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オーバー・ザ・ムーン・リバー

作者: 江坂慶介
掲載日:2026/10/31

若手芸人・コント師「君と商談」が売れに売れたあと。


登場人物:

安生美園(あんじょう・みその):演技がうまい

三橋早雨(みつはし・ささめ):ネタを書いている

 淡い暖色のスポットライトが線の細い顎下に影を落とすと、いっそうその姿が遠い存在に思えた。例えばちょうど一年前に、本番前最後のネタ合わせをしたファミレスだって、光量こそ違えど同じ橙色の照明が間にあったはずなのに。

 そういえばあの単独ツアーがもう一年も前の話だったか。よく覚えている。愛想の悪い女子高生バイトが強めに机を鳴らして、パフェを置いた。それを見た早雨は、彼女の心持ちや今日あった出来事を、ああだこうだと想像しながら、最後に悪戯っぽい視線を美園に寄越してこう言ったのだ。

 これ、いける?

「歴史ある賞をいただけたということで。本当に、……身に余る光栄です」

 言えた。と、そんな顔で画面の中の早雨が下唇をきゅっと噤んだ。恐らく今この瞬間の早雨自身の言葉ではなく、事前に誰かから用意されていた言葉だった。思い出して、言えた。二の句までに、そういう間があった。

 柔らかい髪を手櫛で梳きながら、早雨はいつも美園に尋ねる。これ、いける? 今目の前で起きた出来事を、演者としてキャラクターに落とし込めるか。それを省略して、いける? と問うのだ。お決まりだからこそ、美園も聞き返しはしない。キャラクターに落とし込めるかってこと? そう返す前に、一つ、唸りを上げる。

「芸人さんの脚本部門賞の受賞は、今回が十四年ぶり三度目、ということですね」

 女性タレントが細い腕で小さな拍手をする。会釈、にしてはぎこちなく肩をすぼめた早雨が、はい、と答える。

 そうして即興コントが一段落すれば、早雨はノートを取り出すのだ。その頃には確か、マルの中に十九と、表紙にナンバリングされていた。いつか何かの役に立つから、とこいつはいつもそう言った。美園にとって精一杯捻り出した搾りかすのようなシチュエーションでも、十九冊までの間に必ず書き連ねられた。いつか何かの役に立つから、長く続けてればいつかは。ボールペンの背を叩きながら、そう言って。

「完全に脚本家としての一面を開花させたようですけれども。今後もこういった活動は」

「続けたいです。そりゃ、まあ。自分の可能性なんで」

 わあっと、笑いが巻き起こった。マイクを携えた司会者が、いよおっ、とわざとらしくおだてる。早雨は、ふっ、と小さく鼻を鳴らして口角を上げてみせた。両手の中のトロフィーも掲げる。メッキが会場のシャンデリアを反射して、無数のカメラのフラッシュのようにきらきらきらと瞬いた。それはさながら名画の中の、大女優であった。



  *



 ジョッキの底面の歪みが、眼鏡のガラスの光を反射する。自分の顔なのに、表情が読めない。俺は今、どんな目をしているのだろうか。

「すっかり役者仕事も板についてきたって感じか」

 先輩はもう既に、出された二杯目のビールを呷っている。美園はそれを見て、すかさず枝豆に手を伸ばす。しゃくれ顔のままの先輩が、じろりと黒目だけを下にやった。対面にいる美園が枝豆を引っ掴んで頬張るのを見て、その目を伏せる。セーフセーフ。口には出さず、そんなことを思った。

「いや、そんな。こんなところでまで」

「バカお前、ノリでもフリでもねえよ」

 先輩はそっとビールをテーブルに置く。美園の視線は床下へ動く。天井の梁、個室の扉、ジョッキの底面。ない。ふう、と一息吐いて、何気ないようにジョッキを手に取る。ない。ないよな? 先輩がまた喉仏を鳴らす。

「次は何の役だっけ? 前のやつ物凄い好評だったじゃんか。あの、ストーカーの」

「ありがたいっすね。次は……なんか、医療系の。リハビリする」

「へえ。今回こそレギュラー?」

「あ、いや。連ドラじゃなくて……配信でもなくて」

 ぐび。先輩の喉が一際大きく鳴って、美園の耳には麗しい川のせせらぎだけが届いた。かつてチェーンの居酒屋でバイトをしていた頃は、有線から流れる流行りのポップスが鼓膜を焼いたものだが、ここではそんな心配も無用らしかった。早雨の好きなアイドルが歌う、障りのないばかりの歌詞すらもはや懐かしい。ピンと来ない、と言ったら相当機嫌の悪かった日でそれがトリガーになってあいつはすっくと席を立って、

「映画?」

「まあそう……すね。あっ、と……CM。イヤホンの」

「うわ」

 さすがに気恥ずかしくなって、ビールの泡を食む。アルコールの感覚が目に沁みる。

「お前……売れたな」

 川のせせらぎがいっそう強まる。さらさらと、上質な畳の上、澄んだ空気の上を滑り抜ける。泡だけを食んで、まあ、そうですね、と返事をした。進まない。美園はやはり座敷や天井に目をやって、ジョッキを置いた。腕も持ち上げず、カメラを探して、たぶんこの後、財布を出す。あれ、これって。

 荷物を掴んで先輩が立ち上がる。ちらりと光ったスマホの画面には、電車の時刻表が並んでいた。そんなことせずとも、とは言えなかった。先輩の帰路は、カラフルだったのだ。複数の路線で色に満ちていて、タクシーを呼ぶのは躊躇われた。先輩を守るためには。

「ああ、あのさ」

「はい」

 背負ったリュックがくたびれて見えて、そろそろ換え時か、なんて漠然と思う。養成所にいた頃に早雨が、たくさん物が入る大きさにしろ、と言って選んだサイズ。ここまで酷使していれば、刺繡も解け背中も曲がる。次はもっと、手ごろな大きさにしよう。美園は頭の片隅でそんな風に考えながら、襖に手を掛けた。

「三橋とは、よくやってる?」

「よく?」

「……よく」

 先輩が反対側から襖を開く。美園は靴下の内側から親指を捻り、座敷の畳を詰った。



 *



「新しいメンバーのことも、応援していただきたいです。私たちの大好きだったグループは、彼女たちが守っていくので、これからも見ていてください。私からは以上です」

 本当に、ありがとうございました。

 小さな頭が深々と下げられた。肩をゆるりと、真っ黒な髪の束が滑り落ちる。早雨が、彼女がトレードマークのお下げ髪をやめた、これは一大事だと騒いでいたのはいつ頃か。すっかり下ろしたセミロングが、美園にとっても見慣れた姿になった。と、いうよりも、セミロングの彼女が美園のような人間にとっても、〝見慣れたアイドル〟になった。

 御園朝は、早い時間のバラエティ番組にシーズンレギュラーとして出演し、一気にハネた。

 アイドルファンを視聴者層に取り込むための客寄せパンダと思われていた彼女は、身体を張った罰ゲームやクイズの体をとった大喜利に、果敢にぶつかっていった。それだけでは、大した手応えがあるとは言い難かった。しかし、ある日の生放送中に堪え切れず涙を溢れさせたのである。不甲斐ない自分に、悔しくて、としゃくり上げながらうずくまった。電撃のためのパッドを両腕につけてしゃがみ込んだ彼女は、そこに繋がれたコードがまるで、〝ポッドに入ってまだ目覚めてない実験体みたいだ〟と、MCが突っ込んで、哀れみと爆笑が彼女を包んだ。それ以来、彼女はすっかり朝の支度中の主婦たちの心を掴んでしまった。健気でちょっと抜けてて、応援したくなる! SNSの朝のトレンドはもっぱら、彼女を応援するコメントで埋め尽くされた。

 早雨は彼女のことを、儚げで、ちょっと不憫なところがかわいい、と語っていた。髪を下ろした彼女はもはや、不憫というには華やかすぎる。


「えっ、ああ、そうなの?」

 がたん、と車体が大きく揺れる。高速だからって、この運転手飛ばしすぎだろ。

「知らねえのかよ」

「やばい、今知った」

 電話口からキーボードの打鍵音が聞こえる。たん、たん、とエンターキーを律儀に二度押す音まで。早雨は二の句も継がず、手を動かしているようだった。おい、やばいんじゃねえのかよ。

「ニュース見ろよ。一大事だろ」

「ホントなら、一大事。ホントなら……」

「確かめろよ」

 早雨が、んー、と唸って、打鍵音が止まる。静寂。随分大人しくなったタクシーの走行音だけが、緩やかに電波を走り抜ける。

 目の端でちらりと窓の外を見れば、曇った夜空にひゅんひゅんと光が舞っていた。あれはオフィスの明かり、こんな時間までご苦労。それから、あれはパチンコのネオン。あれは病院。あれはラブホ。牛丼屋。パチンコ。ラブホ。家。ラブホ。明日は何時起きだったか。あ、牛丼屋。病院、それも性病科。五時にロケ地へ着くから、えっと、四時。無理だな、四時半。またラブホ。

「寝てる?」

「寝てない」

「そっか。あのさ、撮影スケジュール空いてる日ある?」

 かたかたかた、とまたキーボードが動く。あ、さっきのただ煮詰まってただけかよ。蛍光灯の白が流れ星のように光る。あんな高いビルの中で、未だ煌々と煌めくオフィスは点々とあるらしい。

「……あー、と、明後日……は、番組ロケ。え~……」

 ポケットを探り、スマホを取り出す。指先がそれをつまみ上げた瞬間、車体が急停車して上半身が大きく揺れる。監督の鬼指導に耐え、丸一日の撮影を終えた美園にはそれすら気怠く、緩慢な動作のままスケジュールアプリを開いた。マネージャーと共同の日程には、しばらく撮影という緑色の二文字が光っている。早雨の方には、授賞式、脚本作業、打ち合わせ、と赤や黄色が細々並ぶ。

「水……水曜日? 休み……」

「ああ、うん。それならいける」

 たん。エンターキーだ、と美園は他人事のように思った。実際他人事であった。来季ドラマの脚本の、構成案だという。

「お店予約する。個室ね」

 視界の端を、ファミレスの看板がびゅんと通り過ぎる。

「そんなことできんの?」

「どういうこと? 普通によく行ってるとこ。安生とは初めてか」

 じゃ、予約掛けるから。切るね。その言葉と共に再び走行音が美園の耳に響く。

 まあ、できるか。できるか、そのぐらい。

 車は急加速のまま坂を下って、高速道路を降りる。景色と相まって、小さなジェットコースターのようだ、と前に話した気がする。誰相手に? 霞み始めた目を閉じる。体がソファに沈んでいく感覚があって、脳味噌だけがふわふわ浮いていくようだった。その眠気は次第に身体全部を包んで、現実感から引き離し、数刻、美園は意識を手放した。



 *



「あ、カメラ気にしてる? ないない、オレ映せないからフツーに」

 河川敷に転がったまま、泰昭がけらけらとこちらを向いて笑った。髪が陽射しを受けて、ほのかに栗色を帯びている。毛束に芝が交じっている様は滑稽だった。カメラが回っていないとは、思えないほど。目の前で人がすっ転げた時のリアクションを探っている美園の前に、ジーンズをはたきながら泰昭が立ち上がる。

「いやあ、わかるよ。オレも昔はさ、ドッキリとか疑って、先輩の前でロクに酒も飲めなかったから。なんかさ、全部に現実感ないっていうか、さ。あ、今オレに話してた? ってなるよね」

 泰昭はそこまで一気に話して、美園に向けて左目をきゅっと瞑る。あ、今俺に話してた? 美園は緩く開きかけていた唇を噛んだ。

「まあ、ほら、オレはもうモザイク掛かっちゃうから。気にしないで、大丈夫、大丈夫」

 土まみれの手で美園の背中をぽんと叩くと、泰昭は顔の前にピースサインを立てる。昼空の鱗雲が、指にまばらな影を落としていた。ドラマの撮影中、偶然通りがかった一般人がドッキリの仕掛け人だなんて。そんなことはわかっていた。理屈ではわかっていたのだが、美園の視線はやはり川の向こうを追った。スタッフが照明機材を畳んでいる。何人かは、ロケバスの中に流し込まれていく。泰昭はただこの辺をうろついていただけと言うが、出来すぎた偶然であった。

 否、偶然なのだ。出来すぎていても偶然だった。蒲生泰昭は最早、紛れもなく一般人でしかなく、テレビスタッフが彼に掛け合うこともない、ドッキリ企画などに関われる筈もない。泰昭は郊外の住宅地に住処を移したと聞いていたし、ただこの辺をうろついていただけ、と言う彼を疑うのは、それが出来すぎていると感じるのは、美園がとっくに狂っている証左であった。そして紛れもなく、恵まれている証左でもあった。

 IC定期券のチャージ方法を、一瞬だけ忘れた。代わりに、オフィスとラブホの照明の違いがわかるようになった。飛び出すカメラに怯えて、ビールに酔えなくなって、枝豆を食べて誤魔化すようになった。それなのに、事前説明を受けながら、初めてのことのように驚いて見せたりもした。奢られなくなって、奢れる相手でいられなくなって、柄にもなく財布を取り出して、そうして可愛がられ方を思い出せなくなった。先の目標がなくなって、求められることは増え、前を歩いていた人はもう道を退いている。話すことがない。ラジオで話すから。仕事上、口止めされているから。お互い秘密が増えたから。隣で鞄を選ぶことも、一大事を真っ先に聞かされることも、喧嘩することも、――ネタ合わせも、なくなった。

 そういえば言われた。俺たちは、多分、先輩が言うところの〝よく〟は、やってない。

「……大丈夫では、ないです」

「ははは」

 泰昭はそう笑って返しながらも、自分が転げ落ちた河川敷の芝生をまた駆け上がる。そうして、アスファルトに足を踏み出すと、半身だけをこちらに向けて、美園に大きく手を振った。西に傾きかけた陽射しで、白けた空が彼を覆い隠すように光る。

「大丈夫だよ。多分、君らは」

 ドラマ頑張ってね! 踵が潰れ、紐が解けたスニーカーを前へ前へと動かして、泰昭はその場を去っていく。太陽の逆光に溶けていくように、輪郭がぼやける。ADであろう若いスタッフが、美園の名を大きく叫んでいた。ああ、はい、踵を返し、ロケバスへ歩く。

 ドラマじゃなくて、映画です。この撮影。

 言い損ねた台詞。だけど、発する必要のない言葉。美園は、咄嗟に声を張り上げることのなかった自分に、少しだけ安堵して河川敷を登る。

 携えたのは小さなショルダーバッグだった。



  *



 授賞式の打ち上げ終わりで、と話す早雨は仕立ての良いスーツに身を包んでおり、髪は切り揃えワックスで整えられていた。見上げた顔は仄かにメンズメイクで彩られている。画面映えする健康的な肌色がそれを物語っていた。なんと表現すべきか、嘆かわしいことに、様になっている。衣装さんに返すものじゃないのか、と尋ねれば、予定が立て込んでいることを話すとご厚意で一日貸してもらえることになった、らしい。打ち上げと言えど、立食パーティーで着られるような普段着がない。そんな開けっぴろげの話にも、突然のことでしたからね、とご親切にしてくれたとか。それだけ衣装さんに顔が利くようになったのか。

「ギリ間に合った。顔の利くご飯屋さんで予約してよかった」

 一束だけはらりと額に落ちる前髪すら、今しがたまで引っ張りだこでした、と表明しているような堂々たる姿だ。顔の利くご飯屋さん? こいつに? 掌に握ったままのスマホを、見えないようにポケットに仕舞うと美園は、早雨について歩き出す。キャッチの売り文句に美女が困った顔をするのを尻目に、二人して人混みをすり抜けていく。少し俯く。ちらり、視線を感じては顔を逸らして小走りになる。なんか、遠くね? やっぱさっき俺が見かけたやつ、予約し直した方がいいんじゃねえの。見られてる気がするし。あの女の子二人組とか、お前のファンじゃねえの? なんか、鞄ごそごそして、お前さ、サインとかちゃんと断ってんだろうな?

「着いた」

 繁華街の少し外れに、手書きのフォントで彩られた立て看板が輝いている。うわ、出た。美容院みたいなレストラン。ロン毛の髭が経営してる。どこかで交わしたそんな会話を思い出しながら、示される席に座る。早雨はジャケットを脱ぐ。店内にはチルアウトミュージックが充満していたが、二人して何も言わずに、着ていた上着を背凭れに掛けた。


 居心地が悪い。ほとんど透明の、油の味しかしないドレッシングをレタスと一緒に食みながら、美園は早雨の胸元で揺れるネクタイを見つめた。

「どうしたの。野菜、イヤとか言わないでよ」

「いや……」

 お前、ネクタイなんか結べたっけ? 率直に言ったら機嫌を損ねそうだ、迅速な判断で舌のハンドルを切り替える。

「良いカッコしてんな、って」

「何それ? ヤな言い方……」

 損ねた。切り替えた先も崖であった。

「違くて……。ああ、なんつうか、印象変わるなって。似合ってる、スーツ」

「そう? ……ちょっと首が苦しい」

「着せてもらっといて、んなこと言うなよ」

 セーフ。飛び出たエアバッグが命を守った。早雨はそれでも浮かない表情だったが、まあ、大事故は避けられた。多分。

 そうこうしているうちにメインディッシュが卓上に並べられる。ステーキだ、と美園は他人事のように呟いた。随分と肉厚で、中身はほんのりと赤い。数か月前なら、これ大丈夫なの? と騒いでいたが、今の美園には大丈夫だと言い切れた。早雨もそのようで、特にああだこうだと言葉を発したりはしなかった。大丈夫なステーキだ、高いやつだ、など漠然と考える。これを今から、食うというのに。

 対面に座る早雨はナイフを手に取り、淡々と肉を切り分けていく。そうして、やはり淡々と、小さく小さく口を開いては欠片をそこへ放り込む。少し前に行った食リポ仕事の時よりも幾分か上品に見えるのは、特徴的な犬歯が姿を現さないからだろうか。わきまえている。こいつは、場をわきまえている! 美園が端のカトラリーを両手に取ると、早雨は事も無げにワイングラスに唇をつけた。香りからして上等な白ワインだ、と美園はぼんやりそれを眺める。早雨は気づいていない様子で、喉仏を静かに上下させていた。

「安生、飲まないの?」

「最近、酒がめっきり……」

「ビアバーにでもすればよかったかな」

「そういうんじゃ、ねえんだよなあ」

 白いナプキンが、じんわりと赤紫色に染まっていくのが対面にも見えた。早雨はそうして、すっと唇を拭き取ると、わざとらしく一息ついてみせる。頬がほんのり赤い。え、酔うの早くね? そう言葉が出かけて、堪える。あ、こいつもう引っ掛けてたか。式典で。

「疲れた」

 早雨はそう呟いてまたステーキを口に放る。無意識で発されたのか、リアクションを起こせなかった美園に、抗議の声は訪れなかった。

「……ああ、うん」

「? 何?」

「いや、なんか見慣れねえんだよな。三橋がワインなんか飲んで、」

 何が、いや、なのか。美園も美園で、無意識に喋っていた。ん、これは、まずい展開だ。しかし紡がれる台詞が止まらない。まるで、何か、台本、

「……ワインなんか飲んで、スーツ着て、テーブルマナーちゃんとして……」

 早雨の手が止まる。

「前、ファミレスで大喧嘩したじゃん。あん時はさ……」

「歌詞の話で?」

「そう、お前、キレて。バン、って机叩いたら、ジュース零して」

 早雨の好きなアイドルが歌う、障りのないばかりの歌詞に、ピンと来ない、と言ったら相当機嫌の悪かった日でそれがトリガーになってあいつはすっくと席を立って両掌で机をバンと叩いた。その衝撃で、淵に置かれていたコップが早雨の方に転がって、中になみなみ注がれていたドリンクバーのオレンジジュースが、デニムの上に弾けた。

 その後は、どうしたっけ。

「なんか、そういうのじゃなくなったな、俺らって」

 途切れた。

 早雨はカトラリーを置く。前を見据えて、咀嚼をやめて肉を飲み込み、二人の間には気取った英語のチルアウトミュージックだけが鎮座していた。美園ももちろん、言い切ったまま口を閉ざして、テーブルの上の鉄板がじゅうじゅうと音を立てるのを、ただ眺めていた。

 そういうのじゃなくなった。早雨は名誉ある賞を受賞して歴史に名を刻んで、上等なスーツを見立ててもらって、――それは喜ばしいことだった。

 優勝したい。優勝しよう。この国で一番面白いコントを演ろう。日本一、有名になってやろう。見返してやる。勝ち組になってやる。誰よりもこのしょぼくれた人生を、楽しんでやる。そう思っていた。いつか、ファミレスなんかじゃなくて、個室の居酒屋で酒を飲む。ダイヤの乱れた電車を尻目に、タクシーを呼ぶ。焼けてるのか焼けてないのかわからんような肉を食み、接待を受け、仕立ての良い衣装に身を包んで、表彰される。いつか、そういうご身分になる。そうして焦がれていた瞬間は、呆気なかった。華々しい紙吹雪に包まれる中、唖然としていたら隣のこいつは俺の肩を引っ掴んで掌を向けた。ばちん、と二人の掌が合わせられて、映画ならばきっとエンドロールが流れていた。視界が滲んで、暗転する、と思った。

 目の前にはまだ肩を震わせる早雨がいて、笑う司会者がいて、マイクが向けられて、準優勝コンビの視線が突き刺さって、コメントが求められて、あと十秒のカンペが出されて、――未だエンドロールは流れない。

 バラエティ番組、ライブ、学園祭での営業、ツアーの提案、打ち合わせ、ラジオ、目が回るような忙しさ、と自嘲しながらも、不思議なことに身体は動き続けた。共有カレンダーが、美園と早雨で色分けされるようになった。SNSには、面白い、以外の形容詞がよく並ぶようになった。こういうのもやってみませんか、という台詞とともに受け取った名刺が膨らみ続け、財布の形が変わって、買い替えを余儀なくされた。ネタ番組の出演依頼が来ても、合わせる必要がなくなった。あの、告白のネタ、優勝の、あれくださいよ! その声に応えていたら。三橋さん、二十分いけるなら特別ドラマ六十分いけますよ、それか漫画原作なんかどうですか、その声に応えていたら。この安生って人、芸人だったんだ、自然で気づかなかった、上手な俳優さんだね、その声に応えていたら、応えていたら、応えていたら。

 ふと思い出す。安くて長持ちする鞄を探していた美園に、小道具を詰め込める大きさにしろと茶々を入れられたあの日。だから今、ぶっ壊れちゃったじゃねえかよ。そう怒れたはずなのに、今の美園に安さも長持ちも、必要ない。早雨にも、小道具を詰め込む場所はいらない。金も、人脈も、やれることも、増えた。これを望んでいたはずだった。この暮らしを、渇望していたはずだった。

 なんか、そういうのじゃなくなったな、俺らって。

 二つの鉄板の先、なぞるように視線を向ける。

「……なんか、え、キレてる」

 静寂の中、唇を噛む早雨は、何かを言おうとして、言葉にならなくて、もどかしいと語るような、そんな表情をしていた。まるで、どこかで見たことがある。あの日のようだ。あの日、あのファミレスの――

 早雨はすっくと席を立って両掌で机をバンと叩いた。その衝撃で、淵に置かれていたグラスが早雨の方に転がって、中に程よく注がれていた店主こだわりの赤ワインが、質のいいスラックスの上に――弾けた。

「な……」

 唖然とする美園に対し、早雨は俯いたままだった。高級感のあるベージュに赤紫が染み渡っていく。じわじわ、星が光るように。じれったいとでも言うかのように、早雨はグラスの脚をぐわんと鷲掴むと、さらにその中身を胸元にどばどば引っ掛けた。自らの、皺一つないワイシャツの上に。

「何やってんだよ!」

 たまらず叫ぶ。早雨がくっと睨む。え、睨まれるの俺? 美園は開いた口も塞がらないまま数秒静止したが、はっと我に返り、周囲を見渡す。

 店中の視線がここに集められている、としか言いようがない。

 店主によく似た雰囲気のカップル客、貴族みたいな老夫婦、まだ年端もいかない若い女店員。まずい。いてもたってもいられない、憤慨の表情で固まっている早雨の腕を引っ掻くように掴む。

「ちょ、マジ……。何考えてんだよ」

「なんで怒ってんの」

「はあ?」

「なんで怒ってるのか、聞いてるんじゃん」

 アルコールでびちゃびちゃに濡れながら、早雨が歯軋りをした。頑なに動かないまま、席に立ち続けている。なんだ、こいつ、なんで怒ってんのって、それはお前の方だろうが!

「それはお前の方だろうが!」

「僕は怒ってない!」

「じゃあ教えてやるよ、てめえ、借りたご身分で人のもの汚してんじゃねえ、バカが! 迷惑だろうが! あとっ……、こんな、世話ンなってる店で、厄介事起こしやがって、誰が掃除すんだよ! 食い物……ッ、違う、飲み物? とにかく、あー、資源を! 無駄にすんな!」

 お客様、と静止の声が耳を劈く。

「前は、前の時は怒らなかったじゃん」

「ったりめーだろ、てめえがてめえのジーンズ汚して、今とは訳が違うだろうがっ」

 腕を引く。財布から万札を引っ張り出し、レジに叩きつけ、ご馳走様と声を掛ける。早雨は、酒臭いべたべたの手で目尻を拭いながら美園に、引き摺られていた。


 ぐだぐだと足を縺れさせる早雨を、雑居ビルの軒先に放り投げる。エレベーターから降りた女が、ぎょっとしてこちらを見ていた。ハイヒールの音が遠ざかる。それを目で追うこともなく、早雨の頬を引っ叩く。しゃがみ込む彼は酩酊状態なのか、目元はすっかり赤く腫れているし、瞳の奥は惚けたようにぼんやりしている。焦点は合っていない。

「酔っ払いが、クソ」

「……ワイン一口で酔うわけない」

「お前、式にも出たんじゃん。酔ってんだよ」

「酔ってないよ!」

「じゃあ、なんであんなことして、今はボロボロ泣いてんだよ!」

 その怒号に耐え切れなくなったのか、とうとうしゃくり上げて泣き始めた。

「うええ、」

「みっともねえ……」

「安生があんなこと言うから、あんなこと言うから」

 あんなこと? 思考が巡る。思い返す。

タイミングからして思い当たる言葉は、一つしかない。

「……そういうのじゃなくなった、って」

 答え合わせだ。早雨がべそをかきながら上目遣いに美園を見る。

「そういうのじゃなくなったって、何がだよ。僕は三橋で、そっちは安生で、僕らはコンビじゃん」

「ああ、ええ……?」

 湿った声色と弱音が、堰を切ったように漏れ出てくる。黙って聞いた。頷きつつ、時に首をかしげて、とにかく聞いた。

「みんなそうだよ。先輩はもう奢ってくれないし、おみそは辞めちゃうし、泰昭さんはいなくなっちゃうし、安生は僕の話なんかろくに聞いてなくて。ファミレスには入れないし、カメラが気になって街も歩けないし、スーツは息苦しいし、なのに仕事はたくさん来るし。みんな変わってくのに、僕だけが変わってない。みんないなくなっちゃうのに、僕はずっと、何やってんだろ」

「……悲観しすぎだろ」

 と、平静を装ってはみるものの、その実、美園が抱えている不安とそれは一緒だった。華々しい優勝の先、焦がれていたムーンリバーを渡った先、そこに待ち受けていたのは劇的なエンディングテーマでもスタッフロールでもなく、ただただ、〝続き〟だった。

 一八〇度全てが反転する。そういう未来を、無意識で俺たちは思い描いていた。

 だけど違った。確かに、生活が変わってきた。周りの人間の態度とか、快適な移動とか、舐められない肩書だとか、そういうのは得られた。二人が気づいていなかったのは、それがエピローグなんかじゃなかったことと、変わっていく速度は極めて急速でかつ、緩やかであるということだった。

「……安生は僕のジーンズが汚れても怒らなかった。今は違う」

「それが、お前のジーンズじゃねえからだよ……」

「うん。怒られてもしょうがない。そうなった」

 エレベーターの扉が開いて、大柄な男と肩がぶつかる。その隣にいた女が、ちょっと、と不満げな声を上げる。すみません、と頭を下げて、溜息を合図に解放される。男の背広は高級感溢れる色調だった。

「……ずっと売れねえよりいいじゃん。俺ら、頑張ったじゃん」

「うん」

「馬鹿にはされなくなったじゃん。馬鹿にされても、昇華できるじゃん」

「うん」

「脚本、三橋の脚本はさ、凄えじゃん、その才能は見つかってよかったじゃん。俺も……。なんかむず痒いけど、俳優って呼ばれんのも悪くないかなって……。好きだしさ、ああいう仕事も」

「うん」

「だからまあ、悪いことばっかじゃねえし。それはそれで。でも、別に……」

「うん」

「そういうの、だけ、じゃなくなったけど……」

「うん」

「そういうの、も、やってけばいい、んじゃない。そういうの、以外も出来て」

 早雨の瞳が、遠くを見遣る。雑居ビルの外をぼんやり見つめて、ああ、と生返事が聞こえた。その横顔を見ながら、美園は自分の耳朶を摘まむ。

 わかっていた。現実的じゃないこと。今の自分たちには時間も、自由も、権利も、立場もない。手に入れたのだろうか。失ったのだろうか。大理石の床に二人分の影が浮かび上がる。今は信じるしかない。美園は何気なく、早雨の視線を追った。


 瞬間、光が襲う。


「え」

 ビルの外、生垣の後ろに人影が揺らめいた。ガラスを一枚隔てて、そいつは二人を光で包んだ。というか、あれは、あれだ、記者だ。パパラッチ。え、日本人でもパパラッチって呼ぶの?

「撮られた」

 早雨はそう呟いて、呟いたまま、ぽかんと口を空けていた。

「撮られた……?」

 若い男女がエレベーターから降りてきて、目が合う。そういえばさっきも、妙に高い靴履いた女とか、妙に金持ちそうな男女とか、そんなんばっかり出てきたな。え、あれ芸能人の? 若い女は彼氏らしき男にそうぼそぼそ耳打ちしている。そういえば床も、雑居ビルのフロントにしてはリッチすぎる大理石仕様だ。ていうか、なんか、入ってくるときも、生垣が異様に高かった。今まで影が映らなかったのは暗かったから、で、今しがた二人の間に影ができたのは、カメラのフラッシュだ。早雨は別にぼんやりと生返事をしたのではなく、美園より一秒早く気づいていたのだ。

 ここラブホじゃん。

 スタッフルームらしい仕切りからフロントマンが出てきて、おお、とどうでもよさそうに感嘆の声を上げた。おい、サボってんじゃねえ。何が、おお、だよ。

「お二人でご利用です? ご予約は」

 きっちりと前髪を固めているフロントマンは、眉一つ動かさずプランの書かれたラミネートシートを指し示す。冷静すぎて、いっそ奇妙なぐらいだ。そこそこ顔も知れたお笑い芸人――タレントが、コンビで揃ってラブホのフロントにいるのに。片方は乱れたスーツに、目元を赤くして、息を荒げている。

 あ、終わった。

「……してません! 使いません! ごめんなさい!」

 美園が叫ぶと、早雨は既に立ち上がり走り出していた。あの野郎、逃げ足だけは早い!

「クソがあっ」

「なんで二人揃って気づけなかったんだろう、あんなにピンク色の間接照明の中で、なんであんなに喧嘩できたんだろうっ」

「うるせえ! これ、お前、明日は緊急会議だよっ」

「わかってるよおっ」

 息を切らして、あてもなく、どこを目指すでもなく全速力で並走する。繁華街を抜けて、路地裏、住宅街、商店街。元はそっちが、そもそもお前が、と指を差し合い、いつの間にかげらげら腹を抱えて笑いながら、どこまでも走った。

 そうしてすっかり崩れた早雨の前髪は、随分見慣れた姿のようだった。



  *



 週刊誌の記事は、思いの外鳴かず飛ばずだったらしい。本人たちの必死の否定もあってか、なんとか笑い話に収めることができた。ネット上では、このエピソードが〝伝説〟として崇められ、フリー百科事典に即時記載されたが、トークの持ちネタが増えた、事務所的には結果オーライだとお褒めの言葉まで預かった。

「でもイメージ的にってことで、CMは立ち消えになったので。時間、できましたね」

 マネージャーがホワイトボードを手の甲で叩く。そこには〝単独〟の文字がある。



【Over the moon】

 ……〔英〕非常に嬉しい。大喜びしている。(直訳:月を越える。それほどの幸せ、という比喩表現・スラング)



    終


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