第117話 気まぐれな悪夢の終わり
めっきり外が寒いのが当たり前になってきた年末、12月。
師走の名の元に皆が忙しくなる時期に裕子と久美、芳賀は難しい顔で集まっていた。
「にゃは、困ったね。」
久美の笑顔は眉毛が垂れ下がっている。
「まったくもってお手上げだな。」
芳賀は両手の手のひらを上に向けて匙を投げた。
「もう、どうしちゃったんだろうね、叶と真奈美。」
裕子ははあとため息をついて視線を移した。
「…。」
「…。」
教室の机にはそれぞれの机で呆けたように窓の外を見続ける叶と真奈美の姿があった。
文化祭が終わった翌日は日曜日で、その次の月曜日は振り替え休日だった。
乙女会には僅差で破れてしまったものの一番いい演技が出来たと自負していた裕子は演劇について語り合おうと楽しみに登校してきた。
「おっはよー、皆の衆!」
「あ、久住さん、いいところに。実は…」
だが語り合うべき親友たちは魂が抜けた脱け殻みたいな腑抜けた顔で登校してきていた。
「どうしたのよ、叶?姫様がそんな顔をしてたらまた世界が暗く悲しい世界になっちゃうわよ?」
劇の内容と被せて裕子が尋ねても
「この世界はもともと悲しい世界だったんだよ。」
と人生に絶望したような声で俯いてしまう。
これは駄目だと仲間を集めるために真奈美に声をかけようとした裕子だったが席に座っていたのは壊れて打ち捨てられた人形みたいにぐったりとした真奈美だった。
いつも背筋をキリリと引き延ばしている真奈美とは思えないダメな子っぽさだった。
「なんで人生に疲れたお父さんみたいな格好になってるのよ?シャキッとしないと。」
「人生は…裏切りと挫折で出来てるんだよ。」
燃え尽きて失敗したスポーツ選手みたいな台詞を吐いた真奈美はそのまま俯せに顔を隠してしまった。
それから一月、裕子と久美と芳賀は手を尽くしてみたが叶も真奈美も何を誘っても上の空で笑わなくなった。
「しかも八重花も不登校って。なんか1年前を思い出すよね。」
「陸が来なくなって芦屋が入院して、作倉と東條もおかしくなってたな。」
陸という単語に叶と真奈美がピクリと反応するが誰も気付かなかった。
「にゃはは、文化祭で何かあったかな?」
裕子たちが知っているのはいつの間にか主役の人たちが帰っていたことくらいで別におかしなことは何もなかった。
いつの間にか劇が終わった時間が夜になっていたことなど誰も気に留めていない。
「心配だね。」
「ああ。だが原因が分からないことにはどうしようもな。」
「にゃはぁ。」
いくら考えても裕子たちに答えを導くことは出来ず、故に叶たちを理解し、救うことは出来なかった。
八重花は完全な引きこもりと化していた。
日がな一日意味もなくネットサーフィンをし、ネットワーク型RPGをやり込み、掲示板を回る。
両親はもちろん心配して原因を聞き出そうとしたが何でもないと繰り返すばかりだったので今は食事を用意して様子を見ている状況だった。
「…。」
暗い部屋で椅子の上に膝を抱えるように座りぼんやりとディスプレイを眺める八重花。
その目に熱い炎の余韻はなく、真っ白になって燃え尽きた消し炭のような色のない目をしていた。
かつてはこの引きこもりの状況すら陸と同じだと喜んでいたが今はそれすらなく、完全に廃人と化していた。
「もう、どうでもいいわ。世界も、情も、何もかもが現実という名の幻想なのだから。」
八重花は膝に顔を埋める。
全てを捨てた賢人は暗き闇の底にその身を沈めた。
由良は2年1組の自分の席に着いていた。
新学期と比べれば1組も活気に溢れている。
それは慣れてきたのが一番の要因だがそれ以上に三大王者の八重花と明夜がいないことが大きかった。
由良は1人不機嫌そうな顔で…勉強していた。
留年分の知識は1学期までで使いきり、今の条件は他の学生と同じになった由良だが成績はむしろ上位をキープする位置につけていた。
もともと頭の回転は早いし勉強嫌いというわけでもないためやれば身に付く。
今はその成果が遺憾なく発揮されていると言えた。
「あ、あの、羽佐間さん?」
「ん?」
声をかけられて顔を上げると叶…ではなく少々気弱そうな印象の強いクラスメイトが教科書を両腕で抱き締めるように立っていた。
「すみません。またお願いします。」
「ったく。俺に教わる前に自分で考えろ。」
「か、考えてますよ。」
それは一月前まではあり得ない光景だった。
だが由良は叶や明夜とのやり取りに見えるように元来は面倒見のいい性格だ。
なのでそれを理解してしまえば印象はがらりと変わって怖いではなくかっこいい頼れるお姉さんとなる。
最近はそれが顕著でクラスメイトの女子の間で由良の人気がうなぎ登りだった。
「あ、わたしもいいですか?」
「姉御、あたしも!」
「姉御って言うな!」
「「あははは!」」
すっかりクラスメイトになつかれた由良は表情こそ不機嫌そうなままだが目は優しかった。
机をいくつかくっつけて簡易の勉強会を開く。
コンコン
ドアの開いた教室で律儀にノックした人物に1組の視線が向いた。
入ってきたのは男女共に憧れてしまう下沢悠莉だった。
ただ1人不機嫌そうな顔から不機嫌に変わった由良の所にまっすぐやってきた。
「失礼します。羽佐間由良さん、相変わらずの人気ですね。」
「社交辞令なら間に合ってる。」
由良はにべもなく突っぱねるが悠莉はフフと楽しげに笑った。
「ご自覚がないようですね。ですよね、皆さん?」
「「はい!」」
由良の周りにいた女子たちが威勢良く返事した。
由良はそっぽを向いて鼻を鳴らし、少し頬を赤くしていた。
「放課後、またよろしいですか?」
「ああ、わかったからさっさと行け。」
由良はシッシと追い払うように手を揺らす。
悠莉はクスクスと笑いながら去っていった。
悠莉の姿が完全に見えなくなってから由良の周りに女子が集まる。
「乙女会の下沢さんが呼びに来るなんて何の用なんです?あ、もしかして羽佐間さんが乙女会に?」
「何でもねぇし、俺が乙女って柄じゃないだろう。用心棒みたいなもんだ。」
「「あー。」」
適当に誤魔化した由良の言葉に数人の女子が納得のあー。
由良の額に青筋が浮かぶ。
「今納得した奴には教えてやらん。」
「わー、そんなぁ!」
1組からは楽しそうな声が響いていた。
そして放課後、由良はヴァルハラの扉の前にいた。
一応ノックして入る。
「…邪魔するぞ。」
「本当に邪魔よ。」
部屋に入るとすぐに美保が容赦ない返事をした。
「……。」
「美保さんのシュールで寒いジョークですよ。そのまま帰らないで下さい。」
そのまま中に入らずドアを閉めようとした由良を悠莉がザックリと美保を貶めつつやんわりと止める。
由良は舌打ちして中に足を踏み入れると壁際に据えられた椅子に腕を組んで腰かけた。
葵衣が紅茶を淹れようとするが由良は首を振って拒否したので止め、席に戻って見回して全員集まっていることを確認した。
葵衣はいつものようにヴァルキリーの会議の進行役になる。
「全員揃いました。お嬢様とすでに中継が繋がっています。」
葵衣が指し示すと全員の視線がそちらに向く。
黒板に当たる部分のディスプレイに撫子の顔が映し出された。
『ごきげんよう、皆さん。羽佐間さん、本日もありがとうございます。』
「気にするな。」
手をヒラヒラと振って答える態度に緑里がムッとするが撫子は微笑むだけで何も言わない。
『美保さん。羽佐間さんはヴァルキリーの協力者なのですから邪険にされてはいけません。』
「…わかりましたよ。」
それだけでなく、むしろ由良を擁護する発言をした。
だが今更誰も驚いたりしない。
撫子が言った通り、そして由良がクラスで語ったように今の由良はヴァルキリーの護衛という位置付けにあった。
すでにそういう契約をして一月程度になるがいまだに美保と緑里は由良を警戒している。
確かにヴァルキリーが集まる場で超音振を使われれば全滅の危険を孕む因子がそこにいれば落ち着かなくもなるが、今はそのリスクよりも由良を引き込むことをヴァルキリーは選択していた。
現在ヴァルキリーが抱えている事態はそれほどまでに切迫している状況と言えた。
『また、"Akashic Vision"が現れました。今度は長野です。』
「これで一月の間に起きました"Akashic Vision"によるジュエルクラブの被害は首都圏近郊に存在するジュエルクラブの7割に上りその全てが壊滅状態です。ジュエルクラブの脱会者数も徐々に増加する傾向にあり予断を許さない状況と言えます。」
「ちっ。」
由良は報告を聞いて無駄に澄み渡った空を睨み付けた。
「"非日常"の力を滅ぼす?」
"Akashic Vision"と名乗った陸と3人のソーサリスの新たなる組織の目的。
それは"Innocent Vision"の理想に通じるものがあった。
そして同時に魔女やヴァルキリーとは完全に敵対する宣言であった。
「…。」
オリビアは陸、いや、"Akashic Vision"の宣言を無言で受けた。
元から敵対するつもりでいた相手が戦う意志を示しただけのことだからだ。
飛鳥辺りむしろ闘争心を昂らせていたくらいだった。
「半場さん。貴方のご両親は…」
撫子は幻覚の大地とはいえ認識的には上にいる陸に声をかける。
別に両親が陸を捨てたことと撫子が後見人になったことをネタにヴァルキリーに勧誘しようなんて気はまるで無かった。
ただ今言わなければ陸が決定的に遠ざかってしまうという一種の強迫観念に押されての言葉だった。
陸は宣誓の時の毅然とした態度からいつもの雰囲気に戻っていたがどこか近寄りがたいものがあった。
陸は撫子が言い切る前に首を横に振る。
「花鳳さんが僕の身元を引き受けてくれたことは知っています。でも、すみませんが僕はヴァルキリーには賛同できません。」
「それは…仕方がありませんね。」
撫子は分かりきっていたこととはいえ落胆を隠せない。
哀しげに目を伏せる撫子に陸もまた哀しげな笑みを浮かべた。
「両親が僕を捨てたのは当然の事ですよ。僕はこんな"化け物"みたいな力を持っているんですから。」
陸は左目に手を当てて自嘲する。
運命を見、運命を変える魔眼は普通の人間からすれば間違いなく"化け物"だ。
魔眼を持って生まれたがために迫害され、親にまで見捨てられた陸の"人"としては辛すぎる境遇に撫子は何も言えなかった。
「でも、もういいんです。」
「え?」
陸の発言の意図が分からず顔を上げた撫子は迷いを捨てた男の顔を見て、背筋を凍らせた。
それは全てを諦め、全てを受け入れた者の顔だった。
「"人"の世で生きるのが辛い立場になった以上、僕は"化け物"であることを受け入れましょう。だからもう"半場陸"は死んだものと思ってもらって構いません。」
「半場さん!それは…」
撫子はその考えだけは認めさせてはいけないと声を荒らげたが、陸はすでに撫子を見ていなかった。
撫子はうなだれて言葉を失った。
「わたくしはただ、半場さんを助けたかった…」
"人"としての絶望的な境遇にあった陸が"人"として生きるための最低限のことをしてあげたい。
陸の過去に同情した撫子個人が抱いたのはそんなささやかな思いだけだった。
それすらも陸には届かなかった。
「…」
撫子の呟きを聞いても反応を見せず、陸の目は"Innocent Vision"を見ていた。
同じ姿でありながら異質な存在となった陸に皆声をかけられないでいる。
その中で八重花が一歩前に出た。
「りく。"Akashic Vision"の行動理念と"Innocent Vision"の理想は近いわ。だから一緒に戦いましょう?」
誰もが言いづらかった言葉を八重花ははっきりと告げる。
だが八重花は震えていた。
それは洞察眼を持つがゆえに陸の答えを察してしまったから。
八重花の察した通りに陸は迷うことなく首を横に振った。
「駄目だよ。"Akashic Vision"の滅ぼすべき"非日常"の力はシンボルやセイバーを含んでいるんだから。」
「それなら蘭や明夜だってソルシエールを使うだろう!俺たちと何が違うって言うんだ?」
「…。」
由良の叫びに陸は何も答えなかった。
陸が"Akashic Vision"の仲間とする明夜、蘭、海と"Innocent Vision"の由良、八重花、真奈美、海の違いが由良たちには理解できない。
そして明確な違いがあることを陸は語らなかった。
"Innocent Vision"の言い分には耳を傾けず、ただ"Akashic Vision"の理念を語る。
「それに僕たちは目的のためならばどんな犠牲も厭わない。殺さないことを基本に置く"Innocent Vision"とは相容れない存在だよ。それとも僕たちに協力するためにジュエルを手にかける事が出来る?」
それは暗に人殺しが出来るかと聞いているようなものだった。
叶や真奈美は当然のこと、由良も顔を俯かせる。
「それで…」
八重花だけはまだ握った拳を震わせながらも顔を上げた。
「そうすればりくの側にいられるなら…私は何だってするわ。」
「ヤエ!」
「黙って!…私は、りくと同じ道を歩むためにここまで追いかけて来たのよ。もう、今更、後に引けるわけがないじゃない。」
決断したような言葉とは裏腹に固く握り締められた拳が八重花の葛藤を表していた。
すべてはりくのために、八重花はその手を血に染める覚悟を決めた。
「八重花は連れていけないよ。」
だがその決意を陸が否定した。
「な…」
八重花が信じられないといった表情を浮かべ、握っていた拳が力を失って解けた。
絶望した八重花の顔を見ても陸は眉一つ動かさない。
「ソルシエールを手に入れた頃の八重花ならまだ道を踏み外せたかもしれない。だけど仲間を大切に思う今の八重花は非情になることは出来ない。八重花はもうここには来られないよ。」
陸の言葉は完全な拒絶だった。
八重花が膝からガクリと崩れ落ちる。
1メートル程度の高さが今の八重花には遥か天空にまで離れているように見えた。
「は、はは。私は…」
「八重花!あんまりだよ、半場!八重花はずっと半場のことを思っていたのに。」
真奈美が八重花を支えながら憤慨する。
にらみつける瞳には陸に対する失望の色があった。
陸はその視線にも動じた様子もなく困ったような笑みを浮かべるとすぐに真剣な顔に戻った。
「巻き込んでしまった僕が言えた義理じゃないけど、真奈美たちには普通の生活に戻ってほしい。そして二度とこちら側に関わらないで。」
「…勝手すぎるね。」
真奈美は虚空を見つめる八重花を抱き締めるように俯いて涙を流した。
叶も泣きながら陸を見上げる。
「私たちは陸君の邪魔をしないから。だからこれまでみたいに一緒に学校に通って、それから…」
「叶さん。」
ビクリと叶が震える。
洞察眼も未来視もない叶だったが陸の告げる言葉がわかってしまった。
かつて夢で聞いた言葉。
あの時は叶を気遣っていたはずの言葉は…今は決別の言葉となった。
「"Innocent Vision"は解散だよ。」