第142話 災厄の箱の猫
窓は分厚い黒い布で塞がれ、蝋燭の明かりだけが灯る暗い部屋の中でオリビアは膝の上に乗せていたものを弄っていた。
『オリビア様。』
突然この場にいなかったはずの茜の声が聞こえた。
オリビアは驚くことはなかったがわずかに首をかしげた。
「何事か?」
『対象をロストしました。』
「…そうか。巧妙に出鼻を挫くとは、未来視もやりおるのう。あやつらが妨害してくるかもしれん、今日のところは引き上げい。」
『御意。』
電話ではなくテレパシーのような魔術による会話を終えたオリビアは安楽椅子に腰掛けた体をわずかに揺する。
「妾の邪魔をするか、"Akashic Vision"。」
だがオリビアの顔は楽しげに歪んでいる。
「くくっ。なるほど、ファブレのやつめが自らの存在を懸けてまで遊んでいたわけが分かってきたわ。これほど心踊る相手もそうはおるまい。」
魔女には魔石の製造や魔術といった人から外れた力がある。
だから本来ならば魔女に対抗できるのは魔女、あるいはかなり力を持った特異な魔法使いくらいのものだった。
だがファブレは魔剣を与えた相手を操らないことでInnocent Visionという最高に面白い相手を生み出したのだ。
人を超えた力を持つ魔女ですら翻弄できる未来視の使い手。
「彼の者は妾たちと同じ"化け物"か。あるいは妾に仇なす"神"かの?クックック。」
ユラユラと椅子を揺らしながらオリビアは暗い部屋で笑い続けていた。
「緊急召集。」
放課後に突然八重花から呼び出しを受けた叶が指定の場所に行くと以前"Innocent Vision"のリーダーになりたての頃に葵衣と来た喫茶店だった。
店の前で待っていた八重花は落胆と苛立ちを隠せない様子で組んだ腕の上で指をトントン叩いている。
「陸を探していたら反応があったのよ。店主に聞いたら"Akashic Vision"ともう1人女がやって来て少し前に帰っていったらしいわ。私が来るタイミングを見越して帰ったみたいね。」
八重花はチッと舌打ちした。
「八重花ちゃん、女の子なんだからそういう癖は直した方がいいよ。それにまだこの近くに陸君たちもいるかもしれないし。」
慰めようとしたが八重花に睨まれて真奈美の後ろに隠れた。
八重花はため息をついて頭を掻く。
その仕草は由良のようで影響の大元がそこだと叶は知った。
「陸がそんなへまをするとは思えないわ。会う気があるならもっと分かりやすいヒントを残すはずよ。」
なまじ陸と思考が近い八重花だからこそ陸の行動を理解していた。
つまり陸たち"Akashic Vision"が飄々としているのは叶たち元"Innocent Vision"に遭遇しないようにしているのだと。
3人が店の前で押し黙ってしまう。
追い掛けている相手に一分の隙もなく逃げられては悲しくもなり、追い続ける気力を削られていく。
「陸君たちは私たちと戦いたくないってことだよね。」
同じように悲嘆にくれているように見えた叶は実はまったく別の事を考えていた。
唖然とする2人を見てあれ?と首を傾げる。
「だって私たちだって抵抗をするなら排除するって言ってたでしょ?でも私たちは魔剣とか聖剣を捨ててないのに一度も会えない。だから陸君たちは私たちと戦いたくないのかなって。」
説明しても八重花たちは呆然としたままなので
(変なこと言っちゃったかな?)
と不安になった。
その無言の時間は店に入ろうとした客を避けるために動いたことで終わった。
3人はそのまま店から遠ざかるように歩き出す。
「希望的な意見ね。…だけど、面白い。」
不意に口を開いた八重花は興味を持ったことに打ち込む際の楽しげな表情になっていた。
「これまでりくが避けるのは交渉のテーブルに着くのが嫌なのだと思ってた。でも、そうね。確かに私たちと戦うのは"Akashic Vision"にとってリスクが高いのよね。」
八重花は叶と真奈美を見てニヤリと笑う。
「だってこっちには聖剣があるんだもの。いかに未来視を持つInnocent Visionだって叶と戦えば最悪魔石を砕かれかねない。」
「そんなことしないよ!」
「落ち着きなさい。例えばの話よ。話し合いをする気はないし戦うつもりもない。だからりくたちは私たちを避けてきた。」
八重花が悪いことを考えた時に浮かべる不敵な笑みで叶と真奈美を見た。
「これまでは戦わないで交渉する方法を考えて探し回ってたわ。だけどそれが駄目なら戦わざるを得ない状況にすればいい。そうすればりくたちを同じテーブルに引きずり出せるわ。協力してもらうわよ?」
悪い顔をしたときの八重花に付き合うと大抵いろんな意味で大変な目に会うことが多い。
それでも真奈美の、叶の答えは決まっている。
「もちろん一枚噛ませてもらうよ。」
それは同じ目的のため。
「八重花ちゃんの作戦ならきっとうまく行くよね。」
そして、親友を信じているから。
ブルル
「ッ!」
八重花の予想通り、叶たちから離れた道を歩いていた陸は突然体を震わせて立ち止まった。
「りっくん、どうしたの?おしっこ?」
「いや、悪寒がしただけだよ。」
「オカンが、した?」
蘭はどうしてもおしっこトークに持っていきたいのか粘るが陸は虚空を見つめて深刻な顔をした。
「ランちゃん、陸が真剣。きっと大きい方。」
「ああ!」
真顔でとんでもない流れを作る明夜と納得したようにポンと手を打つ蘭のギャグにシリアスな陸の頬が笑いでひくついている。
「お兄ちゃん。」
唯一話に参加していなかった海が神妙な顔で顔を寄せてきた。
(海だけは違うって信じてたよ。)
内心蘭と明夜をこき降ろした陸だったが
「私、お兄ちゃんならどっちでも受け止める覚悟があるからね!」
海は真面目な顔で大きく宣言した。
(ああ、やっぱり類は友を呼ぶんだ。)
ワイキャイと下寄りのトークに花を咲かせる乙女たちを見て陸はちょっぴり涙がちょちょ切れる思いだった。
「悪寒って、お兄ちゃん何か悪いことした?」
「…」
言われて思い返してみると…叶たちを泣かせたり、ヴァルキリーの面々に怨みを買うようなことをしたり、魔女に付け狙われそうな言動をしたり。
「…いっぱい在りすぎてどれか分からない。」
陸は土下座して謝りたい気分になった。
さすがに天下の往来で奇行に走るわけにもいかないので思い止まったがテンションはだだ下がりしている。
「タイミング的には八重花が僕にとってよろしくない何かを考え付いたんだと思うけど。」
それでも未来視でその事実を知らなくてもちゃっかり自身の持つ思考で正解を当てる天然予言者ぶり。
「さすがは元"Innocent Vision"の作戦参謀。お兄ちゃんが一目置くだけの事はあるね。」
「八重花は危険。」
「いろんな意味でね。」
"Akashic Vision"のソーサリスたちも楽しげに話していた表情はそのままに左の瞳の奥に薄い朱色を宿していた。
「叶さんたちが追ってくる以上いつかは捕まる時が来るだろうね。その時は…」
陸はそれ以上の言葉は告げず瞳を閉じた。
目蓋の裏にどんな未来を見るのか、陸を見守るソーサリスたちは詮索はせず、ただ陸を信じて共に歩む決意を固めた。
今日は撫子の意向で葵衣、緑里と3人で外食だった。
もちろんファミレスなどという選択肢は…多少撫子が興味を示したりはしたが…なく、一般人には敷居の高いフランス料理の店だ。
自然と服装もそれなりのグレードが求められ、3人ともドレス姿だった。
周囲は気品高い美女3人の姿に男女問わず注目していたが撫子たちは気に止める様子もなかった。
「本日の夕方に紗香様からご連絡をいただきましてお話を伺ってまいりました。」
「ワルキューレに配属されたばかりで勝手が分からなかったのかしら?」
「それにしても初日から熱心だね。」
ウェイターが料理を運んできたため話が途切れた。
大人っぽいドレスを纏う撫子にワインが薦められるが未成年だからと断って料理を口に運ぶ。
「熱心なのは事実です。しかし、本日のお話は元"Innocent Vision"の方々、および"Akashic Vision"の方々と話した内容についてでした。」
「ッ!?」
あまりにも予想外の言葉に驚きすぎて緑里は吹き出しかけたが、淑女の意地でどうにか堪えた。
撫子も吹き出すまではいかないまでも目を丸くして葵衣の言葉に驚いている。
「"Innocent Vision"とは壱葉高校の食堂で同席した際にお話しされたそうです。東條様の洞察力は危険だと感じたとのことでした。」
「彼女の知略は確かに半場さんに通ずるものがあるもの。なかなか鋭い指摘ね。」
撫子は料理を食べて満足げに頷く。
尤も笑顔の理由は料理ではなく紗香の事だが、店員は撫子の機嫌がいいことにホッとした様子だった。
「それよりも"Akashic Vision"と会ったって、盛岡みたいにジュエルを消されなかったの?」
「その様な報告は受けておりません。"Akashic Vision"とは喫茶店でお茶をし、そこで予言を受けたと。」
合間に料理を食べながら葵衣は話を進めていく。
緑里は話を聞いていると食が止まるし、かと言って食べていると話を疎かにしてしまう。
撫子も一口食べて疑問を口にした。
「予言とは?」
「詳しくは教えられなかったそうですが近い未来に紗香様は某かの選択を迫られ、それによって得られるものと失うものがあるとのことでした。」
「それじゃあなんだかよく分からないね。」
どんな選択だって大抵何かを得るために選び、選ばなかった方を捨てることになる。
陸の予言の規模が判別できない以上どの程度警戒すべきか分からなかった。
「…」
葵衣は続くInnocent Visionの"結果"に従って人の行動が操られる話は食事時にして気持ちいい内容ではないと割愛した。
「また、紗香様は"Akashic Vision"とヴァルキリーに和平の道が存在しないかを尋ねたそうです。」
「それはまた…優秀ね。」
撫子はウェイターを呼んでドリンクのお代わりを頼んだ。
葵衣に向き直った撫子の表情は答えが分かりきっているとばかりに諦めたような苦笑が浮かんでいた。
「"Akashic Vision"は和平を受け入れなかったのでしょう?」
「はい。また"Innocent Vision"との合併をしなかった理由を自分たちがパンドラの箱に入れられたシュレディンガーの猫だからだと語ったそうです。」
「パンドラの箱?シュレディンガーの猫?」
緑里が首を傾げる。
「パンドラの箱は災厄が詰まった箱をパンドラという女性が唆されて開いたため世界は悪意に溢れたが、最後に箱の底には希望が入っていたという神話ね。」
「そしてシュレディンガーは理論物理学の学者です。放射線を検出すると毒ガスを出す装置を入れた箱に猫を入れて蓋を閉めたとき、箱の中の猫は生きているか死んでいるか、量子論的には死んでいる可能性と生きている可能性が共存した状態にある、という話です。」
「…なにそれ?」
緑里は話を聞いてもちんぷんかんぷんだった。
葵衣もさすがに量子論を完全に理解しているわけでもないので緑里の勉強不足を指摘するわけにはいかない。
「つまり、半場さんは災厄の箱の中にいてわたくしたちには認識できないと言いたいのかしら?」
「分かりかねます。しかしそれが"Innocent Vision"と"Akashic Vision"の決定的な違いであると。」
撫子たちは無言になりドリンクを口にした。
紗香よりも博識な撫子や葵衣でも陸の謎掛けとも言えるヒントから答えは出せなかった。
答えに至るためのピースが少なすぎるのである。
ヴァルキリーとしては対決姿勢を取る事になったがやはり"Akashic Vision"との停戦や共闘の話し合いは是非とも進めたい案件である。
だが今回の情報でもそれに至る事は出来そうになかった。
「半場さんは本当に心根を掴ませてくれませんね。」
盛岡でのジュエル破壊や宣戦布告と言える横浜ジュエルの神川殺害があるかと思えば名古屋では1人も傷つけることなく去り今回も紗香に助言をして去っている。
"Akashic Vision"自体が掴み所なく神出鬼没だが、その行動を決める陸自身の考えも浮かぶ雲のように絶えず形を変えてその核たる思いは見えてこない。
(本当に魔剣を消滅させたいのか、あるいは別の目的があるのか。本当に興味を引いて止まない方ですよ。)
撫子は言葉には出さない思いに微笑む。
「…。」
葵衣はその表情から撫子の心情を察して見つめていたが何も言わなかった。
「何があるのか分かりませんが良子さんにも紗香さんの行動に注意しておくよう伝えておいてください。」
「了解いたしました。」
「それでは…気を取り直してデザートを味わいましょう。」
シリアスな雰囲気も甘いお菓子の魔力によって霧散してしまうのは撫子たちも変わらず普通の女の子だった。