陰陽のファンタジア:魂の輪郭が見える少年って俺のこと?
霧が出ていた。
それだけなら、もう珍しくもない。
この世界では、人が魔物になる霧は災害扱いだ。
台風や地震と同じで、注意喚起が流れて、被害が出て、それで終わる。
――少なくとも、俺はそう思っていた。
「やば……今日、体育だっけ」
校門をくぐりながら、スマホで時間を確認する。遅刻ギリギリ。
寝不足で頭が重い。身体もだるい。
成績は中の下。運動は苦手。
クラスでは目立たないし、誰かに期待されるような人間でもない。
強いて言えば、目つきが悪いことくらいだ。
無表情だと睨んでいるように見えるらしく、初対面の相手からはよく警戒される。
でも、それだけで、ごくごく普通の高校生だ。
「おはよー、タケル」
「おはよ……霧、すごくない?」
「な。洗濯物乾かねーだろ、これ」
何気なくする、他愛のない会話。
その話題はニュースでよく見る“濃霧災害”の話も、この時はまだ他人事だった。
校舎の廊下は湿っていて、窓ガラスが白く曇っているが、最近では日常になってきている。
教室に入ると、いつもの光景があった。
机に突っ伏すやつ。
スマホを隠れていじるやつ。
テストの点数で一喜一憂しているやつ。
俺は席に座って、鞄を足元に置き――今日も、何事もなく終わればいい。
本音は、それだけだった。
「はいはい、静かにしろー」
チャイムとほぼ同時に、体育教師の岩城先生が入ってくる。
身長は高く、肩幅が広く、年中ジャージ姿。筋肉の塊みたいな人だ。
正直、話しかけられたくないタイプの大人。
「一時間目は体育。外、ちょっと霧出てるけど――」
その言葉を聞いた瞬間、嫌な感覚がした。
霧が、低すぎる。
校庭に広がる白い靄は、空気に漂うというより、地面を這っているように見えた。
理由は分からないが、ただ、胸の奥がざわつき、心臓がうるさくなる。
「あっ……来る」
俺は、小さく呟いた。
次の瞬間、放送がノイズ混じりに途切れた。
『――こちら……生徒は……』
続いて、体育館側から、何かが倒れる音。
ドン、と鈍い衝撃。
床が、わずかに揺れた。
「なんだ今の――」
岩城先生が文句を言いかけて、言葉を失う。
喉を押さえ、よろめき、黒板に身体をぶつけた。
「……先生?」
誰かが声をかけるも、返事が返ってこない。
代わりに、先生の輪郭が――歪んだ。
その瞬間、分かってしまった。
ああ、これ。まだ人だけど、このままだと間に合わないんだな。
霧が、壁をすり抜けて教室に流れ込んでくる。
窓は閉まっているのに、足元から白い靄が広がっていく。
ざわつく教室。悲鳴。椅子が倒れる音。
なのに、俺の視界だけが不思議と澄んでいた。
岩城先生の中で、何かが壊れかけているのが、はっきり見える。
「……みんな、下がって」
声が、思ったより落ち着いていた。
理由は説明できない。
言っても、信じられない。
先生の首筋に、黒い血管みたいなものが浮かび上がる。
筋肉が盛り上がり、ジャージの縫い目が軋んだ。
「せ、先生……?」
誰かが呟いた、次の瞬間。
背中が裂け、黒光りする外殻が現れた。
甲虫みたいな装甲が、肩から腕へと広がっていく。
顎が割れ、歯が鋭く尖る。
眼球が、獣みたいに横に裂けた――クマのような大柄な体躯に甲虫の鎧。
「……魔物」
誰かが、震えた声で言った。
魔物と化したそれが、床を踏み抜く。
机が跳ね、生徒たちが吹き飛ぶ。
「逃げろ!」
俺は叫び、出口へ走った。
霧の中でも、魔物の動きが妙に分かる。
遅い。重い。まだ理性が残っている。
床に落ちていた消火器を掴み、脚元へ投げつけた。
ぶつかった衝撃で甲高い金属音がする。運が良いのか魔物が一瞬、体勢を崩す。
「今だ! 階段へ!」
生徒たちが我に返り、走り出す。しかし、全員、ではなかった。
倒れた女子生徒が、霧の中で動けずにいた。
魔物が、低く唸る。
標的を見つけた音だった。
「チッ! おい!大丈夫かっ!? 」
魔物と彼女の間に割って入るも、その存在感に竦む。
圧倒的な質量。
それでも、何となくだが、確信があった。
まだだ。
まだ、人だ。
「……岩城先生!」
呼びかけに、反応はない。
それでも、魔物の動きが、ほんの一瞬止まった。
その隙に、女子生徒を抱え、後方へ投げる。
「走れ!」
次の瞬間、拳が振り下ろされた。
◆
振り下ろされた拳が、視界を埋めた。
――でかい。
反射的に身体を反らす。
拳は俺の鼻先を掠め、床に叩きつけられた。
爆音が窓を震わし、コンクリートが砕け、破片が跳ねる。
呼吸が、一瞬遅れた。
死んでいてもおかしくなかった。
でも、俺はまだ立っている。
霧の中で、時間だけが引き延ばされたみたいだった。
魔物――岩城先生だったそれは、再び腕を引き上げる。
だがその動きは鈍い。あの魔物には迷いがあるように見え、俺には、それが分かる。
身体の奥で、魔素が渦を巻いている。
でも、その中心に、まだ“形”が残っている。
歪だけど、確かに――人だった輪郭。
だから、逃げなかった。これは戦いじゃない。
勝つ必要はない。
時間を稼ぐだけでいい。
完全に失われる前に。
『――こちら、陰陽師対策局。対象を確認』
スピーカー越しの声が響いた。
廊下の奥で、空気が切り替わる。
張りつめたような感覚。
『魔物化進行率、推定五割。拘束、浄化を試みる』
視界の端で、光が走った。
結界符。
床と壁に、淡い線が浮かび上がる。
魔物が一歩踏み出し、見えない壁に弾き返された。
「グ……ォオオッ!」
苛立った咆哮。
爪が空間を引き裂くが、びくともしない。
――間に合った。
そう思った瞬間、力が抜けそうになる。だが、まだ終わっていない。
魔物の動きは荒く、抵抗していた。
浄化が、始まる。
廊下の向こうから、黒と白を基調とした装束の集団が突入してくる。
そのまま、無駄のない動きで展開していく五人。多分、ニュースで見たことがある、霧対応の専門部隊。
その先頭に立つ女性は、短く切りそろえた黒髪。
視線は冷静で、魔物を“人だったもの”として見ていない。
「進行率、五二%……まだ間に合う」
即断。
「第一班、霧遮断。第二班、拘束維持。第三班――」
一人の青年が前に出る。
手には数珠状の霊具。
「浄化、入ります」
空気が震えた。魔物が暴れる。
甲殻の隙間から、黒い靄が噴き出す。
「抵抗が強い!」
「進行率、上昇……五五、五八……!」
女性陰陽師が舌打ちする。
「出力を上げる。限界まで」
「それ以上は……!」
「死なせる気? まだ人よ」
その言葉に、胸が締めつけられた。――まだ、人だ。
俺は、無意識に一歩前に出ていた。
「……待ってください」
全員の視線が、俺に集まる。
心臓が、嫌な音を立てた。
「この人……まだ、戻れます」
根拠はある。説明はできない。霧の中で、俺には見えている。
身体の奥で、黒いものが渦を巻いているのが分かる。
でも、それが何なのかは俺は知らない。
でも、その奥にまだ崩れていない“芯”。
女性陰陽師が、俺を一瞬だけ見た。
「根拠は?」
「……感覚です」
「……」
普通なら、即却下される答え。
「第三班、出力固定。限界線で維持」
彼女は、判断した。
「三十秒。稼ぐ」
数珠の光が安定する。
魔物の動きが、徐々に鈍くなる。
呻き声が、咆哮から――人の声に近づいていく。
甲殻が軋み、外殻が砕ける。
床に倒れ込んだのは、血と汗にまみれた岩城先生だった。
「……う……ぅ」
生きているが、完全ではない。呼吸は浅くて、腕は痙攣していた。
「浄化、成功……部分的に」
青年陰陽師が息を吐く。
「命は助かりました。でも……」
「ええ」
女性は静かに頷いた。
「社会復帰は難しい。教師としては、終わりね」
胸に、重たいものが落ちたけど、助かった。
でも、岩城先生の人生が失われた。それが、この世界の“正解”。
女性陰陽師が、改めて俺を見た。
「あなた、名前は?」
「楢野……タケルです」
「霧の中で、動けていたわね」
空気が、少しだけ張りつめる。
「詳しい話を、後で聞かせてもらう」
それは、勧誘でも脅しでもない――俺は逃げられないという通知だった。
霧は、ゆっくりと校舎から引いていく。
俺の日常は、もう戻らない。救急車のサイレンが、外で鳴り響いていた。
割れた窓。砕けた床。
担架に乗せられ、運ばれていく岩城先生。もう、あの厳つい体育教師の面影はない。
「……先生」
誰かが呟いた。返事はない。
陰陽師たちは、後処理に入っていた。
「本件は“ガス事故による集団パニック”として処理します」
淡々とした声。
「個人での発信は禁止。SNSも同様です」
正しい対応。でも、納得できるわけじゃないのかざわつく生徒達を眺めながら俺は壁にもたれ、深く息を吐いた。
霧は完全に消えている。
――もう、見えない。さっきまで確かに見えていた流れも、歪んだ時間も、嘘みたいに消えていた。
「……ねえ」
同じクラスの女子が、震える手で俺の袖を掴んでくる。
「さっき……動けてたよね。霧の中で」
答えられなかった。
代わりに、背後から声がした。
「当然よ」
さっきの女性陰陽師だ。
「彼は、無関係者じゃない」
ざわめきが広がる。
「あなたは……一体? 」
彼女は俺の前に立った。
「葛城ミサキ。陰陽師対策局、現場指揮官よ」
札を一枚、取り出す。名刺の代わりなのだろうか?
真っ白な御札に朱文字で彼女の名前が書かれていた。
「楢野タケル。あなたは――判断を誤らなかった」
褒め言葉というより、どちらかと言えば諭すような声音。
「間違えれば、人が死ぬ。正しくても、救えないことがある」
一拍置いて、続けるミサキ。
「それでも、踏み込んだ」
拳を、握りしめた。
「……俺は、何もできてません」
「いいえ」
即答だった。
「あなたがいたから、間に合った」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「あなたの力は、普通の学校で持ち続けるには危険よ」
忠告であり、宣告。
「近いうちに、正式な話がいくわ。あなたと……妹さんにも」
「……妹?」
「ええ」
ミサキは、すべてを知っている顔だった。
「彼女も、霧に適応しかけている」
鈴の音みたいな笑い声が、頭に浮かぶ。
――楢野スズカ。俺とは血の繋がらない妹。
どこか、人と違う少女。
霧が消えたはずなのに、世界がまた歪んだ気がした。
「……それは、どういう意味ですか」
ミサキは答えなかった。
遠く、山の稜線を見る。まだ、霧が残っている。
「意味は、これから知ることになる」
背を向け、「ようこそ、楢野タケル」振り返らずに告げた。
「――選ばれる側の世界へ」
チャイムが鳴った。いつもと同じ音。
なのに、始まりのような、日常の終わりを告げる合図だ。
そして――多分、霧は、まだ終わっていなのだ。
とりあえず、投稿してみました。
面白ければ、ブクマ等お願いします。




