第10話 シャッターチャンスを狙え
人型の闇の襲撃は始業式の日以来なく、表面上はヴァルキリーも大人しい。
週始めから慌ただしかった"Innocent Vision"の面々もようやく落ち着いてきた新学期初の休日。
叶は
「すぅ、すぅ。」
まさしく春眠暁を覚えずを体現するように日が上ってもベッドでヌクヌクと眠っていた。
気持ち良さそうに寝ていて目を覚ます気配はない。
そんなお寝坊な叶の部屋のドアが音も立てずに静かにゆっくりと開いていく。
ギシッとわずかに軋む音すら注意を払うように何者かの足が止まる。
「ん……すぅ…」
叶が起きたかと思われたが寝返りを打っただけだった。
掛け布団を抱き枕代わりに、パジャマから少しだけ覗くお腹がセクシーだ。
侵入者は慎重に気配と足音を殺しながら叶のベッドへと近づいていく。
手には差し込む陽射しで輝く金属の何か。
そしてとうとう叶が気付くことなくベッドサイドまで侵入者はたどり着いてしまった。
寝こけてちょっぴり間抜けな可愛らしい顔を見た侵入者は手をゆっくりと上げていき
カシャッ
シャッターが切られた。
「んん…ふぇ?」
「おっハロー、叶。」
「……………裕子、ちゃん?」
まだ寝起きで頭の回転が緩い叶はようやくデジタルカメラを手に上機嫌に手を振っている裕子に気が付いた。
「…。」
ポテン
「裕子ちゃんはうちの子じゃないから…まだ夢なんだよ…。」
寝起きの無思考理論を展開して納得した叶はまた枕に頭を埋めて眠ろうとする。
「あー、デジカメじゃなくてビデオにすればよかった。こんなに面白いとは。」
カシャカシャと写真を取る音にようやく叶の頭も本格稼働を始める。
「そう言えば裕子ちゃん…何してるの?」
裕子がいることを認識すれば次の疑問は当然そこに当たる。
裕子は胸を張って右手のデジカメを見せた。
「前から欲しかったんだけど昨日買ったのよ。だから練習も兼ねて叶のドッキリ寝起き訪問。フヒヒ、お宝映像たっぷり手に入ったわよ。」
「あ、ええー!?ひゃあ!」
叶はカメラを向けられている事実に気付いて飛び起きた。
しかし布団を突っ掛けて転び、盛大にパジャマを捲り上がらせながらお尻を突き出す形で上半身から倒れる形となった。
「シャッターチャンス!」
カシャッ
「わーん、撮らないでよぉ!」
朝から叶の悲鳴が響く平和な日の始まりだった。
「むぅ、酷いよ、裕子ちゃん。」
「あはは、ゴメンゴメン。」
2人は真奈美たちを迎えに行くために並んで歩いていたが叶は頬を膨らませて拗ねていた。
裕子は謝っているが悪びれている様子は少ない。
「写真も消してね。」
「それは…どうしようかな?叶のセクシーショットを見せれば半場くんも目を覚ますかもしれないから取っておこうかな?」
「う…。」
陸の目覚める条件が分からない以上裕子の案も一概に馬鹿に出来ない。
叶は羞恥と陸の目覚めを天秤に掛け
「…他の人には見せたら駄目だからね?」
妥協した。
「わー、半場くん愛されてる。」
楽しそうに笑った裕子は適当に頷くだけ。
「絶対駄目なんだからね。」
必死に抗議する叶を裕子はのらりくらりとかわすのだった。
次に訪ねたのは久美の家。
中山の表札がある簡易の門を潜って呼び鈴を押す。
出てきたのは久美母だった。
能天気な久美とは別種のおっとりした人だ。
「あらー、裕子ちゃん、叶ちゃん、いらっしゃい。久美ちゃんにご用事?」
「ドッキリ寝起き訪問の時間です。久美はまだ寝てますか?」
面白そうな企画を聞くと久美母は目を輝かせた。
この辺りはまさに親子だ。
「まだ起きてきてないわよ。うふふ、可愛く撮れたら一枚頂戴ね。」
「了解です。」
「お邪魔します。」
ノリノリの裕子と久美母に苦笑しつつ叶も中山家にお邪魔した。
裕子に倣って足音を立てないように久美の部屋に向かう。
何度も来ているので部屋の位置は知っていた。
「…ストップ。久美の声がするわ。」
「もう起きてもおかしくない時間だからね。」
むしろ叶が寝坊したからあんな面白い写真が撮れたわけで普通なら起きている時間だ。
「なんだ、つまんない。久美、遊びに行こー。」
「にゃにゃ、ゆうちん!?」
悲鳴のような声が聞こえたが裕子は構わず部屋のドアを開け
パジャマの下は履いてなくて下着姿で、上も今まさに脱ごうとして胸元まで上げたグラビア写真のような格好をした久美を見た。
「…。」
「…。」
久美も叶も驚きで固まり
「激写!」
裕子だけが嬉々としてシャッターを切っていた。
「あらー、可愛く撮れたわね。ポスターサイズで印刷出来るかしら?」
「にゃー、やめてー!」
かしましい親子のやり取りを出されたお茶を飲みながら見ていた裕子と叶は時計を確認する。
あんまりのんびりしていると遊びに行く時間がなくなってしまう。
「久美、そろそろ行くよ。」
じゃれ合う子猫みたいな2人に声を掛けて立ち上がると久美も渋々ついてきた。
「裕子ちゃん、また可愛い久美ちゃんの写真が撮れたら教えてね。」
久美母、娘と精神年齢が同じくらいに見える娘大好きママさんである。
「はい。ごちそうさまでした。」
「お邪魔しました。」
「行ってきます。」
こうして久美を仲間に加えて一行は次の目的地、八重花の家に向かう。
「八重花なら少し前に出掛けたわよ。」
東條家を訪ねて八重花母に尋ねた第一声である。
「連絡してなかったからね。当てが外れたか。」
裕子は難しい顔で悩み出したが叶と久美はしょんぼりしていた。
裕子のこの計画性の無さが今回のとんでも写真を生み出すきっかけになってしまったのだから。
「仕方がないわ。とりあえず真奈美の所に行って、それから八重花に連絡を取ろうか。」
「あ、そう言えば真奈美ちゃん、今日は足の事でお医者さんに行くって言ってた気が。」
デジカメを買いに行ってた時の会話なので裕子は初耳だった。
「病院かぁ。…つまり、診察の後に真奈美は半場くんの所にお見舞いに行くわけね?」
「多分そうじゃないかな?」
これまでも定期的な診察の後にはそのままお見舞いをしてくると聞いていた。
「誰もいない個室に2人きり。これは何もないと思う方がおかしい。」
「そう、かな?」
しょっちゅう1人で見舞いに行く叶はなにもしないので首を傾げるが裕子は聞いちゃいない。
「にゃはは、こっそり覗かないと。」
久美も乗り気だ。
恐らく自分がやられた腹いせを他人にも味わわせたいのだろう。
間違った復讐の連鎖である。
「そういうわけだから急遽病院へ行き先変更。」
「おー。」
裕子と久美が突撃隊のように病院に向かっていき
「あ、待ってよ。」
叶も慌てて後を追いかけるのだった。
陸の病室は入院病棟1階の個室である。
つまり中庭を経由して窓からでも侵入することができるのである。
裕子を先頭にしたパーティーは人目を避けるように灌木の陰を進み、壁沿いを歩き、そしてとうとう目的の部屋の窓に到着した。
裕子は手で立ち止まるように合図をすると神妙な顔つきで振り返った。
「これより諜報活動を開始する。各員、発見されないように続きたまへ。」
「にゃはは、ラジャー。」
「いいのかな?」
叶は否定的だったが裕子は構わず窓から中を覗いた。
そこでは、まるで真奈美が眠る陸にキスをしているかのように顔を寄せている後ろ姿があった。
「お宝ゲット!」
「ん?…何やってるの、裕子?それに久美、叶まで。」
「やっほー。」
「にゃはは、ゆうちんは諜報活動には向かないね。」
「だから駄目だと思ったのに。」
窓の外からひょっこりと顔を出した3人を見て真奈美は首を傾げた。
正面から入り直して陸の病室に入るとすぐに裕子はカメラを手に不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、芦屋さんや。白状してもらいましょうか?」
「今日は探偵の真似事でもしてるのかな?」
余裕な態度を崩さない真奈美に対して裕子は早速さっき撮った決定的瞬間を見せた。
「いったい何をしていたのかしら?話してもらえるわよね?」
真奈美はまじまじと写真を見つめ
「へー、よく撮れてるね。面白いな。」
全く動じることなくむしろ他人事のようだった。
「なんでそんな?これってキス…」
「残念だけどあたしが手前に居すぎだね。座っていた椅子から立ち上がるときに義足が引っ掛かって前屈みになったんだよ。」
真実などそんなものである。
裕子はあからさまに落胆した様子で足をプラプラさせた。
「なんだ、つまらない。デリートデリート。」
「あ…」
裕子が写真データを消そうとすると真奈美が小さく声を漏らした。
裕子はそれを聞き逃さない。
「…ふーん。真奈美さん?」
「な、何?」
「どないしましょか?」
叶と久美の分からない主語の抜けた会話だが真奈美は顔を赤くして唸っていた。
「…は◯のたい焼き。」
「3個ね。」
は◯とは壱葉で一番と言われるたい焼き屋である。
アンコの他にクリームやチーズが人気なのだがお値段が1つ250円と高めなので学生たちも余裕のあるときのご褒美に買うような店なのだ。
「…わかったよ。」
「まいどあり。」
がっくりと項垂れる真奈美の前でニシシと笑いながら裕子はデジカメをポケットにしまった。
「すぅ、すぅ…」
これだけ騒いでいてもやっぱり陸が目を覚ますことはなかった。
「んー、やっぱり奢りだと美味しいわ。」
「うう…」
1人たい焼きを3つも手にした裕子は満面の笑みで商店街を歩いていた。
その後ろを1つだけたい焼きを買った叶と久美が続き、思わぬ出費に落ち込む真奈美の手には何もない。
「真奈美ちゃん、私の少し食べる?」
「にゃはは、こっちのチーズも美味しいよ。」
「2人とも、ありがとう。」
真奈美は涙を浮かべながら一切れのたい焼きを食べる。
「後は八重花の面白い写真が撮れると面白いんだけどね。」
すっかり気を良くした裕子は決定的瞬間を納めるために周囲を見回している。
八重花が一番いそうなのがこの辺りだったからだ。
「八重花はあんまり格好に頓着しないからね。お洒落な洋服屋の多い建川よりも近場の壱葉にいると見た。」
「そもそも洋服を見に出たとは限らないんだけどね。」
気分はすっかり名探偵の裕子は勝手に推理を進めているが前提がいろいろ間違っていた。
だが今日は裕子に神が降りていた。
「お、八重花発見。」
「「「!?」」」
3人が驚きの声が出ないほど驚いて視線を前に向けると確かに八重花がいた。
商店街のサイドミラーやショーウインドウを覗いて回っている。
「挙動不審ね。これは秘密の匂いがするわ。」
それを言えば裕子の方が傍目には怪しかったりする。
八重花は何を買うでもなく店の前を通過していく。
「にゃは、ゆうちんのいう通りやえちん挙動不審。」
「「…。」」
叶と真奈美は八重花が先日の人型の闇について調べていると気付いたのでノーコメントだった。
八重花は商店街の端まで終えると裏路地に入っていった。
「あの辺りは飲み屋が多い界隈。なにやら美味しいネタの予感がするわ!」
裕子は八重花が向かった路地に向かっていく。
ここまでついてきた被害者3人は疲れ気味でゆっくりと追いかける。
裕子が路地の向こうに消え
「ギニャーーー!」
猫が思いきり尻尾を踏まれたみたいな悲鳴が響いた。
「ゆうちん!?」
「何だ?」
「とにかく行こうよ!」
叶と真奈美はいざというときのために戦う覚悟をしながら路地に駆け込んだ。
そこには
「あわわわ…」
「あら、叶たちも一緒だったの。」
地面にひっくり返ったカエルみたいに伸びている裕子とパンパンと手を打ち合わせている八重花がいるだけだった。
「後をつけられてるようだったからここに誘い込んで不意討ちにしたらこのざまよ。」
八重花はフンと鼻を鳴らした。
恐らくは敵を誘き寄せるつもりであからさまに分かりやすく調査していたのだろう。
だがかかったのが無関係の裕子だったため不機嫌なのだ。
八重花の目が裕子の手にあるデジカメに止まる。
「ふーん、面白いもの撮ってるわね。」
八重花と3人が一斉に頷き、カメラと携帯を構えていた。
叶たちの手にはアイスやクレープが握られている。
裕子ののされて伸びた恥ずかしい写真をネタに奢って貰ったのだ。
みんな同じような写真を撮られたため手加減はない。
「ひーん、もう許してぇ!」
「だめー」