第126話 燻る火種
冬の朝は布団が恋しい季節。
朝の空気は張り詰めていて冷たく熱を奪おうとする。
布団の中で身を丸めて眠るのはある種の防衛本能である。
「すー…すー…」
叶はそんな感じで布団に丸まって気持ち良さそうに眠っていた。
布団を抱き締めている姿は小さい子供みたいで実に可愛らしい。
琴や海が見たら間違いなく抱きついたことだろう。
ピロリン
枕元に置かれた携帯がメールの受信を知らせた。
「…ん…」
叶は微妙に色っぽい声を漏らしてむずがると布団を巻き込んで寝返りを打った。
目覚めの悪い方ではない叶も暖かい布団の魔力には抗えずすぐに眠りに吸い込まれた。
ピロリン
ピロリン
断続的に2回メールの着信があり
「…ん、ん、メール?」
ようやく叶も目を覚ました。
寝ぼけたまま手を伸ばすが携帯は見つからない。
ピリリリリリ
ピピピピピピ
「ッ!?」
しまいには携帯と目覚まし時計の両方に叩き起こされて飛び起きた。
「あわわ、電話、電話!」
叶は鳴り続ける携帯を探して掴むと慌てて電話に出た。
「こちらしゃくらでござります。」
自分の名字は噛むし語尾もなにやらおかしい。
電話の向こうで吹き出す声がした。
『人違いかしら?叶なら朝練を忘れてまだ寝てたなんてことないはずだものね?』
声の主は八重花で、叶は一気に周囲の気温以上に凍えるほど背筋を凍らせた。
昨日のお茶会でいきなり地獄のトレーニングは厳しいから朝軽く走ろうと約束していたのを思い出した。
正確には昨晩風呂に入るまでは覚えていたのだが長風呂して湯中りして横になってそのまま眠ってしまったのだった。
「ま、待ってて、すぐに行くから!」
ベッドから跳ね上がるように立ち上がった叶は以前琴に護身術を教えをもらったときに買ったジャージを慌てて着て廊下に出た。
『別にそこまで急がなくてもいいわよ。』
「え、なんで…」
とりあえず両親に出掛けてくると伝えるためにリビングのドアを開けた叶は
「今お茶をいただいてるからよ。」
電話と目の前、両方の八重花に同じことを言われてキョトンと固まった。
「叶、八重花ちゃんたちを寒い中待たせたら駄目でしょ?」
「あ…うん。」
母の注意も慌ててたところに驚かされてパニックになっている叶は生返事。
「お茶、ごちそうさまでした。」
「お邪魔しました。行こうか、叶。」
叶が呆けている間にも挨拶はすまされて夢を見ているような状態のままランニングに出掛けた。
「ハッ!…寒いよ!」
叶が完全に覚醒したときにはすでに日が出て間際の空気が凍るような外を走っていた。
「この子は寝ながら走ってたみたいね。」
「器用だね。」
八重花を先頭に叶を挟む形で走っているので真奈美が上手くフォローしていたわけだが八重花も含めておくびにも出さない。
真奈美は左足が義足のため若干足を引きずるような走り方になっているがしっかりと八重花のペースに合わせていた。
「何だか、急に疲れてきた。」
「叶は寝てた方が強いんじゃない?」
突然バテ始めた叶を顔だけ振り返った八重花はそう言ってフッと笑った。
叶はむくれて姿勢を正す。
「そんなことないよ!ほらっ!」
「それがいつまで続くのか…」
八重花が適度に発破をかけた朝のランニングは体が温まった程度で終了した。
「それじゃあ、叶。また後でね。」
「二度寝しないようにしなさいよ。」
「もう。しないよ。」
むくれる叶に軽く手を振って八重花と真奈美は帰っていった。
それを見送った叶は
「二度寝しないよ?」
何故か弱々しく拳を握って決意を込めて家に戻っていった。
「zzz…」
確かに二度寝はしなかった叶だったが1時間目の授業からうつらうつらとしており、2時間目の途中で陥落した。
教師たちが怒るよりもむしろ心配したり珍しがったりする辺りが人徳っぽい。
結局クラスの副委員長に後で教えておくようにとの流れになり
「これは叶の罠か!?」
と裕子が叫んで笑いを取った。
真奈美も笑いながらこっそりとメールを八重花に送信した。
内容は
『良い子の叶には規則正しい生活が必要であるという研究結果が得られた』
つまりは朝練の中止の連絡だった。
「叶ー、いい子だから出て来なさーい。」
「…いい子は居眠りなんかしないもん。」
たっぷり昼休みまでお眠だった叶は目覚めると青くなったり赤くなったりしてトイレに引きこもってしまった。
昼食を一緒に取ろうとやって来た八重花を交えた親友たちが声をかけたが叶は出てこなかった。
ちなみに芳賀など男子も心配していたが女子トイレに入れるわけにもいかないので実行部隊は親友4人。
「これは日本神話の天岩戸のようですね。」
そしていつの間にかこの事態を聞きつけて現れた琴の5人だった。
「天岩戸?」
「天照大御神が怒って天岩戸に引きこもったから他の神様が踊りとか歌で外に出したってお話だよね?」
裕子の疑問に答えたのはなんと久美だった。
裕子はもちろんの事、真奈美も八重花も仰天している。
「しっかりお勉強していらっしゃるようですね。ご褒美に飴を差し上げましょう。」
「にゃはは、やった。」
飴ちゃんで喜ぶ久美はいつも通りなので余計に驚きが増した。
何はともあれ天岩戸である。
「つまり叶が興味を持つもので誘き出そうって訳ね?」
「噛み砕くとそうなりますね。」
琴は苦笑しながら頷いた。
「なら各自、叶を連れ出せる物を探してくるのよ。」
「よし、それなら勝負よ!」
ある意味一大事だというのにすぐに勝負事にする裕子はさっさとトイレから飛び出していった。
「勝負はともかく、昼休みが終わるまでに終わらせたいから急ぐわよ。」
「にゃは、お腹すいたしね。」
こうして叶を誘い出す魅惑のアイテムを探して少女たちは散り散りに出ていった。
それからしばらく、散開した各自は真奈美以外帰ってきた。
「真奈美はいないけどあまり時間も無いから始めるわよ。まずは…」
「私よ!」
裕子が自信満々に取り出したのは以前に撮影してあった陸の写真だった。
「ほら、叶。出てきたら半場くんに会えるわよ?」
「…こんな私を見られるくらいなら、死んじゃった方がいい。」
「しまった!逆効果だった!叶、早まっちゃだめよー!」
裕子はドアにすがりついて説得して早まらせることは阻止したがドアは開かなかった。
裕子失格。
続いて久美が
「かなちんが読みたがってた漫画だよ。」
と漫画で釣ってみた。
どうして学校にそんなものがあるのか、あいにくこの場には規律にうるさい真面目さんはいないので誰も問い詰めない。
どこかの誰かはクラスの副委員長のはずなのだが。
「…ここでも読めるもん。」
しかしそれも叶らしからぬ俊敏さで漫画を奪取されて失敗だった。
あっという間の2連敗で挑戦者たちの表情にも曇りが見え始めた。
続いて策を弄すれば右に出る者はいない知将・八重花。
「要するにトイレの個室に居られないようにすればいいだけの事。まずは水を張ったバケツを…」
「八重花、ストーップ!それは叶が本物の引きこもりになるからNG!」
強行策に出ようとした八重花は善意の親友たちによって縛り上げられて隣の個室に押し込まれた。
「むー、むー!」
真奈美が戻ってこない以上最後となった琴は八重花を見て口元を隠しながら笑うと胸を張ってトイレのドアの前に立った。
「いよいよ本命のわたくしですね。物など必要ありません。さあ、叶さん、安心してわたくしの胸に飛び込んできてください。」
チラリとドアの隙間なら覗く叶は小動物のよう。
その少し警戒心の入ったつぶらな瞳は普段の愛くるしさとはまた違う魅力で溢れていた。
「はあ、はあ。」
「最近の琴お姉ちゃんは少し怖いです。」
パタン
「か、叶さーん!?」
琴を拒絶するようにわずかに開いたドアがきっちりと閉められた。
自分を見て息を荒らげる人物が前にいたら誰だって拒絶するだろう。
裕子と久美が失敗し、八重花が縛りあげられ、琴が心の傷を負い、とうとう全滅かに思えた。
その時、フローラルな香りのトイレに食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。
全員の視線がトイレの入り口に向かう。
「食堂直送のホットサンドイッチだよ。」
「うわぁ、すごいいい匂い。」
「叶もあたしたちも何も食べてなかったからね。ちゃんと人数分持ってきたよ。」
普通のサンドイッチではなくわざわざおいしそうな香りのするホットサンドを持ってくるあたりにちゃんと叶を誘き出す工夫もされている。
「それじゃあいただこうかしら。」
「いつの間に抜けだしたのよ、八重花?」
気がつくと自分で縄抜けしたらしい八重花が何食わぬ顔でホットサンドを受け取っていた。
真奈美はトレイに乗せたサンドイッチを皆に配る。
かじればトーストのようにサクッと音がし、中からとろりとチーズが溶けだす。
「このような料理は食べたことはありませんでしたが美味しいものですね。」
「食堂にこんな料理があったなんて知らなかった。今度頼んでみよう。」
「本当はサンドイッチしかないけど無理を言って作ってもらったんだよ。」
皆が美味しいと絶賛していると
クー
ドアの向こうからそんな音が聞こえてきた。
そして薄くドアが開き叶が顔を覗かせた。
久美は漫画を近付けたために取られたが真奈美は離れているしトレーに乗っているから簡単には取れない。
「ちゃんと出てこないとあげないよ。」
「本当に美味しいわね。余っているみたいだしもう一つもらおうかしら?」
八重花がわざとらしくない程度に煽る。
もしくは本当に食べたいのか手が伸びていく。
「ううー、出るからちょうだい。」
真奈美の作戦勝ちでとうとう叶が天岩戸トイレから出てきた。
全員がもろ手を挙げて喜びの声を上げる。
「おかえりなさい、叶さん。」
「いやー、よかったよかった。真奈美と食堂のおばちゃんたち様様だね。」
「にゃはは、かなちん食いしん坊。」
「…。」
パタン
「久美ー!」
「叶ー!」
その後久美の不用意な一言でもう一度振り出しに戻りかけたがどうにか叶を外に出すことに成功した面々であった。
叶の天岩戸事件だったり、由良が体育の時間に美保と大激闘を演じたりと割かしイベントが多かった学校も放課後を迎え
「…」
「…」
「…」
何故か地獄の特訓という名のダイエットに挑む叶たちと、ソルシエール復活を目指す由良・美保と、ジュエルによるグラマリー獲得に励む良子・紗香が運動着で校門の前に集合していた。
美保と紗香は叶たちの集まりを"Innocent Vision"復活の可能性ありと不審げに見ており、由良は完全に自分だけ除け者なのがもの凄く気に入らないらしく目許をひくつかせながら八重花を睨んでいた。
八重花は堂々と由良の視線を真っ向から不敵な笑みで迎え撃ち、真奈美はどう転んでも波乱しか巻き起こらないだろう集まりにすでに諦念を抱き始めていた。
そして叶と良子は
「なんだか運動会みたいですね。」
「まったくだね。ワクワクしてきた。」
暢気だった。
「ヤエ。3人仲良く特訓か?」
由良が強引に笑みを作ったせいで余計に怖い顔になっているがやはり八重花は動じない。
「そういう由良こそ、ヴァルキリーの神峰美保と一緒だなんて随分と仲良くなったわね?」
ビキビキと由良の笑みに青筋が張り付く。
八重花は由良たちがソルシエール復活のための特訓をしようとしていることを察した上で、それも含めて仲良くなったと言った。
本来戻るべき仲間の1人に追い払われるようなことを言われては怒るのも無理なかった。
「あたしらは河原で特訓だよ。」
「河原っていうとタイヤ引きですか?」
「さすが元体育会系。あれは外せないね。他にも…」
「お姉様はわたしに何をさせる気なんですか!?」
良子と真奈美はスポコンの話題でにわかに盛り上がり、巻き添えを食った紗香が悲鳴のような声を上げた。
「それで、あんたたちは何をするつもりなのよ?」
叶は美保に高圧的に聞かれてあたふたし
「べ、別にお菓子の食べ過ぎだったから運動しようとか、そういうんじゃないですよ?」
八重花が隠して由良を弄ろうとしていたネタをあっさりとばらしてしまった。
「…ふん、行くぞ。」
「あたしに指図するんじゃないわよ!」
「指図しなきゃ教えられねえよ!」
どちらにしろ仲間外れの由良は不機嫌そうに鼻を鳴らして明後日の方向に首を逸らすと美保と口論しながら去っていった。
「ダイエットね。あたしはしたことないけどやっぱり大変なんだ?」
由良たちを見送っていた八重花たちの後ろで良子がポツリと呟いた言葉にその場にいた4人がピクリと反応して固まった。
ギギギと錆び付いたブリキの人形のように首をゆっくりと回す。
その左目はうっすらと朱色に染まっていたりいなかったり。
「等々力先輩。私に言い寄ってきたときから思っていましたけど、あなたは女じゃないんですね?」
八重花は良子という存在を女のカテゴリーから除外しようとした。
そうすればさっきの発言は女以外の何かの言葉になる。
「さすがにそれはないかな。証拠、見る?」
良子の言う証拠を見なくても胸元に鎮座するモノが良子が女だと雄弁に物語っている。
八重花は自分の体を見て地の底を漂うような重いため息を漏らした。
「羨ましいです~。」
「あたしもソフトを続けられてさえいれば…」
「やっぱ毎日運動しないとダメだよ。」
正論であっさり論破された最近運動不足気味だった叶と真奈美はどんより雲を背負った。
「酷いです、良子お姉様!同じくらい運動してるのに、してるのに…どうしてわたしは体重が減らないんですか!?」
「紗香まで。うーん、体質じゃない?」
紗香はガーンとショックを受けた様子でふらつく。
「ちんちくりんのまま運動を止めた瞬間から太り出すってことですか!?」
絶望した顔で絶叫した紗香は生気を失った顔で放心した。
永遠の悩みと戦う乙女たちは目線を交わし合って頷く。
八重花が決意を込めた拳を振り上げて叫んだ。
「打倒、等々力良子!」
「「「おー!」」」
実際に良子を打倒するわけではなくあくまで体型の話だが憎き超燃費体質を持つ良子を打倒しようという意図もあったりする。
そして続いて拳を上げて同調した中に紗香がいた。
「こらこら、紗香は違うでしょ?」
「ハッ!すみません、お姉様。つい。」
紗香はいそいそと良子の横に戻って頭を下げた。
良子は打倒対象として見てくる八重花たちに呆れ顔を向けた。
「まあ、ダイエットが目的なのか本当は別の目的があるのか分からないけど無理して体を壊したら元も子もないから気を付けるんだよ。」
「…ご忠告感謝します。」
八重花が頭を下げると良子は軽く手を振りながら紗香を伴って河原を目指して…
「お姉様、逆です!そっちだとまた海ですよ!」
「おっといけない。」
改めて河原を目指して旅立っていった。
「みんなダイエットをするのかな?」
結局叶を除けば誰1人として明確な目的を口にしなかったため叶は全員がダイエットのために走ろうとしていると思っていた。
相変わらず叶はとても平和な頭の構造をしている。
「少なくともあたしたちが運動のためにここにいることを信じちゃいなかったね。」
「しょうがないわ。私たちが何を言ったところで疑心は暗鬼を生ずるものよ。」
八重花の場合は故意に火種を大きく膨らませて楽しんでいる節があるが、今回は完全にシロであるためなんら気負う必要はない。
「さて、目指すべき…いや、打倒すべき等々力良子という目標が出来て俄然やる気が出たところで私たちも始めるわよ!」
「「おー!」」
少女たちは太陽に向かって駆け出していく。
それはまるで太陽に挑むかのように強い決意を秘めている表情であった。