それぞれの在り方
海は目を覚ますと覚醒しきらないまま身体を持ち上げて気怠そうにベッドの淵へ座る。あの時は必死で気付かなかったが戻って横になると力を使い過ぎたせいでかなり消耗しているのが分かった。体中に軋むような痛みが走る。それでもサイファや明希に比べれば力を使っていた訳で無く己の未熟さを痛感した。
〈ったく、情けねぇ‥〉
心の中で呟くと項垂れる。二人きりになって始めは意気込んで辺りを警戒していた海だったが彼女が目覚めて少し緊張が緩んだ。喉の渇きを訴えたフェリシアの為に水を貰いに行った少しの間に彼女はいなくなり慌てて明希に連絡を入れ、言われた通りGPSで位置を確認してすぐに後を追った。どうか取り越し苦労であってくれと頭に浮かぶ嫌な予感を打ち消しながら古城に辿り着いた時、嫌な予感は的中する。まるで異形の物を彷彿とさせる姿となったフェリシア、海にはその姿が自分達を不幸へ突き落す悪魔の姿に見えた。明希の気持ちを知っている以上どうする事も出来ずただ応戦するしか出来ない自分、もし己がもう少し力を上手く使えたなら‥帰ってからそればかりが悔やまれた。
海は腿を両手でパンと弾くと気合を入れるように「ヨシ!」と言ってバスルームへ向かう。気持ちを切り替えなければいけない。役に立たなかった自分が一番落ち込む訳にはいかないのだ。熱いシャワーを浴びて服を着ると調整室に向かった。
「あれ?織彩達は?」
調整室に入ると難しい顔で端末を叩いている職員に声をかける。
「ああ、あんまり痕詰めてやってるんで寝かせた‥お前ももう暫く大人しく寝てろ
こいつに比べて軽傷だがあちこちガタガタだぞ」
海に言うがそれに答えず明希を眺める。もう出血は止まってはいるが傷痕はまだ生々しい。
「一応、壊死してる部分は取り除いた
後は細胞活性させれば良いんだがそれが結構難問でな‥相手のサンプルでもあればすぐに攻略出来るんだが‥」
「たぶん、ヴァンパイアの血を使ったんだ‥」
端末を叩きながら職員が続けると海は言って何かに気付いたように調整室を飛び出した。職員はそれを一瞬、キョトンとした顔で見たが溜息を吐くとまた慌ただしく端末を叩き始めた。
海が向かったのは東条の所だ。いつもの庵でなく居住している区画へ足を運ぶとノックしようとした時、ドアは開いた。
「お待ちしてました‥どうぞ‥」
呆気に取られていると東條はにこやかにそう言って海を中へ誘う。海は少し緊張した面持ちでその後に続いた。中は自分達のいる部屋とはまた違う古い旅館のような内装だった。
「何が知りたいですか?」
座卓の前に向かい合って座ると東條が聞く。
「あいつの‥明希の妹の所在が知りたい‥」
海は率直に答えた。もし予想通りなら明希の妹の血があれば少しでも助けになると考えたのだ。
「残念ながら私にそれを追う事は出来ません‥でも心配しなくても大丈夫、彼は直に良くなります
貴方はまず人の心配より己の身体を治す事を考えるべきです
今、大切なのは次の戦いに万全で臨めるよう備える事ですよ」
やんわりとした口調ではあるが窘める東條を海はグッと口を閉ざして見つめる。
「貴方が抱えている罪悪感も無力感も全てがこれから貴方の力になります
今はそれらを克服し、乗り越える事が一番必要かもしれませんね
今一度、己の役割というものを客観的に見直していく事が大切ですよ」
続けるとそっと何かを海に差し出した。そこにあるのは白い封筒。海は徐にそれを受取ると東條をチラッと見てから中身を確認する。中には一枚の便箋があり住所と名前が記載されていた。
「そこに湯治場があります‥その方は私の知人で術による負傷の治療をしてくれますので一度訪ねてみると良いですよ
貴方達のような特異な性質を持つ者の治療も行ってくれるでしょう
私の紹介だと言えばすぐに治療を始めてくれる筈です」
東條がにっこり微笑んで言うと海は深々と頭を下げてからそれを片手に部屋を出る。東條の言う事も分かるがのんびり養生する気にはなれず、考え事をしながら歩いているとばったりミシェルとマリーに会った。
「話はだいたいサイファから聞いたけど詳しく聞かせてくれ?」
マリーが聞くと海は有りのままを話した。
「ったく、また一人で抱え込みやがって‥」
マリーは苦虫を噛み潰したような顔でそう言うと爪を噛む。
「明希を‥責めないでやって欲しいんだ‥」
「んなこた、てめぇに言われなくても分かってる!
それよりウロウロしてる暇があったら早く身体治せってんだ!」
俯き気味に言うとマリーは言い放ち調整室へ向かう。
「あれでもかなり心配してるんだ
解ってやってくれ‥」
ミシェルがフォローするようにマリーの背中を見ながら言った。
「うん、解ってる‥それよりちょっと相談に乗って貰っても良いかな?」
海は相談してみようと思い切って言ってみる。ミシェルはそんな海に付きあってラウンジに行くと一通り話を聞いた。
「東條の意見は適格だ
今は言われたように養生する方が良いだろう
焦る気持ちは分かるがそれなら尚更、自分の気持ちの整理を優先させるべきだな
冷静になれば何が自分に必要なのか見えてくるしどの道、織彩と紫苑の手が開かない内は調整槽も使えん‥自身で体調を管理するしかないからな
まだ考える余裕がある内にこの際、一度全てをリセットしてくると良い」
そう言って肩をポンと叩くとラウンジを出て行く。海はミシェルの後姿を眺めながらようやく納得して紹介してくれた湯治場へ行く決心がついた。身支度を整える為に部屋に戻ろうとすると前から樹莉が駆けてくる
「よぉ、まだフルサイズに戻れないのか?」
「そうなの‥だからご飯いっぱい食べてまた大きくなれるように頑張るの」
無理くり笑顔を作り海が聞くと樹莉は照れ臭そうにニコニコしながら返す。樹莉でさえこうして頑張っているのだから自分が落ち込んでいる訳にはいかない。
「あ!久しぶりに海と一緒にご飯食べたいの
織彩が誰かと一緒に食べると美味しくて食べ過ぎちゃうって言ってたの
海と食べると楽しいから何時もよりきっと沢山食べれるの」
樹莉が思い立って言うと海は帰ってきてから殆ど何も食べていない事に気付き樹莉と食事をする事にした。二人は一時、出会った頃のようにくだらない話をしながら食事をする。食べ終えた樹莉は満足そうにテーブルの上に大の字になった。そうかと思うと気持ち良さそうに寝息を立て始め、海はその様子に少し吹き出すと樹莉を抱えて織彩の部屋へ行く。今、樹莉が生活しているのは織彩の部屋である。ノックをするとすぐに返事が返ってきた。海は樹莉を引き渡すとすぐに自分の部屋に戻る。思いの外、食べ過ぎたせいか樹莉の睡魔が移ったのか海はベットに横になるとウトウトと転寝をし始めた。
「海!海!起きるのっ!」
気付けば樹莉が枕元で海の事を小さな身体で揺すって起こしている。海は何だか久しぶりによく眠れて気怠さを感じながらノソっと起き樹莉を見た。大きなリュックに水筒、まるでどこかに行くような出で立ちの樹莉に海は不可解そうな表情を浮かべる。
「何だ?どっか出かけるのか?」
目を擦りながら聞くと樹莉は嬉しそうに微笑む。
「海、温泉に行くって聞いたの
樹莉くんも一緒に行くの!
皆が一緒に行ったら良いって言ったの」
ワクワクしながら返す樹莉から時計に視線を移すともう翌日の早朝。用意が済めばすぐにでも出ようと思っていたのに気付けば転寝どころかぐっすり眠っていたようだ。
「ん‥ああ、ちょっと待ってくれ
今、用意するよ」
慌てて起きると用意を始め、樹莉はそれを鼻歌交じりに見ながら至極楽しそうだった。簡単に着替えと身の回りの物だけリュックに詰めると樹莉を肩に乗せて部屋を出る。
「もう雪も無いしこっちでも良いか‥」
そのまま格納庫へ直行するとバイクを見て呟き脇にあるラックからヘルメットを取りバイクに跨るとヘルメットを被った。
「飛ばされるといけねぇからここ入ってろ‥」
少しジャンパーの胸の所を開けて言う。
「そこに入ったら景色見えないの
樹莉君あそこが良いの」
樹莉はバイクのメーター類が並ぶ所を指した。
「そっか、ならちょっと待てよ‥」
海はもう一度バイクを降りるとリュックを開けて何かごそごそ探すと小さなビニール窓の着いたポーチを取り出してその中身を全部リュックの中にぶちまけるとインカムだけ残しそれを取れないようにしっかり括り付けた。
「ほら、これなら外見えるから良いだろ?
リュックは下ろしとけな‥」
海が言うと樹莉は頷きそのポーチの中に入るとポーチのファスナーを閉める。
「会話は中に携帯通信装置があるからそれで通話出来るからな‥」
ポケットからスマホを取り出しインカムとの通信をオンにしイヤホンを着ける。
『こうすればいいの?』
いきなりイヤホンから声が聞こえると海は苦笑しながら「そうそう」と返す。確認が終わると海は再びバイクに跨り軽快に走り出し、まだ朝焼けが綺麗な空を眺めながら湯治場へ向けて出発した。
幾つか山を越え途中の道の駅で休憩を取り、海と樹莉はようやく指定された住所の近くまで来た。しかしこの先どう見てもバイクが走れるような道路は無く、あるのは目的地へ続くであろう山道だけ‥。海は仕方なくバイクを降りると邪魔にならない所へ停めて歩き出した。山道を登り始めること1時間、ようやく木々の合間に建物の影がちらほら見え始めてきた。そしてその前まで来ると海は思い切り息を吐いて呼吸を整える。
「ったく、こんだけ歩かなきゃ辿り着けないってどういう湯治場だよ‥」
まだ息が上がった状態でぼやくと樹莉は海の肩で同じように疲れたと言わんばかりに溜息を吐く。樹莉はずっと海の肩に乗っていただけなのだが‥。
「湯治場と言っても普通の人は来ないからだよ」
後ろからそう言われるとギョッとして海は振り返る。そこにはまだ17かそこらのボーイッシュな女の子が手に籠を持って立っていた。籠の中には山菜のような物が見える。
「あの‥えっと‥ここに南部総一郎さんっているのかな?
東條さんに紹介されてきたんだけど‥」
少しバツが悪そうに返す。樹莉はいつのまに隠れたのか海のジャケットの中でジッと息を潜めていた。
「南部総一郎は俺だけど‥あんたお師さんの新しいお弟子さん?」
別に驚く風も無く淡々と答えた総一郎に海は驚いて言葉を失くす。余りに華奢で可愛らしい顔立ちをしているのでてっきり少女だと思った。どう見ても熟練の療法士には見えない。
「あー‥えっと、弟子って言うか何て言うか‥とりあえずメモ渡されてそこで治療して来いって言われたんだけど‥」
「良いよ、こんな子供が療法士なんて信じられないんだろ?
とにかく中に入んなよ‥話はそれから聞くからさ」
海が言葉に困っていると総一郎は少し小バカにしたような笑みを作って答え中へ入るよう促す。何だか東條同様に心中を見透かされたようで恥ずかしそうに海はそれに続いた。
旅館のように広い母屋を抜け離れのような所まで連れてこられたが道中、誰とも擦れ違う事は無く、本当に此処は湯治場なのかと思うほどシンと静まり返っていた。中に入ると東條のいる庵を思わせるような内装の空間が広がっていてあちこちから木の皮や草花が吊るされている。
「もう出てきても構わないよ
居るんだろ?其処に‥」
総一郎は籠を置くと座卓の前に座布団を差し出し海のジャケットの中にいる樹莉に話しかけた。腰を下ろす海のジャケットから樹莉はおずおずと顔を半分だけ出して警戒しながら総一郎を見る。微笑むと座卓の上に布製のコースターを置いて此処に座れと言わんばかりに総一郎は樹莉を見ながら指差した。樹莉がどうしようか迷いながら海を見ると海は微笑んでから樹莉をコースターの所へ置いてやる。緊張で硬くなりながら樹莉はそこへ座った。
「まぁ、お師さんの紹介だから普通の人じゃ無いのは分かるよ‥だからあれこれ詮索する気も無いし治療はするけど守って欲しい事がある
それが守れないならいくら紹介でも追い出すからそのつもりでいてよ」
総一郎は自分も腰を下ろすと海と樹莉にそう告げ二人はそれを聞くと頷いた。
「まずは注意事項の前に言っとくけどここには妖怪や幽霊やそれに関わる人が大勢いる
だから君達が誰に見られようと驚かれる事は無いし驚かないでいて欲しいんだ
皆、普通の人には分からない世界で生きてるから繕わなくて良いよ
一般の人は此処には入って来られないしね‥
それと基本は自分達で何でもして貰うけど食事はこちらで用意する
で、守って欲しい事なんだけどここでの争い事は勿論だけど夜中に山の上の社に行くのは禁止!
そこの神様は気難しくて夜中に宴をするんだけど気に入った人しか呼ばないからそれ以外の人が行くと機嫌を損ねて湯を枯らすんだ
皆にとって大切な湯だからそれだけは守ってくれよ?」
総一郎はそこまで言うと手書きの館内図と付近の案内図をコピーした物を手渡す。
「これ、この付近の地図と母屋の案内図
明日の昼までは俺、手が空かないから適当に温泉でも入っててくれよ
赤で囲ってる所がこの湯治場の敷地でそこから出ると一般人に見つかる可能性あるから気を付けて‥
これが部屋の鍵、部屋はさっき通ってきた母屋の椿の部屋」
続けるとまるで古い風呂屋の下駄箱のような鍵を手渡し海はそれを受取る。
「あの‥」
「詮索はしないと言っただろ?
忙しいからもう部屋に行ってくれないかな」
何かを言いかけたが総一郎はその言葉を遮り徐に立ち上がると籠を持って立ち去る。残された海と樹莉は顔を見合せてから仕方なく指定された部屋に行く事にし、離れを出て母屋に続く廊下で二人は思わず固まった。さっきは誰もいなかったのにまるで繁盛している温泉地のように色んなモノが犇き合っている。海と樹莉は戸惑いつつも指定された部屋を探しながらグルリと屋敷の中を歩き回り、ようやく自分達の部屋を見つけ出すと鍵を開けて部屋に入った。
そこは普通のこじんまりした旅館の部屋のようで綺麗に清掃され清潔感があった。外観はかなり古びていたので内装が老舗旅館のような雰囲気に少し驚く。何より驚いたのは樹莉用の座卓や座椅子まで用意されていてまるで来る事が分かっていたように見受けられた。ともあれ二人はようやく一息ついて座椅子に腰を下ろした。するとノックと共に外側のドアが開き内の襖向こうに何かの気配がする。
「お茶はいかがですか?」
何者かが襖の向こうから声をかけてくる。
「あ、お願いします‥」
リラックスしていた海は慌てて体を起こすとその声の主に返す。
「失礼します!」
すると襖が開きそう言って足の付いた大きな茶瓶と同じく足の付いた盆が湯呑を乗せて入ってきた。その光景に思わず固まる海と樹莉、茶瓶と盆は楚々と二人の前に交互に湯呑を置き、茶を入れる。
「粗茶ですが‥」
言いながら飲むように進め、海と樹莉は戸惑いつつそれに口を付ける。
「美味い‥」
「美味しいの‥」
思わず口々に言う。
「そうでしょう、そうでしょう‥この山で採れた茶葉を職人さん達が丹精込めて作ったお茶ですから‥」
うんうんと頷きながら茶瓶はうんちくを語り始める。時折、海は感心したように相槌を打つが樹莉はポカンとしていた。一通り語ると満足したのか飲み終って空になった湯呑を片付けて立ち去って行く。海と樹莉はその姿を見届けると思わず溜息を吐いて脱力した。
「温泉でも行くか‥」
「うんなの‥」
脱力したまま言うと二人はのっそり用意を始める。簡単な浴衣などは部屋に備え付けてあり旅館並みの装備はあったので二人は浴衣に着替えるとタオル片手に部屋を出る。相変わらず人やそうでないモノがあちこち行き交っていた。時折、余りに物珍しくて目で追う事もあるが出来るだけ言われたように気にしないよう心掛ける。広間の方まで来ると浴場の場所はとキョロキョロ見渡す。
「ここは初めてで?」
法被を着た皺くちゃの老人が声をかけてきた。
「え?ああ、そうなんっすよ
お風呂どこか分かります?」
普通に聞いてみたが何か人間と違った違和感がある。
「それならご案内しますよ」
老人は言って海達を先導するように歩き出す。
「もしかして此処で働いてらっしゃる方ですか?」
老人の後に続きながら海が聞くと老人はひゃっひゃっと笑う。
「まぁ、働いていると言えば働いておりますな‥でも雇われておる訳では無いですよ
ここで働いておるモノ達は皆ここが好きで来客の世話をしておるのです
あくまで個人的な想いで動いておりますでご不便も多いでしょうが大目に見てやって下さい」
そう説明すると足を止めて窓の外を指した。
「これから行くのは内湯ですがあすこに露天もございます故、お好きな方を楽しまれると良い‥あすこへ行く道は内湯の手前にありますでな‥」
竹垣で囲われた川沿いの建物を見ながら続けまたすぐに歩き出す。そして内湯の所まで来ると老人は「では‥」と微笑みスゥッと姿を消し、また海と樹莉は呆気に取られる。その時に初めて感じていた違和感が人の気配のそれと違う事に気付いた。感じた事の無い気配、明希達とも英梨香達とも違う。あのお茶を運んできた茶瓶と同じものを感じてようやくそれらが妖怪と呼ばれるモノの類だと理解した。勿論、容姿が歪なモノや明らかに気配の違うモノはすぐそれと解るが、まるで人間と変わらないモノに対して自分が余りにも無防備である事を悟ると海は皆が自分を過保護に扱う事に納得と申し訳なさを感じた。自分ではかなり感覚を磨いた方だったがまだまだ誰の足元にも及ばないのだと改めて実感する。
「せっかくだから露天に行くか‥」
ちょっと気落ちしながらも務めて明るく言うと樹莉は頷いた。元来た廊下を少し戻って露天へ続く渡り廊下へ入ると余り人気は無く脱衣籠にもちらほら衣服が脱いであるだけだった。此処にもやはり樹莉が使えるサイズの籠や籠棚が有り、他にも様々なサイズの籠棚があった。二人は浴衣を脱ぐと脱衣籠に入れてタオル片手に引き戸を開ける。開けてみてまた驚いたのは外観とは違ってかなり広く、まるで空間が歪んでいるような作りになっていた。少し呆気に取られながらも広い風呂に嬉しくなった二人は流し場で体を洗う。樹莉が海から少し離れた所で身体を洗っていると何かサルボボのような風体のモノが傍へやってきて樹莉が置いている浮き輪をじっと眺め始めた。それに気付くと樹莉は険しい顔でそちらを見ながら固まる。
「良いな‥それ‥」
樹莉と同じサイズの不可解なモノは浮き輪を指し話しかけてきた。
「あの‥作って貰ったの
それが無いと樹莉くん大きなお風呂に入れないの‥」
樹莉は少しビクビクしながら答える。
「ちょっと触って良いか?」
更に聞いてきたので樹莉はコクンと頷いた。不可解なモノはその浮き輪をまじまじと手に取って眺める。
「使ってみるの?」
その様子が初めて浮き輪を貰った時の自分と似ていたので思わず言ってみた。
「良いのかっ!?」
サルボボのようなソレは興奮気味に樹莉に詰め寄る。
「樹莉くんもう身体洗い終わったの‥一緒に使ってみるの」
嬉しそうなその様子に何だか樹莉自身も嬉しくなったのだった。
一方、海の方はと言うと身体を流し終ると深く溜息を吐く。何だかいろんな事がありすぎて少し疲れた感じがしたのだろう、重そうに身体を持ち上げてようやく樹莉の姿を探し始めた。さっきまで居た場所にいないので視線を走らせると小さな湯船の方で何かと楽しそうに浮き輪で遊んでいる。それを見てホッとすると自分も大きな湯船の方へ行き身を沈めた。辺りには湯気で分かり難いがちらほら人影があり、ぼんやり観察するでもなく辺りを見回し視線を空に向けた。日が傾きかけてきたのか少し薄暗くなり始めている。また海は深く溜息を吐くと少し冷えてきた風を感じてより深く湯船に浸かり目を閉じた。
そこへすぐ傍で誰かが湯船に入ってくる音が聞こえ薄く目を開けそちらを見ると50歳前後の男が気持ち良さそうに湯に身を沈める。
「はぁ‥生き返る!」
豪快に言うと海の視線に気付きこっちに寄ってきた。
「お、あんた珍しいな‥鬼子か?」
いきなり不躾に話しかけてくる男を少し鬱陶しそうな目で見た。
「あ‥ええ、まぁ、そんなトコです」
答えつつどうして自分が異質だと瞬時に気付いたのだろうかと海は一番そこに驚く。
「そうか、そうか‥いやぁ、生きてる間にお目にかかれるとは俺もついてるな」
男は言うと海の方をまじまじと眺めた。
「あの‥なんで俺が普通じゃないって解ったんです?」
ちょっと引きながら海が聞く。
「ああ、俺はこれでもちょっとした霊能者ってヤツでな‥呪術師や坊主にゃ及ばんがそれくらいは解るさ
しかし話には聞いていたが本当にいるとは驚いた
此処にはやっぱり大先生か若先生の治療を受ける為かい?」
まるで子供が玩具を見るような眼差しで海を見ながら返す。
「大先生と若先生?
東條さんと南部君の事っすか?」
海が聞くと男はキョトンとした顔をする。
「あんたもしかして何も知らないで来たのかい?
東條って人は知らんが大先生って言うのは桜川嘉子先生で若先生はその南部先生だよ
日本で心霊治療に関したら大先生の右に出る人はいないやな‥若先生はまだ修行中だが腕は超一流で俺も一度、世話んなった
ここは治療を受けにくるかこの治癒の湯に入りに来る奴かのどっちかだからな‥まぁ、大先生に関しちゃ余程でない限り診ちゃ貰えんが若先生なら待ってりゃ診て貰えるから皆、順番待ちしながら湯に浸かってんのさ
運が良けりゃ一週間以内に診て貰えるしな」
答えるとようやく海から視線を外した。
「そうなんっすか?
俺、紹介で来たからあんまりよく知らなくて‥あの人そんなに凄いんっすか?」
海はそれを聞いて俄然あの少年に興味が湧いて更に聞く。
「そりゃぁ、人の気を視る事にかけちゃ超一級だぜ
微妙な所も全部把握して治していくんだからな‥あんなに若いのに大したもんだ
流石、大先生が弟子にしただけの事はある」
もうベタ褒めすると男は豪快に笑う。それを聞くと海は少し安心したと同時に明日、診てくれると言ったが本当に診て貰えるのだろうかと心配になった。暫くあれやこれやと雑談していると樹莉がヒョコヒョコ駆けてくる。
「海!海!樹莉くんお腹減ったの!」
しこたま遊んだのか満足げに言いながら樹莉が空腹を訴えると海は樹莉の方を見た。
「ああ、じゃぁそろそろ上がるか‥」
「こりゃ魂消た‥こいつも鬼子か?
いや、鬼子にしちゃ龍神の気質が濃いな‥」
そう言うと男はまた驚いたように顔を寄せ樹莉はびっくりして湯船から上がった海の横に隠れた。
「こいつの事も分かるなんて凄いっすね」
海はそう微笑んで言い残すと樹莉を連れてその場を後にする。二人は風呂から上がるととりあえず水分補給に広間へ行き、海は冷水器の水を二人分入れて適当な場所に腰を下ろす。辺りには寝転がって休んでいるモノや談笑するモノいろんなモノがそれぞれのスタイルで寛いでいる。
「食事ってどっかに集まって取るのかな?
それとも頼んだりするのかな?」
ポツリと呟きながら辺りを見回すと来た時にお茶を入れてくれた茶瓶が入ってきて寛ぐモノ達にお茶を進めて回っていた。海はその茶瓶が自分の傍まで来た時に食事の事について聞いてみる。
「お食事は基本、お部屋です‥もうそろそろ用意されてると思いますよ」
茶瓶は答えるとまた慌ただしく行ってしまう。海はそれなら戻るかと樹莉を連れて部屋に戻った。
部屋に戻ると茶瓶の言ったように食事は用意されていてそれはとても美味しく二人は見る間に平らげる。食欲も満たされ満足すると樹莉は高嚊で寝てしまい海は寒くないようにタオルをかけてやろうとした。
「お膳の方お引きして、お布団の準備させて頂いてよろしいですか?」
するとノックと共に誰かが入ってきて襖の向こうからそう声をかけられる。返事をしながら内心今度は何が入ってくるのだろうかとワクワクしたが意外と普通の女性が入ってきて少しばかり期待外れだった。海は邪魔にならないように隅の方で樹莉を抱え座ってその様子を見ていた。女性は片付けた物を表のワゴンへ運んでいくと押入れから布団を出して敷き整え始めた。そして小さい布団の方の枕が無い事に気付くとその場を動かず手を動かしたまま首をにゅうっと伸ばして押入れを覗く。枕がある事を確認してから身体が頭を迎えに行き、海は思わず絶句したがすぐに表情を戻して支度を終え出て行く女性を見送る。
〈本当に期待を裏切らないよな‥〉
こっそり思いながら乾いた笑みを浮かべた。
何だかんだで布団に入るとすぐ寝てしまった海は翌日、眼が覚めてその爽快さに少し元気が出た。樹莉はもう先に目を覚ましていて着替えを済ませている。海も着替えを済ませると二人で朝の散歩に出る事にした。案内図を片手に屋敷の周りを散策する。
「海!あれ見て欲しいの!」
樹莉が興奮しながら指差すそこには綺麗な建物の断片が見え、案内図で確認すると昨日、注意を受けた社だった。
「もう朝だし大丈夫だよな‥ちょっと行ってみるか」
海は樹莉と一緒に山道を上り始めた。身体が軽いせいかあっという間に辿り着き、傍まで来るとその装飾の見事さと色遣いに溜息が出る。古いながらよく手入れされていてまるでお伽話に出てくる竜宮城のようだ。普通の神社と違って華やかなその様式に思わず見とれつつも固く閉ざされるその扉の内が気になった。総一郎の話ではここには神様が棲んでいる。今まで見てきた妖怪達のようにはっきりした容姿があるのだろうかと思ったのだ。
「あ、小鳥さんなの‥」
社の手摺りに舞い降りてきた小鳥を見て樹莉が傍に駆け寄ると海はそれを微笑んで眺めながら自分も社の周りを散策し始めた。辺りには別段これと言って特別な事は無く普通の神社と変わらない風景が広がっている。一通り見て回ると樹莉のいる方へ戻った。
すると樹莉は誰かと話しているらしく楽しげな会話が聞こえ、姿が見える所まで来て海は思わず立ち止まった。そこには美しい着物姿の女性が立っていて樹莉と話している。天女のような女性は海に気付いて会話を中断し、こちらを見た。
「海なの、樹莉くんの仲間なの」
「おやおや、お前さんの仲間って割には穢れたのが来たねぇ‥
まぁ良い、明るい間は煩くしなきゃ好きなようにこの辺りで遊んでて構わないよ‥勿論、お友達もね‥」
樹莉は海を指し説明すると女性は海を見ながら薄く笑ってスウっと消える。海はただ呆気に取られたままでいたがハッとして樹莉に歩み寄り思わず聞いてみた。
「今の‥誰?」
「此処の神様だって言ってたの‥樹莉くんが楽しそうに小鳥さんとお話してたから誰がいるのか気になって出てきたんだって‥」
海はそれを聞くと腑に落ちる。さっきの女性の気配は段違いに存在感と威圧感があり、まだ未熟な海でも理解出来るほどの格の差と言うものを感じたのだ。
「あ、そう言えば勝手にウロウロして怒られなかったか?」
「怒られなかったけど注意されたの‥今度からはちゃんと挨拶しなさいって言われたの
樹莉くん知らなかったからごめんなさいって言ったら解ったら良いよって言ってたの」
海が恐る恐る聞くと樹莉は相変わらず何も感じていないのかニコニコしながらそう答え、海は少し胸を撫で下ろした。そして帰る道すがら海は神社仏閣では初めに神仏に挨拶をするのだと教え、樹莉はそれを聞くと初詣の時の事を思い出した。
屋敷に戻って部屋に入るといつの間にか布団は片付けられ朝食が用意されていたので二人はそれを平らげるとゴロンと横になる。寛いでいると表の扉からノックの音が聞こえた。海はいつもと違いノックだけなのが気になって返事をしてから扉の方へ行ってみる。開けるとそこには誰もいない。
「‥樹莉はいるか?」
下の方から声をかけられ海が視線を落とすと足元に昨日、露天風呂で樹莉と遊んでいたモノが海を見上げていた。
「とんど丸!来てくれたの?」
部屋の方からその声を聴いて樹莉が駆けてくる。
「おう!朝風呂行かないか?」
「とんど丸とお風呂行ってきて良いの?」
とんど丸が言うと樹莉は海を見た。
「良いよ、どっち道、俺も治療に行かなきゃいけないかもだし‥部屋を離れる時はメモを残すようにするから好きに遊んでな
鍵は開けっ放しにしとくから‥」
優しく微笑んで言うと樹莉は嬉しそうに浮き輪を手にとんど丸と一緒に浴場の方へ向かう。海はそれを見届けると扉を閉め座敷に戻りまた横になった。いつの間にか転寝をしていたらしくノックの音で起こされる。
「先生がお呼びですのでご一緒に来て頂けますか?」
ムクリと起き上がり返事をするとか細い声で表から誘われ樹莉に置き手紙を書いて部屋を出た。表にいたのは少しオドオドした感じの女性だった。この女性も妖怪なのかなと思いつつ言われるまま海はその後に付いて行く。通されたのは来た時の離れではなく、渡り廊下で繋がった小さな小屋だった。
「先生、お連れしました‥」
そう言いながら扉を開けると海に中へ入るよう促し自分はそそくさと行ってしまう。
「どうぞ、そこに服を脱いで此処に横になって‥」
総一郎は入り口の傍にある籠を指さしてから自分の傍にある布団を指した。海は言われると扉を閉め、服を脱いで籠に入れ、そしてパンツも脱ごうとした。
「パンツは履いてて良いよ
俺もやり難いし‥」
言われて海はああそうと返しつつ少し赤面してパンツを上げた。最近はつい調整槽に入る時と同じように全裸になる癖が身についていたのだった。畳の上に敷かれた布団の上に仰向けに横になると海は何をされるのか少し緊張しつつ総一郎を見る。総一郎はまず海の足元へ行くと座り込んで両手で軽く爪先に触れ目を閉じた。すると何かが身体の中を突き抜ける感覚がして少し驚く。
「緊張しないでリラックスして‥やり難いから‥」
目を閉じたまま総一郎が静かに言うと海は一瞬、強張った身体の力を抜いた。総一郎は時折、軽く手を左右に振って爪先を揺らす。その内に触れられた爪先から少しづつ暖かくなっていくのが分かり、それが頭に達する頃には心地良さで眠気すら感じていた。
「とりあえず中に走る裂傷は繋ぎ合わせた
後はそれを定着させるから今度はうつ伏せになって‥」
総一郎が不意に手を離して言うと海は半分寝惚けたような顔で身体をゆっくり俯せる。背後の棚から何かを出した総一郎が気になって何となくそちらを見ると何か瓶のような物を持ってきて腰を下ろした。その手元の瓶を見て海は一気に目が覚める。瓶の中に気味の悪い何かが蠢いていた。
「な‥何それ‥」
海は引くような姿勢になって瓶の中身を見ながら聞く。
「屍礎虫と言って気と身体の連結を深める為に使う妖蟲の一種だよ
普通に取りつかれると有害だけど使い方次第ではとても効果的なんだ」
答えながら瓶の蓋を開けて巨大蛭のようなそれを取り出すと海の背中に近付けた。
「うわっ!ちょ‥ちょっと待って!!」
海はその容姿のグロテスクさから思わず身を引く。
「大丈夫、俺が扱うんだから害は無いよ」
呆気らかんとそれを手にしたまま総一郎は言ったが海はそういう問題では無いのだと内心思っていた。
「治す気があるなら早く横になってくれよ‥俺も遊んでる訳じゃないんだし‥」
少し苛っとした感じで続けられ海が渋々横になると総一郎は場所を選んでそれを海の背中や太ももに置いていく。それが触れる瞬間だけチクンと痛みを感じたがすぐに気持ちの悪い感触だけが残る。海はその気持ちの悪さを誤魔化すために何か話そうと口を開く。
「あの‥さ、東條さんと君は師弟関係なの?
此処の大先生っていうのが君の師匠じゃないの?」
疑問だった事をとりあえず聞いてみる。
「お師さんは俺を引き取ってくれた人だしいろんな事教えて貰ったから‥嘉子先生に俺を引き合わせてくれたのもお師さんなんだ
だから2人とも俺にとっては師匠だよ」
答えながら総一郎は粗方それを海の身体に置き終ると蓋を閉め傍の箱の上に置いてある香炉で何かを炊き始めた。香炉から何だか甘みを帯びた鼻に衝くような柑橘系の香りがしてくる。
「なんだか変な匂いだな‥」
思わず海が不快な顔をすると総一郎は更にその匂いの元を足した。
「これはそいつらを操る為の匂いなんだ
だから少し我慢して‥暫くかかるからその間、寝てても良いよ」
付け足すと相変わらず平気な顔で微笑む。寝てても良いと言われても背中の気色悪さとこの匂いでそんな気にはなれない。
「いったいこの治療ってどういう治療なのか教えて貰っても良いかな?
君的には俺ってどれくらい具合悪いの?」
気晴らしに話でもしないと持たないと思い海は再度、質問をする。
「今やってる治療は気の回復と定着だよ
人って現世にある肉体と霊界にある魂で構成されてるんだけどこの二つを糸のようなモノであちこち繋いで生きている状態を作り出してるんだ
気っていうのはその糸を構成する綿のようなモノなんだけどそれが千切れたりすると上手く糸を構成出来なくて力を発揮出来なかったり体調を崩してしまう
此処へ来た時の貴方の状態は気が散り散りに砕け散ってて普通ならICUだろうなって思ったよ
それに糸の位置が少しズレてるって言うか何か混ざってるのかな?
肉体は弄ってるみたいだけどこのままじゃ気を元に戻しても本当の力の半分も出せないだろうから正しい位置に修正してるんだ
修正が済んでから定着するように処置をするからそれが終わったら治療は終了‥その先は専門外だから後はお師さんにでも習ってよ
あ、帰る時は鍵を渡した部屋に置いといてくれたら良いから‥」
香炉を置いた箱から何か粉末を適当に摘み出し小皿に調合しながら説明をする。
「あの‥俺が来るって連絡あったの?」
「まさか、お師さんはよっぽどの事が無い限り連絡なんかしないよ
特に自分の元から直接巣立った弟子に対しては道を誤らない限り連絡どころか姿も見せてはくれないからね
あの人は弟子を信じてるから余計な事は言わないし結果がどうあれ文句も言わない
全部、任せてくれるからプレッシャーもあるけどそうやって自信も持たせてくれるんだ」
少し頬を染めて嬉しそうに言うその顔はまるで親に褒められる子供のようにも見えた。しかし会話しながら仕事する事に慣れているのか作業は流れるように行っている。あの露天で会った男が感動した訳が分かる気がした。
薬の調合を終えると総一郎は海の背中にいる屍礎虫を身体から引き剥がし大きなガラスの花瓶のような容器に入れていく。ただでさえ不気味で大きい蛭のような身体が倍以上に膨れ上がりパンパンになっているのを見てまた海はギョッとした。総一郎は調合した薬に少し水を混ぜて練ると屍礎虫を剥がした幹部に塗り、全て終わると今度は海の頭の方へ位置を移動し、頭のてっぺんに軽く手を当て目を閉じた。するとまるで頭から水を大量に被ったような衝撃と圧迫感があったが苦痛や痛みは無く寧ろ心地良い感じがした。またほんのり眠気を催し始めるとフッと手が離れる。
「俺の仕事は此処まで‥今は何も感じないかもしれないけど疲れてる筈なんで数日、休んでから帰って下さい」
背中に塗った薬剤をタオルで拭き取り総一郎が言うと海は身体を起こして少し感覚を確かめる。治療前と違いは感じないような気はしたがとりあえず礼を言って服を着ると部屋に戻った。
部屋に戻ると置手紙と昼食が用意してある。置手紙はどうやら樹莉のようでガタガタの字でとんど丸と探検に行ってくると書かれていた。何となく時間を確認するともう昼を回っていて海は昼食を取ると浴衣に着替えて浴場へ向かった。湯に浸かるとどんどん倦怠感が増し、もう少し湯を楽しみたかったが諦めて部屋に戻るとそのまま横になった。
「海!海!」
呼ばれて目を覚ますと辺りは赤く染まっていてどうやらグッと眠ってしまったようだった。身体を起こしまだ覚醒しきらない顔でそちらを見ると樹莉が満足気な顔で其処にいる。
「夕飯の準備しに来るの
そろそろ起きるの」
樹莉に言われて海は誰かが掛けてくれていた布団を片付け欠伸交じりに目を閉じたまま壁に凭れかかった。それを見届け樹莉は表に走って行くと暫くして法被を着たなまはげのようなモノと戻ってきた。なまはげは抱えていた皿を座卓に次々と並べ順に料理を盛り付けていき、最後にまな板とまだ生きている魚を持ってきて目の前で捌くと几帳面にまた盛り付けた。此処まで来るともう海は驚く事無く礼を言ってそのなまはげを見送る。二人はまたその美味しい料理に舌鼓を打つと少し休んでから浴場へ向かった。
身体をさっと流して湯船に浸かり身体が程よく温まると大広間で水分補給をして部屋に戻った。部屋に戻ると布団が用意されていて二人はゴロンと横になる。心地よさにウトウトし始めるとノックの音が聞こえて二人は身体を起こした。
「夜分にすいません
ちょっと良いですか?」
表から若い男の声がすると二人は顔を見合わせてから海が立ち上がり扉を開けた。そこには見知らぬ男前。
「突然すみません
実はうちの主が樹莉さんを誘って来いって言うもんですから‥いや、迷惑なら断って貰って良いんですよ!
ホントうちの主は我儘で‥」
恐縮しながら男前は愛想笑いしながら言う。
「あの‥誰かと間違ってません?
俺達こっちに知り合いはいないんだけど‥」
「いやいやいやいや‥間違いないです!
ほら、朝方に社でキツそうな女性に会ったでしょ?
アレがうちの主なんですよ」
途方に暮れる樹莉を見て海が男前に言うと更に恐縮しながら答えたのを聞いて二人は驚いた。あの社で会った天女のような美しい女性は樹莉曰く社に棲む神のはず、その神様が誘っているとこの男前は言っているのだ。
「あの‥えーっと‥それはつまり社に棲んでらっしゃる神様が樹莉を誘ってるって事っすか?」
戸惑いながら海が聞く。
「はぁ‥まぁ、そういう事ですねー‥」
何だか申し訳なさそうに答えると男前は困ったように頭を掻いた。
「樹莉くん、海と一緒なら行くの‥」
海が視線を送ると樹莉は戸惑い不安げに男前を見ながら答える。
「残念ながら主が指名しているのは樹莉さんだけでして‥それにこの方、穢れてるんで基本うちの社に入れないです」
軽い口調で困ったように男前が言う。
「あの‥そんなに俺って穢れてますか?」
神様にも言われたが改めて男前に言われると女遊びなど心当たりの有り過ぎる海は心の中で泣いた。
「貴方‥人を殺めましたよね?」
しかし男前は冷たい視線を海に向けて樹莉に聞こえないように呟く。予想外の返答に海はドキッとして表情を強張らせ目を見開く。
「ともかく樹莉さんだけを主はお望みです‥一緒に来ては頂けませんかね?」
改めて優しく男前はにっこり微笑み、樹莉が戸惑いながらまた海を見ると強張った顔に無理やり笑顔を浮かべる。
「せっかくだから行って来いよ
こんなチャンスめったに無いしさ‥」
何とか己を保ちながら言うと樹莉は頷いた。
「お手数かけてすいません
送り迎えはしっかりさせて頂きますんで安心して下さい」
男前は言うと樹莉を大切に抱えて軽く一礼してスウっと消え、海はその場に佇んだまま暫く青褪めていた。
海は樹莉達が去った後、部屋で横にはなったが眠気が飛んでしまいぼんやり天井を眺める。
〈人殺し‥なんだよなぁ、やっぱり‥〉
そう考えると何だか自分がとても汚れてしまったような感覚に襲われた。覚悟はしていたが実際に戦闘に加わってみて自分の考えがどれほど甘いものだったのかようやく実感した。海は居た堪れなくなって頭を掻きながら身を起こすと眠る気にもなれずにまた浴場へと向かった。
いつの間にか深夜になっていたようで館内は暗く静まり返っている。海は微かな明かりで露天風呂へ向かい浴衣を脱ぐと扉を開けた。辺りを見てもどうやら入浴しているモノもいなさそうでゆっくり湯に身を沈めた。
「なんだ、こんな時間に湯に入る奴がいたのか?」
頭の上から声がして海が思わず見上げると其処には明らかに人では無いモノが海を見下ろしている。余りに突然で海は驚いた表情のまま硬直すると声の主を凝視した。一見すると人のようだがこの寒空に腰に少しの布を纏っているだけで耳は尖り髪は銀髪、ふわふわ浮いていて海を見下ろす姿は異形のモノ。
「せっかく貸切で入れると思ったのに‥まぁ、良いか‥」
フワリと舞い降りると傍の石に衣をかけて裸になり、ザブンと湯に浸かる。
「何だ?俺の顔に何か付いてるか?」
海は呆気に取られてただ茫然と見続けると少し気に障ったのか不愛想に海を睨みながらソレが言う。
「あ‥いや‥その‥」
思わず視線を逸らせてはみるが言い訳の言葉が見つからない。異質ではあるがかなり綺麗な顔立ちをしていてつい見惚れてしまった。海は自分の事を棚上げしてこんな時間に入りに来るとは何者なのだろうかと思う。
「気色悪ぃ奴だな‥」
その様子を見ると吐き捨てるように言ってどっかりと湯船の淵に凭れ掛かる。暫く沈黙しながら二人はそのまま湯に浸かるが海はある事に気が付きチラリと見た。この感じは社で見たあの女性と同じモノだ。
「あの‥もしかして貴方も神様だったりします?」
海は恐る恐る聞いてみる。
「あ?だったらなんだってンだ?」
別に姿勢を変えるでも海を見るでも無く鬱陶しそうにガラ悪く答えると海はやっぱりと言う顔をし、視線を逸らせてジリジリ距離を取った。
「別に取って食やしねぇよ!」
そう言われて海は動きを止めるとまた視線を向ける。
「あの‥やっぱりお邪魔じゃないかって思って‥」
戸惑いつつ返すが視線が自然と泳ぐ。
「別に構やしねぇ‥それに先に入ってたのはあんただろうが?
俺は気まぐれで立ち寄っただけだから気にすんなよ」
返しながら立ち上がって湯船の淵に腰を掛け海を見た。微かな明かりでもその荘厳さは浮かび上がる。
「もしかして山の社にいる神様の御使いだったり?」
「はぁ?誰があんな性悪ババァに仕えるか‥これでも奔放に生きる風神の端くれだぜ?
地べたに縛られてる奴等と一緒にすんじゃねぇよ」
海がとりあえず確認のために聞いてみると相変わらず怪訝な表情で手をヒラヒラさせながら返す。その様子はまるでその辺のチンピラといった感じで一気に親近感が湧くような気はするのだがそれでも神様である。ただ、すいませんとしか返す言葉が無い海は身の置き場に困った。
「あんた‥変わった混ざりものだな‥」
風神はふと今更、気付いたと言わんばかりに少し驚いたように海をジロジロと眺める。グッと近寄ってさも珍しげに見られ、海はどうして良いのか分からなくて硬直した。
「えーっと‥あの‥近いです」
ほんの数センチの近さで見られた為に思わず口から出てしまう。
「はは、悪ぃな‥見た事もねぇ種だったんでつい見入っちまったぜ」
軽く笑いつつ返すと身を引いた。
「気質的には俺と同じだが風のモノってのでも無さそうだな‥親は人間か?」
続けると先程までの無愛想な感じは一変して風神の表情が緩んだ。警戒心が解けたようなその感じに海もつい気持ちを緩くすると自分がこうなった経緯を話す。風神は始め興味深気に聞いていたが話し終る頃には少し冷めた顔をしていた。
「ったく、つくづく人間てのは愚かで傲慢な生き物だな‥」
呆れたように言いながらまた湯船に浸かり、空を見上げ溜息を吐く。いろんな事が有り過ぎて少し自信を喪失していたから尚更その言葉に己を恥じた。
「俺も‥そう思います
禁忌に踏み込んで挙句に殺し合いして‥自業自得だけどこの先どうしたら良いのか分かんないんです俺‥殺したくないけど守りたい
でも皆に全然届かないし‥」
弱音が自然と口を吐き盛大な溜息を吐きながら項垂れた。風神はそんな海をチラリと見るとすぐに視線を戻す。
「そんなモン気にしてちゃ息が詰まるぜ
だいたい自分の力量外の事を気にするってのがそもそも傲慢なんだよ
出来る範囲でやれる事をやってりゃそれだけで存在意義ってのはあるもんだ
端から小せぇ存在なんだし今のままでも十分じゃねぇか‥愚かな人間の割にゃ上等な人生だと思うぜ」
風神に言われ海は目から鱗が落ちた。神々から見れば自分は愚かな人間の一人で出来る事などたかが知れている。けれどそのちっぽけな力でも自分の精一杯ならば価値があると風神は言った。
「何でも自信持ってやらなきゃ上手くいくモンも上手くいかねぇ
自信をつけるにゃまず経験だ‥せいぜい頑張れや」
そう言うと湯から上がって再び衣を身に纏う。
「ああ!
やはり颯天様でしたか‥」
フワリと闇からあの樹莉を迎えに来た男前が現れて言うと風神は鬱陶しそうな表情を浮かべた。
「あぁ?もう見つかっちまったのか‥
せっかく気配消して来たのによ」
「貴方様の気配は風が教えてくれますから‥それよりせっかく来られたのですから宴にいらっしゃいませんか?
真那様も会いたがっておられますし‥」
「今日はちょっと立ち寄っただけで遊びに行く気はねぇよ‥とにかく俺がいる事はババァには内緒にしとけ!」
「何を仰います、もう清水宮尊様はご存知ですよ
せっかくいらっしゃったのですから是非‥」
素っ気無く返す風神と食い下がる男前、二人の会話にただ海は呆然となり動けない。
「機嫌損ねる前に消えろよ銀狼‥」
凍りつくような声に男前は諦めたように溜息を吐き、頭を深く下げると闇に掻き消えた。それを見てようやく風神が表情を崩すが海はその威圧された空気に凍りついたままだ。
「悪ぃな‥気分害しちまったろ?
詫びと言っちゃなんだがこれで許しとけよ」
そんな海に気付くと風神は首飾りの鈴を一つ取って投げ海は慌ててそれをキャッチする。手にしてみるそれはただの鈴だがとても綺麗な音でチリンと鳴った。
「あ、いや!
そんな、詫びなんてイイっす!
俺が勝手に居ただけだし‥恐れ多いって言うか‥」
「はっはっはっ!
あんたから見たら神様かもしれねぇが俺はそんな大そうなモンじゃねぇよ
良いから取っとけよ‥邪魔にゃならないと思うからさ」
海が慌てて受け取った鈴を差し出すと風神は笑ってからフワリと舞い上がる。
「人間は相変わらずいけすかねぇと思うがあんたみたいにグルグル悩んでる人間は嫌いじゃないぜ
所詮、万人に合う正解なんてねぇんだし自分が納得出来る答えなんて結局は自分の中にしかねぇんだからせいぜい頑張んな!
また縁が有ったら会おうぜ‥じゃぁな!」
続けると一陣の風に乗るように夜の闇に掻き消え、少し良い香りが辺りに残る。残された海はもう一度、視線を鈴に落とすとグッとそれを握りこんでまた湯船に身を沈めた。
その頃、連れてこられた樹莉は宴の席で眉間に皺を寄せ、きっちり正座したまま固まっていた。目の前では綺麗な女性が舞い踊り異質なモノ達が酒盛りをしている。ぽつぽつ人間らしきモノもいるがあくまで容姿がそうだというだけで本当に人間なのかどうか‥。
「楽しくは無いかい?」
樹莉の横に座っていた清水宮尊が聞くがむぅっと考えるような仕草をする。
「凄く綺麗なの‥でも樹莉くん、よく分からないの」
不慣れ過ぎてこれの何処が楽しいのか分からないようだ。
「じゃぁ一緒に踊ってみるかい?」
くすっと笑ってから踊り子を呼び樹莉に一緒に行くように進めた。踊り子に手招きされると一緒に舞台に立ち踊り子がするように踊ってみたが上手く出来ない。でも皆がその姿を褒めてくれると嬉しくなってまた踊る。皆はそれを見て今度は樹莉を真似て踊った。樹莉は何だかどんどん楽しくなってきて夢中で踊ってみせる。一頻り踊ると疲れて動きを止め、清水宮尊を見ると手招きされてそちらに走って行く。
「楽しいの!樹莉くん始めて踊ったの!」
「そうだろう?
楽しく踊っているのを見るのは楽しいと思わないかい?」
ニコニコして息を切らしながら言う樹莉に清水宮尊は優しげに微笑み語りかけると樹莉は思い切り頷く。そして女官風の女性が持ってきた小さな盃を受取り、酒を注いで貰うとそれを飲み干した。
「美味しいかい?」
ぷはっと息を吐く樹莉に清水宮尊は満足そうに聞きながら自分も盃を空ける。樹莉はまた頷くとふと清水宮尊の後ろの屏風に隠れる人影に気付いた。その人影はこちらを窺うように見え隠れする。樹莉がそちらにヒョコヒョコ歩いて行くと清水宮尊はそれを目で追う。人影はさっと屏風の向こうに引っ込み、樹莉は警戒しながらその人影を確認しようとした。その後ろ姿が余りに愛らしくて思わず清水宮尊はぷっと噴出した。屏風の向こうではその人影が蹲るように身を小さくしていた。そして樹莉の気配に気付いて少し振り向き、覗いていた樹莉と目が合うとさっと顔を隠す。
「だ‥誰なの?」
樹莉が恐々話しかけるとその人影は身をより小さくする。
「樹‥樹莉くん怖くないの‥大丈夫なの‥」
警戒を解くように言う樹莉もまた少し怯えているような声でようやくその人影は振り返って樹莉を見た。
「べ‥別に怖い訳じゃ無いの
余り姿を見られたくなくて‥」
か細い声で返すその人影に樹莉は興味が湧いてくる。
「どうしてなの?」
「だって‥醜いから‥」
樹莉がちょこんといつの間にか人影の傍まで来て聞くとまた身を小さくしてそう返す。
「醜いってなんなの?
樹莉くんよく解らないの」
樹莉がストレートに聞くと人影は少し躊躇ったように沈黙し、少しだけ樹莉の方に顔を向けた。屏風のせいで薄暗いがその顔には痣が見え樹莉はただその顔を見て何の感情も示さずポカンとしている。
「この顔が怖くないの?」
「樹莉くん怖くないの」
問われて答える樹莉にその人影は驚いたような顔をした。
「一緒に踊ったりお喋りするの‥楽しいの」
「貴方は怖くなくてもきっと皆は怖がるから‥私は此処で見てるわ」
屈託無く樹莉に言われたが表情を曇らせ悲しげに微笑み答えた。
「皆が怖いって言ったの?
それなら樹莉くんが怒ってあげるの!」
興奮して樹莉が言うと屏風の端からそのやり取りを聞いていた清水宮尊が顔を出す。
「樹莉の言う通りだよ真那‥己を恥じないで堂々としてりゃ良いんだよ」
優しく微笑みながら言うと真那は少し目を伏せて戸惑うような仕草をする。樹莉はそんな真那の着物の裾を引っ張って屏風の外へ向かって歩き出し、戸惑いがちに真那が姿を現すと一斉に皆が嬉しそうに感嘆の声を上げまた踊り出す。どうやら皆、真那が姿を表すのを待っていたようだ。
「生まれた山でお前がどう扱われてきたのか私にゃ解らないけども此処では皆が歓迎してるんだよ」
「一緒に踊るの‥楽しいの‥」
清水宮尊に言われてもまだ実感が無いのか少し戸惑っている真那に樹莉は一緒に舞台で踊ろうと誘うと踊って見せる。その一生懸命な姿が愛らしく、真那が一緒に踊り始めると舞台に一陣の風が吹いた。顔を隠している頭巾が取れてその容姿が露わになり、また真那は凍りついて身を屈め恐る恐る辺りを見る。賑やかだったお囃子は止んで皆が真那を注目して立ち尽くしたいた。真那は居た堪れなくなって頭巾を被りその場に蹲って震え始めた。
「凄く‥凄く綺麗なの‥
なのにどうして隠れるの?」
樹莉が逆上せたように顔を赤らめたまま真那に聞くと真那は驚いて樹莉を見る。そして次に辺りを見ると皆、見惚れてぼんやり夢心地で真那を見ていた。
「皆、お前に見惚れてるんだよ真那‥」
笑いながら清水宮尊に言われて真那は驚いたように頭巾を落とす。するとまたお囃子が始まり誰彼無しに踊り出すと樹莉も真那を誘うように踊り始めた。真那は初めは戸惑っていたがすぐに楽しそうな表情をした。
息が切れるまで踊り、休憩するとまた踊るを繰り返す内にいつの間にか樹莉の容姿はフルサイズに戻っていてその姿に始め清水宮尊や皆は驚いたが樹莉がそれに気付いていないようなので皆もすぐに気にしなくなる。
「あの子は颯天様が連れてきた天狗でね
どうやらあの痣のせいで他所では恐れられていたらしいんだよ
だから此処へ来てからもずっと引き籠ってて‥宴を催して少しでも心を開くよう仕向けていたんだけどね
まさか意図も簡単にお前さんが彼女の心を開いてくれるとは思いもしなかったよ」
宴の終わりに樹莉は真那がここへ来た経緯を聞いた。もう真那は頭巾を被る事無く、皆と楽しそうに話を弾ませている。
「さぁ、そろそろ夜が明ける‥お開きにしようかね!」
上機嫌で清水宮尊が言うと名残惜しそうに皆はぱらぱらと姿を消し始めた。真那は最後に樹莉を見ると嬉しそうに微笑んで姿を消す。
「じゃぁ俺も戻ります
凄く楽しかったです」
樹莉はへらへら酔っぱらいながら言う。
「そりゃ良かった‥せっかくだからこれを持ってお行き‥」
清水宮尊は言いながら樹莉が使っていた小さな盃を渡す。
「ありがとうございます」
樹莉は遠慮も無く受け取ると満面の笑みで返し、微笑んだまま後ろへ倒れた。そこにはいつのまに居たのか銀狼が控えていて樹莉を支える。樹莉は上機嫌で酔っ払ってそのまま眠ってしまったのだ。
「全く不思議な奴だねぇ‥」
吹き出しつつ清水宮尊は言うと銀狼に樹莉を送り届けるように言ってスウッと姿を消す。その途端に宴の席はいつもの社の風景に戻った。
銀狼が樹莉を負ぶって部屋まで来ると海は豪快に高鼾で眠っていて、それを起こさぬように樹莉を布団へ寝かせると姿を消した。
そして二人が目覚めたのは昼前だった。
「分かんない
何時の間にかこの姿だったし‥」
起きてすぐ、どうしてフルサイズに戻れたのか海に聞かれて樹莉は困ったように答える。そして二人で昼食を取りながらあった事をお互い話し、出発準備を終えると部屋をきちんと整えて鍵を返しに離れへ向かう。やはり総一郎の姿は無く、仕方なく鍵を座卓の上に置くと誰もいない空間にお世話になりましたと言って頭を下げ、離れを出る。すると賑やかだった母屋はしんと静まり返っていて誰もいなくなってしまった。きっとあの鍵を返した事で日常の空間に戻ってしまったのだろうと思う。二人は来た時と同じように山道を下り、バイクの所まで来ると海は気付いたように小さくあっと呟く。
「そういやお前とニケツで帰るにもメットがねぇや‥どうしたもんかな‥」
頭を掻きながら樹莉を見ると樹莉はニパっと笑って氷のヘルメットを作った。
「これで良い?」。
被って見せると海は驚く。
「お、おぅ‥でももうちょっと普通のに見えるように出来るか?」
スケルトンのヘルメットを見て言うと樹莉はヘルメットを海の物と同じ柄にして見せた。海は上出来と言うとバイクに跨り樹莉もその後ろに乗る。二人で風を切って帰路に就き、箱庭までもう少しという距離で見知った顔に驚き海はスピードを落としバイクを止めた。
「お兄ちゃんは無事?」
英梨香は少し不機嫌そうな顔で海に話しかける。
「大丈夫だよ海‥殺気も敵意も無い」
固まる海に後ろから樹莉がヒソッと言うと海は警戒を解いてヘルメットを脱いだ。
「何とか生きてる‥でもあんまり良い状態じゃない‥」
海が言うと英梨香は少し考え込んでから小瓶を海に投げる。
「今、私には何も出来ないから‥それで何とかして!」
それだけ言い残すと姿を消した。海は英梨香がいた空間から小瓶に視線を移すとそこには赤い液体が入っていた。海はそれを大事そうに懐へ入れるとまたヘルメットを被り箱庭に向け走り出した。