調整
海の勤める新聞社、人が慌ただしく動く事務所の一番奥で険しい表情を浮かべ、積み上げられた資料に目を通しながら電話をしている男がいた。
『すいません‥俺、暫く動けなくなったんで引き継ぎ用の資料そっちに転送しました
後は宜しくお願いします』
受話器の向こうで海が申し訳なさそうに言うと男は手を止める。
「‥もしかして昨日の工場火災か?」
答えながら男はメールを確認し始めた。
「流石編集長、耳が早いっすね
とにかく俺は大丈夫ですから心配しないで下さい
編集長には迷惑かけますけど俺、暫く休ませて貰います」
海はそれだけ言うと返事を待たずに電話を切った。男は切られた電話を眺め溜息を吐く。そして受話器を置いて携帯を取り出しどこかに電話を掛けながら慌ただしい部屋を出た。
ラウンジで電話を終えると海は長い溜息を吐いて首を垂れる。
「電話‥済んだか?」
そこへ明希が入ってきて弱り切った海に声を掛けた。
「ああ、はぁー‥まさか直接脳に情報を詰め込まれるのがこんなにキツイとは思わなかったぜ
まだ思考が混乱してる‥」
気怠そうに返すとまた重たい溜息を吐く。
「ま、慣れだ慣れ‥それでも情報量としては半分くらいだぜ?
後は調整を重ねながら植え付けていく
それにこれからの方がもっとキツイから覚悟しとくんだな‥」
明希が脅すと海はまた溜息交じりに首を垂れた。
「そう言えば‥」
暫くそうしていたがふと何かを思い出し海が顔を上げると明希は海を見る。
「ついさっき思い出したんだけど俺が駆け出しの頃、先輩が追いかけてた未解決事件があってさ‥
天才って言われてた空手少年がいたんだけど家族を事故で失ってからパタリと話題に出なくなったんだ
孤児になってから親戚の一人に引き取られたらしいんだけどその親戚が惨殺されて少年は行方不明‥何故か犯人も見つからないまま捜査は打ち切られ、少年の行方も探さなかった
事件を追いかけてた先輩は暫く行方不明になって帰ってきたらその事件の事、何も話さなくなって終には退職しちまったんだ
その少年の名前が一条明希って名前だった
引き取られた先の親戚の性が確か三上‥」
「準備出来たよ、早く調整室に来てね」
海が明希に視線を向けようとした瞬間、紫苑がラウンジの出入り口からそう声を掛けてきた。
海は明希に向けようとした視線を紫苑に移して憂鬱な表情を浮かべ重そうに立ち上がる。
「その空手少年って‥お前の事だよな?」
明希を見ずに聞くが何も答えず顔色も変えない。海はそれ以上、何も聞かずに歩き出しラウンジを出ていく。小さく溜息を吐いてゆっくり立ち上がると明希も海の後に続いた。
調整室まで来ると既に紫苑は次の準備に入っていて海は辺りを見回しながら前に処置してくれた職員の姿を探す。
「じゃぁそこに着てる物脱いで‥また注射するからその後で調整槽に入ってね」
今度はどうやら紫苑が処置するのかワゴンの上のアンプルを順に注射器に充填しながら言う。インプットを終えた後から海はずっと薄い水色の簡易の袷を着ていたから脇腹の紐を解けばすぐに裸になれるのだがやはり女性の前だと戸惑う。
「あの‥さっきの人は?」
海は躊躇いながら聞いた。
「お兄さんの方の調整に行ってるわ‥微調整は長さんの方が確実だし今の段階なら私がこっちを受け持った方が早いしね」
答えながら注射器に薬を充填し終えると海の方を見る。
「何してるの?早く脱いで」
続ける紫苑に海は渋々合わせを脱いだが脱いだ物をワゴンに入れずに手に持ったまま前を隠すように腕を出す。どうもやはり抵抗があった。
「照れられるとこっちまで恥ずかしくなるから逆に見せるくらいのつもりでいてくれないかしら」
ちょっと頬を染めながら紫苑が少し怒ったように言う。
「ああ‥うん‥」
やはり頬を染めながら観念してワゴンに置き再び腕を出す。紫苑は手慣れた感じで注射を終えると海はいそいそと調整槽に入った。恥ずかしさはマックスだったが先ほどと違ってあまり注射後の負担が無かったのが救いだ。調整槽が閉じられるとまた海は眠りに着いた。
どれほど時間が経ったのか目覚めると凄くスッキリしていて感染してから続いていた身体の重さが無くなり嘘のように軽い。海は調整槽から出て身体を拭くとまた簡易の袷を羽織る。
「お疲れ様、次の準備をするからまた少し休んでて‥あ、次は調整槽に入る前の投薬に時間がかかるから上手くいけばお兄さんと話せるかも‥」
紫苑は言いながら海の脈を確認したり目の状態や口内をくまなくチェックした。
「そうか‥じゃぁ順調に行ってるんだな?」
海が聞くと紫苑はにっこり微笑んで頷き少し安心したように微笑み返す。
「でも今度の投薬は貴方にはちょっと辛いだろうから会いに行く余裕があるかどうかだけど‥」
笑顔のまま紫苑に言われて海はギョッとする。
「明希やサイファは涼しい顔してたみたいだけどあの二人は特別に辛抱強いから‥
トニーは3回吐いたって言ってたし普通の人には厳しいみたい」
海の心情を察したのか紫苑が続けた。
「あの‥君も感染者だよね?
君はしなかったの?」
「私は皆と違って事故で感染しただけだからそういう調整はしてないのよ
だから適正能力値は低いし強化した所で使い物にならないから戦闘にも向いてないの」
海が聞くと紫苑は機材を片付けながら答えて微笑む。
「君も明希と一緒に助け出された口?」
「いいえ、私の両親が此処の研究者だったの‥でも四年前に仕事中の事故で死んでそれからここに入ったのよ」
手を止めずに淡々と質問に答える紫苑に海は少し聞いた事を後悔した。
「私だけじゃなくて此処に居る皆は何かしら過去に傷を持ってるの
だから自分から話すまでは安易に聞かないでいてあげてね」
微妙な顔つきの海を見て察すると紫苑はそう付け足して微笑みを向ける。海は遠慮がちに微笑んでそれに返すと苦虫を噛み潰したような顔で俯き部屋を後にした。
二時間後、ラウンジで休憩していた海の元へ明希が注射器やらあれこれ入った銀色のバットを持って入ってきた。
「投薬するぞ、俺の部屋を貸してやるから来い」
入口付近で明希が言うと海は飲みかけのコーヒーを慌てて飲み明希について部屋を出た。迷路のような通路を明希に付いて歩く。施設の見取り図はインプットされた中に入っていたからだいたいどちらへ向かっているのかは分かった。中庭のような場所がありその向こうに各自の部屋が用意されていて、その一つに明希は入ると海も続いて中に入った。まるで殺風景な部屋で生活感はほとんど無い。
「ほら、そこ座れ‥」
海が部屋を見回しているとベッドを指して明希が言い海は腰を下ろす。
「別に注射くらいラウンジでも良いんじゃないか?
時間も潰せるし‥」
机にバットを置いて投薬の準備をする明希にそれとなく伺う。
「今回のはちとキツイから個室のが良いんだよ
それにラウンジで騒がれちゃ堪らんしな‥」
「あの子も言ってたけど‥それ、そんなにキツイのか?」
淡々と準備をしながら言う明希に海は恐る恐る躊躇いながら聞く。
「まぁ、あんたにはキツイだろうな
だが最終のはもっとキツイぞ‥とりあえず少々暴れても抑えてやるから心配すんな」
やはりいつもの口調でサラリと答え腕を出せとゼスチャーをする明希に海は諦めたように腕を差し出す。投薬が終わってドキドキしながら自分の身体に神経を集中するが別段いつもと変わらずに少し拍子抜けだった。
「まぁ、効いて来るまで横にでもなってリラックスしてろや」
ホッとする海に何かを含めるように明希は言うと煙草を取り出し火を点ける。海は大人しく横になりはしたがやはり変化は見られずに転寝をしてしまいそうだった。
10分後、ベットの上でのた打ち回るように苦しむ海の姿があり明希はただ涼しい顔でそれを眺めながら煙草を蒸している。
「まぁ、あと15分ほど我慢したら収まるからそれまで耐えろよ」
他人事のように言う明希。まぁ他人事なのだがそれでもよく平然としていられるものだと海は恨めしく思う。明希が公言した通り15分後に苦痛は収まり海はぐったりしたまま息を整える。シーツは吐いた物と汗でぐちゃぐちゃになっていた。
「調整槽に入る前にシャワー浴びて来いよ」
明希はようやく体を起こした海に言うと部屋の奥にあるドアを指す。海はぼんやりそちらを見るとフラフラとそちらへ向かおうとするが足が上手く前に出ない。明希は溜息を吐くと仕方ないと言った感じで服を脱ぎ捨て海をシャワールームまで連れて行くと袷を脱がせ身体を綺麗に流してやる。海はもう強がる体力も言葉を発する気力も無かった。そして明希に支えられるように調整室まで来ると調整槽に入り次の段階へと進む。
調整が済み出てくると入る前のあの気怠さはやはり消えていて途端に恥ずかしくなると同時に次の段階に恐怖を覚えた。
「今日はもうここまでね
明日、最終段階だから今日はゆっくり休んで‥部屋は明希の隣に用意してあるから」
紫苑は言うと綺麗に洗濯して畳まれた海の衣類を差し出す。袷を着てそれを受け取ると海は用意された部屋へ向かった。明希の部屋の近くまで来ると自分のプレートを確認して部屋へ入る。内装事態は明希の部屋とほぼ同じだが用意された備品はどれも海が普段使っていた物と同じ物が用意されていて少し困惑した。とりあえず海は机の上に返された衣類を置くと袷を脱いで椅子に掛けシャワールームで身体を流して何も着ないままベッドに入る。身体は軽いが酷く眠い。やはりかなり疲れているのだろうと思いながら目を閉じそのまま眠りに落ちた。
「おい、起きろ!」
「もうちょっと寝かせてくれよ‥」
そう声を掛けられてぼんやり覚醒した海はゴロンと寝がえりを打って目を閉じたまま声の主に背を向ける。
「兄貴の調整がもうすぐ終わるぞ」
続けて言われ海がハッと目を見開きガバっと起き上がると明希は呆れたようにそれを見ていた。
「ったく、本当にお前ら似たもの兄弟だな‥とにかく付いて来い」
明希が溢しながら部屋から出ると海は急いで後を追うとして自分が何も着ていない事に気付き、慌てて袷を羽織ってから部屋を出た。明希について自分がいた場所と違う調整室に着くと海を始めに診た職員がモニターを見ながら計器を弄っていた。
「あと5分で終わる‥もう少し待ってろ」
二人が入ってくるのを見ながらすぐに視線をモニターに戻す。傍目に見てもかなり繊細な操作をしていた。調整槽の前まで来ると陸を見て海はその姿に思わず目を見開く。鮮やかなロイヤルブルーの髪の色をした陸の姿がそこに在り海は絶望の表情を浮かべた。
「心配しなくても元の生活に戻してやる手はずはしてある‥後はあんたがちゃんと兄貴を説得するんだな」
明希が言うと海は一つ頷く。
「よし、そろそろ開けるぞ‥」
ボタンを押してから全てのレバーを順に落とし中の液体が抜け切ると調整槽が開き陸はゆっくりと目を開ける。
「陸!」
呼びかけると陸は少し戸惑ったような顔をしてから辺りを見回した。海はワゴンからタオルを出して陸に差し出す。
「これは一体どういう事だ?」
陸は調整槽から出てそれを受け取り海を見ると戸惑いながら聞いた。
「とりあえず身体拭いて服着ろって‥話はそれからだ」
海が言うと陸は自分があの時の海と同じ状態だと気付いて身形を整えると二人から話を聞いた。
「そうか‥だが俺が戻れば芋蔓式にお前の所まで詮索が及ぶだろう?
それならいっそ俺もこのまま‥」
「それなら手は回してあるから心配ない
寧ろあんたが上手く誤魔化してくれりゃ内緒に出来るだろう
だがこいつはまだ調整途中だから暫くこっちで預からせて貰うぜ
あんたはもうある程度、力を使えるだろうから自分の身は自分で守れるだろうしな‥」
陸が海に言いかけるが横から明希が口を挟む。
「しかし何で俺だけこんなに細目に調整が必要なんだ?
インプットされた項目にそんな内容は無かったぜ?」
海は訝しげに問う。
「あんたの場合は本来の工程を無視して無理くり抑えた状態‥例えば1から10までの工程があるとして2、3、7みたいな感じで無茶苦茶な方法で抑えてるんだ
だから一旦全てをリセットしてやり直さなきゃいけないから時間がかかるんだよ」
明希が説明するとようやく海は納得した。
「とにかくあんたはこれからすぐに指定の病院へ入院して貰う
怪我は奇跡的に掠り傷だったって事にして上にはそう報告しろよ
詳しい事は移送中の車の中でコーディネーターから聞いてくれ」
言い終わると明希が出入口に視線を移す。するといつの間に居たのか一人の中年女性が立っていてこちらにお辞儀をした。
「頼むから絶対に帰ってこいよ」
陸が言いながら徐に立ち上がると海は躊躇いがちに頷き微笑みで返す。少し不安気に視線を残しながら陸は女性と共にラウンジを後にした。
「じゃぁ俺は頑張って調整受けるか」
少し脱力しながら海が言う。
「俺も寝ちゃいねぇんだ、少し寝かせろ‥それにまだ夜中だ
明日の朝になったら付き合ってやるからあんたももう少し寝ろ」
明希が返しながら部屋を出て行くと時間を確認した。海は完全に目が覚めてしまいどうしたものかと頭を掻きながら部屋に戻ったがベッドに横になった途端に眠ってしまい、気付けば時計は朝の七時を指している。寝ぼけ眼で起き上がると顔を洗い服に手を掛けたが暫くそのまま考え込んで袷のまま部屋を出た。どのみち今日も一日調整槽に入るのだと思うと着替える気にもなれない。ラウンジで軽く朝食を取り部屋に戻って明希が来るのを待つがなかなか姿を見せず海は焦れて部屋を訪ねてみた。明希は見当たらず部屋に戻って時間を潰しながらひたすら待っているともうすぐ昼と言う頃にようやく明希がやってきた。
「遅かったじゃねぇか‥」
もう待ちくたびれたと言わんばかりにベッドに横になったまま海が明希に言う。
「俺だって暇じゃねぇんだよ‥それより早く来い」
銀のバットを持ったまま明希が咥え煙草で急かすと海はゆっくり立ち上がり部屋を出る。
「なぁ、別にあんたの部屋じゃ無くても投薬室ってのあるんだろ?
昨日もシーツ汚しちまったりしたし今日はそっちでやろうぜ」
そして明希が自分の部屋のドアノブに手を掛けると海はそう言いながら視線を逸らせた。海は海なりに昨日、部屋を汚した事を気にしているのだ。
「確かに投薬室はあるがガラス張りで他の奴等に丸見えだぜ
あんたがのた打ち回ってる姿見せても良いってんなら俺は別にそれでも構わんが‥」
何の感情も込めず明希が言うと海はグッと言葉を飲み込むように明希を見た。確かに昨日以上の醜態を人前で晒すほどの度胸は無い。
「ま、気にしなくてもシーツくらい取り換えりゃ済む話だ
それに此処の方が俺も待ち時間を潰せるしな‥」
言いながらドアを開けそのまま部屋に入ると海も観念して部屋に入った。
「腕上げろ‥」
そして昨日と同じようにベッドに横になると明希がそう言うので海は注射を打つためだと思って片腕を上げる。
「そうじゃなくてこうだ」
明希が肘を曲げて軽く万歳をするようなゼスチャーをすると海は仰向けに寝たままそのように腕を上げた。すると明希は海の手首をベッドの縁に押さえ付けるように宛がい己の指輪を変形させベッドに腕を固定する
「ちょっ‥何すんだよ!」
「あんまり派手に暴れられても適わねぇからある程度、投薬前に拘束はさせて貰う
必要なら猿轡も噛ませるからそのつもりでいろよ」
やはり淡々とした口調で返す明希に海は背筋が寒くなった。どれほどの苦痛が待ち構えているのか不安は更に大きくなる。明希は次に足も固定するとバットから注射器を取り出し薬の充填を始めた。
「な‥なぁ、そんなにキツイのか‥それ?」
「まぁな、流石に俺もこれだけはのた打ち回ったからな」
堪らず聞くと明希は海の方を見ようともせずに充填をしつつ答え、海は昨日の紫苑の言葉を思い出す。
明希とサイファは辛抱強いから涼しい顔をしていたらしいわ
昨日の投薬をそうしてクリアしてきた人間がのた打ち回るなんてどれほどの苦痛があるのだろうかと思うと心が折れそうになる。海は逃げ出したい気持ちで一杯になってきた。
「打ってから効いて来るまでだいたい10分‥それまでは徐々に苦しくなる程度だがそれを過ぎると一気にピークが来る
内側から来る痛みで気を失いそうになるが更に痛みが走り気を失う事すら出来ない状態になる
痛みの絶頂まで更に30分‥それを過ぎると徐々に痛みは引いて行くが完全に痛みが抜けるまで20分はかかるな」
薬の充填が終わると明希は説明しながらベッドに腰を下ろしてゆっくり海の腕に投薬を始める。両腕に少しづつ打ち鎖骨の辺りにと場所を移動すると今度は袷を捲った。
「おい!どこ捲ってんだよ!!」
海は露わになった下半身を隠すように思わず身を捩るがその身体をグイと抑えつけた。
「こいつは拡散し難いタイプの薬なんでな‥小分けして身体に打たなきゃ辛さ倍増なんだよ
手元が狂うから動くなよ」
別に気にする風でも無く言うと海はやはり観念したように抵抗を止めた。明希は海の下腹部と太ももに残りを打つと裾を直して立ち上がりバットの中に注射器を掘り込んだ。海はやはり打ってすぐの変化の無さに拍子抜けして少し安心したように息を吐く。
5分後言われた通りかなり苦しくなってきた。気を紛らわせようと何か会話をしようにも言葉を発する事さえ今はしんどい。言いようのない苦痛に耐えていると雑誌を捲っていた明希がチラッと海を見て溜息を吐く。海は既に唇を噛みしめて脂汗を浮かべていた。明希は雑誌を置くと立ち上がり海に背中を向けベッドに腰を下ろす。
「気晴らしにあんたが知りたがってた話をしてやる‥」
明希がポツリと呟き海は何だろうかとその背中に視線を向けるが、もう何かを問う気にもなれずそのまま話し始めるのを待った。
「家族を失くしてあの男の養子になった俺がどうなったか‥知りたかったんだろ?」
続けて言うと明希は海の方を見た。その目が凍えそうなほど冷たく見え海は少し苦痛を忘れて明希に見入る。
「あいつは俺を養子にした後、薬漬けにして俺の身体を玩具にしてたんだよ」
そう言いながら明希はゆっくり海に覆い被さるように身体を寄せた。
「どんな風に俺があいつ好みの玩具に仕込まれたのか‥あんたにも教えてやろうか?」
囁くように続けると明希はゆっくり海の体に指を這わせ海は苦痛を忘れひたすら固まる。それを見るとニッと口元を歪ませてから海の首筋に舌を這わせた。
「なっ‥止めろ!」
やっとの思いで叫ぶと海は身を捩るが拘束されているせいで自由が利かない。明希がそのまま袷の紐を解き前を開けると海は驚きと羞恥に完全に苦痛を忘れた。
一時間後、明希は気を失った海を抱えて調整室に向かう。調整室では紫苑が既にスタンバイを終えて海を待っていた。
「やっぱり気を失っちゃったのね」
抱えられている海を覗き込んで紫苑が言うと明希は袷を脱がせて調整層に海を寝かせる。
「海に何かした?」
調整槽を閉じてセッティングをしながら紫苑が明希に聞く。
「いーや‥別に‥」
明希は顔色を変えるでも無く答えた。
「あっそう、その割にいろんな跡が残ってるけど‥あまり素人を苛めちゃダメよ」
海の生体モニターを見て紫苑は呆れながら言う。
「別に調整には問題無いだろ?
じゃぁ後は頼んだぜ‥俺は暫く寝る」
悪びれる風も反省の色も無く明希は返すと手をヒラヒラさせながら紫苑に背を向け調整室を出て行った。
明希は調整室を出た後、ラウンジへ向かい海に付き合って食べ損ねていた食事を取る。食事を終えると部屋へ戻り煙草を蒸しながら用事を済ませシャワールームへ。
〈全く‥いらん事を思い出しちまった〉
熱いシャワーを浴びながら心の中で吐き捨てる。どうやら先程の事で一番嫌な部分を思い出したようだった。忘れるように頭をガシガシ洗い身体も隅々まで綺麗に流すとシャワールームを出て身体を拭きながらまた煙草に火を点ける。薬漬けにされていた期間は明希にとってかなりのトラウマになっていた。だが明希は聞かれればそんな事すら淡々と語る。気にしていない風を装って強がるのは自分が崩れるのが怖いのだ。誰からも慕われる男は誰よりも己を失う事を恐れて誰にも心を開く事は無かった。ただ一人を除いては‥。
〈フェリシア‥〉
明希は煙草を揉み消すとベッドに横になり心の中で呟いて目を閉じた。
両親と妹そして明希、何処にでも居る普通の家族。ただ少し明希は優秀で勉強も運動も人並み以上に出来た。空手を始めたのは友人がやり始めたからという有り触れた理由だ。そんな生活を送っていた中学二年の夏休みのある日、どうしても抜けられない練習のせいで家族より一足遅れて旅行に行く事になった。練習に勤しむ中、警察から両親が事故にあったと連絡が入り、明希は受話器を持ったまま呆然と立ち竦んだ。だが警官に連れられて家族の遺体を見た時、ずっと続くはずだった生活が終わった事に気が付いた。
家族の乗っていた車は居眠り運転のトラックに突っ込まれてそのまま海へと落ち、助け出された時、父親は即死で母親は虫の息だったが意識があったらしく明希と妹の事を気に掛けながら亡くなったらしい。妹は海に投げ出されたのかそのまま見つかる事は無かった。
それから悲しむ間もなく葬儀が行われ親戚達は明希をどうするかで揉めていた。そこへ母方の遠縁だと名乗る男が来て明希を引き取りたいと言った。親戚連中は見た事も無いその男を不審に思い世間体も考え、とりあえず近い身内の所で順に世話をすると断わった。しかし家族を失い、荒れた明希が手に余ると親戚達は結局その男に明希を引き渡した。
盥回しの末に落ち着いた男の家は格別居心地が良い訳ではなかったが悪くも無かった。男が良いと言うならこの先もそこで生活しても良いと思った。暫くして手続き上いろいろ不便もあるから養子にすると男が言った時も親戚達は誰も反論する事は無く、寧ろ厄介者だった明希の面倒をみる手間が無くなりホッとしているようだった。それから正式に養子になり暫く親子もどきの生活が続く。
男は小さな開業医を営み近所の評判も良く皆に慕われていて明希も心を開くほどではないが信頼し始めていた。だが春休みが明け、新学期が始まった頃から男の様子が可笑しくなり始める。明希は頻繁に栄養剤だと薬を与えられたり血液検査をされた。
そして夏休みに入った日、夕食の後に自宅の地下室に呼び出される。普段、入る事を禁じられていたその場所に入ってみると何の事はない、コンクリートに囲まれた部屋に事務机や診察台、パイプベッドなんかが有るだけだった。手招きされて入ると男は栄養剤だと言っていつものように薬とコップに入った水を差し出す。躊躇う事無く飲み、何時もと違う異変に気付いたが遅く、途端に身体の力が抜けて明希はその場に倒れ込んだ。
「ようやく手に入る」
男はいやらしく口の端を釣り上げそう言うと動けなくなった明希の身体から着ている物を剥ぎ取り診察台に固定した。明希は意識こそしっかりあったが声も出せず体の自由も効かないまま男に弄ばれ、それから幾日もその部屋に監禁されてその身体に快楽を植え付けられた。昼間は良心的な医者の顔をして過ごし夜は監禁した明希を弄ぶ、夏休みが終わる頃には明希は従順な男の玩具になっていた。
学校が始まり何度も逃げ出そうと考えたが薬が切れると激しく苦痛が襲い結局は男の玩具としての生活が続く。晩秋、明希はいつものように命じられるまま男を喜ばせるように振る舞い、その姿が昨日貼られた大きな姿見に映ると己の痴態に呆然となった。
家族がいれば普通の青春を謳歌している筈だった。なのに今はこんな淫らな快楽が全て。己の情けない姿に絶望し明希は己を失くす。
気付けば男が血塗れで横たわっていた。明希の手には傍にあったメスが握られていて正気に戻るとそれを落とし自分の手を見る。手だけで無く全身が男の血に塗れ放心状態のままその場にペタンとへたり込んだ。
どれくらいそうしていただろう。暫くすると地下室の階段を降りてくる足音が聞こえた。力無くそちらに顔を向けると見知らぬスーツ姿の女性が入ってきた。
「あら、消す手間が省けたわね‥」
男を見てからそう言うと女性は明希の傍まで来て値踏みするように眺める。
「一生、性的虐待を受けてきた殺人者しとして薬の副作用に苦しみながら生きていくか、実験体として薬の苦しみや世間から解放されて生きるか‥今ここで選びなさい」
続けて明希を見据えながら言った。明希は無残な男の亡骸をジッと見つめるとまた女性の方を見て手を伸ばす。すると女性は明希の血塗れの手を取り傍にあった毛布を掛けてやる。地下室を出て外に待たせていた車に二人で乗り込んでから女性は試薬を盗んだ男を抹殺する為に訪ねたのだと説明してくれた。擦れ違うパトカーを明希はぼんやり眺める。死体が見つかれば自分は捕まるのではないかと明希は言ったが女性はそれを笑い飛ばす。
「悪いけどこれくらい揉み消せる力はあるから何も心配せずに貴方は組織の為に貢献してくれれば良いわ」
そう言って煙草を吸いながら楽しそうに車外を見る。今、惨殺死体を見たばかりだというのに一体どういう神経なのだろうと明希は思った。
それから明希は施設に送られ投薬や訓練に明け暮れる。しかし同じような仲間もいてあの家にいるより幾分か気は紛れた。何より実験体とはいっても施設内の行動区域なら自由行動が許される。誰かと話をしたりテレビを見る事も出来た。そして訳有りなのは皆同じのようで世間話はしても誰も自分の事は語らない。そんな中、ただ一人、フェリシアだけは己の過去を隠す事無く明希に打ち明けてくれた。彼女は明るく誰にでも親切で惹かれるのに時間はかからなかった。明希が己の感情を隠す為に前髪を伸ばし始めたのもこの頃からだ。
施設へ来てから半年が経ち明希達を含めた半数が別の施設へ移された。その施設では自由が無く、扱いもモルモットそのものだった。投薬に耐え切れず一人死ぬと一人補充され二人死ぬと二人補充される、まるで大がかりな人体実験場だった。そして生き残った者は更に強い薬物投与や訓練が強いられた。ある時、それに耐え兼ねた三人が共謀して脱走を図ると皆の前で呆気無く銃殺され、それ以来脱走を考える者はいなくなる。
ただ訓練をこなし投薬の苦痛に耐える日々が続いたある日、一定数の子供達だけが何も無い部屋に通された。少し上にある大きな窓の向こうには科学者らしき男達が数人とまだ幼く見える同じように白衣を着た少女が一人。そして順番に投薬されると個別に強化ガラスで区切られた部屋に入れられる。すると打たれた純に苦しみ始め科学者達はモニターを見ながら話しつつ冷やかにその様子を眺めていた。ある者は動かなくなり、またある者はのた打ち回りながら床や壁を掻き毟る。明希もその苦痛に眉を寄せながら耐えつつ膝を抱えて座っていた。
何とか苦痛が引いて明希は少し呼吸を整え周りを見る。目の前の部屋に居たのはかつての仲間では無く奇怪な様相をした化け物。慌てて明希はフェリシアの方へ顔を向けるとそこに居たのはフェリシアでは無く見た事も無い化け物だった。明希はそれに呼び掛けるが強化ガラスに阻まれて声は届かない。その化け物は明希の方を見ると口らしき部分をモゴモゴと動かしている。明希は強化ガラスを殴り付けるが空しく拳だけが血に染まっていき、その内に室内にガスが入れられ気を失う。気付けば調整槽の中に居て意識はあるが身体は動かず薄く眼を開けるだけが精一杯だった。そんな自分の前でさっき科学者達と居た少女が泣いている。
ごめんなさい‥ごめんなさい‥
少女の意識が流れ込んでくる気がしたが何を謝っているのかその時の明希には分からなかった。少女は泣いている所を他の科学者に見つかると乱暴に引っ張られてその場から消えた。
それから明希は特殊な部屋での訓練が主となり他の仲間と顔を合わせる事も無くなった。ただあの時に髪の色が変色したジェイド、サイファ、マリーは遠目ではあるが姿を見る事があった。だからフェリシアがどうなったかさえ知る事も出来ない。施設の者に聞いても今続けている訓練が終われば会えると言われるだけだった。与えられるノルマを淡々とこなし更にきつくなる投薬に耐えフェリシアとの再会を心待ちにする。
それから数カ月後、一通り訓練と調整を終えた明希は広い空間に連れて来られそこでようやくジェイド達と間近で顔を合わせた。
「君達にはこれから投入される化け物と戦って貰う
死にたくなければ確実に相手を殺す事だ」
互いに再会を喜ぶ間もなくスピーカーからそう告げられると目の前の頑丈そうな扉が開いた。そこには今まで見た事も無い様な化け物が10数体いる。人間の面影を残した化け物なら今まで観てきたが目の前に居るのはもう本当にただの化け物だった。
四人はそれぞれ距離を取ると襲いかかる化け物と対峙する。ジェイドは相手を凍らせて粉砕しサイファは炎で丸焦げにする、マリーはコンクリートの壁を武器に変えて応戦していて明希は手にしていた金属棒を刃物のような鋭い糸にして相手を切り刻んでいった。インプットでコントロールを学び使い方は訓練中にマスターしたが実戦で使うのはこれが初めてだった。化け物達もそれぞれ多彩な攻撃を仕掛けてきたが四人は苦戦しつつも薙ぎ倒していく。二体を倒し終え明希が他と違う化け物を見つけた。唸り声を上げたまま襲いかかってくる気配が無く、不審に思い距離を取りながら明希がその前へ立つ。
明希‥
一瞬、そう聞こえた気がした。明希がハッとしてゆっくりと近寄るが傍まで来るとその化け物は突然襲いかかってきた。寸での所で交わすと反射的に化け物の片腕を落とす。化け物は雄叫びを上げると凶暴化して更に襲い掛かってきた。
「止めてくれフェリシア!」
部屋の隅まであっという間に追い詰められると明希はそう叫ぶ。この化け物がフェリシアであると確証があった。他の三人もその声にハッとした。
ここに居る化け物は仲間の変わり果てた姿ではないのか?
それに気付き三人は相手を庇うように戦う。しかし奇妙な音がスピーカーから流されると化け物が更に凶暴化し仕方なく生き残るために三人は手加減を止めた。明希は己の命かフェリシアの命か選ぶしか無かったが答えは明白。明希はフェリシアの命を取ろうとした。しかしフェリシアは自由の利かない口を動かし絞るように一言「殺して」と訴える。今、永らえてもいずれ苦痛を与えられた末に飼い殺しにされる。理解はしているが心が付いていかない。初めて家族以外で大切だと思えた人だった。
明希は避け切れない攻撃にこのまま共倒れても良いと思ったが反射的に金属の糸を引いてしまった。攻撃を受ける前にフェリシアの身体は四散し飛び散った腕は明希の頬を撫でるように掠めて落ちた。明希は目の前の光景に人目も憚らず大声で泣き崩れる。殲滅を終えた三人はそれを言葉無く見つめていた。
その後、戦う力を手にした明希達はこんな仕打ちをする組織を抜けようとしたが何か処置をされたらしく反抗すれば地獄のような苦痛が四人を襲った。科学者達を憎みながら屈辱に耐える日々の中で織彩も自分達と同類なのだと悟る。四人は自分達だけで無く織彩も助けたいと思うようになった。
その後、新たな施設への移送中に明希達はセラムと名乗る組織に救出される。四人はかけられたリミッターを外され、様々な情報のインプットを受けて今まで分からなかった事がいろいろ理解出来た。自分達がいた組織はノアという事や創設からの細々とした出来事も全て把握した。それにより組織に加わり織彩を救出しノアを潰す事を目的とするようになる。自分達もそれぞれ強化を受けながら目的を遂行する中でサイファの調整中に事故が起きジェイドはその命を懸けてサイファを守った。貴重な戦力を失いながらも三人は前へ進んでいたがそんな最中に明希は海達に出会ったのだった。
明希は気怠そうに眼を覚ますと時計を見る。ぐっすり寝た割には久しぶりに見た昔の夢のせいで少し頭が痛い上に気分も悪かった。
「はぁ~‥また暫く調整槽入りか‥」
頭を掻きながら呟くとベットに腰掛けて煙草に火を点け宙を見上げる。
『明希、起きてる?』
内線で紫苑が話しかけてくると明希はああと返す。
『準備出来たからいつでも良いわよ‥朝食は取ってから来るの?』
「いや、食っちまうと吐くから止めとく‥5分後に行くから用意しといてくれ」
紫苑が続けると明希は答えてタオルを取り、顔を洗ってから袷を羽織って部屋をのんびり出て行った。