で真奈美に敵意を持つ相手としてヴァルキリーやジュエルが浮かぶのは仕方がないわよね?」
それは敵対組織である以上当然だ。
葵衣としてもその可能性は払拭できないが現状では証拠もない。
「次の事件はどなたです?」
「琴よ。第2の事件は3時間目の休み時間。琴はお手洗いに入っていたそうよ。そうしたらコンコンとドアがノックされた。琴が入ったときに周囲は空いていたし、その後も誰かが入ってきた様子はなかった。不審に思いながら返事をしたらしいけど応答はなし。」
八重花の語りも雰囲気が出ていてまるでホラーのようだった。
「琴も気味が悪くなってすぐに出ようと立ち上がった。その直後、ドアの隙間から剣が突き出してきた。そのまま座っていたら本気で危なかった。慌ててドアを開けて飛び出したけどその時にはもう誰もいなかったそうよ。」
学内の、しかも女子トイレの時点で男子の可能性は低い。
そこに剣が出てきたとなればほとんど証拠と言って差し支えなかった。
「そして第3の事件。」
「…まだあるのですか?」
もう八重花が疑うだけの状況なのは理解できたのにさらに事件があったとなれば確定だ。
「ええ、あったのよ。卑劣な事件が。」
八重花が神妙に頷くのを見て葵衣は気を引き締める。
「それは昼休みの事だった。今日は叶たちと都合が合わなくて私は1人で食堂に行った。そこには冬限定、昔りくと一緒に食べた鍋が出ていたのよ。懐かしくて私は注文したわ。5分くらい待たされたわ。食堂で学生が払うのよりも割高な代金を払ったわ。それを持って席を探していたとき…」
ここまでの流れから何者かの襲撃を受けたことは簡単に予想できた。
八重花の口が開き、その答えが示される。
「突然トレイが割れて鍋が落ちたのよ。これは私とりくの思い出を踏みにじる悪の仕業なのよ!」
八重花が握り拳を震わせて怒れる向かいで由良と葵衣が冷たい目をしている。
全面戦争の下りは完全に八重花の私怨だった。
「疑わしいのは分かったが全面戦争は考え直せ。カナたちだってそんな事は望んでないはずだ。」
「…それもそうね。ただ、私の恨みを差し置いてもトレイが真っ二つなんて状況は普通あり得ないわ。それに真奈美と琴の件も無差別とは思えない。」
先日は"Innocent Vision"がヴァルハラに話をしに行った事でジュエルと一悶着あったばかりだ。
恨みを買っている可能性は高い。
「東條様の仰る通り"Innocent Vision"を特定して狙った犯行と考えられます。特に第2の事件は限りなくジュエルの犯行である可能性が高いですが、調査の猶予をいただきたく思います。」
葵衣は"Innocent Vision"との戦闘を避けつつ事態の収拾を図る手段として犯人の特定をするつもりだった。
ジュエルではないに越したことはないが、ジュエルだった場合にも資格の剥奪などのペナルティーを与えて制裁を加えることで最悪の事態を回避するつもりだ。
ピロリロリ
八重花の返答より早く八重花の携帯が鳴り出した。
「もしもし、真奈美?」
『大変だ、八重花!叶が…』
「!!」
八重花の予想していた最後の事件が起こった報せだった。
八重花の反応で葵衣と由良も緊迫した表情に変わった。
「叶がどうしたの?」
『交差点で信号待ちしているときに背中を突き飛ばされそうになったみたい。幸い無事だったけどその時オリビンが何かの力を反発したみたいだって。』
「そう。叶に気を付けるように伝えておいて。こっちで犯人を探してみるわ。」
八重花は携帯を切るとゆっくりと顔を上げた。
真奈美の声は聞こえなかっただろうが聡い2人は内容を察していた。
「カナが襲われたか?」
「ええ、交差点で突き飛ばされかけたそうよ。そしてその時オリビンが魔の力に反発した。これで決まりね。」
「ヴァルキリーに冤罪を被せて"Innocent Vision"との戦闘を誘発する"オミニポテンス"の可能性もありますが、学内での事件が多い事を考えますとやはり…」
葵衣は最後の言葉を口にはしなかったが犯人は決まったようなものだ。
「犯人の追求と粛正はヴァルキリーが責任を持って行います。再発防止にも尽力致しますので本件に対する報復活動はお待ちいただきたく思います。」
葵衣はしっかりと八重花に視線を向けて提案と嘆願を示した。
八重花は険しい表情で睨み付けるが表面上葵衣の顔は動かない。
「…まあ、半分以上は私怨で全面戦争なんて言ったけどそれは"Innocent Vision"の主義に反するもの、やらないわ。でもそっちの追求は頼むわよ?私たちはまた狙われないとも限らない以上警戒するように話し合うわ。」
「了解致しました。直ちに究明に乗り出します。」
葵衣は立ち上がり折り目正しいお辞儀をした。
由良も立ち上がって伸びをする。
「ちょっと待って。」
そのまま教室を出ようと踵を返した葵衣の背に八重花が声をかけた。
振り返った葵衣は手のひらを上に向けて突き出した八重花を見た。
握手ではない。
どちらかと言えばお金を要求しているように見える。
「お金じゃないわよ。例の文書を届けに来たんでしょ?内容はそれほど期待してないけど形式上ちゃんと受け取らせてもらうわ。」
「…本当に恐ろしい方です、東條様は。」
葵衣は部屋に入るときにしまった文書の入った封筒を手渡して由良と共に退室していった。
「で、どうするんだ?」
ヴァルハラに向かいながら由良は隣を歩く葵衣に尋ねた。
八重花に宣言した以上葵衣が犯人を特定して粛正しようとするのはわかるがどう動くのかに興味があった。
「壱葉高校には現在63名のジュエルが在学しております。彼女らの本日の動向を早急に調査し犯人を特定致します。独断での違反行為はヴァルキリーの理念に反するものです。容認は不可能です。」
相変わらず感情を読ませない平淡な口調だが由良には少し苛立っているように聞こえた。
先日に続き、今日はジュエルの勝手な動きで"Innocent Vision"との戦争に発展しかけたのだから危惧するのも無理はなかった。
「…んー?」
「どうされました?」
由良が不意に首を捻り出したので尋ねるが由良は眉を寄せて唸ったままだった。
「何か引っ掛かるんだが、それが何なのか分からない。」
本人に分からないことを葵衣が分かるわけもないのでそれ以上は聞かずにヴァルハラへと足を速める。
ドアを開けると良子と緑里、悠莉、紗香がいた。
「遅かったね、何かあった?」
「はい。火急的速やかに解決しなければならない問題が発生致しました。」
葵衣は簡潔に答えるとパソコンに向かい、壱葉高校のジュエルと連絡を取り始めた。
忙しそうな葵衣から話を聞くのは気が引ける面々の視線は当然由良へと向かった。
「まあ、良いけどな。」
由良はドカッと椅子に腰掛けると八重花から聞いた4つの事件を語って聞かせた。
「それは、まあ、八重花の言い分も分かるかな?」
「先日もジュエルには厳しく指導したんですが、まだ足りませんでしたか。」
「いえ、悠莉お姉様。あれ以上の指導はもう誰も持ちません。」
思い出した紗香が身を震わせながら指摘する。
ヴァルキリーメンバーの話を聞いていて由良はやっぱり何か違和感を覚えていた。
「由良、どうかした?」
緑里が尋ねてくる姿がさっきの葵衣と重なって由良はフッと笑う。
「何か気になっているんだが…何が気になってるんだ?」
「それが分かるのは読心術の使い手だよ。」
「なるほど、違いない。」
由良は笑って会話に意識を戻す。
「ジュエルが犯人だとして、理由はやっぱり"Innocent Vision"を倒すためだよね?」
「それ以外ありませんね。ジュエルはヴァルキリーのために敵と戦うことばかり教えてきましたから。」
「基本的に何も考えてないですよ。」
「…ん?ちょっと待てよ?」
由良が会話に割り込んだ。
神妙な顔をする由良に全員の視線が集まる。
「なあ、確認なんだが、ジュエルはヴァルキリーのために戦うんだな?」
「そう設定してあるからね。ヴァルキリーの目的に合わないときはジュエルは使えないよ。」
「…なら、今回の犯人はどうして第2の事件で魔剣を使えたんだ?」
そう、ジュエルが魔剣を使うにはヴァルキリーの目的に沿う必要がある。
ヴァルキリーは"Innocent Vision"と事を荒立てたくない。
ジュエルは使えないはずだった。
ハッと気づいて視線を葵衣に向ける。
ちょうど葵衣が顔を上げたところだった。
「たった今、ジュエル全員のアリバイがあることを確認しました。」
ヴァルキリーのメンバーが沈黙する。
本格的にサスペンスっぽくなってきた。
ジュエルではないなら犯人は誰なのか?
第2の事件で剣を使ったってことはこの中に犯人が?
疑っているわけではないが徐々に疑心暗鬼になっていき雰囲気が悪くなっていく。
その中で悠莉が首を傾げて呟いた。
「そう言えば、美保さんはどうしたんでしょう?」