陰陽師
最後の調整を受けて海が調整槽から出ると明希の姿を探すが見当たらない。だいたい調整槽から出る頃にはいつも様子を見に来ていたからだ。
「あいつは?」
忙しく手を動かす紫苑に話しかけながら体を拭いて袷を羽織る。
「隣に居るわよ」
答えて紫苑は隣の調整槽を見た。海が隣の調整槽を見るとそこには明希の姿がある。
「何でこいつが入ってんだ?
どっか悪いの?」
「明希はこれから肉体強化の調整をするのよ
今までだったらそのままでも良かったんだけど樹莉君があの状態って事はもうエレメンツロイドとの戦いは避けられないから今の内に強化しなきゃいけないって‥本当はまだ試薬の段階だから負担が大きいって却下したんだけど明希は自分が実験台になるからって聞かないのよ
本当に見掛けに寄らず頑固なんだから‥」
明希の入る調整槽の前まで歩み寄りながら海が聞くと紫苑は少し怒ったように返す。海はその迫力に少し気圧されそうになりながら再び明希を見た。内溶液のせいで前髪が上がっていつもより顔がよく見え、眉を寄せてかなり苦しそうな表情をしている事が分かった。その上、体中で裂けては閉じるを繰り返し内用液が花咲くように赤く滲んでいた。
「お、おい‥これって‥」
海は驚きながら紫苑を振り返る。
「だから言ったでしょ‥普通なら調整槽に入ればたいがいの苦痛は感じなくなるの
それでもこれだけ苦しんでるのよ?
それなのに明希は聞いてくれない‥私がどんな気持ちでここに居るのかもっと分かって欲しいわよ!」
たぶん紫苑の本音だろう。少し涙ぐんだ目でモニターだけを見て手を動かし続けていた。海はその様子からそれがとんでも無く苦痛を伴う工程だと理解すると再び明希に視線を向ける。苦痛に歪んでも尚、整った顔立ちに海は思わず見惚れていたがだんだん明希に対して腹が立ってきた。飄々としながら人に出来ない事をやってのけ自慢すらしない。そんな在り方に苛立ちと憧れと複雑な感情が沸き上がる。
「とにかく今は明希の調整を少しでも早めてデータを取らないと‥」
紫苑が言うと海は振り返りその顔を見るが涙ぐんでいた目はもう元に戻っていた。泣いている場合ではないと作業に集中する紫苑の姿に海は自分も何か出来やしないかと思う。すると調整室のドアが開いてまた見知らぬ顔が入ってきた。褐色の肌に深い銀髪の髪の女性とターミネーターのような中年男性だ。
「マリー!いつ戻ってきたの!?」
訝しげな海に気が付くと紫苑は手を止めて振り返り、途端に今までの怒ったような表情が崩れて微笑む。
「ついさっき‥で、そいつが噂の新人?」
マリーはくちゃくちゃとガムを噛みながら紫苑に言って海を見る
「うん、ミシェルもお帰り」
「ああ、明希はまた無茶してるそうだな‥」
紫苑がミシェルに話しかけると想像通りの低い声で返す。
「そうなの!
出てきたら怒ってやってよね!」
また紫苑が怒ったような口調でミシェルに言うとマリーはそれを他所に海の傍まで来てマジマジとその姿を眺める。
「ったく‥こんなの人に押し付けんなよ」
明希の方を見て小さく文句を言うと海に視線を戻しいきなり鳩尾に拳を入れた。いきなり強烈なパンチを食らって海は吹っ飛び床に突っ伏しながら咳き込む。
「おい!」
ミシェルは窘めるように声を掛けたがマリーは更にムッとした顔をした。
「こんなもやしの訓練に付き合うのなんか御免だね!
基礎反射くらい出来るようにしてから言って来いってんだバカ明希め‥
私に特訓して欲しけりゃまず東條に面倒見て貰え!」
海に吐き捨てるように言うとマリーは調整室を出て行く。ミシェルは海に近寄ると手を差し出した。
「大丈夫か?」
「何なんだあの女っ!」
海はいきなりの事に怒りを露わにしながらミシェルの手を取ると立ち上がる。
「許してやってくれ‥あれがあいつの挨拶みたいなものなんだ
俺はミシェル・パーセル、ミシェルで良い」
ミシェルが言うと海は納得いかないまま何とか気持ちを収めた。
「俺は藤木海‥海で良い‥」
自己紹介をしながらマジマジとミシェルを見る。よく明希達の話題に出てくるミシェルという人物を名前から美人の女性と想像していたのだがまさかこんな厳ついおっさんだとは‥海は少し当てが外れた様に俯いてまだ痛む鳩尾を摩る。
「ともかくマリーの言う事は一理ある
俺達に訓練を頼む前に東條の所へ行った方が良い‥明希も焦るあまりどうやらお前が一般人である事を失念しているようだ」
ミシェルがそう言うと海は見上げるようにチラリと見た。
「さっきから言ってる東條って誰?
それに訓練って?
俺、何も聞いて無いんだけど‥」
「明希ったら肝心な話をしてないのね‥
東條さんはここの専属陰陽師、北の9区画に居るわ‥たぶん
それとここでの貴方の当面の仕事は実践訓練よ」
困惑しつつ海が返すと定位置に戻った紫苑はミシェルの代わりに質問に答えた。
「付いて来い」
ミシェルが言って部屋を出ると海は鳩尾を摩る手を下ろしミシェルに付いて行く。長い迷路のような廊下をクネクネと歩きながら辿り着いたのは巨大な温室というか公園のような場所でその奥に小さな庵がある。前に作務衣を着た青年が立っていてこちらを見ながら微笑んでいた。
「相変わらず鋭い事だ」
「木々が騒いでおりましたから恐らく貴方が戻ったと思いまして‥」
ミシェルが感心したように言うと青年はニコニコとしながら返す。
「こいつが東條だ‥東條、こいつに力のコントロールを教えてやってくれ」
ミシェルが振り向き海に言うと東條に続ける。
「どうも‥藤木海です」
海は何とも頼りな気な東條をジッと見てから自己紹介しつつ軽く会釈した。
「よろしくお願いします」
至極丁寧な言葉遣いに柔らかい物腰の東條に気抜けしつつ少し安心した。実戦訓練と言うからまた厳ついおっさんが出てくると思っていたのである。
「ともかくお茶でもどうですか?」
東條は二人を庵に誘う。
「いや、俺は少し仮眠したらまた出なきゃならん‥また今度頂こう」
「相変わらずお忙しそうですね
では右から来る銃弾に気を付けて下さい
それ以外は急所を仕留められません」
ミシェルが言うと残念そうに東條が不可解な言葉と共に返す。
「分かった、毎度助かる」
答えてミシェルがその場を足早に去り海と東條はそれを暫く見送ると庵に入った。通された質素な座敷で海は若干緊張しながら勧められるまま腰を下ろし辺りを見回す。
「あの‥」
「こんな科学施設に陰陽師はそんなに不思議ですか?」
海が何かを聞きたそうに口を開くと空かさず東條がクスクス笑いながら聞きたかった事を言い当て、海は面食らいながら東條を見る。
「元々、龍の鱗という非科学的な物は我々陰陽師の管轄であって科学者が関わっている事の方が私達には不思議なんですけどね」
東條は続けるとお茶を入れ差し出した。
「我々の伝えの中に鬼子というモノがあります
鬼子とは人間と神々や妖怪といった異形の間に生まれる子供の事です
貴方も御存じでしょう?
昔話や神話に出てくるような存在ですよ」
「そんなモノ本当にいるんですか?」
東條に言われて海は思わず聞き返す。
「そうですね‥都市伝説的に言われているモノは偽物がほとんどですが中には本物もいるのですよ
鬼子と言うのはそのほとんどが成長しきれずにこの世を去ります
異形の力に人の肉体が付いていかないのですね
仮に成長出来たとしても何の対策も施さなければ正気でいる事は難しいでしょう
ですが科学の力でそれを可能にしたのが現代の鬼子‥つまりアークエレメンツです」
東條が説明すると海はまた初めて聞く言葉に首を傾げる。
「アークエレメンツ?」
訝しげに聞くと東條はまた少しクスッと笑う。
「貴方方がエンジェル09と呼ぶ人物‥織彩ですよ」
そう答えると海はようやく納得した。
「エレメンツとは陰陽道における五行と同じ‥言葉としては元素等を意味しますが我々の間では龍などの聖獣や妖精といった自然の力をそう称します
アークエレメンツとは受肉したそうしたモノの事なのですよ」
そこまで言うとズズッとお茶をすする東條。海はなんだか初めて分かりやすく聞いた気がした。今までは脳に詰め込まれる情報と言葉足らずな明希達の説明しか聞いていなかったので自分なりに解釈するしか無かったのだ。
「あの、初歩的な質問なんだけど‥」
「力の使い方なら私がお教えしますよ
貴方ならすぐに使いこなせます」
海が質問を投げかける前に東條が答える。
「私達はある程度、人の心情を読む訓練をさせられます
時には物言わぬ死者の気持ちを汲まねばなりませんので‥だから貴方が言いたい事や疑問に感じている事もある程度読めるのですよ
先程のミシェルに対しての言葉は先見と言って未来を読む術ですがその人にとって必要な事は話さなくても我々には自然と見えてくるんです」
また海が驚いているとにっこり微笑んで東條が続け海はなんだか自分の気持ちが見透かされている事に気恥かしさを感じた。
「よろしく‥お願いします‥」
思わず視線を逸らせると海はそう言ってお茶をすする。それから少し世間話をすると別室へ移動した。
「あの、俺こんな格好何で着替えてきます」
歩きながら海が袷を指しながら言う。
「感覚を少し理解して貰うだけですからそのままで大丈夫ですよ」
少し振り返り言うと東條は訓練室と書かれた区画の一つに入った。
「さて、ではとりあえず私は貴方の身体に憑依しますので楽にしておいて下さい」
コンクリートで囲まれた広い部屋で東條はそう言って海を見る。
「憑依って‥あのイタコとかそういう?」
「そうです、生きている人に憑依するのは結構きついのですがその方が分かりやすく伝えられますので‥では‥」
海が何だか胡散臭げに聞くと東條は座って壁へ凭れ掛かり、そう言ってからカクンと意識を失った。それを見て海は東條に駆け寄ろうとするが一歩踏み出した所で身体が固まる。
『大丈夫です‥もうこちらに居ますよ』
頭の中で声がした。海はそれに驚いて辺りを見回す。
『クス‥貴方の中です
ではあまり持ちませんので早速始めますよ』
東條がそう言ったと思うと海の腕が無意識に上がり正面に手を翳し始めた。
「な‥ちょっ‥何で身体が勝手に‥」
海はそれに驚いて思わず慌てて手を下ろそうとする。
『ああ、私が貴方の身体を動かしているのでそのまま力を抜いていて下さい』
慌てる海に東條が言った。海の頭はまだ混乱しているが言われたように力を抜く。
『では貴方の力を私が貴方の意識を通して現象化しますので感覚を覚えて下さい』
東條に再び言われると海は無言で頷く。すると体中がゾワッと鳥肌を立てるような感覚に襲われ、それが身体の中心で渦巻くように集まり翳した手の先へと流れると旋風が発生し海はそれを見て感心したようにポカンとなった。
『なるほど、どうやら貴方の力は風を操る事のようですね‥』
東條がそう言うと何かがスゥっと身体から抜ける感覚がした。海はそれにあまり関心を示さず手をマジマジと見る。
「今ので少し感覚は分かりましたか?」
いつの間にか目を覚まして東條が座ったままにこやかに話しかける。
「なんかすげぇ‥」
今まで感じた事の無い感覚にただ驚きながら呟くと海は一気に晴れやかな顔で東條を見た。
「普段、我々がその力を使うには呪や護符や道具を使わないとなりません
しかしそれら無しに力を操れるのが鬼子です
まずは集中して己の感覚だけでその力を操れるようになる事です」
微笑みながら東條はやってみるよう含みを持たせて言った。海は東條がやった感覚を思い出しながら真似てみるが上手く出来ない。
「方法はインプットされているでしょう?
やった感覚とそれを複合していけば良いですよ」
東條に言われて再びやってみると先ほどより小さく細やかな旋風が起きた。思わず海の顔から自然に笑みが零れる。
「その調子、後は大きさをコントロール出来るようになれば次の段階へ進みましょう
私は仕事がありますのでここで失礼しますが出来るようになったらまた声を掛けて下さい
でも今日はお疲れでしょうからまずは休んで下さいね」
立ち上がりながら東條は海に微笑む。
「ああ、また頼むよ」
嬉しそうに返しそれを見ると東條が頬笑みで答え部屋を出て行った。海は言われた通り部屋に戻るとすぐに眠りに就く。いろいろ在り過ぎて消耗していたのかその日は目を覚ます事は無かった。
海は言われた事をマスターすると次の過程へ段階を上げ、その習得スピードは東條が思うより早かった。
「では今日はここまでにしましょう‥」
「いや、もう一段階くらいは行けると思う」
東條に言われると海は少し自信を付けたのかそう返す。
「付きあって差し上げたいのは山々なのですがこれ以上は私の方が持ちませんので‥
申し訳ありませんが今日はここまでで‥」
言った東條の顔を見ると微笑みは崩してはいないがかなり青褪めている。
「あ‥悪い、自分の事ばっかりで‥」
慌てて海は東條に謝った。
「いえ、これは私の修行不足‥貴方が謝る事ではありませんよ」
「いや、やっぱり俺は自分の事以外見えてないんだと思う‥本当に悪かった」
相変わらずにこやかに答える東條にシュンと肩を落として返す。
「ならば次からもっと周りに気を配るよう努めれば良い事です
人は失敗からしか学べません
ならば同じ間違いを少しでも無くしていけば良いだけの事ですよ」
穏やかに東條が言うと海は真っ直ぐ東條を見て誓うように一つ頷いた。
部屋に戻る前に明希の様子を見に行こうかと調整室へ足を向けるが部屋の前まで来ると少し戸惑ったように立ち止る。
「何してるの?」
「わぁっ!」
後ろから声を掛けられて思わず海は叫ぶ。
「何だ紫苑、急に声掛けるなよ!」
「急に大声出してこっちこそびっくりするでしょ!」
「お前らそこで騒いでんじゃねぇ!」
思わずお互い言い合いになるが部屋のドアが開き、職員に二人揃って叱られた。少し気不味い表情で二人は調整室に入る。
「で、明希はどうなんだ?」
明希の調整槽に歩み寄りながら海が聞く。
「とりあえず今は落ち着いてる‥でもまだあと少しはこのままね」
紫苑はコーヒー片手にモニターを見ながら答え、海はそうかと返しながら調整槽の明希を見た。明希はとても穏やかな顔をしていて少しホッとする。そして何となく身体に異変は無いか顔から順に視線を落としていくと股間で思わずそれが止まった。今まで目まぐるしい事ばかりで忘れていたが明希のソレが己の中に確かにあの時あったのだ。海は思わず赤面して視線を逸らせる。
「なんか安心したし俺もう休むわ‥じゃ!」
慌ただしく言うと海は調整室を出て行った。部屋に戻ると忘れるようにシャワーを浴びてベッドに入るが一度思い出してしまうと居た堪れない。寝ようとギュっと目を瞑るがそうするとより鮮明に思い出す。何度も寝がえりを打ちながら振り払おうとするがどうしても頭から離れない。己の醜態に顔を枕に埋め悶々としながら眠りについた。