第15話 "Innocent Vision"の存在理由
叶が葵衣の用意した車に乗せられて連れてこられたのはシックな珈琲の喫茶店だった。
ここはかつて撫子が陸にヴァルキリーの理念を説き、敵対することになった店だ。
尤も今日は貸し切りでもマスターが花鳳の者でもない平時の喫茶店だったが。
葵衣は予約をしていたのかマスターに会釈をするとそのまま奥まったボックス席に向かってしまった。
叶も慌てて後を追う。
てっきりそこにはヴァルキリーのソーサリスが待っているものと警戒していたが席にも周りにも彼女らの姿はない。
「本日はヴァルキリーの長、撫子お嬢様の代理である私と"Innocent Vision"のリーダーで在らせられる作倉叶様だけでの言わば首脳会談です。」
心を読んだようなタイミングでの声に叶は目をしばたかせる。
促されるままに席についてカフェオレを2つ注文した。
イメージ的に葵衣はブラックかと思っていたので叶は葵衣を意外そうに見た。
「もともとコーヒーではなく紅茶を好みます。渋味は良いのですが苦味は苦手です。」
またも心を読んだような会話。
叶は葵衣のジュエルは読心術なんじゃないかと思った。
「心を読んでいるわけではなく作倉様の心が表情によく表れているのです。人としては美点ですが交渉事には向かないのでご注意ください。」
さらにその考えまでも読まれた挙げ句助言まで受けてしまい叶は驚きすぎて曖昧に頷くことしかできなかった。
これから行われる会談と言う名の交渉の主導権を奪われたことに気付かないまま注文したカフェオレに口をつける。
「それで、首脳会談て言われても何を話せばいいのか分からないんですけど、何のお話ですか?」
表情だけでなく心根まで交渉事に向かない叶は葵衣に自らの無知をさらけ出す。
ここで葵衣が荒唐無稽な話をしても叶は信じてしまうはずだ。
多少嘘っぽくても専門家が言うには…、や最近の研究で…、などの語句を用いればそれの真偽に拘わらず大抵の人は納得してしまう。
「ヴァルキリーと"Innocent Vision"の今後についてのお話です。」
だが葵衣はそのような手段を使う気は無かった。
それは撫子の名を貶めるような手段を使えないという忠義と正論でも論破できるという自信、そして無垢な少女に嘘をついて騙すことに対する罪悪感、それらがない交ぜになった結論だった。
「ご存知かと思われますがヴァルキリーの究極の理想は世界の恒久平和です。かつてはソルシエールの力で理想を実現する計画でしたが今は魔女ファブレから与えられた力ではなく、そこから我々が作り出したジュエルによって進めていくことになります。」
「でも、陸君が言っていました。ヴァルキリーの理想は人を殺すことで成り立つものだって。」
「半場様の率いる"Innocent Vision"との会談の際には確かにそのような考えの下で活動しておりました。しかしソルシエールでは最終的に行き着く場所が人類の抹殺となると気付いたため、ジュエルは殺害の象徴ではなくヴァルキリー統制の証として持つことになります。」
ファブレの明かした真実の解釈、ジュエルの在り方の一面だけを強く押す、都合の良い表現で葵衣は話を進めていく。
叶はキャッチセールスの話を聞いているように時折頷きながら耳を傾けていた。
確かにヴァルキリーの在り方も半場陸との幾度もの衝突や様々な情報を得て変化し、気に食わない相手を問答無用で殺すようなことはなくなった。
しかし本質的には従属か死かの2択であり、従わない相手を排除する姿勢は変わっていない。
「ヴァルキリーはジュエルという新たな力で理想の実現を目指します。それでは"Innocent Vision"はどうなのでしょう?」
「私たちですか?」
「はい。"Innocent Vision"はもともと殺人の肯定したヴァルキリーの在り方を否定した半場様が数人のソーサリスと共に作り上げた反ヴァルキリー組織とでも呼ぶべきものです。」
叶も聞いた話を思い出し頷く。
「ですが"Innocent Vision"は大きく力を失いました。半場様が倒れられ、主力だったソルシエールの力は失われ、そして残ったのはセイントの力を持つ作倉様と芦屋様のみ。お二方も現状の戦力としては不十分と言わざるを得ない状況です。」
的確な状況判断は叶も自覚しているからこそ重くのし掛かってくる。
「ジュエルはこれから力をつけていきますのでヴァルキリーの戦力は増加していくと思われます。対して"Innocent Vision"は低下したまま増加する傾向が見られません。もしも以前のような決戦が起これば間違いなく我々の勝利となることでしょう。」
それは純然たる事実。
未来視などなくてもわかるほどの圧勝でヴァルキリーの勝利に終わる。
叶も先日の美保や悠莉との戦いがさらに大きな規模で行われることを想像して小さく身を震わせた。
葵衣はそのわずかな変化を見逃さない。
「ヴァルキリーが変われば"Innocent Vision"の存在理由はなくなります。皆様がヴァルキリーに協力してくださればより迅速にヴァルキリーは理想を実現することが出来ると考えております。」
葵衣はいつもながら静かな表情だがその瞳には確かな熱意があった。
ファブレという障害がなくなり、この交渉で"Innocent Vision"の戦力を傘下に組み込むことができればヴァルキリーは磐石の体制で計画を邁進させられる。
撫子の理想の実現が一気に近づくことを葵衣は内心歓喜する。
叶はカフェオレのカップをじっと見つめて考えているように見えた。
だけど叶では陸のような大局的な物の見方は出来ない。
圧倒的な戦力差と目指すべき目標の瓦解を武器に葵衣は"Innocent Vision"の頭から切り落とそうとしていた。
「それは駄目です。」
だから葵衣は、叶が穏やかながら強い思いを秘めた瞳で顔をあげ、はっきりとした否定の言葉を発したことが理解できなかった。
「…理由をお聞かせ願えますか?」
だから葵衣は尋ねる。
葵衣にとって未知の思考を辿り、自分では絶対に至らない答えへと行き着いた者を少しでも理解するために。
「確かに今の"Innocent Vision"は全然強くなくてヴァルキリーに簡単にやられちゃうと思います。」
叶はあっさりとそのことを認めた。
だがそこに恐怖や悲壮感は含まれていない。
あくまで穏やかに、コーヒーを飲みながら世間話でもするように弱体化した"Innocent Vision"を肯定した。
「それならばヴァルキリーに参加すべきとはお考えになりませんか?力を持ち、人々を導く立場に立つことを誇りに思いませんか?」
付け入る隙を見つけて葵衣はすかさず説得を試みるが返ってきたのは困ったような笑みと横に振られた首だった。
それは改めて葵衣が叶の心を理解できていないことを意味していた。
(分かりません。作倉様が今何を考えていらっしゃるのか、まったく分かりません。)
さっきまで手に取るように理解できた叶の心がわからない。
人は無知を、故に未知を恐れる。
葵衣は今、叶を恐れていた。
「他のみんなはどう考えているのかわかりませんけど私は一応"Innocent Vision"のリーダーですから。だから"Innocent Vision"としてはヴァルキリーに入ることはありません。もしかしたら他のみんなは入ってもいいって考えてるかも知れませんけど私はたとえ1人になっても"Innocent Vision"を無くさせません。」
「それは何故ですか?」
もはや葵衣は考えるのをやめた。
ただ叶の言葉を聞き、その言葉を理解しようとした。
ここにきて会話の主導権を完全に叶に明け渡したのだ。
叶はどこか恥ずかしそうに両手でカップを握ってカフェオレに口をつけるとはにかみながら顔を上げ
「だって、陸君が起きたときに"Innocent Vision"がなくなっていたら可哀想じゃないですか。」
叶の答えを示した。
葵衣は思わずカップを取り零しそうになった。
(なんということでしょうか。)
葵衣は怒りとも呆れとも感嘆ともつかない感情がぐるぐると体の中を巡るのを感じた。
叶の出した答えは戦力差も目指す理想も関係ない。
ただ陸を想っての行動だった。
そしてそんな数字以外の要素の答えがあると知ったとき葵衣は絶望した。
もしかしたら叶は駄目でも戦況を正しく理解できる八重花や由良ならば説得できるかもしれないと思っていた。
だが"Innocent Vision"は元々陸を絆として集まったメンバー、叶と同じ気持ちでいる可能性が高い。
「私は最初からヴァルキリーとの戦いなんて望んでいません。ジュエルの世界がやってくるのなら諦めますけど少なくとも今は、陸君が目覚めるその時までは私は"Innocent Vision"を守ります。」
「…ヴァルキリーが"Innocent Vision"を排除しようとしたとしてもですか?」
反論の余地を無くした葵衣は苦し紛れの脅迫まで口にした。
それでも叶の強さは揺らがない。
「その時は全力で守ります。それでも守りきれなかったとしたら、それはきっと陸君が見る運命なんですよ。」
葵衣は完全に言葉を失い、叶はただ優しく微笑みを浮かべるだけだった。
話が終わった。
葵衣が自信を持って挑んだ交渉は決裂。
即時開戦のような状況にはならなかったもののヴァルキリーと"Innocent Vision"が相容れない存在であることが浮き彫りとなってしまった。
葵衣はテーブルの下で握った拳の中にある宝石に意識を向けた。
(ここで作倉様を捕えて"Innocent Vision"に降伏を提案しますか?)
自らのプライドを捨て撫子の名も汚す行為だがこのまま帰してしまうのは危険だと葵衣の中の何かが告げていた。
(エルバ…)
葵衣が強迫観念に呑まれて机の下でジュエルを取り出そうとした瞬間
バンッ
店のドアが勢いよく開いた。
ビクリと驚く店内の客はもう一度驚いた。
そこには巫女装束を着た少女が息を弾ませて立っていたからだ。
「琴先輩?」
叶が立ち上がって首を傾げると琴はあからさまに安堵した様子で近づいた。
(太宮院様がなぜここに?)
葵衣は表情に出さず驚愕する。
琴が来ない店というわけではないがこのタイミングで現れるのは明らかに異常だった。
「琴先輩、どうかしたんですか?」
叶が飲みかけのカフェオレを差し出すと琴はそれを飲んで喉を潤した。
「…いえ、近くを通っていたところ叶さんを見掛けたのでご挨拶をと。」
言葉とは裏腹に琴の目は葵衣を見ていた。
さりげなく叶を庇うように後ろに回しているのも警戒の表れだった。
「叶さんとどのようなご用でしたか?」
「些末事です。もう済みました。作倉様、ご足労をお掛けして申し訳ございませんでした。」
葵衣は立ち上がると深々と頭を下げた。
「こちらこそなんだかすみません。お代は…」
「ヴァルキリーの予算から出しますのでご心配は不要です。」
葵衣の拒絶するような態度と琴の急かすような態度に叶は支払い交渉を諦めた。
「ありがとうございます。そのお礼ではないですしご存じかもしれませんが。」
「なんでございましょう?」
葵衣はもう驚くような情報はないと軽い気持ちで叶の"お礼"に耳を傾けた。
叶は真面目な顔をして
「私たち"Innocent Vision"の敵はヴァルキリーではありません。」
そう告げた。
それは先日悠莉が言った言葉と似て非なるもの。
そして
「私たちの敵はジェムに似ているけど違う、新しい敵です。」
ヴァルキリーにとってあまりにも寝耳に水の情報だった。
「それでは失礼します。」
葵衣が問い質す前に叶は琴に引っ張られるように店を出ていってしまった。
ドアが閉まるのを見届けた葵衣は力なく椅子に腰を下ろす。
冷めたカフェオレに口をつけ、深いため息をつく。
完全にペースを乱された。
ヴァルキリーの要求は何1つ通らず、"Innocent Vision"のリーダーがヴァルキリーは敵ではないと宣言した以上攻撃しづらくなった。
(そして何より、新しい敵?それはいったい何です?)
叶が葵衣を混乱させるためについた嘘という線は叶の善性を今日の話で知ったからこそあり得ないと言い切れた。
つまり"Innocent Vision"はその未知の敵と接触した。
(4月の初めに"Innocent Vision"が動いていたのはジュエルに気付いたのではなくその敵に対する警戒でしたか。)
葵衣は席を立つ。
控えていた運転手が会計を済ませており店を出るとすぐに車に乗り込んだ。
「どちらまで?」
「ヴァルハラへ。早急に対策を練らなければなりません。」
葵衣は緊急用の電話を繋ぐ。
「お嬢様、緊急事態でございます。」