第136話 万に一つの可能性
壱葉ジュエルの訓練所は数時間前の面影が無くなるほどに荒廃していた。
壁も床も天井もその全てがへこみ、穴が開き、崩れ落ちている。
それを為したのは"化け物"時坂飛鳥。
「あー、もー!さっさと潰れろー!」
だがその"化け物"を前に悠莉と葵衣はまだ持ちこたえていた。
オーは全てジュエルたちが倒し切り、葵衣の指示で全員が逃げ出していた。
悠莉と葵衣も本当ならさっさと逃げ出したいところだが逃げられない理由があった。
「このまま時坂飛鳥さんを放置して帰ると上の無関係なWVeが破壊されそうですね。」
一応訓練所は地下シェルター並みの強度を誇るがソルシエールの力の前には無力らしくボロボロだ。
恐らくはモルガナの衝撃が外に伝わり地震のようになっているに違いない。
「しかし今の私や悠莉様で倒せる相手ではございません。沈静化させるか、あるいは被害には目を瞑って逃げ出すのが得策です。」
葵衣の得策が後者を指しているのには悠莉も当然気付いているが実行する気はない。
("日常"を守るために"非日常"の力と戦う。まるでかつての"Innocent Vision"のようですね。)
そんな自己満足に浸っているなど知る由もない葵衣は
(悠莉様は随分と変わられましたね。見ず知らずの方のために戦えるようになるとは。)
と顔と言葉には出さず驚いていた。
「弱いくせにチョロチョロとウザいよ!ネズミみたいなやつらはさっさと食べられちゃいな!」
迫るモルガナを悠莉は受けるのではなくコランダムの角度を調節して受け流した。
かつて蘭が強力な聖なる魔剣・スピネルと戦ったときに使っていた技だ。
それを思い出したとも思い付いたともつかないが、この受け流しのお陰で2人は生きていられたのである。
(消える触手を使われると終わりなんですけどね。)
受け流せるのは迫ってきているのが見えるモルガナだからであり、これが不可視のハイドラになった瞬間、悠莉は白羽取りを失敗して頭を斬られるみたいなことになる自覚があった。
飛鳥が悠莉たちを完全に侮ってハイドラを使わないからこそ2人の命が繋がっているというのはなんとも皮肉な話だ。
苛立ちすぎてハイドラを使うことを忘れているだけかもしれないが。
「また当たらない!」
モルガナを受け流されて地団駄を踏む飛鳥だが、悠莉と葵衣にとっては一回一回の攻撃が命の蝋燭の上で金属バットをフルスイングされているような緊迫感で肉体以上に精神的な疲労が濃い。
精神力がずば抜けている悠莉ですらそれなのだから普通の人間だったらとっくに発狂してモルガナの前に笑いながら歩み出しているだろう。
「葵衣様。」
悠莉がひび割れたコランダムを回収して新たに生み出しながら声をかけた。
反撃の策でも思い付いたのかと瞳に期待の色が見えた。
「何でございましょう?」
「今すぐここから出て応援を呼んできてください。どれだけ戦闘をシミュレーションしても私たち2人で時坂飛鳥さんを撃退するのは不可能です。」
だが悠莉の言葉は希望とは真逆を向いていた。
それでも悠莉は微笑んでいる。
それが葵衣には諦めの表情に見えた。
「お一人など危険すぎます。それならば私が残ります。悠莉様が助けをお呼びください。」
「駄目ですよ。葵衣様の方が足が速いですし連絡手段も多いはずです。それに私にはコランダムがありますから。」
前に出ようとする葵衣をサフェイロス・アルミナを突き出して道を塞いだ悠莉はポンと生み出した新しい障壁を叩いた。
確かに葵衣は避けることは出来ても悠莉のように防ぐことはできない。
どちらも出来る悠莉の方がわずかばかりか生存確率は高い。
「さっきから何こそこそやってるのよ!」
「だから、行ってください!」
注意を引き付けるため悠莉は敢えてモルガナに突っ込んでいき飛鳥の向きをドアとは反対方向に誘導した。
(悠莉様。必ずすぐに助けを呼んで参ります!)
葵衣は自身の無力を嘆きながら忍のように気配を殺して訓練所から飛び出していった。
悠莉はそれを見てわずかに微笑むと巨大な触手の向こうに見える敵を見てフッと笑った。
「飛鳥を、笑ったな!」
飛鳥の怒りにモルガナがウネウネと暴れだす。
だが別に悠莉は飛鳥を笑ったわけではない。
今のこの状況に苦笑しただけだ。
(生存確率は限り無く0。救援の到着も未定の時間無制限デスマッチですか。遺書を書いておくべきでしたね。)
縁起でもないことを考えつつ悠莉は生存確率をコンマ以下でも増やすためにサフェイロス・アルミナを強く握り締めた。
「ふー、満腹。」
蘭がポンと腹鼓を打つ。
「確かにちょっとポッコリお腹だね。」
隣に座る海が横から見て感想を口にすると蘭の顔が劇画風に驚愕した。
「まさか…妊娠?お父さんはやっぱり…」
蘭が流し目で陸を見るが残念ながら陸は椅子に座ったまま眠っていた。
明夜、海、蘭の3人はその寝顔を見て優しく微笑む。
「それはそうと名古屋のジュエルはあれでよかったの?お兄ちゃんの指揮官スキルが高いのは分かったけど。」
潰しに行ったはずのジュエルクラブで遊んで帰ってきただけなのだから海の疑問も尤もだ。
陸は寝ているので明夜が頷いた。
「大丈夫。あそこからは"本物"は生まれない。」
「ふーん。でも潰しちゃった方がよかったんじゃない?」
明夜が表情を変えず非難するような目を向けたので海は苦笑した。
「そう、"本物"は…」
葵衣はジュエルクラブを飛び出してすぐに立ち尽くした。
迷ったわけではなく、途方に暮れていた。
(助けと言っても先程逃がしたジュエルを何人集めても意味はありません。ヴァルキリーの方々は現在地方ですから呼び戻していては遅すぎます。お嬢様はご多忙ですし、何よりこのような危険に巻き込むわけには参りません。)
決して撫子の力を侮っているわけではないがそれでもソルシエールに比べれば格段にその力は低下している。
海原に名を連ねる者として主を危険に曝すわけにはいかなかった。
(ソルシエールに対抗するにはやはりソルシエールしかありません。"Akashic Vision"なら…)
ピリ
思考の途中で掛かってきた電話を素早く取った。
「こちらは海原葵衣でございます。」
『葵衣ぃ。"Akashic Vision"のインヴィに苛められた。』
電話は緑里からだった。
普段は泣き言はほとんど言わないし、言うとしても家に帰ってからだが今日は名古屋に泊まりだからかもしれない。
だが葵衣には何者かの…具体的に言えば陸の意思が働いているように思えてならなかった。
「"Akashic Vision"は、名古屋に現れたのですね?」
『うん。それでさ…』
「すみません、姉さん。こちらは今立て込んでいます。また夜に。」
要点を聞き終えると葵衣はさっさと電話を切った。
少なくとも今は緑里の愚痴を聞いているほど暇ではない。
("Akashic Vision"は名古屋。しかも姉さんの様子からすでに近くにはいない様子。これでは救援は無理です。)
陸のAkashic Visionなら瞬間移動すら出来そうな気がしなくもなかったが不確定要素に期待できるほど状況は優しくない。
このままで無為に時間を浪費すればジュエルクラブで待っているのは悠莉の亡骸だ。
葵衣は本当に珍しく焦りを隠せない様子で携帯を握りしめたまま駆け出した。
土曜の昼間なので壱葉の駅前通りは人で溢れている。
執事姿で駆ける葵衣に好奇の目が集まっている。
だがその中に悠莉を救える救世主の姿はない。
葵衣は泣きそうになった。
(誰か…誰でもいいですから、悠莉様を、助けて。)
「あっ。」
足がもつれた葵衣は転んでしまった。
膝を擦りむいた程度だがそれでもまた一つ悠莉を救える可能性が減ったように思えて涙が頬を伝った。
周りの人たちは誰も助けてはくれない。
誰も悠莉を救ってはくれない。
…もう、助からない。
(そんなことはありません!)
葵衣は頭を振って弱気を吹き飛ばす。
葵衣が諦めたら折角助けを呼ぶために囮になった悠莉の意思を無にすることになる。
葵衣は四つん這いで起き上がり、地面に転がった携帯に手を伸ばした。
「あ…」
葵衣の手が震えた。
変な格好で固まった葵衣を周囲が変な目で見ているが気にならない。
視線は携帯に向けられている。
その画面は落ちた時に偶然開いた電話帳の一覧だった。
ドォン
丸太のような触手が悠莉の脇の地面に叩きつけられた。
「はあ、はあ。」
悠莉は肩で息をしていて足元もふらついていた。
巨大な触手の攻撃の合間に混ぜられた細いモルガナの槍の攻撃を防ぎきれず服もボロボロになっており、立っているのがやっとといった様子だった。
飛鳥はモルガナを引き戻して見下したような目で笑う。
「ジュエルにしたらよく頑張ったんじゃない?だけど防御だけで飛鳥を倒せるわけないじゃない?」
「昔なら…反論もできましたけど、今はその通りですね。」
ソルシエールなら砕けた障壁を使ったコランダムが使えたがジュエルにその力はない。
悠莉のコマンドにはサフェイロス・アルミナで斬りつける以外にはまともな攻撃手段が存在していなかった。
「それじゃあそろそろ終わりにしてあげる。苦しいのも痛いのも嫌だろうから一思いに一撃でね。」
「苦しいのも痛いのも状況次第ではとても興味深いです。今の状況ではありませんが。」
悠莉は億劫そうにサフェイロス・アルミナを構える。
痛いのも苦しいのも良くても死ぬ気はない。
「へえ、まだ頑張るんだ?それならゆっくりゆっくり弱らせてあげようかな。」
飛鳥は追い詰めたネズミを玩ぶネコのようだ。
窮鼠が猫を噛むための歯が脆弱だが時間を稼げば葵衣が鋭い牙を持つ援軍をつれてきてくれるかもしれない。
(正直、かなり分の悪い賭けですけどね。)
葵衣が連れてこられてかつ飛鳥を退けられる援軍は限られている。
しかもその援軍が壱葉の近くにいるか、間に合うか、それ以前に救援に応じてくれるか。
不確定な要素が多すぎる。
悠莉が助かる可能性はそれこそ万に一つのレベルだった。
「いいんですか?もしかしたら追い詰められたネズミがかじりついてくるかもしれないですよ?」
悠莉は絶望的な状況でなお笑う。
それこそが下沢悠莉の強さだ。
「だったら見せてよ。どんなにネズミにかじられたって怪獣には痛くも痒くもないけどね!」
モルガナが2本、鞭のようにしなりながら悠莉を襲う。
10本ではないのは宣言通りじわじわと悠莉を追い詰めるため。
だが満身創痍の悠莉にはその2本すら危険だった。
直接真上から降ってくる丸太を横に跳んでかわすとすぐさまもう一本のモルガナが移動した先を狙ってくる。
「コランダム。」
青い障壁が斜めに展開した悠莉はわざとモルガナにかするようにぶつけて体ごと障壁を横に滑らせる。
数が少ないならばモルガナ自体を逸らせるよりも悠莉自身が当たらないように動いた方が労力が少ない。
極限ギリギリであっても悠莉の頭の切れは衰えていなかった。
だが頭が働いても動くべき肉体は限界を迎えようとしていた。
2本のモルガナを避け続けていた悠莉だったが
「あら、あらら?」
横に跳んで着地した瞬間に膝が砕けてそのまま倒れてしまった。
起き上がろうにも腕も足もまるで力が入らない。
いかに身体能力を向上させるジュエルでも体力が底をついてしまっては強化のしようがなかった。
「残念、ネズミが噛みつくところを見たかったんだけどね。」
飛鳥がモーリオンを掲げてモルガナを振り上げた。
一本でも防ぐ術のない悠莉にはオーバーキルになる。
「私を倒しても第2、第3の…」
「何人いたって同じだよ!モルガナァ!!」
悠莉のギャグも空しく飛鳥は止めの一撃を振り下ろした。
ゴウと空気を押し潰すように迫るモルガナを悠莉はただ見つめる。
命の終わりを前にしているのに悠莉は恐れを見せなかった。
「これで…」
「振り出しよ。」
「!?」
シュパン
飛鳥が振り返る間も無く空間を切り裂く紫の火線が走りモルガナを根本から切り落とした。
それでもモルガナの勢いは止まらない。
だが倒れた悠莉の目の前に2人の人物が立った。
「彼女をお願い。あたしはあれをやる。」
「うん。」
首すらまともに動かない悠莉の体に優しく触れる指がある。
死を呼ぶ触手を前に悠然と立つ者がいる。
その両者から温かく清い光が溢れ出した。
「癒しの光。」
「アルファスピナ!」
閃光が起こった。
その光が収束した時、悠莉の前に死はなく、優しき乙女たちが立っていた。
悠莉は寝転がりながら微笑みを浮かべて呟く。
「さすがは葵衣様。最高のカードを引きましたね。」