捕縛
明希は樹莉達に何時でも自分達だけで使えるよう部屋の隅の床に寝床を用意してやると四人を風呂に入れる。そして風呂から上がると寝かしつけ、すぐに眠りに落ちたのでそっと部屋を出ようとした時にメタルが明希の傍へ駆けて来る。
「どうした?」
小さく聞くとメタルは明希を見上げてから少し俯く。
「名前‥俺も樹莉みたいに名前が欲しい‥」
ポツリと呟くと明希はその場に屈む。
「俺はお前が嫌いで殺そうとした訳じゃ無い‥」
「知ってるよ‥」
「だから仲直り‥仲直りの印に名前をくれ」
その言葉に明希は少し困ったように頭を掻くと視線を宙に走らせる。今まで名前を考えた事など無く、持てる限りの知識をフル回転させるが全く良いモノが浮かばない。
「じゃぁ考えとく‥とりあえず寝ろよな‥」
暫く考えた後、そう返してから頭を撫でてやると少し残念そうに頷きメタルはまた寝床へ戻って行く。小さく溜息を吐き、それを見届けると明希もまた立ち上がって部屋を出る。ラウンジでコーヒーを貰い、司令室に足を運ぶとモニター前に腰を下ろし留守中にあった記録を眺めコーヒーをすすった。記録をだいたい見直し終えた頃に海達が戻ってくる。
「もう起き上がって大丈夫なのか?」
入ってくるなり顔を見て海が言うと明希は溜息を吐く。
「別に戦闘以外なら問題ねぇよ
俺よりミシェルの方が重傷だろう‥何故行かせた?」
明希に言われると海と陸は複雑な表情で顔を見合わせた。
「あ‥あの!
ミシェルさんが申し出たんです!」
三七三は割って入るように二人の弁明をすると明希はそうだろうなという顔をしてからもう一度、溜息を吐く。
「とにかくこうなった以上、後から言っても始まらねぇ‥まぁ、俺も此処を空けてた事は確かだしな
今は俺達も本調子じゃねぇし下手な動きはせずに大人しくしているしかないだろう
陸、あんたも暫く此処に居ろ」
明希は言いながらまたモニターに向かうと少し端末を弄り始めた。
「その事で提案があるんだが‥」
陸が言い難そうに提案を持ちかけると明希は手を止めて振り返る。
「俺を狙っているヴァネッサという魔術師、今はあっちのCEOの筈の彼女がこうして前面に出てきたという事は誰かが彼女の後ろで組織を操ってるんじゃないかと思うんだ」
そこまで話すと陸は一旦、言葉を切り明希は無言でその先を促す。
「やっぱり実質、組織を牛耳ってるのはトラスト博士だと思う
現に多くの施設を掌握し居場所も掴めない上に行動も謎が多い
まずはトラスト博士を抑えるのが一番ノアを潰すのに近道ならいっそ俺が囮になって一番近しいと思われるヴァネッサを押さえれば良いんじゃないか?」
陸が話している間中、海は面白くなさそうにそっぽを向いている。
「虎穴に入らずんば虎児を得ずか‥だがそれは周りのサポートが重要になってくる
今の俺達じゃ十分とは言えんからな
せっかくの提案だが却下だ」
あっさりその提案を蹴ると明希はモニターに向かう。それを聞いて海はそれ見た事かと陸をチラッと見た。
「まぁ、そう言うだろうとは思っていたが俺は休暇まで生憎まだ二日間、出勤しないといけない
奴等も世間体があるから表だって署内では動かないだろうが隙を衝いて俺を捕獲しに来る事は確かだろう‥
遅かれ早かれあちらは動くが?」
せっかくのチャンスだと言わんばかりに陸は譲らない。明希はその言葉に重く長い溜息を吐くともう一度、陸の方を見る。
「全く‥本当に顔は無鉄砲な弟と同じでも中身はタヌキだなあんた‥」
呆れたように明希が言うと陸はにっこりと微笑んだ。
「分かった、俺がガードに入る‥」
「いえ、ガードは私が‥サポートは彼がやってくれるので‥」
明希が続けると三七三がそれを遮る。それを聞くと明希は難しい顔でまた溜息を吐いた。
「本格的にやり合うならこいつじゃまだ無理だ‥マリーもまだ本調子じゃ無いしサイファだって調整槽の中だ
俺が行くしかねぇだろ?」
諦めたように明希は言うと煙草を取り出す。
「まだ本格的にやり合うって決まった訳じゃねぇし暫く俺だけで大丈夫だろ?
その間に出来るだけ体力付けといてくれよ‥ってかサイファが調整槽ってそんなに具合悪かったのか?」
海はやはり面白くなさそうに返しながらサイファを気にかける。
「ちょっと投薬トラブルがあって今は使い物にならない状態だ
調整槽から出てもまともに動けるようになるまで時間がかかるだろうな」
海を見ながら答えると明希は端末を操作して何かのデータを閲覧し始めた。
「あんたの管轄と署内におけるノアの息のかかった奴等と今現在、動いているコーディネーターだ
最低限これだけは頭に叩き込んで行動しろ
海、お前は三七三の護衛だ‥交戦は俺がするからくれぐれも手を出すなよ」
明希はデータを背に二人に言い含める。陸と海はその資料を頭に叩き込むように眺めた。
「悪いが後は頼んだぞ‥何かあったら速攻で連絡をくれ」
少しだけ明希は優しい口調で言うと三七三はまた舞い上がったのかポワンとなりすぐに我に返ってハイと大きな声で返事をする。
「とりあえず俺の部屋で寝ろよ
部屋の物とか服は適当に使って良いからさ
俺はもう少し此処に居るから‥」
「あ、じゃぁ案内しますね」
海が陸に言うと三七三は張り切って案内を買って出た。二人が去った後、海はじっとりと明希を見るが明希は始終モニターに視線を向けている。
「んで?何処行ってた訳?」
隣の椅子に腰を下ろすと詰め寄るが明希は海をチラッと見ただけで何も答えず煙草に火を点けた。
「まぁ、良いけどさ
それより相談なんだけど‥」
言い難そうに海が切り出すと明希は咋に嫌な顔をして海を見る。
「暫く此処に居るなら悪いけどちょっちお前の部屋借りて寝てて良いかな?
陸と二人じゃ狭いし‥」
苦笑いで海が言うと何だそんな事かと溜息を吐く。
「俺の部屋には暫く入るな‥樹莉達が寝てる
仮眠が取りたいなら医務室を使わせて貰えば良い」
答えると殻になったコーヒーカップを灰皿代わりに灰を落とす。
「そっか、じゃぁ俺ちょっと寝てくるわ‥」
言い置くと海もそそくさと部屋を出て行った。シンと静まり返った司令室で明希は一つ溜息を吐くとまた端末を操作し始め、こうして慌ただしい一日は終わりを告げた。
早朝になると陸は身支度を整えて箱庭を出る。無論、三七三と海も一緒だ。署の近くまで来ると駅前でモーニングを取りながらある程度の行動範囲を打合せして時間が来ると陸だけ署に向かう。念の為に三七三が陸の身体に術を施し、もし危険があれば何時でも近くまで飛べるようにして一応は陸の行動範囲に近い所で二人は待機した。何時も通り出勤した陸は同僚に朝の挨拶をしつつデスクにカバンを置く。すると上司が難しい顔で陸の傍まで来る。
「署長が呼んでるぞ
お前、何かやったのか?」
ぼそりと言いながら手にしたコーヒーを啜った。
「覚えは無いですが?
じゃぁ、とりあえずこのまま顔を出してきます」
内心きたかと陸は思ったが上司に平然とそう返す。相変わらずの態度に上司も少し安心したのか一つ頷き、また自分のデスクへと戻って行った。陸は部屋を出ると署長室を目指し前まで来ると一呼吸置いてからノックをする。入るよう促され陸はドアを開けて少し固まった。そこには署長と数人の顔見知り、それにヴァネッサの姿がある。署長を筆頭に各部署の役付きが雁首を並べていて中には陸と親しい者の顔もあった。少しその顔ぶれに焦りはしたが平静を取り戻すと中へ入りドアを閉めた。
「本当に生真面目なのね
まさか出勤してくるなんて思ってもみなかったわ‥」
薄く笑みを浮かべながらヴァネッサが言う。
「どういう事でしょうこれは?」
陸はそんなヴァネッサを無視するように署長に問う。
「それはこちらの台詞だ‥まさか君が不穏分子の片棒を担いでいるとは思わなかったよ藤木君」
厳しい眼差しで署長が返すと陸は小さく溜息を吐く。
「不穏分子とは化け物を兵器として売ろうとしている貴方達の方では無いですか?
まさかこんなに多くが深く関わってらっしゃるとは思いもしませんでしたが‥」
呆れた口調で言うとその場にいた全員が陸を睨み付けた。
「時に強力な力は抑止力となる‥それが分からぬ君じゃないだろう?」
署長は淡々と返すが陸はその視線を署長から外す事は無い。今の口ぶりでハッキリ分かったが一方的に脅されている訳では無さそうだ。恐らく正義を掲げる気持ちが歪んでしまったなれの果てがこの様なのだろう。無論、金の力もあるだろうが‥。
「被疑者や容疑者を時折、実験台にしていたのも貴方達ですね‥まさかこの事実を隠し通せるとでも思ってるんですか?」
更に陸が言うと署長他は瞬時に顔色を変える。陸はただ黙ってそんな面々を冷ややかに見ていた。
「それは貴方が喋れる状況にあればの話でしょ?
貴方はこれから私と行くのよ‥」
沈黙の後、ヴァネッサは言いながら陸にゆっくり歩み寄るとにっこり微笑んだ。すると数人が陸の後ろへと回り込む。
「この間みたいに抵抗すればこの中の一人を殺して貴方を犯人に仕立て上げる事も出来るのよ?」
ヴァネッサは続けると陸の所持している拳銃を取り出して傍にいた刑事の蟀谷に当てた。刑事はギョッとしながら強張った目でヴァネッサと陸を交互に眺める。
「今度は逃げませんよ
私も知りたい事が有りますからね」
呆れたように溜息を吐くとヴァネッサは陸に微笑みかけてから署長の方を見た。
「君の処遇は特別捜査に加わりそのまま休暇に入る事にしておく
下手な気を起こすと同僚に迷惑がかかるからそのつもりでいたまえ‥」
署長も追いつめられたような表情で静かに告げると陸は振り返りヴァネッサと共に二人の刑事と出て行く。閉じられたドアを見てようやく署長と他の刑事が胸を撫で下ろすように小さく溜息を吐いた。
「動いた‥魔術師と民間人も一緒のようです」
待機していた喫茶店で三七三が言うと海はガタッと席を立ち、それを制止しながら三七三が海を見る。
「慌てなくても大丈夫です
それより黙視したいのでもう少し待って下さい
直にこの前を通りかかりますから‥」
三七三に言われると海はもう一度、席に腰を下ろす。暫くすると一台のスモークを張った車が通り過ぎて三七三はそれを目で追った。
「行きましょう‥」
車が行き過ぎるとすぐに席を立つ三七三に続いて海が動く。二人はすぐ傍に停めていた車に乗り込んで後を追う。
「普通の通信機では悟られるので私の身体を通して傍受します
今から投影される点を追って行って下さい」
三七三はナビに手をかけると目を閉じる。するとふわりと赤い点が現れてそれはかなりの速度で移動していた。
「よし、これだな」
海はすぐに了承すると点を追い始めるが黙視出来る所まではけして近寄らず適度に距離を開けて追跡する。追跡すること約二時間、尾行を気にしているのか陸を気にしているのか車は何度か同じ所をグルグル回るように進み、結局は署からそんなに離れていない山裾の工場地帯へとやってきた。昼間なので何処も人が出入りしていて人目につくが車両も多いので海達が入り込んでも目立つ事はない。その一角に点は停止し、通り過ぎるようにその場所を横切って位置を確認する。どうやら廃工場のようで陸達が乗った車だけがぽつんと停まりシャッターは全て降りていた。敷地が歪な形をしていて他の工場に視界が阻まれ全体までは分からない。海は位置だけ確認すると裏側へ回る道が無いか探すが車が通れるような道は無く近くにあったパーキングに車を停めると三七三と共に畦道のように細く続く道を山側へ入り工場の裏手へと出た。工場の敷地はフェンスで区切られていてその手前には用水路が有り迂闊に建物の傍へ行く事が出来無さそうな作りになっている。
「もう少し傍まで行った方が良い?」
「いえ、此処からでも十分感知できます
それに近付き過ぎると幾ら私でも悟られる可能性があるので‥」
海が聞くと三七三が即答する。二人は木の陰に隠れるように建物が良く見える位置まで来ると座り込んだ。三七三は持ってきたカバンの中から音楽プレイヤーを出すとイヤホンを片方だけ耳に付ける。
「これで中の音声が分かります」
もう片方のイヤホンを差し出すと三七三は海に微笑みかけた。海は少し驚いたような顔をした後それを受取り耳に付けてみる。すると陸達の話し声がまるで其処に居るかのように聞こえてきた。
『少しばかり気になるんだけど‥』
『‥‥‥』
『どうしてこうなるって解ってて出勤してきたのかしら?』
『俺はあくまで一般人だと言ったはずだ
だから普通に生活しているに過ぎない』
歩きながら話しているのか数人の靴音と共にそんな会話が聞こえてくる。海は駆け出したい衝動を抑えながらその会話に耳を傾けた。
『まぁ良いわ‥それより貴方には暫く此処にいて貰う事になるけど退屈はさせないから安心なさい』
その言葉の後に沈黙が続き足音が止まるとガチャリと扉の開くような音が聞こえ、階段を下りるような足音が響く。どうやら地下のようで歩く音が辺りに反響している。暫く歩くとまたドアの開く音が聞こえ同時に何かの機械音が微かに響く。
『これは‥』
『驚いた?何も人体実験は研究室ばかりで行われてる訳じゃ無いのよ
此処では沢山の実験体が手に入るから助かっているわ‥貴方も直に入れてあげる』
『‥‥‥』
『あら、柄にもなく怯えているのかしら?
顔が真っ青よ‥くすくす』
其処まで聞くと海はただならぬ気配を感じて思わず勢い良く立ち上がった。
「乗り込もう!」
焦るように言うと海は三七三に手を差し出し立ち上がるように促す。その手を取って三七三が立ち上がると同時に海は二人の身体を風で持ち上げ工場の方へ向かう。
「待って下さい!」
何かに気が付いて三七三が制止すると海は用水路の上あたりで進行を止めた。
「何で!?」
海が聞くと三七三は難しい顔をする。
「結界です、先にこれをどうにかしないと‥このまま入り込めば相手に悟られます!」
それを聞いて海は工場の方を見ると悔しそうな顔をしてからもう一度、三七三の方を振り返り用水路の淵へ二人の身体を下ろす。三七三は地に足が付くと安心したように両手をフェンスの方へ翳しその体勢のまま動かない。海の苛々は募るばかりで何度も工場と三七三を交互に眺めている。
「ダメ‥此処からじゃ下手に壊せない‥」
暫くそうしていた三七三は額に汗しながら落胆の表情を浮かべた。
「何処ならいけるんだ?」
焦るように捲し立てると三七三は辺りを見回す。
「たいていの結界なら抉じ開けられるんですがこんな特殊なのは初めてで‥まるで結界自体が生きているように作用しているんです
仕掛ければ仕掛けるほどその部分が厚くなる‥今薄い部分を探してますがそれも見当たりません
まだ気付かれてはいないみたいですがこれ以上は無理です」
辺りを見回し海に視線を戻して言う。
「だったら強行突破しかねぇ!」
「ダメです!
そんな事をしたら殺されてしまいます!」
結界に向かって力を発動しようとした海を三七三は静止した。
「じゃぁ、どうしろってんだ?」
当たるように言う海を余所に三七三はカバンから紙きれを取り出す。それに息を吹きかけ空高く舞い上げると紙切れは小鳥の形になりすいっと空の奥へと掻き消えた。
「今、お師さんに助力を乞いました‥もう少し待って下さい」
三七三が切実な顔で訴えるがこうしている間にも陸がどんな目に遭うのかと考えると気が気では無い。海は苛つく気持ちを抑えるように用水路の淵に腰を下ろしてガシガシ頭を掻く。三七三はもう一度フェンスの方に手を翳して結界を探っていた。そこへ間髪入れずフッと明希がいきなり現れ海はギョッとしたような顔をする。
「っと‥もう少しましな場所へ下ろせよ」
明希はトンと用水路の淵ギリギリに降り立ちバランスを取りながら肩に乗る雀に話しかけた。三七三もそれを驚いたように見て呆気に取られる。
「とにかく時間が有りません
私の言う通り動いて下さい‥」
雀は東條の声で言うと明希の肩口からふわりと舞い上がる。
一方、陸はかなり追いつめられた状態になっていた。通されたのは地下の実験施設で少し広めの廊下が続き片側は腰までのガラス張りでワンフロアーほど低くなっており眺めてみれば調整槽や檻に入れられた化け物と白衣の研究者らしい人々が右往左往していていろいろな実験が行われているようだった。ヴァネッサは足を止め陸を振り返る。下手に此処で交戦すれば付いてきた刑事を巻き込む事になるし何より自分の力を曝け出す事になる。今更、気にする事でも無いのだがやはり心に迷いがあった。
「貴方のお陰で私も酷い目に遭ったのよ‥」
ヴァネッサは陸に言いながら胸元をグッと開き、それを見て陸は目を見開いた。露出している部分は人の皮膚であったが見えない部分は爛れた様な醜い皮膚をしている。
「あいつに嵌められて今じゃ私も立派なモルモットよ
でも残念ながら貴方みたいに綺麗な身体じゃなくてね
羨ましいわその身体‥ねぇ、私の為にその身体を提供して頂戴」
ヴァネッサは陸に歩み寄りながらその容姿を少しづつ化け物に変化させていく。陸が思わず後ずさりすると同僚がその後方に立ち塞がった。チラリと後方に目をやると陸は仕方なく下に見える実験施設の方へ飛び降りた。足元に衝撃が走ったが普通の身体で無いせいか足の骨は折れていない。一斉に刑事達は陸に向かって発砲を始め、陸はそれを交わしつつざわついた辺りを見回し調整槽があるのを確認すると一気にそちらへ駆けてそのガラス面に触れる。瞬間的にガラスは青いプラズマと共に砕け散り中にいたバーサーカーらしき化け物が暴れ出した。その辺りにいた職員は悲鳴と共に逃げ惑う。この隙に乗じて逃げ出そうと振り返るとそこには別の巨大な化け物が立ちはだかり陸の頭を片手でがっと掴んで持ち上げた。
「無駄な事は止めなさい
私の力の方が貴方より上よ」
ヴァネッサの声で言った化け物を睨むがグッと力を入れられ頭がかち割られんばかりに痛む。
「多少痛めつけてもその細胞データさえあれば良いんだから‥」
呻く陸に更に言って化け物になったヴァネッサはニッと微笑む。しかし陸も負けずに頭を掴む手に己の手を添えると思い切り放電した。バチンという衝撃でヴァネッサの手は弾け飛んで何とも言えない悲鳴と手首から大量の血が流れ出す。陸は頭に受けた圧迫のせいで少し眩暈を覚える頭を振って感覚を取り戻すと薄く目を開けてヴァネッサの方を見た。
「許さない‥貴様のせいで私は‥」
震えながら痛みを堪え言うと残った片腕を伸ばしながら襲い掛かり、陸はそれを何とか交わしたが俊敏なヴァネッサの動きに付いて行けずすぐに追い詰められた。壁を背に陸はまた少し体から放電しながら相手を威嚇する。
「動けないように手足を捥いでから生きたまま切り刻んでやる‥」
我を忘れ興奮気味に言うヴァネッサに陸は戦慄を覚えた。
「無様ね‥」
少し甘えた幼いその声に二人はそちらに視線を向ける。其処にはトラストと一緒にいた少女が一人で立っていて無表情に二人を眺めていた。
「何故お前が此処に‥」
ヴァネッサは驚いたように少女に向かって言う。
「その人は大事な情報源なんでしょ?
だったらちゃんとパパの所まで連れて来なくちゃダメじゃない‥もしかして独り占めしようとしてるの?」
焦る風合いも無く少女が言うとヴァネッサの身体から殺気が漏れ出しその少女に向けられる。
「逃げろっ!」
咄嗟に陸は少女に向かって叫んだが少女は慌てるでも無く、手にしたキューブ型の物をヴァネッサに翳した瞬間にまるで吸い寄せられるかのように急激に床に突っ伏した。
「呆れた‥私に敵うと思ってたの?」
少女は溜息交じりに言うとヴァネッサを眺める。ひたすらヴァネッサは起き上がろうと藻掻きながら少女を睨み付けた。
「陸っ!」
上の通路から海がそう呼んだのを聞いて陸はハッとしてそちらを見上げる。
「‥邪魔ね」
海が身を乗り出している方へと視線を向け呟くと少女はキューブ状の箱のボタンをそっと押した。すると今まで床に突っ伏していたヴァネッサはグンと立ち上がりまたより化け物っぽく様相を変えると雄叫びを上げながら海に向かって大きくジャンプをする。
「海っ!」
陸はそれを見ると慌てて化け物を追おうとしたがスッと少女がその行く手を塞ぐ。
「悪いけど私と一緒に来てもらうから‥」
視線を外さず少女が冷やかに言った。陸はその視線に冷たいものを感じ数歩下がるが同時に少女が歩み寄ろうとした瞬間、何かが少女の身体を貫きその歩みを止めさせ、大量の血が少女の足元に流れる。
「こっちよ!」
三七三は反対側にあったドアから顔を出し陸を呼び込むが目の前の光景に呆気に取られて足が動かない。少女は自分を貫く金属製の槍に手をかけるとそれをグッと表情も変えずに抜いた。それを見て初めてこの少女も人では無いのだと気付いて急いで三七三の元へ駆ける。槍を無造作に捨てると少女は後ろを振り返った。
「お気に入りの服だったのに‥」
少女は穴の開いた腹部を名残惜しそうに擦ってから明希に冷たい視線を向ける。その腹部からはもう出血はおろか傷痕さえ確認出来なかった。
「悪ぃな、だがこっちも命張ってんだ」
明希はその様子を見ると少し後悔の色を浮かべながら呟く。実験体である事はすぐに気付いたがまさかこれほどの治癒を見せるとは思っていなかったのだ。
「貴方嫌い‥」
少女は呟きゆっくり明希の方へと歩み寄る。明希はチラリと海と対峙する化け物がいる上を見てから覚悟を決めたように少し体制を低くした。首にしていたネックレスを糸状に変形させ少女の方へ放って足を切断し動きを止めようとしたがそれより早く少女は背中から漆黒の翼を出しふわりと舞い上がる。尚も明希の放つ糸は少女を追うが糸は手前で弾かれ少女は軽く着地した。そして明希は少し後退すると再び糸を放つが四方から来る糸を交わすようにまた少女が舞い上がる。幾つかの糸が少女を捕らえ傷を負わせたが全く気にかけもせず少女は血飛沫を上げながら逃げ続けた。しかしその動きはすぐに止まり気付けば一本の糸が少女の足首に巻き付いていた。少女はハッとしたが怪訝な表情になりグイと足を折り曲げた拍子に足首から下はゴトリと地に落ち大量の血が流れ出す。しかし相変わらず涼しい顔だ。
「せっかく新しいのパパに買って貰ったのに‥」
感情があるのか無いのか分からないがポツリと少女は言ってからそっと片足で着地した。そして明希をじっと見据えるとズリュッと失くした足首から下を傷の内側から生やすように発生させる。
〈本物の化け物かよ‥〉
明希はそれを見て思うと小さく舌打ちした。どうやら完全に細切れにするしか無さそうだと思った明希は同時に操れる限りの糸を放ち少女を捕えるがその瞬間に体中に激痛が走った。前回の傷が癒えていないにしろこんなに痛みを覚えるのはおかしい。明希は己の身体に視線を走らせると服が少女の流した大量の血で染まっているのが見える。何があったのか理解出来ぬ間に明希はその場に崩れるように膝を着いた。少女を捕えていた糸はハラリと地面に落ちてまるで道標のように明希へと続く。
「嫌いだけど一緒に連れてってあげる
誰かを連れて帰らないとパパが不機嫌になるから‥」
少女は歩み寄ると見下ろすように眺めながら言って明希の額にそっと触れた。するとまた体中に痛みが走りいつの間にかある無数の傷口から血を吹き出す。
「がっ‥」
明希は絶叫する間もなくその場に倒れ込んだ。やっとの思いで呼吸をしながら目だけを動かして辺りを見回す。
「まだ気を失わないんだ
起きてると面倒臭いな‥」
そう言いながら明希の頭を踏みつけようとしたが瞬間に少女は吹き飛ばされるように後ろに飛び退いた。
「うちのダーリンに何すんねん!」
自分の視界を遮るように立ちはだかる声の主を見て明希は愕然とする。智裕は明希に背を向けた状態で少女と対峙していた。
「あんたが何モンか知らんけど鬼の分際でうちのモンに手ぇ出そうなんか百万年早いわ!
上の化け物連れて一昨日出直しといで!」
まるで近所のいじめっ子にでもいうかのような口調で智裕が言う。
「‥げろ‥逃げろ」
明希は何とか絞り出すように言うが上手く声が出せない。
「あんたさんは黙っとき!
心配せんでもうちはこの子には負けしませんで‥」
智裕は余裕の表情で視線だけ明希に向けて返す。少女は少し悔しそうな顔をしてから両手を智裕の方へ向けた。目に見えない何かが智裕に跳んでくるのが分かったが智裕はたいして慌てるでも無く左手で空を払う。すると辺りに衝撃が走り智裕の周りの壁や機械が吹き飛ぶように崩れた。
「あんたが使うてるんは鬼や魔物が使う気の集合体やろ?
そんなもんは四神本家には通用しませんで‥早よ大人しゅう言う事聞いて帰りや‥」
勝ち誇ったように微笑んでから智裕が凄み言うと少女は性懲りも無く両手を翳すが智裕がまた振り払った瞬間に少女は舞い上がりその身体を化け物へと変化させ、天井を向いて幾層ものコンクリートを衝撃波で破壊して空へと飛び去った。
「かわいそうに仲間は置き去りかいな‥」
大きく穴の開いた天井を見上げた後、ヴァネッサに視線を移して智裕が呟く。明希はそんな智裕を言葉も無く見上げている。
「こないなとこで死んだらあきまへん
あんたさんはうちの大事な旦那さんなんやから‥あ、この事は誰にも内緒ですえ‥」
はにかみながら言うと智裕は屈んで明希の頭をそっと撫でるとスゥッと姿を消した。明希はその途端に身体から痛みが消えるのを感じ身を起こすとまだ交戦中の通路を見上げる。完全に痛みが消えた訳では無いがどうにか動ける事を確認すると立ち上がり身体を引きずりながら海の元へ向かった。
海は陸の援護を受けながらヴァネッサと応戦しているがやはりすぐに追い込まれる。その内に下で暴れていたバーサーカーまで混じり始めかなり苦戦していた。コントロールを失ったバーサーカーは辺りを破壊しつくして下では火の手が上がっている。こうなったら海も陸も余裕が無くなり、集中力を欠く中の戦闘で海の精神力は限界だった。少しずつ技に切れが無くなっていく。陸もまた何とか術式と力を駆使して闘っていたが戦闘中に負傷した左足の痛みで動ける範囲がどんどん狭まっていた。
そして何とか辺りのバーサーカーを仕留めた陸はその安堵から力尽きて気を失ってしまい、そこを狙うヴァネッサを海は何とか食い止めた。盾になるように陸を庇いながら戦う海にヴァネッサは容赦なく襲いかかり、海は力を振り絞って鎌鼬を繰り出すがそれを避け、牙を剥き出し海を食らおうと飛びかかってきた。あと少しで海に牙が届く刹那、ヴァネッサの動きは止まりその頭がゴトリと地に落ちる。そして体がズンと音を立て横へ倒れるとその向こうから明希の姿が見えた。
「こんくらいの相手に苦戦してんじゃねぇよ‥」
息も絶え絶えに言いながら明希は海に歩み寄る。ただ唖然とする海は言葉も無く戦いから解放された事を実感してその場にへたり込んだ。
「憎らしい坊やね‥拾ってやった恩も忘れて‥」
転げ落ちた首がヴァネッサの声で明希を睨み付け恨めしそうに言うと海はギョッとしてそちらを咄嗟に見る。どうやら今際の際に己を取り戻したらしい。
「その声はあの時の‥あんたにゃ一応、感謝してるよ‥」
明希はその変わり果てたヴァネッサの顔を見て養父を殺した自分に手を差し伸べた女の事を思い出した。
「ふん、それは私の台詞かもね‥」
崩れ落ちながら消え入るようにそう呟いてヴァネッサは事切れる。
「し‥知り合いだったのか?」
感慨深げにヴァネッサだった化け物を見つめる明希に海が問いかけた。
「俺にとっちゃ恩人であり絶望の始まりだった女だ‥」
ふいと顔を戻しながら返しつつ明希は海の後ろで倒れている陸に歩み寄るとその様子を屈んで窺う。どうやら気を失ってはいるが命には別条無さそうだ。
「そういや三七三は?」
「ああ、東條と一緒に術にかかった研究者の術を解いてる
今、この真下にある部屋にいる筈だ
それより早く脱出せんとヤバいな‥」
思い出したように海が聞くと明希は下を眺めながら答えた。海もそちらを見ると半分以上が火の手に包まれていて火が回るのは時間の問題だろう事はすぐに予測が付く。
「とりあえず俺は三七三達を連れてくるから‥」
海は立ち上がろうとしてグッと蹲った。どうやら戦闘中は気付かなかったが身体のあちこちが折れているようで全身に痛みが走る。
「あんたは此処で待ってろ‥」
立ち上がった明希の身体は全身、血塗れでびっこさえ引いていた。海はそれに気付くとまた自分の軟弱さを感じ気力を振り絞って立ち上がる。
「俺が行くって!」
言い放つと痛みを堪え、明希を追い越し扉に向かい前まで来ると凄い音と共に扉が破れるように開いた。海はギョッとして一瞬立ち止まると扉の向こうを見る。
「何や、あんたら其処におったんか?」
迦狩は三七三を負ぶり、ドアを蹴って開けたままの状態で海達を見て言った。
「何で此処に居る?
家に戻ったんじゃなかったのか?」
「何や胸騒ぎがして戻ってきたらこいつがとにかくお前らの所へ行ってくれっていうから来たんや‥」
海の後ろから明希が聞くと迦狩はそちらに視線を向け答える。すると樹莉が迦狩の頭の上からひょっこり顔を出す。
「あのね、樹莉くん誰かに呼ばれた気がしたの‥だから迦狩に連れてきてもらったの」
心配そうな顔で樹莉が言うと明希は少し溜息を吐いた。
「とにかく一旦、此処出んとあかん‥
下の薬品庫に燃え移ったら爆発的に火の手広がるよってな‥」
迦狩は急かせるように言ってチラリと後ろを見ると迦狩の後ろに大勢の白衣の科学者達がいる。皆かなり困惑したような心細そうな表情でどうやら危害を加える事はなさそうだ。
「そうだな、ところで東條は?」
明希は再び出口の方へ身体を向けると顔だけ迦狩の方に向けて問う。
「ああ、今、結界の処理しとる‥ここが爆発しても周囲に解らんようにするっちゅうてな‥
なんせ昼間やよって、ちゃんとせんと変に思われるさかいな」
迦狩は答えながら歩き出すと後ろにいた科学者達も続く。
「ところでなんで三七三ちゃん気失ってんの?」
「力の使い過ぎだって言ってたの」
海も歩きながら聞くと今度は樹莉が答えた。
「こんだけの操られてる人間の術解いて挙句に結界も張ってたからな‥そら電池切れにもなるやろ‥」
補足するように迦狩が続けると海は少し三七三の顔を覗き込んだ。まるで眠っているように穏やかな顔だったので少しホッとする。陸の傍まで来ると海は陸の身体を起こそうとまた力を込めるが痛みが走って上手く持ち上がらない。
「退け‥」
明希は言いながら割り込むように海の身体を除けると陸に肩を貸すように抱えるがやはりふらついている。
「ちょう待ちや‥」
迦狩は言うと傍まで来て陸の額にそっと人差し指をトンと当てた。すると陸が目を覚ます。
「ちょうキツイかもしれんけど自分で歩いてくれるか‥皆ボロボロやねん‥」
迦狩に言われると陸は頭を軽く振ってから足に力を込めて明希の身体から身を離した。それを見ると明希は溜息を吐いてから再び出口に向かって歩き出す。それぞれがそれに続き上階へ続く階段のドアの前まで来るとバーサーカーに交じって二つの死体が見え、陸は足を止めた。
「殺したのか?」
無残に首を落とされた二つの死体を見て陸が震える声で明希に聞く。
「ああ‥」
表情も変えずに明希が言うと陸は見た事も無いような怒りの表情を浮かべて明希の胸座を掴む。
「確かにあいつらは俺達の敵だったかもしれない‥だが、普通の人間だったんだぞ?」
声を荒げて陸が言うと明希はパンと陸の腕を払い除ける。
「バーサーカーだって俺達だって人間だ
問題なのは敵か否か‥それだけだ‥
綺麗事言ってちゃ生き残れねぇンだよ‥」
今まで以上に冷たい視線で陸を見据えて明希が答えると陸は言葉を失う。もう一度、転がる死体を見るとその手には銃が握られていて明希の言う事は正論で陸には返す言葉も無かった。
「行くぞ‥」
静かに言うと明希は階段に続くドアを開ける。誰もが言葉も無くそれに続き陸は拳を固く握ると険しい表情をしてから振り払うように身体を返し皆の後に続いた。
上階まで来ると旋回するように雀がすいっとやってきて明希の肩に留まる。
「地下だけを結界で包みました‥此処にいれば階下が爆発を起こしても問題ありません
もうすぐ迎えのトラックが来るので人目に付かないよう暫く待機していて下さい
私はそろそろ限界なので戻ります」
雀は東條の声で皆にそう言うと気配を消し、雀はハッとしたように飛び去ってしまう。皆はそれを聞くとそれぞれ腰を下ろしたり項垂れたりしながら安心を噛み締めた。迦狩も三七三を下ろして壁に凭れさせ溜息を吐くと何かに気付きそのまま固まる。樹莉は迦狩の身体からするりと降りると海と険悪な雰囲気の明希と陸の元に駆けた。
「あ‥あのね、あのね、樹莉くん皆が無事で良かったの!」
張りつめた空気を何とか解そうと樹莉が三人に言う。
「お前のおかげで助かったよ‥」
明希は樹莉の気持ちを察したのか少し表情を緩めて言うと身を屈めて頭を撫でてやろうと手を伸ばしたがフッと樹莉の姿はその視界から消えた。瞬間にまるで金縛りにかかったような感覚にその場にいた全ての者が固まる。あの少女が開けた天井の穴の方から何か強大な力の圧迫を感じて明希はそちらへ顔を向け、皆も一斉に誰に言われるでもなく同じ方向に視線を向けると息を呑んだ。空いた穴から覗く青空に黒点のような人影が見える。あの写真の青年、その容貌とは裏腹に動けば一撃で殺されそうなほどの感覚に襲われた。
「明希!」
まるで助けを求めるように樹莉が明希を見てその青年の指の間から叫ぶ。いつの間にか樹莉はその青年の掌にいた。
「樹莉!」
明希が叫ぶと青年は樹莉ごと青空にフッと掻き消え、他の者は身体中に汗を浮かべてただ硬直したままそれを見守るだけだった。
暫くしてから迎えのトラックが来て入り口のシャッターが開くとようやく皆は我に返り動く事が出来る。そして科学者達はトラックに乗せられ何処か別の施設へ向かい明希達は海の車で箱庭に戻ってきた。怪我の手当てもしない内に四人は東條の元へ向かい樹莉が連れ去られた事を話す。
「どういった目的かは分かりませんが余り状況は良くないでしょう
分かりました、私が気配を追ってみましょう‥」
東條も難しい顔をしたまま返すと立ち上がり答える。しかしふらりとよろけて壁に手を付いた。東條もまた力を使いすぎて相当疲れているようだ。
「あんたも無理やろ‥俺もあんな力の使い方されたら跡追われへん‥
それより何処に根城があるんか探した方が早いんちゃうか?
せやったらあんたらも少し休めるやろ?」
迦狩が言うと東條はまたその場に腰を下ろして長く息を吐く。
「それが正解なのは分かっていますが何か胸騒ぎがするんです
一刻も早く樹莉を探さないと‥」
何時も一番、冷静な東條が焦る様子を見てただ事でないと皆は感じた。
「もしかしてあのチビ‥どえらい事するんか?」
奥歯に物が挟まったような言い方で迦狩が聞く。
「分かりません‥ですが少なくとも我々の想像を超える力を持っている事は確かです」
何かを知っているような迦狩の表情に東條はやはり全てを話す事は無くそう答える。
「何だ?
何か知ってるなら解るように話してくれ」
焦れて明希が聞くと二人は顔を見合わせて少し俯いた。
「私にもよくは解りません‥しかし世界の存続に関わる力を持っている事は解ります」
「俺が見たビジョンは崩壊やった‥一瞬しか見えへんかったけどな‥」
暫くの沈黙の後、東條が呟き迦狩がそれに続く。
「樹莉がそんな事する訳ねぇだろ!
あいつはこの世界だって皆だって大好きなんだぜ?
あいつみたいに優しい奴がそんな事する訳ないだろ!」
それを聞くと海は立ち上がり言い放つとふらふらになりながら庵を出て行く。
「俺もそう思う‥」
陸も言うとフラッと立ち上がり海に続く。恐らく司令室で何かしら情報が無いか収集するつもりだろう。
「まぁ、未来なんかどうとでも変えられるわな‥」
明希は溜息の後に呟くと同じく立ち上がる。
「とりあえずあんたは休んでろ‥俺達で追える所まで追う‥迦狩、手伝ってくれ」
一つ小さく息を吐いて明希は東條と迦狩に言ってから海達を追う。迦狩はそれに無言で従うように立ち上がると明希に続いた。
「心配しなくても君に危害を加えるつもりは無いよ」
デュランは鳥籠の中で正座して難しい顔をしている樹莉に優しく微笑みかけた。
「樹‥樹莉くん美味しくないの‥
食べても美味しくないの‥」
脂汗を浮かべながらそう答える。それを聞くとデュランは少し微笑みテーブルの上のお菓子を摘まんで樹莉の前に置く。
「大丈夫、君を食べなくても此処には美味しいお菓子があるからね
それより君に頼みたい事があるんだ‥それが済んだら帰してあげるよ」
尚も優しい微笑を湛えて言ったデュランの顔をジッと難しい顔で見てから目の前のお菓子を眺める樹莉。自然に涎が頬を伝う。
「食べると良い、此処には沢山あるから‥それと君が逃げずに協力してくれるなら其処から出してあげよう」
「樹‥樹莉くん騙されないの!
悪い人はみんな嘘吐きだって言ってたの!
樹莉くん何も食べなくても我慢出来るの!」
デュランが言うと樹莉は涎もそのままにプイと目を逸らせて堪えた。
「私は嘘を吐かないよ‥確かに君の友人に危害は加えたけれどもそれは私の大切な人を守るためだ
君にも大切な人がいるなら解るだろう?」
少し困ったような顔をしてからデュランが言うと樹莉はゆっくり視線を戻す。
「大切な人?」
樹莉が少し首を傾げて聞くとデュランはそっと傍に有った椅子に腰を下ろした。
「私の妻でね‥閉じ込められているんだ
君ならばその封印を解けるかもしれないと聞いて来て貰った
強引に連れてきたのは悪いと思っているが君の友人はどうやら私の事を嫌っていて大人しく来て貰えないと思ったからこうして攫ってきてしまった
手荒な事をしてしまった事は謝るよ」
穏やかな表情で言うデュランを見ていると嘘を吐いているようにも思えない。樹莉の表情は少し緩んだ。
「樹‥樹莉くんそんな事出来ないの
この身体じゃ力を使えないしそれに樹莉くん難しい事解らないの」
困惑したように答える。
「ではせめて会ってやってはくれないか?
きっと君の気配は妻の癒しになるだろうから‥」
デュランが残念そうに言うと樹莉はこくりと頷いた。そうするとデュランは鳥籠から樹莉を出し部屋を出て長い廊下を歩き地下へ続く階段を下りていく。そして重いドアを開けると其処には棺があった。棺の前まで来るとデュランは樹莉をその前に下ろす。樹莉はその棺をぼんやり見上げると少しウロウロとその周りを歩いて周った。
「樹莉くんを呼んでたの?」
立ち止まるとまたぼんやり棺を見上げたまま樹莉が呟くが当然の如く棺からは何の返事も無かった。樹莉はただじっと棺を見上げたまま動かない。
「樹莉くんこの人知ってるの
樹莉くんの事、呼んでたの」
何かを感じたのか樹莉はデュランにそう言った。
「彼女が君を?」
少し驚いたように返すと視線を樹莉から棺に向ける。棺に反応は無く気配も依然と変わらない。
「樹莉くんこの人大好きなの
すごく優しいの‥」
樹莉は棺に触れてそっと撫でると愛しそうに囁いた。それを聞くとデュランもまた棺を撫でる。
「そう、とても優しい女性だよ‥
私も彼女が大好きなんだ」
切ない表情を浮かべて樹莉にそう言った。
「樹莉くん‥何も出来ないかもしれないけど手伝いたいの
この人出してあげたいの」
樹莉が振り返って言うとデュランは膝を着いて樹莉の手を取り口付ける。
「ありがとう‥これからは君に敬意を持って接するよ」
まるで命を救われたようなような表情でデュランが言うと樹莉は照れたように微笑んだ。そしてまた樹莉を掌に乗せると嬉しそうな表情を浮かべて棺の部屋を後にした。部屋に戻るとトラストがどっかりとソファに腰を下ろしている。
「どうやら目的の検体は手に入ったみたいですねぇ
こんな事なら初めから貴方に行って貰えば良かったなぁ‥」
少し嫌味交じりに言いながらじろりと樹莉を見ると樹莉はさっと指陰に隠れた。
「ずいぶんと馴れ馴れしくなったものだな‥たかが人の分際で傲慢なものだ‥」
まるで汚物を見るような目でトラストを見ながら返す。
「そんな事はありませんよ殿下‥これでも最低限度の礼は尽くしているじゃありませんか
それよりその検体は頂いて行きますよ
奥方様の棺を開ける為には必要なんで‥」
トラストがさも弱みを握っていると言わんばかりに言うと樹莉は不安そうな顔でデュランを見上げた。
「必要なら此処で必要な事をすれば良い‥だが私の目の届かぬ所でこの者を妻同様に好きにする事は許さない」
そう言い放ったデュランを見るとトラストは一瞬だけ冷徹な表情を浮かべた後、また何時ものように表情を崩す。
「分かりました、じゃぁとりあえず採血だけさして下さい
後はまた用事があれば伺いますんで‥」
軽口を装って白衣のポケットから注射器を取り出した。樹莉はそれを見るとまたデュランの方へ視線を向けその申し訳なさそうな顔を見て小さく頷くとトラストの方へ小さな腕を難しい顔をして差し出す。
「はは、往生際が良いねぇ‥」
トラストはバカにしたように笑って樹莉の腕を取ると何の躊躇いも無くぷすっと針を刺した。樹莉は叫びそうになったがグッと口を空いた手で押さえて堪える。
「丁寧に扱え、彼は私の友人だ!」
思い切り気を悪くしたような表情でデュランが言うとトラストはククっと笑った
「よして下さいよ殿下、これは検体でしかも聖の血を引くモノですよ
魔王である貴方の友人などになれる筈も無い」
採血を終えるとやはり何の躊躇いも無く針を抜き笑いながら答え、樹莉は痛そうに腕を抑えて蹲っていた。
「用が済んだのなら去れ」
怒りを含んだ冷たい瞳でトラストを見据えて言う。
「はいはい、お邪魔しました」
トラストは一瞬、吹き出した冷や汗を堪えるように言うとすっと身を返して部屋を出て行く。ドアを閉めた後、トラストは小さく舌打ちすると廊下の闇に消えた。
「すまなかった、痛みを取ってやりたいのだが私の力は君を傷つけてしまう
どうか非礼を許して欲しい」
悲しそうな顔でデュランは掌で蹲る樹莉に話しかける。
「大丈夫なの‥樹莉くん我慢出来るの‥」
採血の跡を抑えたまま強がって言うが指の間からまだ血が出ているのが見えた。デュランはハンカチを出すとそれを拭う。
「よ、汚れちゃうの!
綺麗なハンカチ汚れちゃうの!」
「君の勇気に比べればこれくらいの事は問題じゃない
それより手当をして貰おう‥」
樹莉が慌てているとデュランは優しく微笑んで返し傍に有った呼び鈴を軽く押す。するとすぐにノックの音と共に執事が姿を現した。
「すぐに傷の手当てを‥」
デュランが言うと執事はまた下がりすぐに戻ってきて小さな樹莉の手当てを起用にする。
「人の痛み止めでございますが恐らく大丈夫でしょう‥」
綺麗に血を拭き取ったあと何かを塗ってから小さく切った絆創膏を貼った。
「もう大丈夫なの‥ありがとうなの‥」
樹莉が礼を言うと執事も優しげに微笑んだ。そして救急箱を片付けると執事はデュランに一礼し部屋を立ち去った。
「そろそろお腹が減っただろう?
食事をしに行こうか」
デュランが言うと樹莉のお腹が今更、鳴る。樹莉は少し恥ずかしそうに頬を赤くするとこくりと頷く。暖かなその体温に樹莉は奇妙な安心を覚えるのだった。