日常と非日常
一方その頃の樹莉はと言うと老女との生活を謳歌していた。
「お婆ちゃん、お婆ちゃん大変なの!!」
台所から走ってくる樹莉を老女は取り込んだ洗濯物を畳みながら見る。
「あらあら、どうしたの?」
「あのね、あのね、お鍋がゴトゴト言ってるの!!」
「まぁ大変‥お鍋かけっぱなしだったわね」
樹莉が焦っていても老女は慌てる事無く立ち上がり、台所へ行き火を切った。
「大丈夫よ、樹莉君が知らせてくれたから焦がさずに済んだわ」
鍋の中を見ている老女の顔を樹莉が心配そうに見つめると微笑んで答えた。それを聞いて樹莉は安心したようにフゥと溜息を吐く。樹莉は老女の元に帰って来てから洗濯物を畳むのを手伝ったり鍋の見張り番をしたりと忙しい日々を送っている。
「樹莉君、おはぎを作ろうか」
出来たてのあんこを持ち老女が声を掛けると樹莉は嬉しそうにやってくる。
「樹莉くん、おはぎ大好きなの」
樹莉は座卓の上によじ登ると老女が準備する様子を見て言いながら、あんこの周りをヒョコヒョコ歩きまわり興奮した。老女は餅米を取るとそれを丸める。
「こうしてお米を丸めてそれからあんこをこうやって巻いて‥」
やってみせると皿の上に置く。樹莉は小さい手でお米を一粒持つとそれを丸めて同じように必死にあんこを巻いた。
「上手ね‥その調子よ」
お皿の上に次々と普通サイズのおはぎと小さな小さなおはぎが出来ていった。全部作り終えると樹莉は満足げに溜息を吐く。
「じゃぁお茶を入れてこようかね」
老女はおはぎの載ったお皿だけ残すと後は片付けて言う。
樹莉は箱庭でドールハウスのような自分専用の家財を用意して貰い、それを持って老女の家に戻ってきているのでほとんど不自由無く快適に暮らしていた。
おはぎを食べると裏の畑へ行き雪の下から芋を掘り出す。もうすぐ雪解け間近なのか積もった雪もそう深く無い。樹莉が芋を運ぶのを手伝っているとか弱い鳴き声が聞こえた。
「お婆ちゃん、何か鳴いてるの‥」
樹莉が辺りをキョロキョロしながら言うと老女もまた辺りを見回す。そして縁の下に小さな子猫を見つけ樹莉が駆け足で近寄ると子猫は今にも凍え死んでしまいそうなほど弱って震えていた。
「どうしたの?お母さんはいないの?」
樹莉が心配そうに聞くと子猫はか弱い声でニーニーと樹莉に話す。老女はそんな樹莉と子猫に近寄ると屈んで様子を眺めた。
「まぁまぁ、こんな時期に子猫なんて珍しいわね‥何て言ってるのかしら‥」
心配そうに首を傾げながら老女が言う。
「あのね、あのね、遊んでたら迷子になっちゃったらしいの
でもね、やっと戻ったらお母さんも兄弟もいなかったんだって言ってるの‥赤ちゃん一人ぼっちなの‥」
樹莉が涙を溜めて老女に子猫の言葉を伝えると老女は子猫をそっと抱きあげる。
「それは大変だったわね‥じゃぁ元気になって貰う為に婆ちゃんが美味しいミルクでも御馳走しようかね」
微笑みながら子猫を撫で樹莉に言うとホッとしたように微笑んだ。二人は子猫を連れて入ると身体を綺麗に拭いてミルクをあげる。
「大丈夫なの、お婆ちゃんとてもとても優しいの」
緊張する子猫に樹莉は撫でてやりながら教えた。自分より倍以上もある大きな子猫でも樹莉にとっては赤ちゃんなのだ。樹莉の言葉に安心したのか子猫は出されたミルクを飲む。そして飲み終わるとお腹がいっぱいになって安心したのか満足そうに横になった。
「お腹いっぱいになったの?」
樹莉がニコニコしながら聞くとまた子猫はニーと返事をする。
「お腹いっぱいで嬉しいって言ってるの」
「それは良かったわ」
老女もその光景を見て嬉しそうに微笑んだ。
それから慌ただしい二人と一匹の生活が始まり樹莉は子猫の世話に追われ、じゃれてくる子猫と命懸けで遊ぶ。そして老女もまた樹莉に遊び相手が出来た事を微笑ましく思っているのだった。
はたまたその頃の陸。
署内で同僚や上司に囲まれながら陸は復帰の挨拶を早々に済ませ署長の元へ向かう。入院中に見舞いに来た署長に退院後にいろいろ事情を聞きたいから復帰したらすぐに顔を出すように言われていたからだ。
「失礼します」
ノックの後にそう言って署長室に入ると既にあの時ペアを組んでいた刑事がそこにいる。
「来て早々なんだが君の話も聞こう‥あの時いったい何があった?」
難しい顔をしながら陸が刑事の隣まで来ると署長は口を開く。
「はい、犯人確保のため散った後に偶然、現場に居た弟が被疑者の動向を察知していましたので弟の言う通り被疑者を追ってあの廃工場に徳永警部と潜入しました
その際に被疑者が発砲し何かに引火して工場が炎上し、自分はその際の爆発に巻き込まれたショックで気を失ってしまいその後の事は覚えていません
気が付いたら既に病院に居ましたので‥」
簡潔に陸が説明すると署長は深い溜息を吐いた。
「何言ってる!
確かにアレはいただろう!?」
刑事は取り乱したように声を上げて怒鳴る。
「徳永さん‥きっとそれは爆発の混乱が見せた幻ですよ
冷静に考えれば貴方にも理解出来る筈です
この世に化け物なんている筈が無いじゃないですか‥」
至って冷静に返すと刑事は陸の真っ直ぐな目に言葉を飲み込み沈黙した。
「では被疑者も幻を見たという事かね?
化け物の存在など無かったと?」
食い下がるように署長は陸に聞く。
「それはそうでしょう‥在りもしないモノを見たと言って捜査を撹乱する意図としか思えません
仮に、もし本当に見たのならそれは薬物や想像が生み出した幻としか‥実際、自分もあの火災の中で混乱した事は事実ですから‥」
相変わらず眉一つ動かさずに陸は説明した。
「‥君がそう言うのならそうなのかもしれんが君の弟はどうかね?
現場に居た一般人として少し話を聞きたいものなのだが?」
署長は尚も食い下がる。
「弟はどうやら何か内々に取材をしているようで自分も連絡が取れません
でも、もし連絡があれば伝えておきます」
シレっと陸は答えた。
「ならば仕方ない‥くれぐれも無理の無いよう徐々に身体を慣らしながら捜査に加わってくれ」
やはり食えない男だと感じながら署長は諦めたように言うと溜息を吐く。二人は一礼して所長室を出た。
「おい!藤木!!」
署長室を出ると少し強い口調で刑事が陸を呼び止める。
「幻だったんですよ‥徳永さん‥」
振り返り一言だけ言うと陸はまた背を向けて歩きだした。
陸が箱庭を出てから10日ほど経ったある日、久しぶりに海から連絡があった。少しだけ顔を見ようと自宅に戻ってきているらしい。陸は早く帰宅しようと普段通らない近道を使う事にした。足早に公園に差し掛かると見知らぬ女性が駆け寄って来る。
「待ちなさいよ!
これ以上、美和子を泣かせるのもいい加減にしなさいよね!」
その女性が怒鳴るように突っかかって来るが陸には身に覚えが無い。
「悪いけど人違いじゃないか?」
陸は少し驚いたような顔をした後、不機嫌そうに答える。すると女性から思い切り平手が飛んできた。
ぱぁんっっ
見事に陸の左頬に手形が付く。
「とぼけないでよ!
そんなチャラけた顔、一回見たら忘れないわよ!」
「チャラけた顔は悪かったな‥ちょっと待ってろ‥」
女性が更に怒ったように捲し立てると陸はかなりムッとしたように眉間に皺を刻んで何処かに電話をかける。
「お前、ちょっと今すぐ公園まで来い」
それだけ言うと電話を切った。
「今から人違いだという事を証明してやるから少し此処で待ってろ‥」
女性にそう言い近くにあったベンチに腰を下ろして頬を摩る。その間、二人の空間には険悪な雰囲気だけが流れた。程なくして海が姿を見せると女性は驚いたように2人を見比べる。
「誰それ?」
「それはお前の方がよく知ってるだろう?」
海が女性を見て陸に聞くと陸はムスッとしたまま返す。それを聞いて海はマジマジとその女性を見てから目を見開いた。
「わっ‥やべっ!」
何かに気付いたように慌てて踵を返し海が逃げ出すと女性はただポカンとそれを見送った。
「双子の弟だ‥迷惑を掛けたのなら一応謝るが俺はあいつの交友関係にタッチしていない
何があったか知らんが文句なら直接本人に言ってくれ‥」
呆気に取られる女性に陸はそれだけ言うと立ち上がり背を向けた。
「ご‥ごめんなさいっっ!!」
女性はようやく我に返ると真っ赤になって陸の背中に頭を下げる。陸は振り返ると一つ溜息を吐いた。
「もう別に気にしてない
それよりこんな夜中にあいつを追い回すのは不用心だからまた明るい内に出直す方が賢明だな‥タクシーを捕まえるからそれに乗って帰ると良い」
そう言うと女性に表通りまで付いて来るよう促しタクシーを拾う。
「あの‥本当にすいませんでした!」
女性はずっと謝りながら泣きそうな顔で赤くなっていた。
「もう気にしなくて良い
君も友人の為にやった事だろう?
だったら身代わり同志それで良いじゃないか‥」
余りに女性が恐縮するので陸はなんだか可哀そうになってくる。
「悪いがこの子を自宅まで送ってやってくれ‥」
タクシーを停めると陸は言いながら運転手に1万円渡す。
「あ!ダメです!!」
「せめて不甲斐無い弟のお詫びの印だと思って残りはその彼女とお茶でもしてくれ」
女性は断ろうとしたが陸は言ってすぐにドアを閉める。タクシーが走り出すと女性はいつまでも陸を見ていた。
数日後、帰宅しようと署を出るとあの時の女性が立っていた。陸は驚いてまた何かあるのかと少し不安を感じる。
「あの‥この間はすみませんでした!
あの‥私‥あの時の運転手さんにお兄さんがここの刑事さんだって教えて貰って‥
あの‥これ‥やっぱり受け取れないです!」
すると女性は陸に気付いて駆け寄ってくると深々と頭を下げてからしどろもどろで陸の顔を見ず言って封筒を差し出す。たぶん中身はあの時に陸が払ったタクシー代だろう。陸はその姿があまりに可愛く思えた。
「構わないさ、それよりわざわざここまで来てくれるなんてこっちこそ恐縮するよ
遅くなると物騒だから早く帰りなさい」
刑事らしく女性を気遣う言葉を掛けると前を通り過ぎる。
「あ‥あの!」
そんな陸の腕を女性は掴んで言いかけ言葉に詰まった。
「ダメです!
私、思い切り引っ叩いてしまって‥私の方がお詫びしなきゃいけないのに!!」
訴えるような眼で真っ赤になりながら必死で陸を見て続ける。
「じゃ、少し食事に付き合って貰えないか?
帰っても一人なんで味気なくて‥」
どうにも引き下がりそうにない女性に陸は少し困ったなと言う顔をしてから思い切り営業向けの顔で微笑むと署の斜め向かいにある定食屋を指す。女性は少し躊躇ったが無言で力強く頷いた。定食屋に入り少し落ち着くとようやく女性は遠慮がちに陸を見る。
「あの‥美和子に聞いたんですけど海さんと一緒に住んでるんじゃないんですか?」
「一緒には住んでるが仕事の関係上、生活サイクルは別々でね
この間、あいつは偶々、帰って来てたけど今もまたずっと家を空けてる
電話をしても繋がらないし今度はいつ帰ってくるのか俺にも分からない」
女性が聞くと陸はあるがままを答えた。実際、電話は繋がらず、向こうからしか連絡を取る事は出来ない。
「きっと美和子‥また泣くだろうなぁ‥」
嘘の無いその顔に女性は少しシュンと肩を落として呟く。
「君は友人想いなんだな」
「確かに美和子自身悪い所もあるかもしれないけどとても優しい子なんです
地方から出てきて何も分からなかった私の事だって何時も凄く気遣ってくれて‥」
少し微笑みながら陸が言うと女性は我が事のように泣きそうな顔になる。陸は海の女癖の悪さに改めて溜息を吐いた。海と間違えられこんな目にあったのは一度や二度では無い。ほとほと陸も困り果てていたのも事実だ。
「全くあいつにも困ったものだな‥」
陸は言いながら大きく溜息を吐くと頭を抱えた。
「あら、陸じゃない?」
その時、入ってきた客が上機嫌で陸に声を掛けた。陸がそちらに目を向けるとへべれけに酔った美人がニコニコしながら立っている。
「なぁにぃ、やっと新しい彼女出来たのぉ?
もうっ、紹介しなさいよ!」
陸の背中をバンバン叩きながら遠慮も無くその美人は上機嫌で陸に絡む。
「そんなじゃない!
それにお前、呑み過ぎだろう?
寄り道してないで早く帰れ!」
陸は少し鬱陶しそうに返す。二人が言い合いをしていると女性は呆気に取られて固まった。それに気付くとその美人は陸にのしかかるように抱きついて女性に絡み始めた。
「このバカ、堅物なだけが取り柄で面白くないわよぉ‥良い奴だけどねー」
「うるさい!
仕事が済んだならさっさと帰れ!
酔っ払い弁護士!!」
女性に向かってケラケラ笑いながら美人が言うと陸は照れた様に怒鳴り美人を身体から引き離す。美人は言われるとちょっと拗ねたように「ちぇっ」と可愛く言ってからまた上機嫌で奥の席へ消えて行った。陸は頭を抱えながら溜息を吐く。
「あ‥あの‥今の人‥」
躊躇うようなまだ驚いたような顔で女性が聞いた。
「昔、付き合ってた‥今は別の人と結婚して子供もいるんだが‥」
少し視線を逸らせ、まだ頭を抱えた状態で全くしょうがないという口調で返す。女性はちょっと意外な陸に少しキュンときた。
「そう言えばまだ名前を聞いて無かった」
話を逸らせようと陸が話題を変える。
「あ、すいません‥佐藤です!
佐藤翔子‥です」
名乗っていない事に気付くと翔子は慌てて自己紹介した。
「今更だが俺は藤木陸‥あのバカの双子の兄貴だ‥」
少し自嘲気味に微笑んで返す。二人はお互いの事を話しながら短い時間ではあったが食事を楽しんで別れた。
それから陸と翔子は二度程ばったり会う事があった。それを機会に何となく連絡を取るようになる。話せば話すほどお互いの趣味も似ていて二人の距離は縮まり始めた。それでも陸は己の身体の事もあり一歩が踏み出せずにいて、翔子もまた煮え切らない陸に少し不安と苛立ちを覚えていた。そんなモヤッとする日々の中、翔子は陸に告白する。
「あの‥陸が私の事どう思ってるのか教えて欲しい‥」
好きと言った後、翔子はそう続け陸の返事を待つ。陸は言われて嬉しさと戸惑いを隠せずにただ口元を押さえて困惑した。
「ごめんなさい‥私これ以上、好きにならない方が良いね‥」
いつまでも沈黙したままの陸に翔子は泣きながら微笑むと別れを覚悟して背を向けた。
「俺だってお前の傍に居たい‥でも俺は‥」
陸はそんな翔子を抱きしめると言いかけて言葉を切る。自分が化け物だと知ったら翔子は逃げ出すかも知れない。それに自分達同様に命の危険に晒される。そう思うと何も言えなくなった。
「もし‥もし陸が私の事を好きでいてくれてたなら私、何があっても驚かない
話せないなら話さなくて良い‥だから本当の気持ち聞かせて欲しい」
何かを隠している事に気付いていた翔子はそう言って目を閉じると陸を抱きしめ返す。
「君を守りたい‥君が好きだ‥翔子‥」
絞り出すように陸は言って抱きしめる腕に力を込めた。それを機に二人の正式な付き合いは始まり、陸は何も聞かないでいる翔子に己の秘密を打ち明ける決心をした。陸は翔子に全てを話すとそれでも自分と居たいと思うなら結婚して欲しいとプロポーズする。翔子は話を聞いて驚いていたが腹を括るとそのプロポーズを受けた。
それぞれが誰かと出会い関わり時は巡る
その渦はやがて大きな流れに巻き込まれるだろう事を誰もこの時は知らない
運命の足音は少しづつ近付いていた
翌日、海はぐったりとした気分で目覚める。あの苦痛の最中、断片的にしか記憶は無いが明希が齎した快楽を伴う記憶はしっかり身体が覚えていた。それに聞いてはいけない事を聞いた気がしてそれがより気分を重くさせる。重い溜息を吐きながら海は身体を起こすと頭を掻く。
コンコン
ここへ来て初めて誰かが海の部屋を訪ねてきた。明希の場合はいつもいきなり入ってきたり、気付けばいるという不法侵入なので来客とは言えない。誰だろうかと海はゆっくり立ち上がリドアを開ける。
「私、東條の遣いで参りました
主様は、今日はお加減が優れ無いとの事で訓練を延期したいと仰っておられます」
ドアの外には和服姿の美女。
「え?ああ‥そうなんだ‥」
その美しさに思わず戸惑ったように返す。
「代わりに主様のお弟子さんが参られますので本日はその方と今までの復習をされると良いでしょうとの事です」
「お弟子さん?
なら訓練の続きでも良いんじゃない?」
女性は引き続き海に伝えると、早い段階に進みたくて仕方が無かったのでそう返した。
「申し訳ございませんがそれは出来ないと思います
主様のお力は特別ですので幾らお弟子さんと言えど不可能かと‥」
女性が少し申し訳なさそうに答え、あの庵に一時間後に来るようにと補足して去っていく。海はその後ろ姿を見送ると東條も隅に置けないなと心の中で感心した。
もう調整が終わったであろう明希を気にしながらもやはり声を掛けず庵を訪ねたが中はモヌケの殻だった。訝しげに辺りを見回すと木々の向こうに人影が見える。海が近寄って行くとその人影は茂みからガサっと出てきた。まだ少年と言った方が良いような幼い顔に後ろに纏めた茶髪の男。
「あの‥ここに来いって言われたんだけど‥」
海は一応そう問うがまさかこの少年が東條の弟子だとは思えない。
「話は聞いてる
訓練には付き合ってやるがそろそろ人に甘えてないで自分で何とかしろよ
お前のせいでお師さんが寝込む羽目になったんだ‥もっと自覚してくれ」
少年は言いながら海の前を通り過ぎ庵の方へ向かう。言い方からしてやはりこの少年が弟子のようだが信じられずポカンとした。
「東條さんに無理させたのは悪かったと思ってる‥けど、俺だって分からないなりに頑張ってんだからな」
余りにつっけんどんな態度に海はムッとして少し喧嘩腰で言うと少年はクルリと振り返り海を睨む。
「分かって無い!
生きてる人間に憑依するのがどんだけ難しいか分かってるのか?
憑依する度に寿命縮めてるようなものなんだぞ?
お前は昨日、何回それをした!?
お師さんはどれくらい付き合ってくれた!?
いい加減気付けよ‥お前等の為にお師さんは‥」
凄い剣幕で捲し立てると堪えるように俯き唇を噛んだ。それを聞いて海はようやく東條が自分の為にかなり無理をしていたのだと知った。
「悪ぃ、俺そういうの疎くてさ‥
知らない事ばっかりでどうして良いか分からないんだ‥人に憑依して教えるのってそんなにキツイのか?
教えてくれよ‥俺そういうの全然分かんないんだ」
海は凹みながらも素直に聞いてみる。
「つい感情的になって悪かった
俺は楯無響、暫くお前に力の遣い方を教える
ともかくいろいろ説明するから来い」
顔を上げると海を見て響も素直に謝りまた庵の方へ向かって歩き出す。海もそれに続いた。
「陰陽師とは特殊な能力を使って人に害のあるモノを排除したり、助けを求める人霊や異形等に力を貸してきた昔からある仕事だ
例え能力が生まれつき無くてもある程度は術も法具も使える
けど、お師さん自身、大先生の元でないと生活出来ないくらいの力の持ち主だったって聞いてる
そのお師さんでも生きてる人間‥特に力を宿した肉体に憑依するのはかなり負担が大きい事なんだ
特にお前等みたいな鬼子モドキに憑依するなんて下手したら命を持ってかれ兼ねない
それでもお師さんは力を貸すのが己の使命だって‥だから俺もお前達に力を貸すが本当はかなり不本意な事だけは覚えておいてくれ
俺達にとってお前等は自然の在り方に逆らう異端者だ
その上で自然に添って生きようとする俺達に負担を掛けてる事‥忘れるなよ」
面と向かって言われ海は無言で頷くしかなかった。それから響は自分が持ってきた荷物の中から巻き物を数点取り出し海と自分の前に広げる。
「陰陽師は主に封じる術と調伏する術を自然や異形の力を借りて行う
その力の遣い方がお前等の力のコントロールと似てるんだ
だからそれを習得すれば勝手に力は使えるようになるが、鬼子の力を持つお前等の場合は符や印を結べば力は抑えられ、有効に働かなる場合が多い
あくまでも俺達が使う符や印は鬼子や異形を封じたり調伏する為の物だからな
お師さんはその方法をお前の身体を使って教えた
次はそれを応用する術をお師さんは教えようとしているが俺としてはお前に自力で学んで欲しいと思ってる
おそらくお師さんがお前に教えようとしているのは鎌鼬だろう‥これを教わらずに出来るよう俺が訓練方法を教える」
広げた巻き物の中の解読不能な文字を指しながら響は説明していくが不思議と海にはその文字が読めた。恐らくこれもインプットの賜物だろう。
「カマイタチ?」
「名前くらい聞いた事があるだろ?」
響は印を結んで返しながら実演した。海の頬が何もしていないのにスパっと切れ思わずイテッと呟いて頬を押さえる。しかしすぐに血は止まり流れた後が残るだけだった。
「これは風の力を借りて人工的に起こした術の一つだ
空気を圧縮した風を起こすと簡単に物を切断出来る
普通の陰陽師ならこれくらい可能だがそれでもこうして印を組まないと術として有効に働かない‥それを印無しに鬼子なら出来る
だが術を発動する時のイメージは同じだ
精密なコントロールが出来るようになれば表面を傷付けず内だけ切り裂く事も出来る
その精密なコントロールは正確なイメージと力のバランスから生まれ、そして一番大事なのは精神の安定だ
後は制御できるギリギリのラインを自分で把握すれば良い」
海が鎌鼬に驚いていると響は何事も無かったかのように説明し巻き物を仕舞う。
「でもその力とイメージのバランスってどうすりゃ良いんだよ」
勝手に頬を切られた事に対してムッとしながら海が問う。
「力を発動するイメージとしては舞い散る埃を一点に集める感じで力加減は裂く相手に対して有効な強度
言っても分かりにくいから感覚で掴め」
響はそれを気にするでも無く言って立ち上がると海もそれに続く。二人は表に出ると少し開けた場所に向かい合って次の授業を始めた。
「ここにさっき結界を張った‥力は外に出る事は無いから思い切りやってみろ
まずはあそこの木を倒せれば良い」
横手にある細い木を指して言われると、海はイメージを働かせてから昨日と同じように手を翳し力を木に向ける。しかし風は巻き起こるものの木は何とも無い。意地になって何度かやってみるが結果は同じだ。
「集中力不足、もっと集中して‥こうだ」
後ろから響が印を組んで鎌鼬を発動させると木の枝がスパッと落ちた。海はそれを見ると余計に悔しくなってまた力を練るが結果は同じ。
「出来るようになったら呼べ‥」
それを暫く見ていた響は冷やかに言うと庵に入る。数時間後、海は汗だくになっていたがやはり木が切れる事は無いようで気力の方が切れそうだった。
「昼食を取りに行くがお前はどうする?」
その汗だくの海を横目に響が横を通り過ぎながら聞く。
「‥俺も行く」
本当は続けたい気持ちはあったのだが今のままでは埒が開きそうも無い。海は気分転換に響と昼食を取る事にした。
「あのさ‥今朝、俺の所に来た人って東條さんの恋人か奥さん?」
ラウンジへ来てからもずっと響は無言で気不味くなり海が口を開く。
「あれはお師さんの式‥人前に出る時は人の姿をしているが妖怪だ
お前、人と妖怪の区別も出来ないのか?」
響はチラリと海を見てからシレッと答えると海はまたムッとする。
「此処に居る他の奴等は人じゃ無いって事くらいすぐ分かったぞ?
本当にそういう事に関して疎いんだな‥
まぁ、それだけ平和ボケした世界で生きてきたんだろうけど生き残りたかったらもっと感覚を磨け‥人の気配や自然の流れを感じなきゃ今してる訓練も堂々巡りだぞ」
続けて響に言われ何も言い返せなかった。海自身、人より感は鋭い方だと思っていたのだがここへきてからどうも自分が凡人以下に思えて仕方が無い。無論、力の有る無しを差し引いても此処の人達は海より行き届いている。
「神経を張り詰めるんじゃ無く、巡らせるんだ‥そうすればいろんなモノが見えてくる」
凹んでいる海に言うと響はトレーをキッチンに返し先にラウンジを出た。海も残りを掻き込むとラウンジを出る。そして元の場所に戻ると座り込んで焦る心を押さえ目を閉じた。日の光と草木や土の匂いを感じる。海がジッとしたままそれを感じていると入口の方から微かな人の気配を感じて目を開けた。
「よぉ‥順調か?」
明希が声を掛けながら歩み寄るのを見て海は動揺したが元気そうなその姿に少し安心する。
「うっせ!
お前、もう動きまわって良いのかよ?」
海はすぐに視線を逸らすと言い放った。
「ああ、まぁ少し身体は重いがリハビリがてらあんたに付き合ってやろうかと思ってな」
気にするでも無く明希は海の前に立つと答えた。
「べ‥別に付き合わなくて良いから寝てろ!
っつか、俺、何も聞いて無いのにいきなり訓練とか‥そういう事はちゃんと言っとけ!」
何だかその素振りに無性に腹が立ち海は怒り口調で返す。訓練の事よりもあの事実がまるで無かったかのような素振りに腹が立ったのだ。苦痛を取り除く為にした事なのは何となく気付いてはいたがそれを差し引いてももう少し何かリアクションが海としては欲しい。それでもそんな気持ちを言える筈も無く、ただ当たるくらいしか出来ない。
「おい、訓練する気が無いなら俺は帰るぞ
明希、そいつに付き合うくらいなら俺に付き合えよ」
いつの間にいたのか響が二人にそう言った。
「何だ、ここに来るなんて珍しい‥だがあんたに付き合うのは勘弁してくれ
まだ本調子じゃないんでな‥」
少し面倒臭そうに明希が返すと響はゆっくり歩み寄り突然、姿勢を低くして明希に襲いかかる。明希はそれを軽々と交わすと響は蹴りを繰り出しまた明希はそれを交わす。海は目の前で繰り広げられる攻防に目が釘付けになった。
尋常で無い早さと身軽な二人の動きはまるでサーカスのようだ。しかしそれに終止符を打つように明希は響の腕を掴んで後ろ手にすると身体を地面に叩き付けた。
「だから本調子じゃ無いっつってるだろ?
お前の相手はまた今度してやる」
相変わらず気の抜けたような声で言いながら溜息を吐く。
「何が本調子じゃないだ‥くっそ!」
地面に押し付けられた状態で悪態を吐く響。
「ああ、あんたにここまでの事は期待して無いから気にすんな‥」
ポカンとそんな二人を見ている海に気付き明希はあっさり言うと煙草を取り出す。
「おい!除けよ!!」
「ったく、いきなり仕掛けてきやがって‥暫くそうしてろ‥」
響は下で喚くが明希は涼しい顔で言いながらチラリと響を見てから海に視線を戻す。
「お前は元々、一般人だ‥俺やこいつみたいになろうなんて考えるなよ
こういうのは長く訓練してようやく出来るようになるもんだ
だから力の操り方だけ覚えりゃ良い‥マリーにはその辺、説明したつもりだったんだがどうやらそれが許せんらしい
あいつは元々組織に入る前から少年兵としてやってきた奴だからな‥
多少の組み手なら俺が教えてやるから欲張ろうと思うなよ」
言いながら煙草に火を点けた。
「確かに俺はお前らと違う‥けど!
そんな風にお荷物扱いされる為にここに来たんじゃない!」
海はそう言われるとだんだん腹が立ってきて怒鳴るように返して立ち上がる。
「だから熱くなんなって‥ったく、あんたと言いこいつと言い‥
もう少し頭冷やさんと出来るもんも出来ねぇし見えるもんも見えなくなる
今日は二人とも戻ってもう一度よく考えろ」
明希は煙をふうと吹くとゆっくりと立ち上がった。
「俺までこいつと一緒にすんな!」
身体を起こすと響が言う。
「お前も一緒だ響
似てるから東條はお前をこいつの所に寄越したんだろうが‥いい加減、焦るよりもっと自分の周りに目を向けろ
期待してるから東條はお前をお山に返したんだろ?
だったらそれに答えられるようにお前自身が自分で考えろよ」
明希の言葉に海は響もまた何か問題を抱えているのだと悟る。響は言われるとフイと明希の視線を避けるように顔を逸らせた。
「とにかく今日の訓練はここまでだ‥こいつは連れてくからお前も東條の所に戻れ」
明希は言うと海の腕を引っ張って歩き出す。
「お‥おい!」
「良いから来い‥」
海は少し抵抗するように言うと明希は構わず引っ張って歩く。
「ほら‥上脱げ‥」
そして海の部屋まで連れて来るとベッドに海を掘り込んで引き出しから救急箱を取り出す。海はベッドに掘り込まれた瞬間に別の心配をしたが全くそれは無用のようだった。
「別に怪我なんかしちゃいない」
身体を起こしながら言うが明希はまるで聞いていないように海の身体から着ている物を剥ぎ取る。
「ちょ‥何すんだ‥よ!」
抵抗しながらも脱がされて見ると体中に引っ掻き傷のような痕が沢山有り服も上着で分からなかったが血塗れで乾いている。
「力のコントロールが安定しない内に使おうとするとそうなる‥まぁ、夢中になり過ぎて気付かなかったんだろうがあんまり続けりゃ流石の俺達でもぶっ倒れちまうぜ
力を使って出来た傷は普通の怪我に比べて治り難いからな」
海がそんな自分の身体を見て驚いていると明希は手にした消毒液でガーゼを湿らせ海に渡す。それを受け取ると血塗れの身体ともう治りかけの傷口を拭く。
「って‥」
今まで何も感じなかったのに見てしまうとなんだか痛いというか余計に消毒液が沁みる気がした。
「ほら‥後ろ向けよ」
明希はもう一枚のガーゼに消毒液を染み込ませながら言うと海は申し訳なさそうに後ろを向く。やはり凄く沁みるがそれ以上に明希の手の温もりにハッとする。海はどんどん居た堪れなくなってきて俯いた。
「よし、とりあえず傷は塞がってるが今日はもう止めとけ‥流石にいきなりそれだけ使えばバテる
もう今日は何もしないでゆっくり休んでろ」
相変わらず何も気にしていない風で明希は拭き上げたガーゼをごみ箱に掘り込んで救急箱を片付ける。
「なぁ‥」
海はあの日の事を聞こうか迷いながら声を掛けるがそれ以上言葉が出ない。
「あの時の事は悪い夢だと思って忘れとけ」
海の方を向かずに明希は言った。海は何か言いかけたが言葉を飲み込み、明希はそれに気付いたのか気付かなかったのか海を見る事も無く部屋を出ようとした。
「悪かったよ!」
海が言うと明希はようやく振り返る。
「お前がそんな過去を背負ってるなんて思いもしなかったんだ
傷を抉るような真似して悪かった!」
身体を弄んだ事を言われるかと思えばそっちだったのかと明希は複雑な気分になった。
「別に気にしちゃいない
だから忘れろよ‥いつまでも気にされちゃこっちが気色悪ぃから‥」
何だかいろいろ困ったなという顔で答える。
「な‥気色悪いって何だよ!」
せっかく思い切って謝ったにもかかわらずあまりに無碍に言われたので思わず顔を上げて怒鳴った。
「俺はもう野郎と寝る趣味はねぇんだよ‥頼むから忘れてくれ‥」
明希が面倒臭そうに切り捨てる。
「なっ!てめぇっ!お前のせいで俺は‥」
海は危うく勢い余り、一人で処理をした事を言いかけて言葉を飲み込んだ。
「まぁ、ある程度の責任は取ってやるが欲しけりゃ女買いに行けよ
連絡さえ取れりゃ出入りは制限されない
籠って訓練ばかりしててもストレス溜めるだけで進まんからな‥その辺はガキじゃねぇんだから適度に自分をコントロールしろ」
何となく察した明希が大きな溜息の後に言って部屋を出て行った。また気持ちを見透かされたかのように言われ海は明希を呼び止める事も出来ずただ顔を赤くして呆然とするしか出来なかった。
明希に対して恋愛感情が沸いた訳ではないがこのままでは以前のように普通に接する事も出来ない。海は己の感情が理解出来なくなっていた。結局、明希が帰って行ったあと布団に横になるとすぐに眠りに落ちた。
目が覚めたのは夜も更けた頃、空腹でラウンジに行くと職員が数人食事を取っていた。どうやら職員達の休憩中に当たったらしい。海は隅っこで食事をしながら職員達の会話に耳を澄ませる。家族の事や些細な愚痴など日常会話がほとんどで普通の人と変わらない。ありふれた光景に失った日常を思い出す。そしてそんな日常を遥か昔に無くしてしまった明希達の事を考えた。
〈温い世界で良いじゃないか‥それが本来の在り方だろうが‥〉
海は響の言った言葉を思い出しながらそう思うと席を立ち、トレーを返すとラウンジを出る。それから部屋に戻らずに明希の部屋を訪ねた。もっと明希と話したい、話して自分の置かれている現実と己の本心を知りたいと思った。ノックをしたが応答は無い、どうしようか悩んだが勝手にドアを開けて中へ入る。いつも明希は勝手に入ってくるじゃないかと自分に言い訳しつつ、海は真っ暗な部屋を見渡すと明希はベッドに入って寝息を立てていた。海はそれを見ると溜息を一つ吐いてベッドに腰を下ろし、明希の顔をチラリと見てから項垂れるとまた溜息を吐いた。
「何だ‥夜這いか?」
いきなり声をかけられて海はガバっと立ち上がって明希を見る。今の今まで寝息を立てていたのにいつの間に起きたのか明希は目元を腕で覆って怠そうにしていた。
「なっ‥そんなつもりじゃ‥ちょ‥ちょっと話がしたかっただけで‥その‥」
急な出来事に動揺して海はしどろもどろで上手く言葉が出ない。
「‥俺は明日から忙しいんだよ
一発くらいなら付き合ってやるからそれ以外の事なら勘弁してくれ」
かなり寝ぼけているのか明希は雑にそれだけ言うと背を向けて布団に包まる。海は何と返して良いかさえ分からない。ただ単に寝ぼけているのかそれとも自分を追い払いたいだけなのか‥。その場に立ち尽くして困っている海を明希はチラリと振り返る。
「ヤらねぇんならさっさと出てってくれるか?」
気怠そうにそう言った明希に海は無言で慌ただしく部屋を出ようとして立ち止まる。
「責任取るんだろ!」
少し考え引き返し、思いきって言い放つと明希はびっくりしたような顔でポカンとする。
「あんたにゃ時々、負けそうになるな‥」
そして諦めたのか電気を点けぼやきながら明希はベッドの縁に座った。海はようやく勝ち誇ったように笑みを漏らすと明希はまだ怠そうに頬杖を付いた。
「で、何が聞きたい?」
明希が一言、不機嫌そうに聞く。
「俺達が戦う相手について」
海は簡潔に答えた。次から次から出てくる海の問いに対し明希は淡々と答えていく。そして二時間ほど話してようやく海が納得する頃には明希の目は完全に覚めていた。
「じゃ、俺も部屋戻って休む」
海は満足げに言って立ち上がると明希は海の腕を掴んでベッドに引き込んだ。
「このまま帰れると思って無ぇよな?」
「お前がしたいならすりゃ良い‥けど俺がしたくなったら付き合えよ」
起こされた腹癒せにちょっと脅かすつもりで言ったが海は開き直ってそう返した。話す内に海はようやく自分の感情に整理を付けたのだ。明希は仲間であり家族であり痛みを分かち合える友人だと、そう考えれば快楽を共有する関係も悪くないと思えた。何より年下にこのまま良いように扱われるのも癪に障る。海なりの反撃開始だ。明希はその言葉に一瞬困惑して見せたが言い出した手前、引っ込みも付かずに諦めたように溜息を吐く。
「あんまりそういう事してっと女抱け無くなるぞ?」
「俺は無類の女好きだ
ちょっと世界が広がっただけだと思えば別に問題無い」
少し呆れたように明希が言うと海は自慢げに返し明希は盛大な溜息を吐く。
「自慢する事じゃねぇだろ」
明希は答えながら心の底からあの時の選択を誤ったと後悔した。
二つの寝息が響く中、枕元の通信ランプが微かに点灯すると明希は眼を覚ます。
「どうした?」
隣で寝ている海に気付かれないよう小さな声で応答する。
『今、ミシェルから連絡があってどうやら施設内にバーサーカーがいるみたいなの‥サイファもすぐに合流する予定になってるんだけど‥』
通話口から静かに紫苑が答える。
「‥分かった‥すぐ行く」
明希は返すと身体を起こし、そっとベッドを出て物々しい服装に着替えながら時計を見た。結局あれから海と一戦交えて眠りに着いたのは1時間ほど前、海は達すると疲れていたのか気を失うように寝てしまったので仕方無く明希は狭いベッドで眠りに着いたのだ。普段から人が近くにいると熟睡など出来ない明希にとって隣で誰かの寝息が聞こえるのは不快な事、だから尚更、疲れが取れている筈も無く溜息交じりに服を着ると電気を点けた。
「おい起きろ‥」
気兼ね無く海を叩き起す。
「ンだよ‥まだ4時じゃないか‥」
海はまだぼんやりしたまま体を起こすと欠伸をした。
「俺は暫く留守にするからお前は適当にあいつと訓練してろ‥まぁ、もう無茶はせんと思うがあんまり気負い過ぎんなよ」
明希は言いながら装備を身体に付ける。
「そんな格好してどっか行くのか?」
それを見て海はまだ寝ぼけた様子で聞く。
「ちょっと応援だ‥とにかく早く服着て部屋に戻れよ」
言い置くと一通り装備を終えて上着を取り部屋を出て行く。その緊迫感の無い口調に海はさほど重要性を感じる事も無くまだぼんやりした頭で閉じられたドアを眺めていた。
明希が指令室に入ると紫苑はたくさんのモニターを眺めながら難しい顔をしていた。
「どんな様子だ?」
そのモニターに目をやり明希が紫苑の横に歩み寄りながら声を掛ける。
「うん、ミシェルの報告だと当初の報告よりかなり大規模な施設みたい‥地下にかなりの研究施設と科学者が集まってる
その一角に多数の実験体が収容されてるみたいなんだけどはっきりは掴めてないみたい
かなりセキュリティが厳しくてトニーも手古摺ってるらしいわ
でもエレメンツ反応が強いって三七三ちゃんが言ってるらしいからたぶん間違いなくいると思う‥小規模だと思ってたからミシェルとトニーしか行かせなかったのは大誤算ね
もし仕掛けたら本格的に能力対決になるかもしれないけどどうする?」
紫苑が画面を指しながら現状を説明して明希の意見を待つ。
「遅かれ早かれそうなるんだ‥それなら出来るだけ相手の手足は捥いどいた方が良い
とにかく施設は潰して相手に話が通じるようならスカウトしてくるさ‥」
明希は画面を見ながら幾つかタッチパネルを操作して詳しい情報を頭の中に叩き込む。
「でもまだ本調子じゃないでしょ?
無理はしないで‥」
紫苑が気遣いながら明希を見る。
「まぁサイファもいるし大丈夫だろ‥とにかく今から出る」
緊迫感も無い口調で言うと明希はまだ少し眠そうな顔で部屋を出て行く。格納庫に向かうと既にヘリがスタンバイしていて明希はそれに乗り込んで箱庭を後にした。
三日後、明希に言われ頭の冷えた海は響との訓練でそれなりに力を使いこなせるようになった。少し余裕も出てきて一度、自宅へ戻り陸とゆっくり話そうと思ったが思わぬ邪魔が入り結局チラッと顔を見ただけで戻ってきてしまう。翌日も訓練の為に朝、いつものように庵へ向かう。
「今日から訓練室を使う‥もう俺の結界じゃ持ちそうもないからな」
響は海を連れて地下の訓練室へ足を向ける。道すがら格納庫の方へ慌ただしく人が向かうのを見て二人はそちらへ行ってみた。
「三七三!」
響は輸送ヘリから下りる一人の少女を見て叫んだ。海はその少女を見て驚いたように目を見開く。響と同じ顔だった。
「兄様‥」
三七三は二人の所へ駆け寄り涙ぐむ。
「兄様‥どうしよう‥私‥どうしよう‥」
響に訴えているとヘリから大きなカプセルと見慣れない青銀髪の少女が下りてきた。ミシェルは慌ただしくあれこれ指示している。カプセルの中には明希がいた。そして最後に赤毛の青年が満身創痍の様子で他の武装した隊員に支えられて下りてくる。海はその様子にただ漠然としていた。
「どうした?何があった?」
響は三七三に聞く。
「‥まさかエレメンツロイドがいるなんて思わなかったの‥私‥感知出来なかった」
はらはらと涙を流しながら三七三が言うと響は三七三を抱きしめる。
「分かった‥もう良い‥
とにかくお師さんの所へ行こう‥な?」
慰めるように言う。
「悪いが訓練はまた今度だ‥お前もあいつらの所へ行け」
響は海に言うと三七三を連れてその場を去った。海はともかく何があったのか知りたくてミシェルの傍へ駆け寄る。
「何があった!?
あいつどうなってんだ!?」
「話は後でする
とにかく今は皆の傷の手当てが先だ‥お前も調整室へ行って出来る事をしろ」
捲し立てるように聞くがミシェルは冷静に言い置くと海に背を向けてまた支持を始める。よく見ればミシェルの身体もボロボロだ。海は言われるまま調整室に向かうが室内は人で溢れていた。その中でさっきの少女が紫苑と共に計器を弄っている。
「何か出来る事はあるか?」
「救護室に行って溶解液を取ってきて!
向こうには連絡入れてあるから私から頼まれたって言えば分かるわ」
海が駆け寄り聞くと紫苑はチラッと見て言い放ち、海は頷いてすぐに調整室を飛び出す。救護室もまた怪我人で溢れている。海は近くにいた看護師に紫苑からの遣いだと伝えるとすぐに液体の入ったビニールバックを2つ渡され、それを受け取るとまた駆け足で調整室に戻る。戻ってくると調整槽の中に明希と赤毛の青年の姿があった。二人とも酷い傷でその姿に思わず海は胸が悪くなり口元を押さえる。
「早く溶解液をそこに入れて!」
紫苑にきつく言われ海はハッとして持ってきた溶解液を指示されたパイプに流し込む。
「データ組んだからそっちへ流すね!」
「うん!こっちの準備はもう良いよ」
操作盤の前でキーボードを叩きながら青銀髪の少女が言うと紫苑が答え、計器を弄りながら操作パネルを睨む。そして小さく“来た”と呟いてから紫苑は全てのレバーを上げた。すると大きな音がしてモータが回り始める。
「おい!摘みを二度下げろ!
あと目盛りは7だ!」
職員が叫ぶと紫苑は言われた通り調整を始める。海はただ息を呑んで見守るしか出来ない。相変わらず青銀髪の少女は操作盤を慌ただしく弄っている。
「どうだ?」
いつの間にいたのかミシェルが後ろからそう声を掛けてきた。
「俺もよく‥分かんねぇ‥」
ミシェルを見てすぐに視線を戻すと海がポツリと答える。
「そうか‥とにかくここは任せておこう‥」
ミシェルに言われて海は後ろ髪引かれる思いでミシェルと共に調整室を後にした。そしてミシェルに付いてラウンジに行く。
「いったい何があった?」
ラウンジに入るなり海が聞くとミシェルは無言で適当な場所に腰を下ろし海にも座るように促す。
「俺達が潰すはずだった施設が思いの外、大規模で明希達に応援を要請し慎重に探りを入れてから施設内に侵入した
が、予想外にそこへ別の施設からコンテナが輸送されてきて俺達は計画を変更する羽目になり一度、施設を離れた
コンテナの中身も把握する必要があったからな‥
しかしコンテナはより強固なガードがされていて直に中身を確認しなければならなかった
囮役には俺とサイファで当たり、コンテナは明希が確認に行った
案の定、俺達にも明希にも追手は付いた‥明希達と同じバーサーカーエレメンツだ
何とか説得しようと試みたがどうやら何か洗脳操作されているようでどいつもこいつも正気じゃ無かった
しかし不完全な奴らばかりであいつらの敵じゃ無かったがな‥」
そこで一旦ミシェルは言葉を切るとカウンターへ行きコーヒーを二つ受け取ってきた。
「だったら何で二人ともあんな‥」
海は言いかけるとさっき見た二人の様子を思い出し眉を寄せる。
「コンテナの中身はあいつらの細胞で作ったエレメンツロイドだったんだ」
ミシェルの一言に海は眼を見開き言葉を失う。
インプットされた情報の中にあった樹莉と同じ存在だ。
「完成していた‥まるで大人と子供ほどの力の差だった‥
しかしまだ経験不足なのか動きが固い分、二人には有利だったがそれでも三七三に援護して貰って逃げ出すのが精一杯だった
とくに明希はサイファを庇って瀕死の状態だ
二人が回復するまで数日かかるだろうが俺達もやられっぱなしだった訳じゃない
こちらも織彩を手に入れた‥すぐに反撃の糸口は掴める」
言い終わるとミシェルはコーヒーに口を付けた。そして海はあの赤毛の青年こそがいつも話に出てくるサイファなのだと今更ながら理解する。
「じゃぁさっきいたあの子が?」
「そうだ、あの施設の深部にいた
エレメンツロイドを使って新しい兵器を作ろうとしていたんだろう
明希は織彩を見つけ、焦るあまりエレメンツロイドと戦う羽目になった
全く‥人に無茶をするなと言う癖に‥少しは懲りてくれれば良いんだがな‥」
疲れたような声で言うとコーヒーを飲み干し立ち上がる。
「とにかく今は混乱している‥お前は暫く部屋で大人しくしていろ」
まるで子供に言い聞かせるように言ってラウンジを出て行った。海はただオロオロするばかりの自分がそう言われても仕方ないと思いつつ、やはり二人が気になりコーヒーを飲み干すと調整室へ戻る。しかしそっと調整室を覗くとまだ混乱していて海は邪魔にならぬよう自分の部屋に戻る事にした。
正真正銘の命の駆け引き‥これが己の関わっている現実なのだと思うと途端に恐怖が込み上げる。海はその恐怖を打ち消すように枕に顔を埋めた。
翌日も部屋と調整室を行き来しながら二人の様子を窺う、入る事も躊躇う混乱ぶりだったのが二日後には少し落ち着いてきた。次の日、海が調整室に入ると何か人の輪が出来ていて人々は一斉に海の方を見た。
中心にはまた見慣れない怪しげな老人と織彩がいる。
「やぁ、初めまして‥君が海君だね‥」
老人は嗄れ声で言うとニッコリ笑う。海はその輪に近寄りながら訝しげに老人を見て会釈交じりに頷いた。
「私はここの責任者、ヒューバート・グレゴリー‥君の噂は聞いているよ
災難だったが協力して貰えて嬉しいよ」
ヒューバートは自己紹介すると手を差し出し、海はその名を聞いて至極緊張しながら戸惑いつつもその手を取る。この箱庭の設立者で天才科学者だとインプットされていたからだ。ヒューバートは嬉しそうに手を握り返し上下した。あまりに気さくなその雰囲気に自然と海の緊張も解れる。
「君達には樹莉が世話になっていると聞いている‥あの子は元気にしてるかね?」
「あ、はい‥今は婆ちゃんとこで楽しくやってるみたいです」
海は陸から又聞きした情報を話すとヒューバートはニコニコしたままそれに頷く。
「今日からここで一緒に暮らす織彩だ‥彼女が樹莉に会いたがってるんだが今、彼女はここを離れる訳にはいかんのですまんが君が樹莉を迎えに行ってやってはくれんかね?」
次に織彩を海に紹介する。海はようやく織彩を正面から見て少し動揺した。モロに好みのタイプだ。
「あの‥初めまして‥
樹莉君の事、よろしくお願いします」
織彩はそう言ってペコリと頭を下げた。
「ああ‥うん‥分かった
すぐ連れてくるよ」
少し逆上せたような感覚で海はそう答えると少し頬を赤くする。
「では私はまだ仕事が残っているので失礼するよ‥」
ヒューバートは言うと杖をコツコツ付きながら調整室を出て行く。
「あの‥あいつらは?」
海はそれを見届けると紫苑に聞いた。
「もう大丈夫、サイファは21時間後‥明希は47時間ほどで調整槽から出られるわよ」
ようやくいつも通りの口調でそう答えるのを聞いて海は胸を撫で下ろす。
「じゃぁ俺、樹莉を迎えに行って来るよ」
安心したように微笑むと海は紫苑と織彩に言って調整室を出た。
辺りの雪もまばらになった田舎の一軒家。
「ダメなの!
そっちはまだ雪が残ってるからこっちで遊ぶの!!」
庭先で樹莉が子猫を追いかけ回している。そろそろ家の中に飽きた樹莉もようやく表で遊べるほど昼間は寒さも和らいできた。老女はそれを縁側で微笑みながら眺めて縫物をしている。
「婆ちゃん、ただいま」
海が庭へ直接挨拶に来た。
「あらあら、どうしたのこんな時分に‥」
いつもならこんな平日にやってくる筈の無い海を見て老女が驚きながら言う。樹莉も海に気付いてそちらを見ると一目散に駆け寄ってきた。子猫は突然の来客に戸惑いながら樹莉の後ろを警戒しながら付いて行く。
「うん、今日は樹莉を迎えに来たんだ」
老女の傍へ来ると立ち止まって樹莉の方を見た。樹莉はポカンとただ海を見ている。
「織彩が見つかったよ‥お前に会いたがってる」
「ほ‥ホントなの!?
織彩に会えるのっ!?」
海が少し微笑みながら言うと樹莉はその言葉に始め固まりその後、凄い勢いで足元をヒョコヒョコ行き来しながら必死に確認する。海はそれに答えるように微笑んだ。
「樹莉君やっと織彩に会えるの!
嬉しいの!嬉しいのっ!!」
「良かったねぇ‥
ずっと会いたかったんだものねぇ‥」
老女はそんな樹莉を見て少し寂しげに微笑んで言う。子猫は意味も分からなさそうにただ小首を傾げた。
「とにかく上がんなさい
お茶を入れるから‥」
「ごめん婆ちゃん、あんまりゆっくりしてらんないんだ‥
今度ゆっくり遊びに来るから‥」
老女はゆっくり立ち上がりながら言うと海は申し訳なさそうに答え樹莉を抱き上げ肩に乗せる。
「あらそう?
じゃぁちょっと待っててね‥樹莉君のお家、持って来なくちゃ‥」
言ってから老女は奥へ向かうと樹莉が持ってきた家財を纏めて持ってきた。子猫はやはりよく分からないらしく遊ぼうとせがむように一声、ニャァと鳴く。
「樹莉くん織彩に会いに行くの
だからちゃんと良い子にしてなきゃダメなの‥分かったの?」
ちょっと心配げに樹莉が言うと子猫は海にすり寄って樹莉を下ろせと言わんばかりにニャァニャァ鳴く。海は困り顔で屈むと子猫を抱き上げた。
「またちゃんと遊びに来るから行かせてやってくれよ‥なぁ?」
鼻が付きそうなほど顔を近づけて子猫を説得する。
「大丈夫、にゃぁちゃんには婆ちゃんがいるでしょ?」
「ちゃんと樹莉くんが留守の間、お婆ちゃんのお手伝いして欲しいの
もうにゃぁちゃんはお手伝い出来るの‥良い子なの」
老女の後に樹莉も続けて言うと子猫はようやく納得したように小さく鳴いた。海は子猫を老女に渡すと微笑みながらその場を去り、老女と子猫はそれを寂しげに見送った。
箱庭に着くと樹莉は海の肩に乗って織彩の元へ向かいながら擦れ違う人々に挨拶をした。ひっきりなしに誰かが声を掛けてくる所を見るとかなり人気があるようだ。
「織彩は?」
海は調整室に入ると紫苑に聞きながら辺りを見回した。
「仮眠取ってる‥樹莉君お帰り」
紫苑は相変わらず端末を弄りながら返すと樹莉に微笑む。
「ただいまなの」
樹莉もニコニコしながら返す。
「仮眠中なら仕方ないな‥樹莉、もう少し待てるか?」
「樹莉くん織彩に早く会いたいの」
少し溜息交じりに海が言うと樹莉はしょんぼりしながら答える。
「気を遣わなくても会いに行けば良いわ‥織彩も待ってるから‥
織彩の部屋はサイファの2つ隣りだから行ってらっしゃい」
紫苑はニッコリしながら樹莉に言った。
「じゃぁちょっとだけこいつ連れて顔見に行ってくるよ‥」
海は言い置くと樹莉と共に調整室を出る。そして織彩の部屋まで来るとノックをしたが返事は無く、ドアノブに手を掛けるとドアは開いた。
「織彩?」
小さく言いながら海が中へ入ると織彩はスースー寝息を立てている。ゆっくりと歩み寄りベッドサイドまで来ると少し興奮気味の樹莉を織彩の枕もとに下ろしてしぃっと合図をした。樹莉は身ぶり手ぶりで織彩を見た興奮を海に伝える。
「分かったから起こさないようにな‥」
小さく言うと海は椅子に腰を下ろす。樹莉は織彩を起こさないように顔の周りをチョコチョコ動き回っては織彩の顔を眺めた。そして一点で動かなくなると樹莉は涙を浮かべて感動したように織彩の顔に手を伸ばす。
「‥樹莉君?」
触れる前にそっと目を開けて織彩が言う。
「織彩?‥織彩なの?」
だぁっと今まで抑えてきた物が樹莉の目から流れ、そして織彩の顔にへばりついて思い切り頬擦りする。
「会いたかったの!会いたかったのぉ!!」
「私も‥会いたかったよ‥」
織彩はそんな樹莉に手を添え、軽くキスをした。海はその光景に満足そうな笑みを浮かべる。
「ありがとう‥」
海に気付くと織彩はまだ寝起きの表情のまま微笑みながら言う。そのあまりの愛らしさに海はドキッとしながらも一つ頷き、頬を染め微笑み返して部屋を後にした。そして樹莉と織彩はようやく対面出来た幸せに浸った。
翌日、サイファが調整槽から出てきたがまだ本調子では無いらしく床に伏せっていた。海はそんなサイファを見舞う為、部屋を訪ねた。元々人見知りの強いサイファと話す事は無く、冷たい感じの印象しかなかった。
「まだ調子戻らないんだって‥大丈夫か?」
海は戸惑いつつもラウンジで調達した甘味を肴に何とかコミュニケーションを取ろうと試みる。しかしながら甘味を目にした時のサイファの幼い表情に海は少し驚いた。
「べ‥別に大した事は無い
暫く寝てれば治る」
甘味から目を逸らして少し照れたように返すサイファに海はそれを差し出す。
「とりあえず差し入れ‥好きだって聞いたからさ‥」
少し微笑みながら言うとどうやらかなり好きらしく無言で受け取りペロリと平らげるサイファ、その満足そうな顔に海は少し肩の力が抜ける。あの廃工場で見せた冷たい表情とは裏腹にとても可愛らしく少女のように見えた。
「とにかく出来る事があったらいつでも声掛けてくれ‥まだ皆の足元にも及ばないだろうけど極力努力はするから‥」
「無理だな‥お前は人を殺した事が無いだろう?
お前にあいつらは倒せないし殺せない」
躊躇いがちに海は微笑んで言うがサイファが表情を戻し冷たく淡々と返すと現実の重さに言葉を失くす。
「そういう事は俺達が引き受ける‥だから進んで手を汚そうとするな」
続けた言葉に海は今までサイファを誤解していたのだと知った。冷たい表情で何の躊躇いも無く敵を焼失させた火炎魔神はその優しさを氷の表情に閉じ込めているのだろう。本来なら穏やかで心優しいであろうこの青年から豊かな表情を奪った運命を海は呪った。
「サンキュ‥でも、俺も守りたいんだ‥陸やここの奴ら‥俺の周りにいる皆を‥
まだ正直言うと怖くて仕方無い‥けど、守りたいんだ」
素直に想いを口にした海はようやく自分の本心を理解した気がした。そう、守りたいから力が欲しい。切実にそう感じるのだった。
その翌日には明希が調整槽から出てきてやはり床に伏せっていた。海は明希を見舞うと共に詳しい事情を聞こうと部屋を訪れる。
「ったくザマァ無いぜ‥」
まだ動き辛そうな身体を起こすと明希がぼやく。
「だから寝てろって‥」
海は苦笑いを浮かべつつ明希に言う。しかし明希は構わずベッドサイドに置いてある煙草と灰皿を手にした。
「まぁこれくらいで動けんようじゃこの先思いやられるってこった‥」
煙草に火を点けながら返す。相変わらず平気な顔はしているが相当辛い事は何となく分かる。身体の殆どの機能が停止しかけて普通なら死に至る大怪我だ。元が人間を媒体にしたバーサーカーエレメンツなのだから当然、あそこまでの傷を負えば死に至るがその命を繋ぐ事が出来たのは恐らく織彩が傍にいたからだろう。
「で、何があったんだよ?」
海は明希に対してはストレートに聞く。明希はそれに答えてくれる事を承知していたせいもあるが何よりこの箱庭で一番気を置ける相手で聞きやすかった。
「だいたいはミシェルから聞いたんじゃないのか?」
明希は煙草を蒸しながら答える。
「ああ、エレメンツロイドがいたんだろ?
でも俺が聞きたいのはそういう事で無くてだな‥何でそいつと戦わなきゃなんない羽目になったかって事だ」
海が食い下がると明希は煙草を咥えたまま頭を掻く。
「俺が施設の深部に入り込んだ時、妙な懐かしさを感じた
あんまり思い出したくは無い懐かしさって奴だがな‥それを頼りに実験室を探し出したらそこにコンテナと投薬中の実験体がいて科学者達が集まってた
織彩もそこにいたが助け出すには人が多すぎて俺は機会を待つ事にしたんだが‥」
そこまで言うと言葉を切って煙を吐き煙草の灰を落とす。海は無言でその先を促すように沈黙したまま明希を見つめた。
「その実験体の内の一体が暴走して実験室を破壊しだした
たいがい強化ガラスと封じの呪で実験体程度がそこを出られるもんじゃないんだが、どうやらそれが利かない変異亜種が出てきたらしくてな‥実験室は混乱してた
だからその隙に中身の確認は置いといて織彩の保護を優先して動こうと思ったんだ
俺は織彩の身柄を確保して他の科学者達から遠ざけつつその実験体から離れた
だがその混乱でパニくった科学者の一人がコンテナを開けたんだよ
それが俺達のエレメンツロイドだった
その力たるや俺も流石に驚いた‥一瞬だ
一瞬で全ての実験体を粉微塵にし、燃やし尽くした
あいつらは何か頭に細工されてるのかその科学者の言う事しか聞こえて無いようだった
俺とサイファのエレメンツロイドはすぐに俺に気付いて攻撃を仕掛けてきたんで慌てて織彩を連れて逃げたんだが‥ドジっちまってこの様だ
肉体強化をしても能力差は向こうの方が格段に上だからな‥俺の支配する金属にあいつの力が浸食してきてその時点でアウトだった」
明希は言い終わると溜息を吐いてから煙草を揉み消す。
「やっぱり相当強いのか‥そのエレメンツロイドってのは‥」
相変わらず飄々と説明する明希に切迫感は感じられないが事態が深刻さを物語っている。海は神妙な面持ちで視線を下げた。
「そりゃそうだろ、戦闘に特化した細胞と一番妖質の強い細胞を掛け合わせて作られた人工生命体だからな
それを上回るにゃ相当な訓練と強化がいるだろうさ‥」
明希は灰皿を元の場所に置くとまた体を横にする。
「とにかく今はあっちの情報を織彩から詳しく聞いて俺達の強化を図って貰わんと話にならん
向こうも暫くは動いて来んだろう‥出来れば樹莉が使いものになれば良いんだがな‥」
宙を見上げ冗談半分にそう言った明希だがおそらく本音だろう。
「それよりちっとばかし頼まれちゃくれないか?」
「何だよ?
お前の方から頼み事なんて珍しいな‥」
明希が海に視線を向けて言うと訝しげな顔で少し恐る恐る聞く。
「ああ見えてサイファの奴、きっと落ち込んでるだろうから気晴らしにどっか連れ出してやってくれ。あいつは思いつめるとすぐに限界考えないで無茶するからな‥」
「そりゃお前も同じだろ?
無茶ばかりするってみんな怒ってたぞ!
サイファの事は分かったからお前はしっかり皆の説教でも聞いて大人しく寝てろよ!」
明希が少し微笑みながら言うと海はムッとした顔をして小言を言うと立ち上がる。思いがけない小言に明希は気不味い顔で耳をホジりながら聞こえない振りをした。たぶん海に言われる前に散々、ミシェルと紫苑にでも言われたのだろう。ちゃんと寝てろよと念を押すと海は明希の部屋を後にした。
その数時間後、海とサイファの姿は箱庭から一番近い街の繁華街にあった。海は理由を付けて買い物に誘ったのだがサイファは人込みが苦手でそういう所に近寄りたくないらしく、かなり嫌がってはいたが半ば強引に連れ出した。
「あっちに有名なケーキ屋があるんだってさ‥とりあえずそこでお茶してせっかくだから皆に土産買ってこうぜ」
着いて早々、ケーキ屋に向かうとサイファの目の色が変わった。まるで玩具を見る子供の目だ。
「あんまりこういうトコ来た事無いとか?」
「‥任務に関係無い所は行かない」
海が少し苦笑しながら聞くとサイファは己の表情に気付いたのか隠すように視線を逸らせ答える。
「そっか、俺、甘いの苦手でこういうの疎くてさ‥紫苑とかが好きそうなの注文してくれないか?」
そう言った海をサイファはチラッと見てから戸惑いつつも店員に注文を始めた。一通り注文を終えると用意して貰っている間にカフェの方でお茶を飲む。相変わらずサイファは無表情でケーキを突いているが何処と無く嬉しそうだと海は感じた。そしてお茶を済ませると大量のケーキを受け取り店を出た。
「俺ちょっとこれ車に置いて来るから先に行っててくんね?
俺もすぐに行くからさ‥」
視線で大きなビルの一つを指すとサイファは頷いてそちらへ向かって歩き出した。心なしか機嫌は良くなったように見える。海はその背中を見届けると車へ向かった。
サイファが出来るだけ人を避けて建物の際を歩いているといきなり飛び出してきた女性とぶつかる。
「ごめん‥あ、ソーリィ‥」
女性はすぐにサイファの方を見て言い直す。サイファはその容姿を見て少し違和感を覚える。金髪ではあるが明らかに染めた色では無く瞳の色は金色、顔立ちは日本人なのにその鮮やかな色はあまりにも異質に映った。もし同じバーサーカーならばこんな所を暢気に歩いている筈が無い。何より自分達と同じならばその存在を隠そうと自分達がしているように投薬で髪や瞳を変色させるだろう。
「あ‥英語じゃないのかな?えーっと‥」
女性は一人言のように言うとサイファを見て何語で謝れば良いのか考え込む。
「別にたいした事は無い」
あまり真剣に女性が悩んでいるのでサイファはとりあえずそう返した。
「あ、良かった日本語話せたんだ
とりあえずごめんね!」
安心したように言うと微笑んでから走り去って行く。サイファはその後ろ姿を眺めながら慎重に女性の気配を探るが慣れた気配とは遠く離れていた。しかし普通の人間の気配という訳でも妖怪や幽霊の類でも無い、不審に思いつつ後を着けようと思ったがその微かな気配は人込みに紛れてすぐに分からなくなった。サイファは諦めて海に指定された建物へと向かう。そして海と合流するとサイファは海に日が暮れるまで連れまわされるのだった。