未来へ
ラウンジにひょっこり顔を出し、海は辺りを見回し何かを見つけるとにんまりした顔で中に入る。
「仲が良いねお二人さん!」
サイファと英梨香が仲良く食事をしているのを見て海がそう言った。
「下世話な男ね‥」
「食事中だ‥静かにしてくれ」
二人から冷ややかな言葉が返ってくると少し苦笑いを浮かべつつ海は相変わらずだなと二人のテーブルにつく。海とサイファは重傷だった明希達を先に帰して残りの実験体達の処分に当たり、ほんの先ほど戻ってきたばかりだった。英梨香は箱庭に付くと軽く治療を受けただけでずっと明希の傍に居てサイファに促され一緒に食事を取りに来たらしい。
「それよかちゃんと検査受けたのか?」
話を切り替えようと海はサイファを見た。
「問題無い、少し身体は重いがこれが本来の感覚だからな
それより陸はもう行ったのか?」
サイファはチラッと海を見たがそのまま食事を続ける。
「うん、翔子ちゃん待ってるし休みももうあと二日ほどだからな‥
俺も来週くらいには普通の生活に戻ろうと思ってる
お前はこれからどうするんだ?
もう化け物と戦う必要無くなったんだろ?
身体も普通に戻ったんならもう組織にいる必要無いじゃん」
チラッとカウンターの方を見ると何か頼もうかとメニューを眺めた。
あの後、二つの屋敷は東條の結界により封鎖され海とサイファを伴い一連の後始末が行われた。そしてその時点でヒューバートは各国各地にあったノアの施設を全て掌握し、主要な職員を除いて民間の研究機関としてそれぞれに責任者を置く手続きを進めている。人体実験の事実を知る者やそれに関わる職員は三七三と響の力で記憶の消去をする事になり二人はヒューバートと共に各国を回る為に後を追っていた。東條はノアに所属している陰陽師や魔術師達の記憶消去と追跡に追われていてあれからずっと姿を消している。
「樹莉が此処に居るなら俺も此処に居る
これと言って行く当ても無いしな‥」
ポツリとサイファが言うと海はようやくサイファの出自を思い出す。孤児であり自らジェイドと共に組織に入ったサイファにとって唯一安らげるのはジェイドの片割れである樹莉の傍なのだ。
「あのさ、それなんだけど良かったらうちに来ないか?
うちに来ないかって言っても俺の婆ちゃんちなんだけど樹莉がえらく気に入ってるからさ
勿論、樹莉やお前が良ければなんだけど‥
あ!勿論、構わないんなら織彩も一緒に!
ほら、俺等、仕事があって婆ちゃんと一緒に暮らせないし一緒にいてくれると助かるって言うか‥」
そう切り出すとサイファは驚いたように海を見たまま固まる。
「バカね、今更、普通の生活なんて出来る訳無いじゃない‥」
今まで黙って聞いていた英梨香が口を挟むと海がムッとしたように英梨香を見た。
「貴方は普通に暮らしてたから元の生活に戻ってもすぐに馴染めるかもしれないけど私達みたいに特殊な環境に育ってきた人間は普通っていうモノが想像は出来てもよく分からないのよ
馴染んでない分、窮屈なの‥始めは新鮮で良いかもしれないけれどすぐにストレスになるわ
特に力を持ったままの状態で普通に暮らすなんて無理ね」
涼しい顔で言ってフォークを置く。確かに海自身、力を得てからの生活はかなりのストレスだった。英梨香の言う事は尤もだと思うと反論の言葉が出ない。
「力を失くせば普通に暮らせるかな‥」
難しい顔で考えながら海が苦し紛れに言うと英梨香はぷっと笑う。
「バカ言わないでよ
今更、力も無しに暮らせる訳無いでしょ?
一度、便利なモノを手に入れて簡単に捨てられるほど私達は強くは無いわよ」
年下の女の子に小バカにされて海は更に不機嫌になったがいちいち尤も過ぎてやはり反論出来ない。海自身この力を失くして今迄通り暮らせるかと言えばきっと慣れるまでかなりの時間がかかるだろう。たった半年弱ほどの間だがこの力をそれなりに使いこなしてきたのだから尚更。
「それでも普通に暮らし始めたら何とかなるもんやで」
三人の会話に迦狩が割って入ってきた。海は救世主のように迦狩を心酔するような目で見る。
「確かに隠しながら生活するんは大変やけど理解してくれるもんがおったらどうって事無いねん
やる前から諦めるんはアホやで」
迦狩はそのまま脇をすり抜けてカウンターで食事を注文しそれを受取ると海達の所へ戻ってきた。英梨香はムスッとした表情で迦狩を睨む。
「俺なんかこんな力持ってても普通の高校生やっとんのや‥
要は自分がどう生きたいか、どう在りたいかで決まるんちゃうか?」
そう言うと手を合わせてから食事を始める。英梨香は言われると反論する事も無くなるほどねと感心したように溜息を吐いた。
「そうだ、お前はもう帰るのか?」
海が思い出したように聞くと迦狩は困ったように手を止め宙を眺める。
「それがなぁ、俺もうちょっと離れられんねや‥結界自体はちぃが張ってるさかい俺はなんもせんでええねんけど東條のおっさんが戻って来んと此処のセキュリティーシステムが上手いこと作動せぇへんねん
それの繋ぎ入れんのに俺、暫く面倒見た方が良さそうやからな
学校あるから通いになるけどあと半月くらいは此処におるわ」
溜息交じりに言う。
「そっか、何か綺麗さっぱりって訳にはいかないもんだな‥」
海も溜息を吐く。
「当たり前でしょ、表で動いてる分の倍以上の労力が裏方には居るのよ
能天気な一般人は邪魔にならないようにさっさと普通の生活に戻りなさい」
英梨香がまた棘のある口調で返す。
「そうだな、お前達は元々関わりたくて関わった訳じゃ無いんだから早く戻ると良い
その内に身体も戻る方法が見つかるだろうからその時はまた迎えに行く」
サイファが控えめに続けると海はムッとした表情を緩めた。
「私ももう行くわ
お兄ちゃんの容体も安定してるみたいだし‥此処に居てもしょうがないから」
「え?ちょっ‥気が付くまで待ってろよ」
英梨香が立ち上がると海が慌てて引き止める。
「無事なら良いのよ
私には帰る所があるんだから‥」
呆気らかんと言って英梨香が背中を向けるとサイファも立ち上がり英梨香に続く。
「結構サイファってあいつの事、気に入ってるよなぁ‥」
「アホか‥此処から出るんに関係者がおらんと出れんやろ‥」
微笑ましそうに海が言うと空かさず迦狩が付け足し、グッと固まるとそうでしたと言わんばかりに大人しくなった
箱庭から少し離れた森の中まで来るとサイファは車を止める。
「ありがとう、いろいろ助かった‥」
サイファは別れ際に英梨香に言う。
「貴方って何処かデュランに似てるわね
嫌いじゃないわ」
少し微笑んで英梨香は返すと車を降りた。木々の向こうに黒塗りのリムジンが停まっている。英梨香はその傍まで行くとドアを開けてそれに乗り込んだ。車が走り出すのを見届けるとサイファは溜息を吐く。そして空を見上げその蒼さに目を細めてまた箱庭に向かって走り出した。
数日後、調整槽から出てきた明希の姿は以前と変わりなく金髪に金目で織彩達は少し驚いた。体質は普通の人間そのものであるのに見かけは全く以前と変わり無くサイファの時と全く違っていた。
「どういう融合の仕方をしたのか分からないけど完全に細胞レベルはサイファと同じなのにどうして見た目が変わらないのかしら‥」
織彩がデータを見ながら難しい顔でモニターを睨んでいる。
「俺にも分からん
暁がやったのかそれとも別の力が働いたのか‥まぁ、今更、何が起こっても驚きゃせんがな‥」
明希は言いながら袷を羽織ると身を捩ったり腕を上げたりしながら身体の感覚を確かめた。
「でもサイファの時と違って能力値が格段に落ちてるわね
落ちてるって言うよりほぼ無くなってる?
これってどういう事なのかしら‥」
紫苑も織彩の見ているデータを覗き込みながら難しい顔をする。明希はそれを聞くと近くにあったワゴンの方へ行き銀色のヘラを持つと変形させるように集中してみた。しかし少し曲がっただけで以前のように自在に操る事が出来ない。
「どうやら殆んど力は使えないようだ‥」
その変形したヘラをまたワゴンへポンと投げて答えると大きく溜息を吐いた。
「じゃぁやっぱり普通の人になっちゃったって事なのかな?」
織彩は明希の方を見て聞いてみるが明希は頭を掻いて何か考えるような仕草をする。
「確かに感覚は前と同じだが今はまだ目が覚めたばかりだし何とも言えねぇな‥」
しっくり来ない全ての感覚に明希自身、戸惑っているようだ。
「とりあえず今はゆっくり休んだ方が良いかもね」
紫苑が言うと明希はもう一度、溜息を吐き手をひらひらさせながら調整室を出て行く。中庭まで来ると丁度、部屋から出てくる海と出くわした。
「あ、もう良いのか?」
明希に気付くと海が駆け寄ってくる。
「ああ、まだ身体は重いがな‥それよりあれからどうなったか聞かせてくれ」
明希は言うと自室に来るよう促した。
「それは良いけどお前、メタルと融合したんじゃなかったっけ?
何で金髪のままなんだ?」
後ろを付いて行きながら海が聞くと明希は自室の扉を開け黙って入り、そしてベッドにドカッと腰を下ろしてから数日振りの煙草に火を点けた。
「もうメタルじゃねぇよ‥暁って名前だ
あいつは確かに俺ん中にいるがどうやってそうなったのか未だに分からん
逆に聞くがあんたらが俺達の所へ来た時どうだった?
傍に誰か居なかったのか?」
ゆっくり煙を吐くとそう聞き返す。海はそれを聞くと難しい表情であれこれ当時の事を思い返してみるが思い当たるような人物がいない。
「俺等が駆け付けた時はあのヴァンパイアがアレックスの仲間とか化け物と戦ってて‥その後すぐにお前らが地下に降りてるって聞いたから駆けつけたけどもうお前はやっと息してる状態だし陸は意識失くしてるし‥
辺りは化け物の死体がめちゃめちゃになって飛び散ってる状態で動いてるモノなんて居なかったぜ
寧ろよくあの中で生きてたなって思ったよ」
頭の中を整理しきれない状態で海が説明すると明希は何も返さず煙草を蒸かす。
「で、一からちゃんと説明してくれんだろ?
お前等がアレックスと合流してからの話を聞かせてくれ」
暫く後に明希が言うと海は一連の経過を淡々と説明し始め、一通り説明が終わると海は溜息を吐いた。
「なるほど、俺達ゃ最後はあいつに遊ばれてたみたいなもんだな」
「うん、人体実験で化け物を武器として運用しようとしていたのはノーマン博士だけど途中からトラストって奴が組織を乗っ取ってたって‥
お前の妹の話だとあのヴァンパイアも利用されてたみたいだな
何が目的だったのか知んないけどあいつももう死んじゃったし‥」
明希の返答に海が続けると明希は驚いたように海を見る。
「あいつが死んだ?」
明希が驚いたように聞くと海は更に驚いたような顔をした。
「あれ?言わなかったっけ?
あいつ瓦礫の中から出てきたんだよ
何かドテッ腹にでかい爪が突き刺さってて自分が連れ歩いてる化け物が暴走したみたいでさ‥
折り重なるみたいに壁の下敷きになってた」
説明すると少しその時の事を思い出したのか海の表情が曇る。明希はそれを聞いて少し動揺の色を見せたが煙草を一呼吸すって落ち着くと頭を掻いた。
「そうか‥」
一言呟くと煙草を揉み消しベッドに横になる。
「それでお前これからどうすんだ?
やっぱお前も此処に残るのか?」
暫くの沈黙の後に海が聞くと明希は何も返さず天井を見つめたまま小さく溜息を吐く。
「そうなぁ、普通の生活ってのも今更な感じがするしな‥
かといって未練が無いかっていやぁ未練はタラタラなんだよ」
まだ心の整理が出来てないのは海にもよく分かっている。
「まぁ、ゆっくり考えりゃ良いんじゃねぇ?
もうゆっくり考える時間はあるんだしさ‥」
そう言うと立ち上がり部屋を出て行こうと背中を向けた。
「おい‥」
その途端に明希から声をかけられ海は顔だけ振り返る。明希が無言で手招きすると海はそれを察して呆れた顔をした。
「だから病み上がりは大人しく寝てろって‥」
大きな溜息を吐くと海が脱力しながら言う。
「こっちはてめぇと違って若いんだよ‥相手しろ」
別に恥ずかしげもなく言う明希に更に項垂れる海、確かに此処ずっとそう言う行為にかまけている暇など無く二人で花街に行く事も無かった。だからと言って久しぶりの相手が野郎というのはちょっと悲しい気がする。
「何か久しぶりの相手が男ってのはちょっとヤだ‥」
海がボソッと呟く。
「そりゃお互い様だ
抱くなら女に越したこたねぇ‥今はとにかく出せりゃ良いんだよ」
逆切れさながらに明希がきっぱりそう言うと海はもうイイやと半分諦めたようにベッドに腰を下ろす。途端に明希は海を布団に引きずり込んで事に及ぶと性急なその反応に海は抵抗する間もなく明希のペースに巻き込まれ、幾らかお互いを貪りこれで最後という時に勢い良く明希の部屋のドアが開いた。
「ダーリン迎えに来ましたえっ!」
智裕はそう言いながら満面の笑みで部屋に飛び込んできて今まさに合体中の二人を見て固まるが明希と海もまた智裕を見て固まった。
たった数秒が永遠に感じられるほど長く、智裕はハッとして真っ赤になり明希に駆け寄ると「あほーーーーーっっ!」と思い切り叫びながら有りっ丈の力で明希の顔を殴って飛び出していく。
「不味くね?」
殴られて頬に手を添えたまま固まる明希に海がぽそっと呟いた。明希は盛大な溜息を吐くと萎えてしまったそれを海から引き抜いてベッドに腰を下ろす。海もまた言いようの無い複雑な表情を浮かべてベッドの上で座って頭を掻く。
「とりあえず追いかけた方が良いだろ?」
海が言うと明希は溜息交じりに立ち上がり服を着て部屋を出て行った。
明希は庵の傍の茂みを見て回り智裕の姿を見つけるとその傍に歩み寄る。智裕は背中を向けたまま蹲ってこちらを見ようともしない。
「過去を覗いたんなら知ってた事だろ?」
暫くの沈黙の後、明希が切り出すが智裕は黙ったままだ。
「ま、愛想が尽きたんならそれでも良いが‥」
明希は言うと部屋に戻ろうと身体を返す。
「別に‥」
智裕がようやく口を開くと明希はもう一度、智裕の方を向く。
「別にうちはやきもち焼いとるんや無い‥ただ知ってるんと実際に見るんではショックの度合いが違うだけや‥」
消え入りそうな声でそう言うと智裕は小さくした身体を更に小さくした。
「だろうな、けど、別に俺にとっちゃ普通なんだよ
それが嫌ならこの件に関してあんまり踏み込んで来るんじゃねぇ」
至極、優しくきつい言葉を返す。
「うちの事、真面目に考えてくれはる気あるのん?」
その答えに智裕もきつい口調で問う。
「お前の事はある意味、伴侶って言うより兄妹に近い存在だと思ってるよ
今のところ恋愛対象にゃならねぇな‥」
明希なりの素直で誠実な答えに智裕はグッと息を呑むと立ち上がって明希に向かい合った。
「今のところはって事はこの先は分からへん言う事やんな!
うちはあんたさんが惚れてくらはるまで諦めへんからな!」
言い放つと明希を睨み付け頬を膨らませる。それを見ると明希は困ったような顔で視線を逸らせて溜息を吐いた。
「一緒に生きていくのと恋愛対象になるかどうかってのは別問題だろ?
少なくとも俺の中じゃイコールにはならない
俺自身、今は身の振り方を考えんのに手いっぱいであんたの事まで気が回らねぇ
ともかく暫くはそっとしといてくれや‥」
諦めたように答えてはみたが明希は無駄かもしれないと内心思う。
「せやから迎えに来た言いましたやろ?
此処に縛られる事無いんやったらうちに来てくらはったらええねん
うちの傍やったらやる事、幾らでもおますよってな」
途端に明るい顔になって智裕が言うと明希はぽかんとした顔をした。
「‥悪いが俺はもうあの力は使えん
たいした能力が無いんであんたの役に立つとは思えんが?」
溜息の後に明希が言うと智裕はくすっと笑う。
「何であんたさんらがその姿のままあの力を得られたか全く解って無いようやね
アレはうちらがいう神力、神威や‥アレを受け入れるんはそれなりの器がいんねん
化け物になった人らは恐らくその器が無かったんや‥
霊的なそう言う素質があるからきっとうちの傍でも十分役立つと思うで?
寧ろ此処よりうちに来た方がその性質行かせる思うわ」
そう言われて腑に落ちる事が幾つかあったがまだ少し自身を疑うような表情を浮かべると智裕はそっと明希の手に触れる。
「うちの傍に何人おるか分かる?」
そう言われて明希が智裕の背後に神経を向けるとぼんやり人影が見え、ハッとして智裕の手を放す。明希が呆気に取られているとまた智裕はくすっと笑った。
「うちの守護眷属、普通の人には見えへんようにしてあんねん
それが見えたんやったらとりあえず合格や」
事も無げに言った智裕に視線を向けると少し動揺したように呆然とする。確かに普通の人間だった頃に幽霊などの類は見えていたがバーサーカーエレメンツになってからはそういった類は一切見えなくなった。そのせいか懐かしい感覚により戸惑う。
「あんたさん、こういうの化け物になってから一切、見えへんかったやろ?
それはあんたさんが神力を纏ったからそういうモンが消し飛んでたせいや
次元が違う言うのかな‥寧ろ神様とか妖怪の類はよう見えたんちゃう?
格が上がったからそういうモンが見えてたはずやけどね」
智裕にズバリ言われて明希はハッとした。
「うちおいで‥きっとあんたさんの為にはそれが一番ええ選択やと思うわ」
そう言われて明希の気持ちが揺れる。実際問題、此処に居てもたいした技術がある訳でも織彩や紫苑のように知識がある訳でも無い。平穏を取り戻した組織に明希達はもう無用になるだろう。かといって一般社会に出た所でサラリーマンになるには裏社会を知り過ぎている。
「少し‥考えさせてくれ‥」
整理しきれない気持ちでそれだけ答えた。
「うん、うちは何時でもあんたさんを受け入れる準備出来てるから踏ん切り着いたら連絡頂戴」
そう言うと智裕は一枚の封筒を明希に差し出す。明希はそれを受取ると一つ頷いた。
「ほな、うち帰るわ‥」
智裕は言うと明希に背を向け何かを思い出しもう一度振り返る。
「あとやっぱりうち‥ホモはちょっと引くわ‥」
赤面しながらそう言い残すとふいっと姿を消した。明希は最後の言葉にフッと笑みを浮かべるとその封筒を手に部屋に戻る。
一人取り残された海は軽くシャワーを浴びると明希の部屋を出て自分の部屋の方を見ると樹莉がうろうろと部屋を窺っていた。
「あ、海そっちにいたの‥探したの」
樹莉は海に気が付くと駆け寄ってくる。
「何?探してたってなんかあったのか?」
海は屈んで樹莉を持ち上げると少し微笑んだ。帰って来るなり樹莉はバタンと倒れて二日ほど寝たきりになり目が覚めるとすぐに元に戻った。身体に異常も無くこれと言って問題も無いようなのでそれからは普通に生活している。
「一緒にお昼ご飯食べようと思ったの」
ニコニコしながら樹莉が言うと海も何だかつられて笑顔になった。
「そうだな、そろそろ腹も減ったし‥」
返すとそのまま樹莉を肩口に乗せてラウンジへ向かう。ラウンジに来ると目の下に派手なクマを作ったシルビアが食後のコーヒーを飲んでいる。
「なんか大変そうだな‥」
カウンターで食事を受取るとシルビアの所まで戻ってきて言う。
「まぁね、いろいろサンプルを検証しなくちゃいけないし‥」
シルビアは答えながら目元をグッと押さえる。もうかなり碌に寝ていないだろう事は安易に想像出来た。
「ちゃんと寝た方が良いの
あまり無理したらダメなの」
テーブルの上に降ろされた樹莉は傍まで歩いて行くとシルビアに言う。シルビアはそんな樹莉をじっと見てからついっと頬を突く。
「ナマ言ってんじゃないわよ実験体風情が‥無理するなはこっちの台詞よ」
ぷにぷに突いた後に頭を撫でてシルビアは立ち上がるとラウンジを出て行った。
「相変わらずきつい言い方だな‥」
「でも本当は良い人なの
頑張り屋さんなの」
苦笑いを浮かべつつ海が言うと樹莉は少し頬を擦ってから答え、海の前まで戻ってくるといただきますと言って自分用に作って貰った食事に手を付ける。
「そういやお前、今まで何処居たんだ?
起きてから何日かずっと姿見えなかったけど‥」
海が焼き魚に手を付けながら聞くと樹莉は口をもごもごさせているのをごくんと飲み込んだ。
「皆、忙しいから小鳥さんとネズミさんと遊んでたの‥仲良くなったの」
嬉しそうに返すと何時も何をして遊んでいるかを興奮気味に話し出す。どうやら樹莉は此処ずっと箱庭の外に出て遊んでいたらしい。
「そっか、でも危ないからあんまり箱庭の外には出るなよ
どんな奴が居るか分からないからな‥」
海は相槌を打ちながら聞いていたが最後にそう言った。
「大丈夫なの
樹莉くんかくれんぼは得意なの」
相変わらず危機感というものが欠けているのか能天気に樹莉は返す。海はノアの脅威も去ったしもう大丈夫かと諦めがちに溜息を吐くと樹莉の頭を撫でてやった。
「そういや向こうで大きくなってたけどどうやって大きくなったんだ?
またいきなり大きくなったのか?」
思い出したように海が聞くと樹莉はハッとして固まる。
「な‥内緒なの!
知らない人が樹莉くん大きくしてくれた事は内緒なの!」
言いながら樹莉は手で口を覆うが既に内緒では無くなっている事に気付いていない。
「知らない奴がお前に何して大きくしたんだ?」
海がそのまま聞き返すと樹莉は驚いたようにまた固まる。
「どうして知ってるの?
海は樹莉くんの事、分かるの!?」
「まぁ、そういう事で良いよ‥
だからどうやって大きくなったんだ?」
慌てふためきながら聞くと海は苦笑しながら答えた。しかし樹莉は俯いて難しい顔をしたまま固まる。どうやら言うべきか内緒にしておくべきか考えているようだ。
「内緒なの‥」
「絶対、言わないからさ」
口籠る樹莉に詰め寄る海。
「樹莉くん、英梨香を助けたくて大きくなりたかったの
どうしようって思ってたら知らない人が出て来て真っ白になったの
その人が少しだけ力を分けてくれるって言ったの
そしたら樹莉くん大きくなったの」
困ったような顔で樹莉は説明したがあまりよく分からない。
「そっか‥まぁ、お前に危害を加えたんじゃ無いんならそれで良いか」
聞いた自分がバカだったととりあえず納得すると軽く溜息を吐いた。ふと気付けばラウンジは込んでいて海と樹莉はそそくさと退席する。
「なぁ、婆ちゃんちに帰る気あるか?」
それとなく海は樹莉に聞いてみた。
「樹莉くん織彩の傍にいたいの
でもお婆ちゃんの所にも帰りたいの」
困ったように呟く。
「んじゃ、織彩と一緒に婆ちゃんちに行けば良いじゃん
きっと婆ちゃんだって人が多くなった方が嬉しいだろうし‥」
海が答えると樹莉は途端に嬉しそうな顔になった。
「じゃぁ樹莉くん皆と一緒にいられるの?
それなら凄く凄く嬉しいの!」
はしゃぐ樹莉が可愛くて海もまた嬉しそうに微笑む。
「今は忙しいから織彩も此処を離れられないだろうけどきっと用事が済んだら自由になれる筈さ‥そうなったら皆で婆ちゃんちに行こうな
俺も頑張って働くし少しくらい人数が増えても何とかなるだろ‥」
少し上を向きながら海が言うと樹莉はこくんと頷く。ようやく海も先の事を考える余裕が出来てきたようだった。
あれから一月半が経過した頃、海は予定通り日常生活を取り戻し、相変わらず取材やネタ探しに追われていた。いろいろあった出来事は闇に揉み消され、改めて自分達の生活は誰かの犠牲の上に成り立っていたのだと実感する。それでも些細な事であろうとも掴んだ事実は公開していこうと海は今日も必死に取材に駆けまわっていた。遅めの昼食を取りがてら記事を纏めようとオープンカフェに入る。普段ならすぐにエアコンの利いた店を選ぶのだがバーサーカーエレメンツになってからというもの感覚が鋭くなったせいか無意識に人の多い場所を避ける傾向にあった。海がサンドイッチ片手に手帳を睨みながらパソコンのキーボードを叩いているとガラガラのパラソル席の方へ誰かが来て後ろに腰を下ろす。
「久しぶり、だいぶ落ち着いたのか?」
海は口をもごもごさせ作業を続けながら後ろの人影に声をかけた。
「ああ、一応、ノアの方も処理が終わって俺等の組織も事実上、解散って事になった
一部はヒューバートと共にまだ箱庭にいるがな‥俺達もお役御免ってとこだ
バーサーカーの変異させられた細胞も織彩達が元の状態に戻していってる
お前達が普通に戻れる方法ももうじき解明されるだろう
あとはマリーやあんたらが元に戻れば一応目標は達成した事になるんだろうな‥」
そう答えた背中の方をようやく海は少し振り返る。
「ところでお前、また前髪伸びたな‥」
会った頃の事を思い出しながら海は明希の顔を眺めた。明希は何も答えないまま煙草を蒸かすがもう表情は読み取れない。
「で、お前はこれからどうすんだ?」
溜息を一つ吐いてまたパソコンに向かうと聞いてみる。
「さて‥どうするかな‥
今更、サラリーマンってのもな‥
一通り戸籍も住居も貰ったがまだ馴染めねぇよ
けど、とりあえずなるようにはなるんじゃねぇか?」
ぼんやり宙を見たまま答えた明希は気の抜けた炭酸のようだ。
「その髪は元に戻んないのか?」
金髪のままでいる明希を不思議に思いながら聞く。
「髪や眼の色はある程度、何とか出来るらしいがもうこれで慣れちまってるしな‥
現状いざとなりゃ毛染めでも何でも使えるんだし別にもう気にしてねぇよ」
体勢を変えずに相変わらず虚ろに答える。
「他の奴はどうするんだろうな‥」
「マリーは元に戻ったらミシェルと一緒にまた内戦地域へ戻るそうだ‥結局あいつは過酷な条件下にいる方が落ち着くんだろうな
トニーや紫苑はそのまま組織に残るって話だ」
「樹莉や織彩は?」
「あいつらは組織を出られん
言ってみりゃあいつらさえいればまた新たな犠牲者が出る可能性があるからな
接触感染は無いにしろあいつらの細胞一つでまた化け物が創られる可能性があるんだ
当然だろう?」
最後の言葉に海は明希を振り返った。
「じゃぁ樹莉はこの先どうなるんだ?」
驚いた顔でそう聞いた海をチラリと見ると明希は一つ溜息を吐く。
「心配しなくても実験対象にゃならんさ
ただ現状隔離する為に組織が保護するってだけの話だ
あのナリだしな‥それにもし普通の人間になり得る要素があったとしても人間社会を理解してない分、普通の生活は出来んだろ?
組織にいる方が結局のところあいつらにとっちゃ幸せなんだよ」
明希の言葉に海は少しホッとすると向き直ってパソコンを眺めた。
「樹莉の奴、婆ちゃんトコに帰りたがってたんだよな‥
何とか一緒に暮らせるようにしてやれないか?」
「そうしてやりたいのは山々だがあいつの寿命はデータを見る限り恐らく人より長い
それだけ人外の色が濃い種なんだ
異種交配で作られた織彩ですら人間以下の寿命しかない
そう考えると大凡、人とは違う時間を生きる事になる
下手に人に紛れて生きていくのは逆に酷ってもんだろうな」
言葉を切ると明希は煙草を揉み消して席を立つ。
「まぁ、あいつらの事に関しちゃ組織の方でもいろいろ考えてる
あんまりあんたが心配する事もねぇよ」
軽く海の肩をポンと叩くと明希は立ち去る。その後ろ姿を暫く眺めたあと海はまた作業を再開した。
それから更に半月が過ぎた夏真っ盛りの頃、海は箱庭の皆を誘ってバカンスに出かけた。ようやく掴んだ安寧は海に満足感を齎せる。
それから二日後、海は偶然行きつけの風俗で明希と顔を合わせた。久しぶりに見た明希の顔は少し無精髭が生えて余り健全な姿とは言えなかった。
「今、何やってんの?」
二人はまた何時ものように居酒屋へ繰り出し、あてを摘まみながら海が聞く。
「別に仕事はしてねぇよ‥
さしてやる事もねぇから旅行がてらあちこち回ってついでにアッレックスの所にも顔出してきた‥あれこれ考えてんのも面倒臭せぇからいっそ智裕の所へでも行って働こうかと思ってる」
意外な明希の答えに海は少しキョトンとしたような顔をした。智裕の事を毛嫌いしていないにしても何処か避けているように見えた明希から出た意外な言葉。海は途端に明希の事が心配になる。
「何か意外だな‥お前はてっきりさっさと目標見つけてそれに向かって前進するタイプだと思ってたぜ」
ポツリと言うとジョッキに手をかける。
「結構これでも考えたんだぜ‥でもいざとなると何だか何もかもがバカらしく思えてな
結局のところ、俺も過酷な条件下でようやく自分を保ってたのかもしれん」
明希は日本酒をチビチビ飲みながら答えた。髪の隙間から見えるその瞳は何処か遠くを見ていて捕え処が無く、海は余りの変貌ぶりに少し戸惑いを見せた。
「時に陸の奴はどうしてる?
ガキは作ってないだろうな?」
そう問うた視線は前の鋭い眼光を放ち、海はこの落差にまだ明希が枯れていない事を悟った。
「うん、気を付けてるみたいだから心配ないと思う
でももうそんなに心配する事も無いだろ?」
「俺等はともかくお前等からまだ脅威が去った訳じゃ無い
バーサーカーのガキはお前が思ってるより危険なんだよ」
海は少し安心したように返したが明希はくいっと盃を開けて低い声で答えた。
「前から思ってたんだけどそういう実験もしてたのか?」
海は思い切って聞いてみたが明希は思いつめたような顔をしてまた盃に酒を注ぐ。そして暫くの沈黙の後、ようやく悍ましい実験の話をした。
「俺達がバーサーカーエレメンツとしての力を安定させた頃‥サンプルを取られ胎児が創られたが同時に直に性交渉を強要された
俺達は男だからまだ良かったがマリーは何度も胎児を腹から直接、取り出されたんだ
ある時は普通の人間と‥ある時はバーサーカーと‥その何れのケースも胎児は母親の腹を食い破り出てきた
そしてその出てきた化け物を‥自分の子供を俺達は自分達自身で処分させられた」
明希が口にした事実に海は言葉を失くす。力無く溜息を吐き明希は話し終えるとまた酒を煽った。皆がどれほど過酷な状況にあったか解ってきたつもりだったが予想を遥かに超えていた事に海はまた自己嫌悪に陥る。酒のせいもあって見る間に海の目に涙が溜り始めると明希はタンッと少し音を立てて盃を置いた。
「ま、全部終わっちまった話だ
これからは平穏無事に暮らしていくさ」
勤めて平気な声で言うと席を立つ。
「あ、せっかくだから陸にも会ってってくれよ‥あいつも気にしてたしさ」
海はそう言うと慌ててジョッキに残ったビールを開ける。明希は僅かな笑顔で返すと二人は居酒屋を後にした。
帰宅途中の道すがら皆でバカンスに行った事や最近あった世間のニュースなどを話して聞かせ、今更、元気付けるのもおかしいと感じたがそれが海の精一杯だった。それが分かるから明希もただ黙って話を聞いている。二人はあの頃より少し短くなった距離を感じつつ夜空を見上げながら歩いた。
玄関先で翔子の靴を見ると海は少し大きめの声で帰宅を告げる。以前に何度か気まずい目に遭ったからだ。明希も軽く挨拶しながら海に続く。
「ただいま‥翔子ちゃん来て‥」
リビングのドアを開けると海はそこまで言って言葉を切る。明希が海の後方から中を覗き込むと陸と翔子が神妙な顔で見合っていた。
「どうしたの?」
余りの空気感に海は引き気味に聞くと陸は溜め息を小さく吐いた。
「子供が‥」
暫くの沈黙の後、ポツリと陸が言いかけると今まで後方にいた明希がずいっと前に出て陸に歩み寄ってテーブルに手を付き陸を見据える。
「あれだけ気を付けろと言った筈だ」
静かに低い声で言う。陸は何も言わずただぐっと歯を食いしばり俯き、その途端に翔子はワッと泣き出した。
「ごめんなさい!
私が‥私が悪かったの
陸を疑ってしまったから‥」
泣きながら訴えた翔子に明希は溜め息を吐いて落ち着きを取り戻す。
「とにかく今すぐ箱庭へ行こう
話はそれからだ」
二人に背中を向け明希がこちらを向くと海はハッとして明希を見てからまた玄関へ向かう。陸は立つと優しく抱きかかえるように明希達の後に続いた。
箱庭へ着くと翔子は検査などの為に調整槽へ入れられ、海は明希と事情を聞くため陸をラウンジへ連れ出した。
「ようやく日常を取り戻した頃に大きな山にさしかかったんだ
その事件の関係である女性と綿密に連絡を取っていたんだが‥つい私生活にまで仕事を持ち込んでしまって彼女を不安にさせてしまった」
其処まで聞くと二人も大まかな事情を察してお互い視線を逸らせ溜め息を吐く。
「とにかく早い段階で分かったのは不幸中の幸いだな
今ならば堕胎してもそれ程ダメージも無いだろう」
その言葉に陸はハッと顔を上げて呆然と明希を眺める。
「ちょっ‥まだ堕ろさなきゃならないって決まった訳じゃ無いだろ?」
海が慌てて口を挟む。
「まだあんたらが戻れる方法さえ見つかって無いんだ‥ましてや彼女は自分の身体を危険に晒してる
どの選択肢を選べばベストか明白だろ?」
「それは貴方達が決める事じゃないでしょ?」
海と明希が険悪な状態で言い合っているとラウンジの入り口にいた紫苑が割って入ってきた。陸はハッとして紫苑の方を見る。
「検査は一通り終わったわ‥
とりあえず今、織彩が胎児を抑える為に調整をしているからもうすぐしたら話せるわよ」
紫苑は陸を気遣うように言い、陸も少しホッとしたような顔をした。言い合っていた二人もそれを聞くと落ち着きを取り戻す。それから紫苑は三人を伴って検査室へと向かい程なく織彩が翔子を連れて入ってきた。
「一応、胎児の方は変異を抑える処置をしたから母体を食い破って生まれるなんて事は無いと思う
でもまだ暫く定期的に検査と調整は必要だけど‥」
翔子に座るよう促してから織彩が陸に説明すると陸は安心したのか今まで強張っていた表情を崩し、頭を抱えて長い溜息を吐いた。次に顔を上げると翔子の片手を取りその手を祈るように自分の眼前へ持ってきてもう一度、感慨深く目を閉じる。
「良かった‥君も子供も無事で良かった‥」
絞り出すような声で呟くと翔子もまたホッとしたのか残った手を添えて何度も頷く。
「一応もう見た目や数値は普通の妊娠と変わらないから民間の手続きしても大丈夫よ
あとは定期検査の前にこっちで検査と調整を受けて行けば問題無いと思うわ」
紫苑が二人に言うと陸と翔子は紫苑を見て感謝するように微笑んで頷いた。
「あ、でも式はどうするんだ?
籍入れるにしてもまだ予定も無かったんだろ?」
海が思い出したように言うと陸と翔子も気付いたのか困ったように顔を見合わせる。
「今ならお腹が目立つ前に式の準備くらい出来るんじゃない?
まだ一月半くらいだから三ヶ月くらい余裕あるよ」
「そうだな、結婚するつもりだったんだし少し早くても構わないよな」
紫苑が補足すると穏やかな顔で陸が続け翔子は頬を染めて頷いた。それを聞いて明希は当てられたと言わんばかりに溜息を吐き黙って部屋を出て行き海もそれに続く。
「ま、俺等が心配する事でも無かったな‥」
歩きながらぽつりと言った明希に海は少し微笑んだ。
「明希!」
少し後から慌てて織彩が明希を追いかけてきたので二人は立ち止まり織彩の方を見る。
「せっかく久しぶりに来たんだし検査しとかなくて良い?」
息を整えながら微笑んで聞く。
「別に問題もねぇし必要ねぇよ‥それよりあいつら元気か?」
明希も穏やかに返すと織彩は相変わらずだよと苦笑交じりに答えた。
「あ、それから海ももしかしたら近々元に戻れるかもしれないよ
樹莉君の細胞から有効な因子が見つかったの」
「え?本当?」
織彩が言うと空かさず海は驚いた顔で返す。
「やっぱりマリーの件でハッキリしたんだな?」
二人のやり取りを聞いていた明希が聞くと俄かに織彩の表情が曇る。
「うん、ロックはかわいそうだったけどそれが二人にとって一番良い道だったから‥」
その会話を何の事だろうと海は聞いていた。
「元の姿に戻るのにはやはり人外の力を中和しなくちゃいかんという事か‥あいつの言うようにエレメンツの力はこの世に存在しちゃいけない力なのかもな‥」
明希が言うとその不穏な空気を感じ取り海も不安を顔に浮かべる。
「一体、何の事だよ?」
耐え切れず海が二人に聞くと織彩は少し視線を落とす。
「そもそもエレメンツロイドってのは理を捻じ曲げて人が作り出した不完全な神様ってヤツだ
それを元の身体に戻し、力を相殺する事でその力はあるべき場所に帰るのかもしれん
だから俺達は元に戻れた‥しかし樹莉の場合はジェイが死んでしまっている上にハイブリッドだからな‥」
明希が分かりやすく説明したが海はまだ呑み込めていないようだ。
「始めは分からなかったんだけどトラスト博士の研究資料を見たりシルビアの研究結果を見ていく内に分かったの
もしかしたらバーサーカーエレメンツを元に戻す因子がエレメンツロイドの中に在るんじゃないかって‥
そしたら樹莉君の中に全部の答えがあったの
ずっと原因を作った自分の細胞しか調べてこなかったから私、そんな単純な事にも気が付かなくて‥」
躊躇うように続けた織彩の顔は大発見にもかかわらず浮かない。
「ちょっと待ってくれ‥それって俺達が元に戻る為には樹莉自身がいるって事か?」
何とか自分なりに咀嚼して考える海はようやく返す。
「あ、そうじゃなくって‥樹莉君の中には特別な因子があるの
それを培養すれば樹莉君は何ともないよ」
慌てて織彩は言ったがやはりその表情には影があった。海はそれを聞いて少しホッとしたが織彩の表情が気になって何か聞こうと思ったが上手く言葉に出来ない。
「樹莉には帰る身体が無い上に二種類の力を持っている
織彩のように鬼子でも無い‥実在の身体を持つ神という存在に等しい
それは俺達人間にとっても樹莉にとっても良い状態とは言えない、本当はこの世界にあっちゃいけない存在だからな‥」
変わらず淡々と語る明希に海は言葉に出来ない反発を覚える。
「創り出しといて手に負えないから無かった事になんて都合良すぎるんじゃね?」
暫くしてようやく海が怒りを含めてそう言った。織彩は更に下を向き明希はただ黙っている。
「勿論、樹莉君の事は私が最後まで責任持つよ
だって私にとってはたった一人の家族だから‥」
沈黙の後、顔を上げると織彩は二人に躊躇いがちに微笑みながら言う。明希はそれを聞くと織彩の頭を少し撫でてから背を向けた。海はその言葉に安心したように微笑み返すと織彩と共にまた陸のいる検査室へと戻って行く。この時、互いの想いが擦れ違っている事に二人は気が付いていなかった。
それから一週間後、海と陸の元に織彩から連絡が入った。
「有効な対処法が分かったから時間が出来たら箱庭に来てね」
二人は休みが合わないので個別に箱庭へ行く事にした。まず陸が翔子を伴って箱庭を訪れた。二人は個別に調整槽へ入り織彩はプログラムを組んだ。その日の夜に海が様子を見にやってきた。
「どんな具合?」
調整室を訪れて開口一番、海が言うといきなりまた物が飛んできて慌てて調整室を出る。すると調整室から樹莉が出て来た。
「レディーが居るの!
勝手に入って来ちゃダメなの!」
紫苑の受け売りなのかきつい口調で言う。
「あ、そうか‥翔子ちゃん来てるんだっけ」
思い出したように海は溜息を吐いてその場に屈み込んだ。
「そういや今回、俺等の為に沢山、協力してくれたんだってな‥サンキュな」
少し微笑んで樹莉に言うと樹莉はエッヘンと言わんばかりに胸を張る。
「樹莉くん良い子なの
何でもへっちゃらなの」
自信満面で樹莉が言うと海は苦笑しながら頭を撫でてやった。暫く海は樹莉と話をしながら時間を潰していたが一時間もすると少し暇を持て余し始める。
「まだかかんのかなぁ?」
ぼんやり呟くと樹莉がまた走って調整室に入って行く。海はその後ろ姿を不思議そうに見守り暫くそのまま調整室のドアを見ていた。すると5分もしない内に樹莉はまた戻ってくる。
「まだ5時間くらいかかるって言ってたの‥」
ニコニコしながら樹莉が言うと後から紫苑がすいっと顔を出した。
「多分、深夜までかかるよ
大丈夫、順調だから‥」
少し微笑んで言うと海は頭を掻きながら立ち上がる。
「んじゃ、帰るか‥俺まだ明日仕事だし‥」
伸びをしながら言うと樹莉は少し寂しそうな顔をした。
「また来るよ
次に来る時はお土産持ってきてやるからな」
海がそう続けると樹莉は途端に嬉しそうになる。
「ホント!?ホントなの!?
樹莉くんお芋の甘いやつ好きなの!」
前に買ってきたスイートポテトがかなり気に入ったようでそれをリクエストした。
「了解‥んじゃ頼むな‥」
海は樹莉と紫苑に言って背を向けて歩き出す。そして自宅に戻ると眠りに付いた。明け方近く目を覚まし陸の部屋をそっと覗くと陸と翔子は仲良くベッドで眠りについている。海は音を立てないようにドアを閉めて自室に戻り、そそくさと着替えるとまだ出勤時間まで間があるのに家を出た。朝焼けの中を自転車を走らせながら少し笑みを浮かべ、弾むように会社へ向かった。
何時ものように数日張り込みが続き、ようやく編集長のOKが出るところまでの情報を得ると海は数日、休みを貰った。自宅に戻らず疲れた状態で箱庭へ向かう。恐らく自宅に戻るとまたこの力に未練が出ると思ったからだ。手土産を手に箱庭を訪れると前より人が減っている気がした。
「あ!海なの!」
海が調整室に向かって歩いているとラウンジ側から樹莉がそう言って駆けて来る。
「おう、元気してたか?」
海は少し微笑みを浮かべて答えると樹莉は頷く。
「何か前より人少なくなってね?」
「うんなの‥皆、余所へ行っちゃったの
此処に残るのは少しだけなんだって言ってたの」
辺りを見回しながら聞くと樹莉は少し寂しそうに答えた。海はふうんと返すと思い出したようににっこり笑う。
「そういやリクエストのやつ買ってきたから皆で食おうぜ」
樹莉はその言葉にぱぁっと嬉しそうな顔になりまるで待ちきれないといった感じで海の前を左右にヒョコヒョコ走り回る。その仕草に海はくすっと笑うと樹莉を伴って織彩がいるであろう調整室を目指した。調整室には案の定、織彩と紫苑がいてデータを見ながら二人で何やら話している。海は二人に手土産があるからと声をかけると二人は嬉しそうに頷いた。それを見届け、海はあちこちを回り声をかけて最後に庵の方へ行こうとした時に樹莉がストップをかける。
「庵は今、行っちゃダメなの‥充電中なの」
「充電中?」
樹莉が言うと空かさず海が聞き返す。
「あのね、あのね、力を使い過ぎちゃったから今動けないの
だから誰も入っちゃダメだって言ってたの」
樹莉が必死に説明するのだがやはりよく分からず行くのはダメだというのは理解出来た。
「そっか‥んじゃ、ラウンジ行ってこれ食うか‥」
気を取り直し樹莉と一緒にラウンジに行くと山のように買ってきたスイートポテトやらいろんなスイーツを広げ、二人でそれを食べながら話していると人がわらわらやってきてそれを摘まんで行く。そんな職員達と談笑を交えながらそれを食べ終ると海は調整槽へ入った。そして一日近く調整槽に入り、出てくると身体がやたら重く感じた。
「部屋そのままにしてあるから休んで帰っても良いよ」
紫苑に言われて海はそのまま袷を着て部屋に向かった。バタンとベッドに倒れ込むとすぐに眠りに就き、どれくらい寝たか分からないが喉の渇きで目が覚める。うっすら点いた明りで真っ暗なモニターにぼんやり自分の姿が映ると改めて元に戻ったのだと自覚した。少し残念なような嬉しいような複雑な心境、小さく溜息を吐くと冷蔵庫に目をやり立ち上がる。冷蔵庫を開けミネラルウォーターを出すとそれをがぶ飲みしてまたベッドに入った。どれくらい眠ったのか目が覚めて時計を確認すると眠り始めてから15時間を回っている。途中で目が覚めて水を飲んだのはどれくらい前なのだろうかとぼんやり考えながらふらふらとシャワーを浴びに行く。よく寝たせいかシャワーを浴びるとはっきり目が覚め、身体も思いの外、軽くなった。何時の間にかサイドデスクの上に洗濯して畳まれた服が置いてありそれに着替えると海はラウンジへ向かう。するとばったり響と明希に会った。
「あれ?お前らまだ此処に居たんだ‥」
来た時は確かに居なかった筈の二人が雁首を揃えていたので不思議に思う。
「俺は今さっき帰ってきたんだ
ちょうど良い、お前も来い」
響は言いながら一旦止めた歩みを再開した。海は言われるまま後に続き、そして多目的用の大部屋まで来ると勢ぞろいしている面々を見て少し驚いたような顔をする。ヒューバートもいれば普段は籠りっぱなしのシルビアもいるし見た事が無いような面子も居た。そして樹莉はちょうど真ん中にあるテーブルの上にちょこんと座っている。
「さて、とりあえず揃ったようなので話を始めよう」
何時もは陽気なヒューバートが珍しく真面目に話し始め、海は少しその態度にドキッとしながら神妙な面持ちで耳を傾けた。
「今までの私的な問題に協力してくれた諸君には心より感謝したい
これより私はこのセラムという組織と施設を解体させて貰うと共に生まれ故郷に帰ろうと思っている
ノアもこのシルビアを筆頭に新たに本部を立ち上げる事になった
もしこれからも研究に携わりたいなら彼女が君達を受け入れてくれるだろう
しかし今後一切このような未知の存在に関する研究はしないで欲しい
それが今まで協力をしてくれた東條君始め彼ら術師からの約束事だ」
ヒューバートは其処まで言うと皆の顔をすいっと眺める。
「新施設については旧ノアの隠し資産と父の遺産から運営を始めます
当面は伝染病やガン等の難病に関する研究を主とし、エレメンツに関する資料は一切破棄するので一からの研究よ‥賛同出来ないと思ったり分野違いだと思うならば別口を当たって頂戴」
シルビアはきっぱりと言い切った。
「じゃぁ機械屋はもういらんのか?」
「武器系統は必要ないけれどシステム機や研究に携わるような機械のメカニックは必要ね」
「施設の規模はどれくらいなのかしら‥
私達みたいな雑用係は必要?」
「規模は此処をもう少し縮小した感じね
敷地内に職員寮があるので十分に仕事はあります」
ざわつく中で質問と回答が飛び交う。だいたいの疑問が解決し、また静寂が戻ってくると今まで黙っていた織彩がすいっとヒューバートの前に出た。
「私は?樹莉君はどうなるの?」
樹莉もそれを聞いてヒューバートをじっと見る。
「織彩、君はシルビアと行きなさい
それが君の幸せの為だ」
「あ、あの‥」
ヒューバートがそう答えると海が口を挟む。
「問題無いなら俺が彼女と樹莉を引き取りたいんだけど‥」
皆の視線を一斉に受けながら海が言うと織彩と樹莉の顔が少し緩んだ。
「残念だが力を発する事が出来なくても彼女は普通の人間じゃない
君が思うほど易く民間人が受け入れてくれるとは思えんのだがね
それに彼はこんな容姿だ
仮に君と生活出来たとしても誰かに見つかればあっという間に珍獣扱いされ何処かの研究施設に送られるだろう
そうなれば今回の二の舞だとは思わんかね?」
ズバリ言ったヒューバートの言葉に海は反論の余地が無い。織彩は戸惑ったように海からヒューバートに視線を戻す。
「じゃぁ‥樹莉君は?」
困惑したような顔で聞くがヒューバートは黙ったまま答えない。
「彼に関してはもう少し検討してみる」
「どの方向で検討するんだ?
排除するかしないかという事か?
それなら俺もまだ力が消失した訳じゃ無い
俺も同等レベルの危険人物になり得る筈だ」
まだ考えが纏まらないという感じでヒューバートが言うと今まで黙っていたサイファが冷たい口調で聞く。また辺りがざわつき樹莉は困ったような泣きそうな顔でサイファを見た。
「君の場合、力の有無はどうあれ遺伝子レベルでは正常値だ
恐らく本来の力が覚醒しただけに過ぎん
とにかく君達は新たな場所へ移る準備をしたまえ‥彼の件はもう少し時間が欲しい」
そう言うとヒューバートはコツコツと杖を突きながら部屋を後にする。響はスッとその後ろに付いて出て行った。
会合の後、海はサイファと樹莉と織彩と共に部屋に籠って今後の事を話し合う事にした。
「やっぱ普通に暮らすのって無理なのかな‥」
海がぽつりと言うと一同、俯いたまま溜息を吐く。暫く沈黙したまま皆はそれぞれに考えを巡らせる。
「このまま逃げるという手もある‥しかしヒューバートの言うように誰かに見られないように生活する事は難しいだろう
何処か落ち着いて暮らせるような環境があれば良いんだが‥」
サイファが難しい顔をしたまま言うと海はふっと異形が使う湯治場を思い出す。
「そうだ!
俺が東條さんに聞いて行った温泉!
あそこなら結界があるから樹莉でも普通に暮らせるだろ?
そうだよ、あそこなら神様だって妖怪だって山程居るんだから問題ないよ!」
我ながら良いアイディアだと言わんばかりに嬉しそうな顔で海が言うと樹莉も当時の事を思い出して嬉しそうな表情を浮かべた。何の事か分からないサイファと織彩は始めポカンとしていたが海と樹莉が楽しそうにあの頃の話をしているのを見ると少しホッとしたような表情を浮かべる。
「そうと決まれば早速、行こうぜ!」
「じゃぁ準備をしてくる
30分ほど待っててくれ」
サイファは織彩をチラッと見ながら言うと織彩も頷いて立ち上がる。二人が出て行ったあと海は一人残った不安そうな樹莉を見た。
「大丈夫、あそこまで行けばきっと何とかなるよ
神様だってお前の事、気に入ってくれてるんだろ?」
慰めるように言うと頭を撫でてやる。
「樹莉くん‥迷惑なの?」
ポツリと言ったその声は消え入りそうだ。
「んな事無いって!
少なくとも俺も婆ちゃんも織彩やサイファだってお前に生きてて欲しいって思ってる
どんな事をしてでも守ってやっから心配すんな!」
元気付けるとポケットを探るが綺麗に選択されていたようで入れていた筈の飴玉も無い。樹莉はそれを聞くとジッと海の顔を眺めていたがまた少し俯いて何かを考え込み始める。
「ほら!
そんな顔してるのはお前らしくないぞ!
大丈夫、何とかなるって!」
余りに気落ちしている樹莉を救い上げ顔の前まで持ってくると視線を合わせながら笑って見せた。その顔を見ると樹莉も少し元気が出てきたのかコクリと頷く。はにかんだような複雑な笑顔を浮かべた樹莉をまたこねくり回すように撫でる。
「よしよし!
その調子でお前が元気にならなきゃ皆が調子狂っちゃうからな!」
「や、止めて欲しいの‥痛いの‥」
「はっはっはっ‥悪ぃ悪ぃ」
くりくりとこねくり回されたせいで樹莉がじゃれたような悲鳴を上げ、また何時もの調子に戻る。少しづつ調子を戻しながら談笑する事40分、待てど暮らせどサイファも織彩も戻って来ない。
「二人とも遅いな‥」
海が呟くと同時に織彩がよろけながら飛び込んできた。
「逃げて‥二人とも‥」
駆け寄った海と樹莉に織彩が言う。
「どうした?何があった?」
海が聞くと同時に織彩はふっと意識を失った。息はあるし外傷は無く、ただ気を失っただけだと分かると海は樹莉をポケットに入れて織彩を背負うとそっとドアの外を見る。誰も周りにいない事を確認するとサイファの部屋を覗いたが姿は無かった。海は胸騒ぎがしてとにかく此処を出る事を考えて格納庫の方へ急いだ。やはり全体的に人数が減っているせいか誰にも会わずに自分の車の所まで来る事が出来、急いで織彩を助手席に乗せると海は運転席に回り込んだがいきなり後ろから首元を殴られてその場に倒れ込む。
「明希‥?」
気を失う寸前に自分を殴った人物の顔を見てそう言う。
「悪いがこのままお前らを行かす訳にゃいかん」
意識が遠くなる中で明希の声はそう言った。
調整室のワゴンの上にちょこんと座る樹莉の周りには明希やシルビア、響にヒューバートの姿がある。その少し後方には椅子に座ったまま動かないサイファの姿があり、どうやら一服盛られているようで目は開いているが身体はピクリとも動かない。
「や‥めろ‥樹‥手を‥すな‥」
言葉を発するのもやっとなのか明希達を睨み付けながら何とかそれだけ言う。明希はサイファをチラッと見たがすぐに視線を戻した。
「俺達はお前を失いたい訳でも殺したい訳でも無い
寧ろ生きていて欲しいと思っている
だがこの世の理がそれを許してはくれん‥」
明希が静かに言うと樹莉はじっと明希の顔を眺める。どんな生き物にも属さない自分がいる場所など無いのではないかと樹莉自身、何となく解ってはいた。それでも不安を膨らませずにいられたのは此処に居る皆や育ててくれた狐の母の存在があったからだろう。皆が生きていて良いと言ってくれた。皆が自分に優しくしてくれた。樹莉にとって生きていく理由はそれで十分だったのだ。
「勝手な‥事を言うな‥生み出しておいて無かった事にしろだ?
あんたら何処まで自分勝手なんだよ!」
調整室のドアが開いてフラフラになりながら海が入ってきた。まだ意識がはっきりしないのか時折、目を閉じては頭を振る。
「勝手な事は十分承知だ‥だから許さなくて良い
あんたが樹莉の代わりに俺を殺そうが構わない
俺だってそれくらいの覚悟はしてる」
海に歩み寄りながら明希は言うとフラフラになっている海の胸ぐらを掴んで俯せになるよう引き倒すと馬乗りになって腕を後ろ手に掴んで動けないようにした。
「私の事も恨んで良いわ‥
なんなら私も殺してくれても構わない
でも他の人達には関係の無い事だから許してあげてよね」
視線を逸らしたまま意志の固い目でそう言ったシルビアの目から涙が伝う。誰もがこの決定に大手を振っての賛成ではない。愛するが故に誰もが出来ないからこそ自らがその憎しみも苦しみも一身に背負う覚悟でいる。
「エンジェル遺伝子は本当ならこの世に存在してはいけないモノだったんだ
神の遺伝子‥その血統が現存する事はこの世の理に反する」
響が付け加えるように言う。何処かで聞いたのか自分で探っていたのか樹莉の出自に響は気付いているようだった。それとも東條の差し金なのか海は疑心暗鬼に駆られる。
「お前か‥皆を唆したのは‥」
押さえつけられたまま響きを睨み付けて海が言うと響は冷ややかな顔で海を見下ろす。
「各地で起こっている天変地異や災害はこの世界に歪みが生じている証拠だ
元に戻すには歪みの原因を排除する他無い」
「それが勝手だと‥言っている‥」
響が言い終わるとサイファがそれに口を挟んで立ち上がろうと足に力を込める。しかし上手く力が入らずその場に倒れ込んでしまった。
「もう良いの‥樹莉くん大丈夫なの‥」
今まで黙っていた樹莉が微笑ながら言う。その言葉に一同は樹莉の方へ視線を向けた。
「樹莉くん嬉しかったの
皆と沢山、沢山、遊んだの
いっぱい優しくして貰ったの
もう十分なの‥」
その言葉にシルビアは目頭を押さえて声を殺しながら涙を流す。
「泣かないで欲しいの
樹莉くん大丈夫なの‥」
精一杯の笑顔でシルビアを見るとシルビアは涙を拭って樹莉に小さな容器を差し出す。
「苦しまないように調合してあるわ」
消え入りそうな声でやはり涙があふれているのか顔を上げないで居ると樹莉はそれを手に取り皆の顔を順番に眺めた。
「皆ありがとうなの‥
いっぱいありがとうなの‥
樹莉くん大丈夫だから誰も喧嘩しないで欲しいの」
それだけ言うと何時ものお茶を飲むような仕草で毒薬を口にする。コクンという小さな音が響き渡るほど皆は静まり返ってそれを呆然と眺めた。全部飲み干すと樹莉はいつも通りの派手なげっぷをしてまた微笑んだ。
「みんなみんな大好きなの‥
樹莉くんの大事なお友達なの‥」
そう言うとすうっと倒れてまるで何時ものお昼寝の時のように動かなくなった。海もサイファもそれを見て言葉も無いまま目を見開く。呼吸をするのも忘れる程、頭は真っ白になり涙がとめどなく溢れた。
「樹莉‥君‥」
そこへ織彩もまたふらつきながら入ってきて異様な雰囲気に皆の視線を目で追う。ワゴンの上でピクリとも動かない樹莉の姿が見えた途端に織彩はふらふらの身体を気力だけで前に進めようやくワゴンの傍まで来ると震える手で樹莉に触れる。
「樹莉‥君‥?」
震える声でもう一度声をかけたがやはり動く事は無かった。
「や‥樹莉‥君‥起きて‥起きて!」
樹莉の身体を揺すりながら呼びかける織彩の肩をシルビアがそっと抱き寄せようとしたが織彩はそれを振り払う。織彩は樹莉をそっと救い上げるように持ち上げその顔を見る。まだ温かいが生命反応は見られず、その場にへたり込むようにして蹲り織彩はハラハラ泣きながら樹莉をぎゅっと抱きしめる。
「樹莉君が何をしたって言うのっ!?
ただ生きていただけじゃないっ!
何で殺さなきゃいけないのっ!?
何で殺されなきゃいけないのよぉっ!!」
そして顔を上げると泣きながら発狂するように叫んだ。次の瞬間、織彩の輪郭が光りを孕み始め、それが波紋のように一瞬で辺りへ広がった。するとその光の波紋はその場にいた者や物質全てを飲み込んで光りの渦になりあっという間に世界を飲み込む。波紋の中心で織彩はひたすら悲しみ叫んだ。
織彩‥織彩‥
光の渦の中で泣きじゃくる織彩に誰かが声をかける。
「樹莉‥君?」
織彩は聞き覚えのある声にハッと顔を上げて辺りを見回す。其処には光が渦巻いているだけで何一つない。
織彩、樹莉くん幸せだったの
だから皆の事、許してあげて欲しいの
声だけがまるで頭に響くように聞こえた。
「嫌よ!だって皆は樹莉君を殺したのよ!
何にもしてない樹莉君を傷つけたのよ!」
織彩はその声に向かって涙ながらに訴える。するとスウッとまるで陽炎のようなフルサイズの樹莉が姿を現した。織彩はそれを見て抱き付こうとしたが擦り抜けてしまう。まるでホログラムのようだ。
「織彩だって皆の事、大好きなの俺はちゃんと知ってるよ
俺は何時も織彩の傍にいるから大丈夫‥
皆にごめんなさいしてちゃんと世界を元に戻そう‥俺も手伝うから‥」
樹莉は優しげに言うと織彩を抱きしめるように寄り添った。
「私だって皆の事は好きよ‥でも許せないの‥
どうして良いか分からない‥分からないよ樹莉君‥」
織彩はまだ混乱の中にいるのか子供のように泣きじゃくったまま。樹莉はそんな織彩に微笑みかけながら触れられぬ手で頭を撫でる。
「織彩の痛いのは俺が全部、引き受けるから‥だから元の優しい織彩に戻って‥ね?」
優しい口調で言うと樹莉は織彩に頬を寄せた。すると織彩の中からマイナスの感情が吸い取られるように胸の奥が温かくなり始める。
「大丈夫、呼吸を合わせて‥大丈夫‥ゆっくりで良いから‥
ほら、落ち着いてきた?」
ゆっくり言いながら織彩を導き落ち着いてきた頃を見計らって少し離れて織彩の顔を見て微笑んだ。
「俺が見てきた世界を少しだけ見せてあげる‥これが、君がこれから見て行く世界だよ」
樹莉はそう言うとそっと織彩の額に己の額を寄せ目を閉じ、織彩もそれに応じるように目を閉じると美しい緑が広がった。美しい草花や愛らしい動物達、人々は微笑んで優しく手を差し伸べる。それが樹莉が今まで見てきた世界、触れてきた感動。その映像を見て織彩も昔の事を思い出した。異質な自分に優しく接してきてくれた人達、辛い事の方が多かった人生だったがその優しさで今まで自分は生きてこれたのだと心から思う。
「イメージして‥俺達の大好きだった世界を‥」
樹莉が囁きながら優しく織彩を見る。織彩は目を閉じたまま樹莉の思い出と自分の思い出を重ねた。光の渦の中に水滴が落ちるように青い波紋が広がる。波紋は幾重にも広がり飲み込んだ世界を再生していくと箱庭は跡形も無く消え去り緑の大地が広がった。
「綺麗だね‥」
「うん‥」
二人は広がる緑を眺めながら呟く。花が咲き優しく風が二人の頬を撫でる。気付けば樹莉の姿はもう殆ど見えなくなっていた。
「樹莉君!」
咄嗟に織彩が叫ぶと樹莉は自分の身体を見てから織彩に微笑みかける。
「大丈夫、在るべき姿になったらまた戻ってくるよ
絶対に戻ってくるから心配しないで‥」
そう言い残すと跡形もなく消えてしまった。最後の微笑に織彩は確信にも似た何かを感じて空を見上げる。
「待ってる‥」
小さく呟くと胸に手を当て目を閉じた。
畑を耕していた老女はやれやれと顔を上げて空を見つめる。
「お婆ちゃん‥お茶入れたよ」
縁側から織彩が老女に声をかけた。
「ああ、ありがとね‥」
老女はにこやかに返すとよっこらしょと縁側の方へ歩み寄る。そろそろ冬の準備に取り掛かっているのだ。
世界の再生後、織彩の傍にいた者達以外からエンジェル遺伝子の事実やそれに絡む事件の記憶は一切排除されていた。寧ろ龍の鱗とされた天使の羽の遺跡があった事実すら無かった事になっていたのだ。天使の羽が実在していない世界を創造したのか元の理に軌道修正したのかは今となっては分からない。しかし織彩の存在は消える事は無く樹莉は姿を消してしまった。ヒューバートはこれを受け、海の提案を呑む事にして織彩は今、海達の義理の祖母の家で生活している。陸の記憶も当然のように消えていて始めは反対もされたが何とか説得して今、現在に至る。結局、記憶が残っているのは樹莉の傍にいた海とサイファ、シルビアや響、ヒューバートと明希だけになってしまった。
「このお餅、美味しいね」
頂き物の大福を頬張りながら織彩が嬉しそうに微笑む。
「そうだねぇ‥ああ、そうだ!
今度のお正月に着る着物を後で見に行こうか
きっと今日は良いお天気だから青空市が出てるよ」
老女が思い出したように言うと織彩は嬉しそうに頷いた。
「ただいまー‥」
表側から海が二人に声をかけ裏手にやってくる。
「あら、ちょうど良い所に帰ってきたね」
老女は海にそう言いながら織彩を見て微笑んだ。暫くワイワイ話をすると青空市に出かける。青空市と言ってもたいした規模では無く幹線道路の脇の開けた場所でちらほら見知った顔がシートなどを広げて自慢の一品を出している程度のものだ。置いているのは野菜もあれば小物や焼き物など様々、反物や中古品の着物を出している所もある。それを見て回る織彩と老女の後ろを海は微笑ましげについて行く。ふらりと回った後に海が何かに気付いて山側の茂みの方へ足を向けた。
「お、久しぶり!」
懐かしい姿を見つけた海がそう声をかけるとその影が振り返る。
「織彩は元気にしているようだな」
サイファは相変わらず無表情で答えた。
「まぁね、それよりお前、また背伸びたな‥
で、樹莉は見つかった?」
傍に有った木に凭れ掛かって聞く海をチラッと見たがサイファは視線を落として溜息を吐くだけだ。
「そっか‥まぁ、でもきっと何処かに居るんだろうな‥」
海もまた溜息の後に答える。
「デュランも必死に探してくれてはいるが元々住む世界が違うからな‥なかなか手がかりが掴めない」
少し途方に暮れたように呟く。
不思議な事に人々から忘れ去られたはずの樹莉の事をデュラン達のような人外の者や高度な術師は忘れてはいなかった。どういった力の作用なのか分からないが特定の者達だけが樹莉の事を覚えている。今その伝手で海達は樹莉の行方を探していた。サイファは持ち前の力の事もあり身の振り方に困っていたところを英梨香にスカウトされ今は共にデュランの傍にいる。
「あいつから連絡はあったか?」
「まぁ、それなりに連絡は取ってるけどなかなか見つかんないみたい
能力者って言っても高校生だしな‥」
サイファが聞くと海は苦笑して答えた。迦狩もまた皆の事を覚えていてまだ海とはそれなりに連絡を取っている。
「俺も引き続き探してみるが暫く顔は出せない
織彩に宜しく言っておいてくれ‥」
そう言うとサイファは背を向けて歩き出す。何処に居たのか一羽の蝙蝠がその傍らに跳んできたかと思うとサイファの姿はその蝙蝠と共にすっと消えた。
「本当‥あいつってばヴァンパイアと一緒にいても違和感ないよな」
笑いながら呟くと海はまた織彩達の元に戻る。冬間近の空は青く澄み渡っていた。
雪深くなったクリスマス目前に海は雪下ろしの為に老女の家を訪れていた。何時も老女の家の雪下ろしを手伝ってくれていた近所の中年夫婦が旅行に行ってしまったのである。海は慣れた手つきで雪下ろしに勤しむと次に家の周りの雪かきを始めた。一息ついてぼんやり遠くを見ながら腰を叩いていると車の影がちらほら見える。どうやらこちらに向かってきているようで誰だろうと思いながら家の前まで出てその車を待つ。すると見知った金髪が運転席に見えた。車が家の前で止まると運転席から明希が寒そうに肩を竦めて降りてくる。
「珍しいなお前がこんな所まで来るなんて‥」
「まぁな、それより織彩はいるか?」
海が声をかけると明希は家の方を見ながら聞く。
「ああ、うん‥今ちょうど裏庭の畑で雪かきしてると思う」
海は家の方を振り返って答えてから明希に視線を戻し一瞬、固まった。
「うふー‥」
明希のポケットからそう言いながら微笑んだ樹莉。
「あ‥おま‥」
言葉に詰まる海は驚きと嬉しさの余り次の声が出ない。
「ただいまなの!」
樹莉がニコニコと言うと海は感激を噛み締めるように目の端に涙を浮かべる。
「うん‥お帰り!」
そう言うと樹莉に手を差し伸べ海は自分の方へ来るように促す。樹莉はポケットから出ると海の手の方に移った。前と変わらない容姿だが何処か存在感が薄い。
「こいつが異空間の狭間に居る所を智裕が見つけてな‥何とか引き出して貰ったんだが実体が無い
霊感の無い奴には見えんそうだ」
明希は言うと少し微笑む。
「織彩に会いたいの!」
樹莉が言うと海は樹莉をそっと地面に下ろしてやる。すると樹莉は勝手知ったるといったように裏庭の方へ向かって駆けだした。
「サイファにはもう言ってやったのか?」
海がその後を追うように歩きながら聞くと明希は難しそうな顔をする。
「俺はあいつに完全に嫌われちまったみてぇだからあんたから連絡してやってくれ‥後の事は任せるよ」
明希も言いながら海に歩幅を合わせた。あの一件があって以来、サイファは明希を毛嫌いしてしまい顔を合わせる事は無かった。庭の傍まで来ると海と明希はふと歩みを止める。
「樹莉君!樹莉君!」
織彩は樹莉に頬を寄せて泣きながら再会を噛み締めていた。
「東條の奴が言ってたんだがこの世界の歪みを引き起こしたのは俺達自身で樹莉はその流れを正す者だったらしい
響の奴は東條の言った言葉を取り違えて解釈し結果的にああいう事になったんだが自分の力不足でそうなった事を悔いてたよ
自分さえその場に居ればこうはならなかったとな‥」
「でも仕方なかったんだろ?
東條さん自身が人と人外の身体の狭間で不安定だったんだから‥」
「まぁ、そうなんだがな‥どっちにしても過ぎた事だしな‥」
「そうだな、こうして帰ってきたんならもう良いや‥」
穏やかな顔で話しながら二人は樹莉の嬉しそうな顔を眺める。
「んじゃ、俺は帰るよ‥」
「会ってかないのか?」
「止めとく‥それじゃ達者でな‥」
海がその背中に聞くと明希は振り返りもせずに言って片手を上げた。暫く明希を眺め車が出て行くのを見届けると海も織彩達の傍へ歩み寄る。一歩踏み出す毎に今までの事が走馬灯のように浮かんでは消え、ようやく暖かな場所に辿り着く。その幸せを感じながらまた未来に向かってそれぞれの戦いに挑んでいくのだろう。
そして‥
それぞれの物語はまた此処から始まる。
おわり
これでこのシリーズは終わりますがそれぞれの物語が続きます^^;
この物語から枝分かれしていく話はこちらに在りますのでご興味あればどうぞ(๑˃̵ᴗ˂̵)
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