第107話 裏の裏にある物
それは文化祭の合同演劇が正式決定し、皆がやる気を充逸させていたある日の朝、文学部の森本美里が壁やドアに身を預けるようにしながらヨロヨロと教室に入ってきた。
「何事だ!?衛生兵、衛生兵!」
「ほ、保険委員でいいですか?」
調子に乗った男子に便乗するように叶が森本に近づく。
だが叶が駆けつけるよりも早く森本は床に倒れた。
「森本さん!」
「これ、を…」
森本が上半身を持ち上げ、震える手で差し出したのは部厚い紙束だった。
劇の脚本を人数が増えたから書き直すと言い出した森本の血と汗と涙など諸々が染み込んだと言える努力の結晶だった。
叶は台本を受け取ると胸に抱いた。
「確かに受け取りました。」
叶の穏やかで力強い返事に森本が儚くも嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あり、が、と…」
ガクッ
最後まで言い終わることなく森本は床に倒れて動かなくなった。
叶は空を見上げて台本を抱き締める。
「森本さん。私、森本さんの遺してくれたこの作品をやり遂げてみせるよ。」
叶は誓いを新たにするのだった。
そして
「叶、そろそろ森本を保健室に運んであげよう。さすがにここじゃ可哀想だよ。」
「あ、うん。お疲れ様です、森本さん。ゆっくり休んでくださいね。」
「z z z…」
森本は答えず静かに寝息を立てていた。
『姫と王子と5人の魔女』
森本が寝食を惜しんで書き上げた台本はすぐさまコピーされて1組と4組に配布された。
八重花はパラパラと中身を見て呆れとも喜びともとれる笑みを漏らした。
(まるで私たちの為に作られた演劇ね。姫に叶、王子に真奈美、5人の魔女に私と由良と海、あと久美と裕子ね。)
もちろん配役は皆で決めることだからその通りにはならないだろうが、八重花の予想ではこの面子で組めば劇は最高に面白くなると思えた。
(だけどうちのクラスにも4組にも反乱分子はいるわね。)
ジュエルが直接的に妨害してくることはないだろうがヴァルキリーの敵だから、馬が合わないからという理由で演劇の妨害をしてくることは考えられる。
(潰してしまってもいいのだけど、せっかくの文化祭だもの。その反抗心をうまく利用できないかしら?)
八重花は台本を眺めながら人心の操作まで考え始めていた。
「あの、東條さん?」
そこにクラスメイトの女子が遠慮がち…というか怖がりながら声をかけてきた。
(なんで私まで怖がられてるのかしら?由良じゃあるまいし。)
「何かしら?」
とてつもなく失礼なことを考えながらも面には出さずに尋ねる。
「あの、お客さんです。乙女会の下沢悠莉さん。」
間近にいたクラスメイトが気付かない程度に八重花の眉がピクリと動いた。
学校で堂々と接触してくるなど両組織に余計な緊張を与えるだけだ。
今は由良が席を外しているからいいものの、もしいたなら周囲のクラスメイトが悲鳴を上げていたことだろう。
由良の怒りの迫力で。
「分かったわ。ありがとう。」
「いえ。」
伝言を伝えてくれた女子はペコリと頭を下げると友達の所に小走りで駆けていって
「乙女会の下沢さんとお話ししちゃった!」
と盛り上がっている。
待遇の違いに不満がないと言えば嘘になるが八重花はそれを放置してドアに向かった。
由良が帰ってくると余計な火種になりかねないので悠莉を追い払うか場所を変える必要があった。
「あ、八重花さん。」
「あ、八重花さん、じゃないわよ。何か用?」
ただでさえ今もジュエルが何事かとこちらを訝しむ様子で見ているのだ。
由良や美保が見たら問答無用で襲ってきかねない。
だが内心気を揉んでいる八重花とは違い悠莉は内外どちらも穏やかそうだ。
「ふふ、ここでは八重花さんが怖い顔をされますから移動しましょう。」
「…」
言われるままに教室前から踊り場まで連れてこられた八重花は腕を組んで窓の欄干に背を預けた。
その顔はむしろ感情が現れている分教室前よりも険しい。
「どちらにせよ怖い顔をされてしまいました。」
悠莉は困ったように笑う。
大胆な行動を取るくせにこうして悲しげな顔をされると怒れなくなるのだから悠莉は始末に負えない。
美人の卑怯さをまざまざと見せつけられた八重花はため息をついて少しだけ表情を和らげる。
「はぁ。それで、用件は?」
人目も憚らず教室に会いに来るようだから何か重要な用件かと気構えする。
「それほど重要なことではありませんが…」
「それならメールで済ませなさい。」
相変わらず他人を振り回して困る姿を見ることに喜びを感じるような倒錯的な趣味を持つ悠莉は他人が困ることを率先して実行する。
「メールや携帯電話は情緒がありません。やはり相手の顔を見てその心理の動きを観察するのが良いのです。」
「はいはい。それで?」
八重花がおざなりに対応すると
「八重花さんが冷たいです。ですがそれもまた…」
と悠莉はちょっと嬉しそうだった。
もう八重花は悠莉の反応を無視することに決め用件を言うまでは口を閉ざす決意をする。
「4組とのクラス合同演劇、あれはヴァルキリーが"Innocent Vision"への攻撃をしにくくさせるための手段ですか?」
八重花が口を閉ざそうとした瞬間、悠莉は狙いすましたように切り込んできた。
「…」
また文句を言いそうになったが八重花は自制して悠莉ワールドに引き込まれるのに抵抗しつつ答える。
「分かっているでしょう?」
「はい。作倉叶さんたちが大好きな八重花さんは是非とも一緒に文化祭をやりたいがためにクラスメイトを巻き込んだということは分かっていますよ。」
「…まあ、そうだけど。」
間違ってはいないのだがいざ他人に大好きな、とか言われると照れる八重花。
だが弄られてばかりで終わるわけもない。
「もちろん、集団ではこの間の二の舞になるから個別に撃破しようとするヴァルキリーへの牽制の意味合いもあるわ。」
「さすが八重花さん、食えない方です。」
どちらの理由を聞いても悠莉は揺るがない。
「その言葉はあんたに返すわ。」
「私は食べられてみたいですけど。」
はぁと色っぽいため息をつく悠莉は果たしてどういう意味で言っているのか。
(無視よ、無視。)
八重花は自身に言い聞かせてツッコミを自重する。
そこが八重花と美保との決定的な違い。
「用件はそれだけ?そろそろ時間よ。」
「それではもう一つ。」
悠莉はコホンと咳払いして姿勢を正し
「優秀な八重花さんはジュエルのアルバイトをしてみる気はありませんか?」
ベチッ
「あう。」
「何を馬鹿なことを言ってるのよ?どうせソルシエールに対抗するためのグラマリーの研究の被検体が欲しいだけでしょ?自分達を倒すための協力をするなんてしないわよ。」
八重花は悠莉のおでこを叩いて階段を降りていく。
悠莉は両手でおでこを擦りながら
「でも、お給金は弾みますよ?八重花さん、パソコンにお詳しいならお金がご入り用ではありませんか?」
ポツリと呟いた。
八重花の足が止まる。
「出資元は花鳳様ですから資本は潤沢ですし、協力してくださるなら私も色をつけられます。」
八重花の肩がプルプルと震えている。
振り返ろうとする体を無理矢理押し戻しているように。
「…さすがに、自分の趣味のために魂と仲間は売れないわよ。」
とてつもなく苦しそうな声で告げて八重花は去っていく。
悠莉はそれを微笑みながら手を振って送り出した。
「やはり八重花はなんでもお見通しですか。これはヴァルキリーが裏をかくのは難しいでしょうね。」
「だったら、裏の裏から攻めればいいんだよ。」
「!?」
聞き覚えのある懐かしい声に顔をあげた瞬間、世界はシャボン玉越しに見たように虹色に揺らいでいた。
そして悠莉よりも上の階の階段から1人の少女がピョンと降りてきた。
目を見開いた悠莉が唇を震わせながらその名を呼ぶ。
「蘭、様…。」
「やっほー、久しぶり。」
江戸川蘭は笑顔で手を振った。
悠莉は自分より小さいはずの蘭に完全に圧倒されていた。
かつて服従に近いまでの感情を抱いた頃のような感覚は無いものの、自然と蘭様と口にしてしまうほどに目の前の少女の存在が大きく見えた。
蘭は子供みたいに不思議そうな顔で首をかしげる。
「どうしたの、悠莉ちゃん?あ、蘭に会えて嬉しすぎて固まっちゃったのかな?」
「ええ、お会いできたのは嬉しいです。」
まだ違和感は拭えないものの会話の調子は以前と変わらないことに少しだけ安堵して悠莉は気を取り直す。
「今までどちらに行かれていたんですか?」
「んー、そんなに遠くには行ってないよ?最近は琴ちゃんとか撫子ちゃんとも会ってたし。」
(花鳳様とも?)
琴は分からないが撫子がかつての"Innocent Vision"の1人である蘭と会ったことをヴァルキリーに伝えていないのは少し疑問に思った。
「しかしこれはどんな幻覚なんでしょう?まるで世界が止まっているようです。」
歪んだ虹色の向こう側は静止しているように見える。
さすがに世界の時を止めるなんて力は無いはずなので体感時間が操作されているのだろうと悠莉は納得した。
「撫子ちゃんも悠莉ちゃんも凄いね。ここが異常だって気付けるんだから。」
蘭はパチパチと拍手をして褒めたが悠莉にしてみればこれを異常だと思えないことの方が異常である。
しかしそれは悠莉の精神力が桁違いに高いからだ。
普通の相手なら自分がどこに立っていたのかさえ理解できなくなっているはずだった。
いつも心にコランダムである。
「わざわざこんな空間を用意しなくても会いに来てくださってよかったですよ?」
「あはは。ランにもちょっと事情があるんだよ。」
腹を探ろうにも蘭は掴み所がなく浅くも見えるし逆に無限の深遠まであるようにも見えた。
悠莉は無駄なことはすぐに諦めて素直に話を聞くことにした。
蘭はニコニコしながら階段の中程で腰かけた。
「悠莉ちゃんは怖いね。もうこのおかしい状況を受け入れちゃった。」
「周囲がどうであれ私という存在が揺らがなければ問題ありませんよ。そういう意味では半場さんと蘭様は私を揺るがしかねない怖い存在です。」
何者にも侵されない心の歪んだ闇を守る壁であり、その闇を閉じ込める檻であるコランダムを陸と蘭は突破した。
悠莉がそういう人たちに惹かれるのは悠莉の闇にすら耐えられる心の強さ故だった。
「それじゃあ用事を済ませたら怖いお姉さんは退散するよ。」
相変わらずお姉さんぶる蘭を微笑ましく思いながらさっきは驚愕のあまり忘れていた蘭の言葉を思い出した。
「裏の裏、ですか。」
「そう。八重花ちゃんの裏をかくのが難しいなら裏の裏、表から堂々とやればいいんだよ。」
自信満々にえっへんと胸を張る蘭だがさすがにポンと手を打てる悠莉ではない。
「堂々とジュエルを使って戦うんですか?」
裏で"Innocent Vision"を1人にして総攻撃を仕掛ける予定だったもののさらに裏となると全員で総攻撃、もしくは1人で"Innocent Vision"に対抗するになる。
そんなの良子でさえやらない。
美保をうまく炊きつければ出来なくもないがさすがに無駄に散るだけなのは目に見えている。
「そうじゃないよ。八重花ちゃんたちが演劇を頑張るなら悠莉ちゃんたちも演劇をやればいいんだよ!」
バーンとどっか遠くを指差して立ち上がった蘭は声高らかに宣言したが
「……はい?」
やっぱり蘭の思考は悠莉には理解できなかった。
唖然とする悠莉を放り出して蘭は目をキラキラさせる。
「体育館で"Innocent Vision"とヴァルキリーの演劇対決だよ。投票とかもしちゃって真っ向から勝負するんだよ。」
「あの、蘭様?それでどうやって"Innocent Vision"を倒すんでしょうか?」
悠莉の疑問に蘭は指を立てて横に振る。
「チッチッチ。悠莉ちゃん、分かってないな。"Innocent Vision"が頑張って作った演劇をヴァルキリーが打ち破る。真っ白に燃え尽きた"Innocent Vision"は勝ったヴァルキリーの凄さを認めて仲間に入れてって言ってくるんだよ。」
「…なるほど。」
もちろん蘭の話を鵜呑みにした訳ではないが精神的に屈服させるのはいい手段だと悠莉は思った。
悠莉はざっと頭で勝利後の説得のシミュレーションをして口許に笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、蘭様。確かに面白そうなことになりそうです。」
「うん、頑張ってね、悠莉ちゃん。」
蘭が手を振ると風景がぼやけて蘭が消えていく。
まばたきをしたら次の瞬間にはまるで夢のように消えていた。
「演劇、ですか。」
チャイムが鳴り、悠莉は小走りに教室に向かう。
その表情は隠しきれない微笑みに染まっていた。