混乱
箱庭に戻ると海は紫苑と織彩の所へ行き英梨香から預かった小瓶を渡した。二人がすぐにそれを解析した結果、ヴァンパイアの血液だと判明する。
「これで明希の体細胞の復旧が出来るわ」
慌ただしく端末を操作し始める織彩の顔は安堵に満ちていて紫苑もホッとしたようにプログラムを組み始めた。海と樹莉は顔を見合わせると微笑みを交わす。それから次に東條の所へ向かい礼を言ってから湯治場であった事を話した。
「とにかく治って良かった‥樹莉君も良い経験が出来て良かったですね」
相変わらず深く聞く事は無くニコニコと返す。
「で、早速、修行したいんだけど‥」
「残念ながらそんなに悠長に修行してもいられなくなりました
貴方達が居ない間に事態はかなり切迫した状況になってます
詳しい事は私よりもミシェルに確認した方が良いでしょう‥彼は一時間もすれば一度、此処に連絡を入れる筈ですから後は自分で判断して動いて下さい」
海が切り出すと東條はやんわりと現実へ引き戻す。
「分かった‥」
数日前のあの自信無さ気な表情は何処へやらで完全に此処へ来た時と同じ目で返す姿を見て、東條も安心したように少し微笑んでそれに返した。海は樹莉を連れてもう一度、調整室に足を運ぶと慌ただしく端末を叩く二人の傍までやってきてから明希を見る。
「樹莉‥悪いけど俺の代わりにこいつが目ぇ覚ますの待っててやってくれないか?」
海がそう言うと樹莉は一つ頷き、それに笑顔で返すとそのまま調整室を出て行った。部屋に戻って机に荷物を置いた途端に呼び出し音が鳴り海は受話ボタンを押す。
『戻って早々悪いが今から送信する場所まで来てくれ
内容は道中で話す‥』
ミシェルにそう言われると海は動きやすい服装に慌てて着替え、格納庫へ向かった。そこには一台のヘリが用意されていたが海は生まれてこの方、ヘリなど操縦した事が無い。操縦知識はインプットされているが言葉と同じで知っているから出来るというものでも無い のだ。
「ある程度こちらでサポートするからとりあえず乗ってみな!」
海が不安を訴えると整備士に言われ仕方なく操縦席へ乗り込み機械を操作し始める。思いの外、スムーズに動く身体に海自身が驚いているとそれを見た整備士はグッドラックと言わんばかりに親指を立てた。意を決して箱庭から飛び立つと始めは不安定だった飛行も感覚がすぐに追いついてきて安定し始める。こういった乗り物の扱いが好きなせいだろう。遠隔で管制官が指示を出してくるのでそれも支えになり初フライトはかなり上出来に思えた。夕焼けの空は当たりを真っ赤に染め、とても幻想的で少し呆けていると空かさずミシェルから通信が入り海はまた表情を硬くして朱の空へと飛び去った。
白い闇のような広い空間に佇むのはデュランと英梨香、それからトラストとあの陰陽師。
「もう一度聞く‥この封印は破れないというのか?」
無表情だがその声は冷たく聞こえる。
「これは教会のものでも他の封印術でも無い‥いわば拒絶が形作る殻のような物‥
それは儂には破れぬ」
微動だにせず返す陰陽師にデュランは一つ溜息を吐くと愛しそうに棺を撫でた。
「彼女が目覚める事を拒絶していると?」
相変わらずデュランの表情に変化は無いが言葉の端には落胆の色が見える。陰陽師はその問いに頷くだけで答えた。
「喧嘩でもしたんですか?」
相変わらずの軽口でトラストが言うと英梨香がキッと睨み、それ以上、何も言わずに肩を竦めて交わす。
「お前の力でどうにかならないのか?」
「元々、僕の専門って生きてる身体の解析なんで‥
ま、ある程度は術の解析もしますけど術式のかかっていない棺を開ける事は出来ませんよ‥勿論、開けて貰えればどうとでもしますけどね」
デュランが聞くと困ったように微笑みながら返す。そして徐に棺の傍に屈んでそっと手を振れ材質を確かめた。豪華な装飾に重厚な木の柔らかな手触りはまるで棺事態に生があるような感じさえする。
「この棺を壊してもその殻は有効な訳?」
「棺事態が殻であり無理矢理に壊そうとすれば恐らく内部の肉体もただでは済まん
いや、肉体だけで済めば良いと言ったところか‥精神的な殻でもある棺を壊せば精神に問題をきたす事になるじゃろうな」
トラストが視線を向けて聞くと陰陽師はやはり微動だにせずに答え、その姿はまるで立ちっぱなしの案山子のようだ。それを聞いてトラストも困ったように頭を掻きながら立ち上がる。
「こりゃお手上げですね‥とにかく棺が開かない事には僕はどうしようもない
ただ‥方法が無い訳じゃ無いんだけど‥」
思わせぶりに言ったトラストにデュランは視線で先を促す。
「殻を作ったのが魔の属性なら聖の属性を強く持つ者がそれを中和すれば良い
実験では上手く中和出来たんで可能だと思いますよ
まぁ、それも一瞬で行わないと中和反応でお互いの身体は崩れてしまうんですけどね」
少しいやらしく笑みを浮かべるトラスト。
「例の化け物共か‥」
「そうです、その中でも飛び切りの奴が今、向こうの組織にいるんですよ
恐らくそいつに触れさせる事が出来れば中和出来る筈ですよ」
デュランに同意すると更に付け足す。
「織彩とかいう根源の化け物か?」
トラストから貰った資料を思い返しながら更にデュランが問う。
「いえ、実はエンジェル09や09から生まれた実験体は有効純度まで達してない
これはお渡しした資料にはない事項で僕もつい最近、知ったんですけど実はエンジェル07と言う実験体がいたんですよ
僕も貰った資料では失敗という風に認知していたんですけどね‥その失敗作の核が使われた実験体がいたんです
構成は09を使い、核に07を使用した特別な実験体なんですが組織自体も把握してなかったようで僕が気付かなかったら見過ごされてたでしょう
多分、知ってるのはその実験体を生成した09自身しか知らないと思いますよ」
「その化け物を確保して来いという事か?」
デュランを見つめたまま少し楽しそうに口元を上げて答えるトラストに棺を撫でる手を下ろしてデュランは答え背を向けた。
「いえいえ、そんなお手間は取らせません
もう誘き出す準備は整えてあります
ただ、これを僕の実験施設まで持ってきて頂きたいんですよ‥此処じゃ安易に手が出せないんで僕の仕事にも差支えますから‥」
その空間を見渡しながら言ったトラストに少しだけ視線を送るとデュランはパチンと指を弾く。途端に白い闇は消え、神殿のような空間が広がった。
「棺を指定の場所まで搬送させろ‥」
デュランが神殿の柱の陰に向かって語りかけるとその陰から例の執事が現れて深く頭を下げる。これで良いかと言わんばかりに再度トラストに視線を送るとどうもと頷き、それを見届けると光に溶けるように掻き消えた。
相変わらず仏頂面で端末を叩き続けているシルビアがふと一息ついて椅子に凭れ掛かるといきなり警報が鳴り響く。
「何事?」
『た‥助け‥わぁっっ!!』
傍にあるボタンを押して聞くと向こうで轟音が聞こえ助けを求める悲鳴と共に通信が途絶えた。シルビアは慌てて研究室を出ようと扉を開けるがそこは火の海、腕で顔を覆い辺りを見ると職員が所々で倒れている。何とか火の手の少ない場所を探し、状況を探るが余りの惨状に頭は混乱を極めた。これはどう見てもバーサーカーの仕業であり実験体が暴走したとしか考えられない。しかしそれならばこんな状況になる前に警報が鳴る筈だ。
シルビアは何とか研究所の上層まで辿り着くと父親の研究室を目指す。こうなった現状を全て把握しているのは父親しかいないと判断したからだ。火の手の少ない廊下を抜けてドアを開けると秘書の無残な死体が転がっていてそれを横目に奥のドアを開ける。
「やぁ、やっぱり来たねシルビアちゃん‥」
其処に居たのはいつもの軽口で話しかけるトラストとまだ小さな少女、それと無残に切り裂かれた父親らしき死体が一つあった。
「どういう事?」
余りの事にそれだけの言葉を絞り出すのが精一杯だ。
「どういう事も何もこういう事だよ
もうこの人から得るものも無いし‥逆に邪魔にしかならなくなったからね
でも君の事はまだ利用価値があると思ってるんだよ
だからさ、一緒に来ない?
僕なら好きな研究を好きなだけさせてあげられるよ?」
全く悪びれる風も無く余裕の笑顔でそう言ったトラストにシルビアの中にあった理性と言う回線が切れる。叫びながら持っていた拳銃でトラストを打つが何かに弾かれて全く当たらずすぐに弾は底を尽きた。
「無駄だよ、君の選択肢は二つしかない
此処でこのままパパと死ぬか僕と来るか‥」
冷たい笑みを浮かべて聞くトラストを見て絶望したように膝を着くとシルビアは呆然と視線を落とす。
「どうせ君もこの先、パパの実験動物になってたんだよシルビアちゃん‥」
シルビアの前にファイルを投げる。ファイル名はシルビアと書かれていて実験体ナンバーも表記されていた。それを見てシルビアは驚き目を見開いたまま涙を溢す。頭の中は真っ白になった。
「笑っちゃうよね、実の娘で実験しようとしてたんだからさ‥
それ見てもまだパパに執着する訳?
僕とおいでよ悪いようにはしないからさ‥」
淡々と続けると屈んでシルビアの顔を覗き込むがその声はもう届いていない。トラストは呆れたように溜息を吐くと首を振ってシルビアをその場に残し少女と共に部屋を出て行く。少女が擦れ違い様にシルビアを見たかと思うと何かが彼女の身体を通り抜け、見る間に服は血に染まりその場に倒れ込んだ。暫くして生きているモノのいなくなった研究所内には火の手がどんどん広がり、シルビア達を巻き込もうと迫っていた。そんな死体だらけの研究所に動く影が二つ。
「遅かったか‥」
ファイルを抱えて倒れている血塗れのシルビアを見てサイファが言うとマリーはそっとその傍らに屈んで脈を確認する。
「生きてる」
サイファを見ながら言いつつマリーはシルビアの身体を抱き上げた。サイファは血塗れのノーマンを机から退けると端末からデータを引き出し転送をかける。
「何処まで転送出来るかは分からないがこれで少しは情報が得られるだろう
一先ず脱出だ」
シルビアの身体を引き受けサイファが出口に視線を送るとマリーは安全を確認した。焼け落ちる建物をマリーが支えサイファが炎を遠避ける。難なく二人が研究所から出るとそれを待っていたかのように建物は時折、内部で小さな爆発を繰り返しながら崩れ落ちた。二人は辺りを見回してから人目に着かない森の方へ移動する。
「こっち!」
その声に振り返る二人の前にいたのはロックだ。調整槽から出た後、まるで小さな子供のようなそのあどけなさに間近で見ていたマリーはロックの世話を買って出た。知識スキルは膨大だが如何せん、対人スキルが全く無い。人への接し方から教える必要があった。それでもやはり呑み込みが早く一日で普通の対人スキルはマスターし、こうして助手的サポートが出来るようになった。
「誰か此処から出た奴はいなかったか?」
マリーがロックに問うと首を振る。
「じゃぁ出た乗り物は?」
「乗り物も人も出て来なかったけど大きな鳥が出てきて消えた‥」
後ろからサイファが聞くとロックは少し考え、燃え盛る建物の上部を指差し答えると二人は顔を見合わせた。
「あと、その鳥が何か抱えてたみたいだけどそれは何か解らなかった」
続けるロックに更に疑問が湧いたが恐らくインプットされた資料の中にそれ以外、類似する物が何も無いという事だろうと判断して質問する事を止める。
「とにかくこれ以上ここに留まるのも危険だ‥一旦戻ろう」
サイファが言うとマリーとロックも頷いてその場を後にした。
山間に息を潜めながらヘリで待機するミシェルは時計を眺める。
〈もう、そろそろ海が来るな‥〉
空を見上げつつ思うと計器のスイッチを入れ起動し、レーダーが海の現在地を指し示す。
「海、聞こえるか?」
『ああ、良く聞こえるよ‥』
「今、俺のいる位置よりやや南の方へ向かってくれ‥ポイント209‥そこで落ち合おう‥」
『了解‥』
通信を終えると離陸し、ミシェルが指定したポイントへ向かうと海の方が先に着陸して待っていた。
「研究所を襲撃するんじゃなかったのか?」
「状況が変わった
少し作戦を練り直す」
ミシェルはヘリから降り、山向こうへ視線を移すと溜息を吐く。
「何があったんだよ?」
不思議そうに問う海には目もくれずミシェルは暫く黙って頭の中を整理した。
「俺にもはっきり分からんがどうやら組織が内部分裂を起こしているようだ
内部で火災が起こったあと数人の科学者とバーサーカーが出てきて他の職員と交戦した後にヘリで去って行った
トニーに後を追わせてはいるが深追いしないように言ってある
もし内部分裂ならこちらの交渉にも応じる可能性があるからな‥もう少しこのまま待機して状況が分かってから動く」
まだ整理しきれていない状況を説明するミシェルに海は不安を覚える。暫く二人で佇んでいるとミシェルのインカムに通信が入った。
『そっちの状況はどうだ?』
イヤホン向こうの声はマリーだ。ミシェルは海に話したようにマリーにも状況を説明する。
『実はこっちも大変な事になってんだ‥とにかく箱庭へ戻って一度、状況を整理しよう
今、下手に動くと絶対にこっちがヤバいぜ』
「分かった‥トニーには俺から連絡しておく
場合によっては援護に向かうが海は一旦、戻らせる
何か解り次第、連絡を入れる」
通信を切るとその会話を聞いていた海の方を向く。海は無言で頷くとまたヘリに乗り、箱庭へと戻って行った。
海が戻るとサイファとマリーも帰還したばかりらしく格納庫は人が慌ただしく行き来していた。
「いったい何があったんだ?」
ヘリから降りると海は二人に駆け寄った。
「どうやら内部分裂と言うより組織の乗っ取りがあったようだ‥まだ詳しい事は解らないが今は迂闊に動かずに動向を見守る方が良いかもしれない」
「乗っ取り?誰が?」
サイファが説明すると海は間髪入れずに返す。
「それが分かれば苦労しないっての‥」
マリーは不機嫌そうな顔で苛つくように海に言うとその場を去った。
「とにかく状況を知ってそうな人物を確保した‥今、治療中だ
後は回復してからの話になるな‥」
そんなマリーの背中を眺めながらサイファは溜息交じりに答え自分も歩き出す。一人残された海は辺りを見回してから何か思い立ったように調整室へ向かった。調整室まで来ると勢いよく部屋に入り明希のいる調整槽の方へ視線を向けようとした瞬間に何かが海の頭を直撃した。
「いきなり入ってこないで!」
「痛って!何すんだよ!」
紫苑の怒鳴り声が聞こえて海はそちらに顔を向けると同じく怒鳴りながら頭を擦る。
「レディーの治療中は立ち入り禁止よ!」
紫苑がそう返すと思わず海は調整槽の方へ視線を向けた。其処には明希ではなくシルビアが入っていて例外無く裸体を晒している。
「だから見ちゃダメって言ってるでしょ!」
紫苑はまた傍にあった銀色のバットを振り上げて言うと海はクルリと視線を出口に向けて赤面した。
「わ、悪ぃ!
その‥あいつが居るもんだと思ってたからさ‥」
バツが悪そうに海が謝ると紫苑は少し視線を逸らせ。
「明希の治療ならもう終わって今は部屋にいるわ‥治療中も殆んど仮死状態だったから目が覚めるまであと二日はかかるだろうけど肉体は完全に蘇生してるからもう大丈夫よ」
まるで自分の裸体を見られたかのように頬を染めながら返す紫苑に頷き、少し固まったまま真っ直ぐに調整室を出てドアが閉まると大きく溜息を吐いた。そしてそのまま明希の部屋を訪ねるとベッドに横たわった明希の傍に樹莉がいて海の顔を見ると安心したように微笑んだ。
「具合‥どうだ?」
「うん、痛がったりとかしてないし大丈夫みたい」
小さく海が聞くと樹莉も小声で答え、後に樹莉のお腹が空腹を訴える音が部屋に響く。
「あれからずっと見ててくれたんだろ?
何か食べてこいよ、後は俺が見てるから‥」
クスっと笑いながら海が言うと樹莉は大きく頷いて部屋を出て行った。樹莉が言ったように一見、明希は穏やかに眠っているだけのように見えるが状態としては昏睡状態に近いだろう事は素人の海でも見当がつく。目覚めた時に何と声をかけたら良いのだろうかとぼんやり考えた。きっと流石の明希も精神的に不安定になっている事は間違いない。今からかける言葉をあれこれ模索するが一向に思い浮かばない上に現状、起こっている事をどう話すかさえ困った。大切な人を失った時くらい前線から身を引いて欲しいと思うが明希の性格からするとそれも難しいだろう。煮え詰まっていると樹莉が食事から帰ってきた。
「いっぱい食べて来た
海もご飯食べてくると良いよ」
満足そうにニコニコしながら樹莉が言うと海の気持ちはその笑顔に解れる。
「そうだな‥
飯でも食って気分入れ替えてくるか‥」
立ち上がって樹莉に微笑みかけると海は部屋を出てラウンジへ向かう。軽く食事を取りながらまだぼんやり明希の事を考える。短い付き合いなりに理解しているつもりだったがこういう時、どうすれば良いのだろうかとそれだけが頭を巡り食事の味さえよく分からなくなっていた。グルグルしながら食事を終えると席を立つ。
そっと部屋のドアを開けると樹莉の寝息が聞こえてきたが服を脱ぎ散らかした様子で椅子に姿が無く、傍まで行くと海はクスっと笑った。樹莉は元の小さなサイズに戻っていて椅子の上で大きすぎる服に涎を垂れながら大爆睡している。
〈そういや一晩中見てたんだっけ‥〉
現時刻は昼を少し回った所で帰ってきてから一睡もしていない事に気付いた。海は服ごと樹莉をそっと抱えると自分の部屋に連れて行ってベットに寝かせ小さい服を枕元に置いてからまた明希の部屋に戻る。椅子に腰を下ろして明希を見ていたがやはり海も疲れているのか少し居眠りを始めた。
どれくらい時間が経ったか目が覚めて時計を確認すると午後4時を指している。欠伸交じりに目を擦ると明希の顔に視線を向けるが一向に変わった所は無く、少しホッとしたように溜息を吐くと喉を潤そうと備え付けの小さな冷蔵庫を開けた。
「何も入ってねぇよ‥」
いきなり声をかけられて海はガタッと慌てて振り返る。
「何だよ‥幽霊でも見たような面しやがって‥」
明希は続けると気怠そうな顔で一つ溜息を吐く。
「おま‥ちょっ‥大丈夫かよ?」
海は駆け寄りながら余りの事にあたふたとそれだけ答えた。
「ああ、身体は全く動かんがな‥」
どうやら顔すら動かせないのか視線だけ泳がせつつ明希が返すのを見て海はそれでも安心したように表情を緩める。
「そりゃあれだけの怪我したんだから仕方ねぇだろ‥今はとにかく寝てろよ」
いろいろ考えていた筈なのに咄嗟にこんな言葉しか出てこない。自分のボキャブラリーの無さに涙が出そうな海であったがそれでもこうして目が覚めた明希を見て嬉しくなる。
「まぁ、こんな状態じゃ寝てるしかねぇけどな‥それよりあれからどうなった?」
まだ覚醒しきれてないのか明希は虚ろな顔で聞く。しかし嘆くでも落ち込むでも無く、淡々と会話する姿に少し胸が痛む。海は起きた事をそのまま明希に伝え現状の事は敢えて言わなかった。
「あ‥そうだ、お前も動けるようになったら総一郎んトコに行けば良いじゃん
そうしたら即効、治してもらえるかも‥」
話の終わりに海が言う。
「無理だな‥俺の身体はもうあんたらのそれと違うもんだ
弄り過ぎてて普通の理からは外れちまってる
東條にもこれ以上、弄ると理から外れるって注意されたくらいだ」
相変わらず淡々と返す明希に海はまた言葉を失くす。
「心配しなくても紫苑や織彩がいる限りそう簡単に死にゃしねぇよ‥いや、死ねないって言った方が良いかもな‥」
少し間を置いて続けた明希は何処か遠くを見ていた。その言葉に海はあの時、明希はフェリシアと共に死ぬ事を望んだのだろうと気付いたがそれを認めたく無くて言葉を探す。
「言っとくが下手な慰めならいらんぜ
この道を選んだのは俺自身だからな‥」
先手を打つように言った明希に海は言おうとした言葉を飲み込んだ。
「正直、今なんて言って良いのか分かんねぇ‥けど、お前のそういうとこ見てるとなんか痛々しいっていうか‥
もっとちゃんと気持ちは素直に表した方が良いと思うぜ」
視線を落として素直に感じた事を口に出してみる。下手に取り繕えばきっと明希を傷つけると感じた。明希はそう言われると少し海の方に視線を向けた後、また天井に戻す。
「あんたに心配されなくても決着は付いてる
後は自分の中で折り合いつけてくしかねぇからな‥でも、ありがとな‥」
それだけ言うとスゥッと眠りに落ち、その気配に海は顔を上げる。まるで今までの会話は寝言だったのかと思うほど明希は深く眠っているように見えた。暫くそのまま明希の顔を眺めていると小さなノックの音が聞こえる。ゆっくり立ち上がり出入り口で少し深呼吸をしてからドアを開けたが誰の姿も無い。
「ごめんなさいなの‥樹莉くん寝ちゃってたの‥」
足元で声がして下を向くと樹莉が申し訳なさ気に海を見上げていた。
「疲れてたんだから仕方ないだろ?
それより顔洗ってこないと涎塗れだぞお前」
屈みながら笑って海が言うと樹莉はハッとして慌てて両手で口元を拭う。
「此処は暫く俺が見てるから織彩達の様子を見てきてくれないか?」
海が続けると樹莉は少し気恥ずかしそうに頷いて忙しそうに駆けて行った。
少し古びた学校のような研究施設に、不釣り合いな水商売系の女性が入って行く。ある一室まで来るとノックもせずドアを開けた。
「やぁヴァネッサ、そっちも上手くやってくれたようだね‥」
ソファに横になり紙飛行機を作りながら笑顔で言うトラストを一瞥するとヴァネッサはその前のソファに腰を下ろす。傍にいた白衣の研究者がその前にワインを差し出した。
「別に大した事じゃないわ
女はね、術なんて使わなくても人を操る事が出来るのよ」
カバンから煙草を取り出しながら少し自信有り気に微笑んで返した。
「それより次はどうするの?
まさか乗っ取ってただ引き継ぐつもりじゃないんでしょ?」
煙をくゆらせながら続ける。
「そうだねぇ‥とりあえずセラムだっけ?
あそこは目障りだから潰そうと思ってるよ
偽善者ぶって僕に絡まれても困るし組織の人間も気持ちが傾いてる奴が多い、やっぱり消えて貰わなくちゃ‥」
紙飛行機を眺めながら答えるトラストにヴァネッサは少し笑みを浮かべた。
「私は退屈しないなら誰とでも組むけれど危ないのはごめんよ
情報は提供してあげるけどコーディネーターは下ろさせて貰うわ‥私程度の術者じゃ貴方達の作った化け物には敵わないもの」
「またまた、謙遜しちゃって‥生粋の魔女の君が敵わないなんてそう居ないでしょ?
ちゃんと協力者は付けるからもう少し付き合ってよ」
「報酬は高いわよ?」
「ははは、怖いなぁ‥でも退屈も落胆もさせない自信はあるけどね?
次の仕事が済んだらこれで好きな事して良いよ‥ついでに暫く組織を預けたいんだけど良いだろ?」
紙飛行機をヒョイと弾いた後にトラストは身体を起こし胸ポケットからクレジットカードを出してヴァネッサの方へ差し出す。
「相変わらず甘えるのが上手いのね‥良いわ、最後に少しだけ手を貸してあげる」
カードを受け取ると差し出されたワインに口を付けヴァネッサは煙草を揉み消して部屋を出て行った。その後ろを先ほどワインを差し出した白衣の男が付いて行く。
「さて、僕もそろそろ出かけようか‥せっかくのパーティだから張り切って準備しなくちゃね」
薄く微笑んで窓の外を見てから立ち上がる。何時の間にかその後ろにはあの陰陽師と少女が居てトラストに付き従うようにドアの向こうに消えた。
陸は事情聴取を終えると遅い昼休みを取る為に署の傍にあるうどん屋に足を運んだ。奥の小さなテーブル席に座り、注文を終えスマホを覗いていると他の客が入ってきて陸の前に腰を下ろす。
「目立つ場所での接触は控えて頂きたいんですがね‥」
小さく前の客に注意を促すが視線はスマホに置いている。
「ちょっとヤバい状況になったんでな‥どうやらあっちのコーディネーターの親玉がお前んトコの所長と接触するようだ
お前、何か口実付けて午後からは署を出てろ
こいつは並みの奴じゃねぇ‥接触すればいくら気配を殺してても存在を悟られるぞ」
同じく、そ知らぬ振りで新聞を広げながら男が小声で言った後すぐに店員が注文を聞きに来た。男はビールとつまみを注文するとまた新聞に視線を落とす。
「そんなドジはしませんよ‥それに署での仕事がまだ残ってますし良い機会なんで探りを入れてみます」
陸は少しだけ男の方へ視線を向けたがすぐ戻して何かを入力し始めた。
「お待ちどう‥熱いから気を付けてね!」
店員が陸の前にうどん定食を置き次に男の前に瓶ビールとつまみを置いて足早に去って行く。
「だから並みの奴じゃねぇっつってんだろ!
あいつは本物の魔女だ‥下手すりゃ殺されるぞ!」
押し殺す声で言うとバサッと新聞を畳んでテーブルの上に乱暴に置いた。
「今は術者についても妖怪についても否定する気は無いですが魔女なんて跳び過ぎですよ
それより連続殺人鬼‥やはり例の薬が使われてました
術式は解除しておきましたからこれ以上の被害者は出ないでしょう」
入力を終えるとスマホをテーブルに置き、箸を取りながら返す。
「だからその俄か呪術が通用しない相手だって言ってんだ‥エレメンツの癖に術が使える変わり種だって聞いてるがそれでもあいつだけはヤバいんだよ」
眉間に深く皺を寄せながら視線を落とす男の脳裏には何かが去来しているようだ。
陸は他のコーディネーターの中で術に精通した者と接触を図り、教えを乞うた。本来、混ざり者の身ではなかなか習得するのは難しく、不可能に近いとされていたのだが元々持っていた素質のせいか簡単な術なら身に着ける事が出来たのだ。
「分かりました‥では十分注意した上で逃走経路も確保しておきます
でも不自然な行動は自分の首を絞める事になり兼ねませんから予定通り行動しますよ」
手も口も休める事無く答える陸に男は諦めたように溜息を吐く。そして手早く食事を終えると店を出た。
「死ぬなよ‥」
男は呟くとグッとビールを飲み干した。
署に戻った陸は所々に目を配りながら伏線を配置してデスクに戻ると調書の作成を始める。
〈さて‥これ以上、呪術や魔術を使うと目立つな‥〉
考えながら己の気配を消した。暫くすると署の外から違和感が迫って来る気配がして更に己の気配を小さくする。しかしその気配が自分のテリトリーに入ってくるのが分かった途端に陸の額に汗が滲み始めた。この場にいてはいけないと本能が叫ぶ、だが今、動けば恐らくその存在を知られるだろう。
「おう藤木、具合悪いのか?
真っ青だぞ?」
どうする事も出来ずに固まる陸に気付いた同僚が声をかけながら肩を叩いてきて、その拍子にようやく動く事が出来た。
「ああ、ちょっと昨日から風邪気味だったもんで‥」
少し引き攣った笑みを浮かべて返す。
「具合悪いなら帰れ、もう取り調べは済んでるんだ
調書は明日で良いから‥」
その横にいた上司に言われると陸は少し考える。
「すみませんがそうさせて頂きます」
申し訳無さそうに荷物を纏め、帰り支度を整えると部屋を出た。廊下を歩き出口を目指すが今までこの廊下がこんなに長いと思った事は無い。行きかう人々を避け階段を下りていると前から水商売風の外人が階段を上って来る。その顔を見て陸は足を止めた。いや動けなくなったと言った方が正解だろう。見えないプレッシャーに汗が噴き出す。
「後でね‥」
擦れ違い様に小さく呟いてヴァネッサはそのまま階段を上って行った。陸は暫くその場に固まっていたがフッと上を見てから足早にその場を去る。
〈探りを入れるなんてバカか俺は‥〉
署を出てようやく我に帰ると苦虫を噛み潰したような顔でそう思った。格の違いというものをこれほど感じた事は無い。深く深呼吸をすると車に乗り込んで自宅と反対方向に車を走らせた。
向かったのは内緒で借りている倉庫で、着くと積み上げた箱の中から一つ出し自宅へと向かう。自宅の駐車場まで来ると危険や監視が無い事を確認してから車を降りた。部屋に戻り持ってきた箱を開けるとそこには拳銃と弾丸がセットで仕舞われている。弾丸には文字のようなものが刻まれた呪術用の特殊なモノだ。陸はその拳銃に弾丸を込めるとベルトに捩じ込み、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して一気にそれを飲み干す。
転勤してきてからというもの組織絡みで危ない目にあったのは一度や二度では無い。署長がノアの息のかかった人間であるせいか管轄内でおかしな事件が絶えなかった。勿論、目を付けられないよう動いてはいたのだが公務に準ずれば署長の意に反するらしく目立ってしまい、迂闊に近付く事が難しい状態になってしまった。
外堀から徐々に探りを入れている矢先にこれだから陸も流石に覚悟を決めるしかない。もし自分の存在が知られれば周りを巻き込む羽目になる、ならば自分を感知した者を殺すかその記憶を消すしか無いと思った。空のペットボトルをゴミ箱に掘り込むと窓際に歩み寄りカーテンの隙間から目を凝らす。まだそれらしい気配は無いがきっとあの女は自分を追ってくると確信があった。陸が緊張を走らせていると電話が鳴る。番号は署の番号を指していた。
「はい‥藤木です‥」
努めて平静を装いながら電話に出る。
『あら、生真面目に出るなんて迂闊なのね‥』
「!!」
『くす、心配しなくても取って食いはしないわよ
少しデートでもしましょうか‥ロンドというカフェは知ってるわね?
そこで待ってるわ‥』
女はそれだけ言うと電話を切った。罠は明白だがこう咋にアプローチされては逃げる事は出来ない。陸は険しい顔で再び部屋を出た。
ロンドは自宅からそう遠くなく徒歩で行けるほどの距離にある。カフェに着くとヴァネッサが陸に向かって軽く手を振るが場所を示唆しなくても目立つ容姿だ。
「本当に生真面目なのね
逃げ出すかと思ってたけど‥」
ヴァネッサは微笑ながら席に着く陸に言う。
「誘ったのはそちらでしょう‥で、用件はなんです?」
簡潔に答える陸にもう動揺の色は見られない。いや、必死で隠していると言った方が正解だろう。
「別に用なんて無いわ‥ただ男前の刑事さんとお話がしたかっただけよ」
言いながらヴァネッサはしていた手袋を取ってカップに手を掛ける。その手の甲には何か痣のような物が見え、陸の視線は自然とそちらに向く。
「私がコーディネーターを束ねていられるのはこの紋章のお陰なのよ」
それを察してヴァネッサが説明した。資料の中で見た文様だ。
「魔女の烙印‥ですか?」
「そうよ、魔女というか魔術師の家系の正当血統が持つ烙印‥この世界には八大魔術師と言われる家系があってその家の一つね
他は殆ど消えてしまって今は一部の家系にしか紋章の出る者はいないわ
そんな名家の人間がなんであんな組織のコーディネーターをやってるか知りたくない?」
賭けとも取れる一言にヴァネッサはクスっと笑って不敵な笑みを浮かべ陸を見据える。
「別に興味はありません
ただ私の事はそっとしておいて下さい‥一般人なので‥」
脂汗を堪え平然と振る舞うよう努め答えた。
「ふふ‥肝が座ってるのね
良いわ、貴方の事は内緒にしといてあげる
でもその腰の物は頂けないわ‥今度会ったら命は無いからそのつもりでいなさいね」
ヴァネッサは飲みかけのコーヒーをそのままに手袋をし直すとその場を去って行く。陸はその後ろ姿が消えるとようやく席を立った。帰る道すがら自分の手が震えている事に気付いて足を止める。
〈もうこれ以上、首を突っ込むなという事か‥〉
震える手を眺め思うとグッと握り締め、また歩き出した。
あれから眠り続けた明希をただ黙って見ていた海は翌日になると樹莉に交代を頼んで仮眠を取った。目覚めると重い身体を引きずってラウンジへ行き、食事を取ってから明希の部屋へと戻る。マリーとロックはミシェルやトニーとの連絡を密にしているようだがまだこれといった情報は入ってきていないようだ。
「今度はちゃんと見てたの!
エッヘンなの!」
「偉いぞ、じゃぁ、今度はまた俺が見るからまた明日頼むな‥」
自慢気に言う樹莉の頭を撫でてやりながら褒めると嬉しそうに頷き部屋を出て行った。海は腰を下ろすと明希の顔を眺めるがその表情に変化は無く、一つ溜息を吐くと傍にある雑誌を手に取って読み始めた。ぼんやりページを捲りながら時折、溜息を吐く。
「別についててくれって言った覚えは無いんだがな‥」
その声に海は勢いよく顔を上げた。
「はぁ‥ったく、最悪な気分だ‥」
「ちょっ!まだ寝てろって!!」
無理くり身体を起こしながら言う明希を制止する海。
「もう平気だよ‥それより煙草一本くれ
引き出しに入ってる」
構わず身体を起こすと怠そうに頭に手を添え深い溜息を吐いた。
「まだ止めとけよ」
仕方なく身体を支えながら海が諌めると明希は海に視線を向け無言で持ってくるように促す。髪の合間から覗く何とも言えないその視線にグッと言葉を飲み込むと仕方なく引き出しから煙草を取り出し、灰皿と共に差し出した。明希はゆっくりと感覚を確かめるように受取ると火を点けて深く煙を吸い込んだ。そしてその煙をゆっくり吐き出し、ぼんやり宙を見つめ至極、心地良さそうに目を閉じる。
「で、今どうなってる?」
暫く無言で煙草を吸っていた明希が唐突に口を開くと海は言葉を何も用意していなかった事に気付いて上手い言い訳を考え始めた。
「取り繕うような嘘は止めとけよ
今更、何があったって驚きゃしない」
即答出来ない海を見抜いて明希が先に口を開く。確かにすぐばれてしまうのは解っているが言葉を選ばなければきっと明希はこのまま戦線へ向かおうとするだろう。だが今の海には上手く説明出来る自信は無い。
「話す前に頼むからこれだけ約束してくれ‥今後こんな無茶はしないでくれよ」
訴えかけるように言うと明希は困ったように頭を掻いた。
「俺だって闇雲に無茶してる訳じゃねぇ
ある程度の勝算があるからやってんだ‥端から負けると解ってる勝負は挑まねぇよ‥」
煙草を揉み消しながら言う明希に海の心に言いようの無い複雑な気持ちが去来する。
「お前はそれで良いかもしれないけどもっとお前の事を心配してる奴の事も考えろって言ってんだよ!
どんな気持ちで皆お前の事を心配してると思ってんだ!」
ガタッと立ち上がるとそんな気持ちを上手く言葉に出来ずに苛立ちながら吐き捨てた。
「それこそ大きなお世話だ
今まで大事なモン取り零しながら生きてきたんだ‥今更、何を零そうが構わんがこれ以上同じ目に合う奴がいて良い訳が無いだろう?
俺のやる事に文句があんならあんたが自分で何とかしてみろよ」
視線を海から外すと静かにそう言う。明希の顔はどこか遠くを見ていて己の不甲斐無さに対する憤りのようにも聞こえた。
「ただ少し不相応な夢を見ちまったからな‥それで気持ちが折れそうになっちまっただけでもうあんな事はしやしねぇよ」
言い返せない海に沈黙のあと明希はポツリと続けた。
「お前は当たり前の夢を当たり前に見ただけだろ?
それがそんなに悪い事なのかよ!?」
その言葉に海は今まで抑えてきた感情が何なのか分かった。破滅的な明希に対して闇の淵から救ってやりたいという慈愛や母性というものかもしれないがそれ以上にその存在に焦がれていたのだ。恋愛とも憧れとも違うもっとその先にあるモノのような気がした。
「俺は‥俺達は沢山の幸福な未来を奪ってきた‥もうその資格すらねぇんだよ」
「守った幸せってのも山ほどあるだろ?
少なくとも俺達はお前に助けて貰わなきゃこうして生きてらんなかった
そんな奴だって山ほどいるだろ?
奪ってるだけじゃねぇ‥ちゃんと守ってきてんだよ、だから‥そんな事言うなよ‥」
冷たく答える明希の胸ぐらを掴んで言い終えると歯を食いしばり、顔を伏せ力無く掴んだ手を落とす。今まで堪えてきた涙が溢れて頬を幾つも伝う。
「何であんたが泣くんだよ‥」
明希は呆れたように言ったがその表情は柔らかくなった。偽善的でただの慰めだとしても明希自身この言葉に少し救われた気がした。
「泣いてねぇっ!」
海は涙でぐちゃぐちゃの顔を明希に向けて言い放ち部屋を出て行く。
「あいつは乙女か‥ったく、仕方ねぇな‥こういう時は追いかけるのが常套手段か‥」
明希は大きく溜息を吐くとまだ動き辛い身体を持ち上げるように立ち上がり、引き出しから何かを出すとヨタヨタと海の部屋へ歩き出す。息を切らせつつようやく海の部屋まで来るとドアの前で呼吸を整え、壁に寄りかかっていた身体を持ち上げ中に入る。その気配にベッドに俯せていた海がガバッと起き上がってこっちを見た。
「何やってんだよ!」
怒鳴りながら明希に駆け寄ってふらつく身体を支える。
「ったく、気色悪ぃ話の切り方してんじゃねぇよ‥気になって寝てらんないだろ?
俺の質問にまだあんた答えてねぇんだからちゃんと最後まで話せよ」
少し笑みさえ見せながら強がって言うが額には脂汗が滲んでいる。
「分かったから大人しくしててくれ!
これ以上お前に無理されちゃこっちが落ち着いてらんねぇよ!」
先ほどに比べ少し表情に変化があったのを感じると海は少しホッとしながらも明希をベッドに座らせる。海自身も少し気持ちが落ち着いてきたのか諦めたのかあった事をありのまま話した。
「とにかく今はミシェルとトニーが集めてくる情報を待つしかないし向こうも混乱してるみたいだから暫く様子見るしかないって‥お前も今は無理して動くより身体休める事に専念しろよ」
最後にそう付け足すと海は溜息を吐いた。
「連れてきた女はどうした?」
「さぁ?今は調整槽を出て部屋で安静にしてるらしいけど俺等はシャットアウトされてて入れない
ヒューバートさんがよく出入りしてるみたいだけどよく分からないな」
質問に対してすぐに答えた海を明希は少し考え込んでからベッドに引き摺り込んだ。
「なっ‥ちょっと待て!」
「病み上がり相手に暴れんなよ‥」
いきなりの事に慌てる海に明希がそう言うと反射的に暴れるのを止める。
「言った傍から無茶してんじゃねぇ!
離せよ!」
強く言うが構わず明希は首筋に舌を這わせた。
「リハビリだ‥付き合え‥」
一言だけ言うと身体を弄り始める明希に少し抵抗してみるが何かを思うと抵抗を止める。
〈ホント、どうしようもねぇな‥〉
心の中で呟いたのは自分に対してか明希に対してなのかは分からない。ただの同情かもしれないし自己満足かもしれないが明希が抱えた空白を自分の身体で僅かでも埋める事が出来るならそれでも良いと思った。
事が済み、二人はそのまま寝転んでぼんやりと宙を見つめている。
「なぁ‥お前が初めて誰かを殺した時ってどんなだった?」
海は俯せた状態で頬杖をつきながら何となく聞く。少し前なら口には出来なかった言葉だが今なら聞いても良い気がした。
「正直言っちまえば頭、真っ白でその瞬間の事は殆ど覚えちゃいない
気が付いたら俺も相手も血塗れで‥ただ我に返った時にゃ解放された気がしてホッとしてたかもな」
気怠そうな顔で天井を眺めながら答えた明希の表情はいつもと変わらない。
「俺さ‥バーサーカーの首を落とした時、ぶっちゃけ人間を殺したって意識無かったんだ
ただ怖くてさ‥でも総一郎んトコで神様の遣いってのに“人殺し”って言われて初めて実感した
俺は化け物を殺したんじゃなくって人を殺したんだって‥分かってた筈なのに知らない内に自分の中で誤魔化してた事に気付いたんだ‥」
「そりゃそうだろ、あんなモノを始めから人間と認識できる奴の方が稀なのさ‥
自分を責める理由にゃならねぇな
それに怖いっていうのは正常な感覚だ‥よく死にたいなんて言う奴が居るがそれは死に晒されていない幸せな奴の吐くセリフだ
身近に死を感じてる奴はその恐怖を知っているからこそ死にたくないと必死になる
それは正常な生きる者の本能ってヤツだ‥恥じるこたないぜ」
「前にサイファが言ったんだ‥進んで手を汚すなって‥
そん時はお前らが出来る事だからきっと俺にも出来るってタカ括ってたのにいざとなったら怖くて仕方ないんだ
こうやって殺した後でもビビっちまってて‥でもやっぱり自分や皆が危なくなったらまた俺は自分に言い訳付けて殺すんだと思う
こういう気持ちってどうやって折り合い付けてきゃ良いのかな‥」
「良いんじゃねぇかそのままで‥俺等みたいになっちまうよりずっと良い
まだ普通の感覚が残ってる証拠だからな‥俺等は普通の人間でも自分達の邪魔になるならまず殺す事を考える
そうなっちまったらもうそんなのは人じゃねぇよ‥」
泣き言を聞いても大して過剰に感情を示さない明希に海の気持ちは少し楽になった。弱音を吐いても良いのだと理解した反面、これ以上、明希達に負担をかけたく無いとも思う。
「お前は優しい奴だと思うぜ‥サイファもマリーも皆‥俺達の‥」
何時の間にか海の頭は腕を滑り落ちて枕に半分埋まっていた。そして何かを言いかけながらそのまますとんと眠りに落ちる。
「‥やっと利いてきたか」
その様子をチラリと横眼で見ると身体を起こしてそう呟く。
「流石にそんな早く利きゃしないか‥」
明希は頭を掻きながら立ち上がると袷を羽織る。事の最中に海の腸内へ眠り薬を仕込んだのだ。少しふらついてはいるが来た時よりしっかりした足取りで自室に戻るとシャワーを浴びて身なりを整える。向かったのは東條の庵、前には東條が立っていて明希を見ると誘うような視線を送って庵に入って行く。明希もその後に続くと座卓の前に腰を下ろした。
「海の言うように余り無茶はしないで下さいね」
お茶を入れながら振り返りもせずに東條が呟く。
「デバガメか?良い趣味してんな‥」
明希は嫌味を言うが別段気にも留めていないような表情だ。
「別に貴方達の情事に興味は無いんですけどね‥ただ貴方の中にある魔の性質に私のセンサーがどうしても反応してしまうんですよ」
クルリと振り返りお茶を差し出しながら微笑んだ。
「やはり俺ん中に在った記憶の断片は英梨香のモノか?」
出されたお茶を気にも留めず即返する。
「ええ、どうやら貴方の体内の壊死を抑えるために少し使ったようです
今はほぼ中和されていますがその気配が残っている間は余り動き回らないで下さい‥居場所を悟られます
それに魔を抱えたままでは貴方の体力も能力も半減するので戦線に出る事はお勧めしませんね
最低でもあと一日は留まって頂かなくては‥」
「逆に今の俺なら英梨香の居場所が掴める‥若しくは接触を図れるって事か?」
「そうですね、それは可能だと思います」
明希は何もない空間を見据えたまま少し考え込んだ後にようやく湯呑に手をかけた。
「言っておきますがもし戦闘になれば勝算は0です
例え誰かを伴っていったとしても今の貴方の状態で敵の巣に潜り込むのは利口な判断だとは思えません
それに妹さんと接触を図るだけにしても恐らく相手もそれを見越して監視しているでしょう
貴方が下手に動けば妹さんの身も危うい事を理解して下さい」
明希が考えている事を踏まえて付け足す。
「だよな‥さて、どうするかな」
溜息を吐くと思いの外あっさりその意見を受け入れながら再び考え込む。
「以前、ご紹介した私の師を覚えていますか?」
「ん‥ああ、あの怖いおっさんか?」
「ええ、あの方はもう貴方とはお会いにならないでしょう
それくらい貴方の存在は他より跳び抜けて歪んでいる
私も貴方のちょっとした先視さえ出来ません
逆を返せばそれを利用する事も可能なんじゃないかと少し思うんです
相手に感知させない術を既に貴方自身が持っているという事ですよ
後は痕跡を完全に消す必要がありますね」
「あんたにはそれが出来る‥が、此処を離れる訳にゃいかんだろ?」
「そうですね、でも10分くらいなら代役を立てる事も出来ますが‥」
最後にそう返し微笑んだ東條に明希は少し躊躇いを見せる。
「良いのかよ?」
「構いませんよ‥乗りかかった船ですし‥」
東條とて明希の思惑は少なからず理解出来るからこそ危険な賭けに乗る事を覚悟した。ゆっくり立ち上がると奥の箪笥の引き出しから古い手鏡を一つ出してきてそれを座卓の上に置き、呪を呟くと鏡面に手を入れて何かを出す。それは手のひらほどの紙に包まれた物体で東條は丁寧にその包みを解いた。
「それがあんたの本当の身体か?」
明希が問うと東條はそれに微笑みで返す。
「今の身体だと相手に悟られますからね‥それに抜け殻でも十分、代役を果たせます
何よりこの身体より本来の力は出せますし少し私自身、確認したい事もあるんです」
言いながら包みの中の物を自分が腰を下ろしている隣に置いた。それは小さなミイラでまるで気味の悪い玩具のようにも見える。東條がそれに手を翳すとボンと煙を上げてその小さなミイラは面妖な鬼の姿となり同時に東條はその場に倒れ込んだ。
「あんた思ったより男前だな
俺好みだぜ‥」
「私にその趣味はありません
さぁ、行きましょうか‥時間が惜しい」
茶化しながら明希が立ち上がると東條は手を差し伸べ、その手を取った瞬間に二人はすぅっとその姿を消した。
山間にある別荘のテラスで英梨香は湖面を眺めていた。あの後、棺の護衛も兼ねてトラストと共に日本の避暑地にやってきた英梨香は暇を持て余していた。トラストは棺を別荘の地下にある研究室に運び込むとさっさと出て行ってしまい英梨香と陰陽師だけが残された。地下の施設に職員はそれなりにいるがけしてこの別荘のある上階までやっては来ない。
〈あーあ、やる事無いって暇だなぁ‥
あの陰陽師もなんか胡散臭いし‥なんでデュランはあんな奴連れてきたのかしら‥
術者ならもっと有名処がいるじゃん〉
グダグダ考えながら頬杖をついているといきなり現れた気配に振り替える。
「お兄ちゃ‥」
英梨香は大声で言いかけてその口元を抑えて辺りを見た。
「監視はねぇよ、それより時間が無いんで手短に用件を言う‥」
明希は驚く英梨香にそう返しながら傍へ歩み寄る。
一方、東條は別の場所へ飛んでいた。
「やはり貴方でしたか‥」
湖畔に佇む影にそう話しかけるがその影は振り返らない。
「こう言う雑多な事が嫌で隠居されていると思いましたが?」
更に東條が詰め寄るとようやくその影は振り返った。
「確かに有触れた事ならば手は出さんつもりであったのだが理を離れようとする者が出てしまった以上は見過ごす事は出来んでの
何より歪に向かおうとする世界を軌道修正せねばならぬ
だから儂も一つ、お前に協力してやる事にしたんじゃよ」
「敵方にいて‥ですか?」
「今は、な‥この世界を壊したくないのはお前さんらだけでは無いという事じゃ」
「まさか貴方が力を貸している者達が正義だとでも言うおつもりですか?」
「なぜ闇の王が今まで成りを潜めておったと思う?
あの者は恐怖とはあくまで深淵の存在で良いと心得ておるよ
儂が今少し悪に加担せねばならぬのはそんな闇の王の願いでもある」
「仰る意味が分かりませんが‥」
「それで良い良い、いずれ解る時が来るじゃろう‥その時に初めておぬしとて心置きなくその姿に戻れもしよう
じゃが今少し人の姿でおるのじゃな
無論、儂を倒すのもまた定めの上ならばその定めに従えば良い」
「バカな事を‥私に討てる筈も無い
しかしこうなった事に何か深い意味があるのでしょう?
胸を借りるつもりで挑ませては頂きますが加減は致しませんので‥」
静かにやり取りをしているようだがその間には緊張が走る。
「うむ、それで良い‥しかし今はあの小僧を連れて早々に帰るが良い
直にアレ等が戻って来る‥」
高笑いの後に返すとその影はガシャンと崩れ中には紙の人形が入っていた。
「全く油断も隙も無い
相変わらず傀儡を巧みに使う方だ‥」
東條は呟くと緑に掻き消えるように姿を消す。その頃ようやく明希と英梨香も話が付いたようで東條はスッと二人の前に姿を現した。
「明希、そろそろ撤収しますよ」
「次に会う時が最後だ‥」
「そうね‥」
明希が言うと英梨香は少し寂しそうにはにかんで返す。来た時と同じように煙のように消えた明希と東條を見送って英梨香は一つ溜息を吐くと何かを決意するような顔で建物の中に消えた。
庵に戻ると東條は抜け殻の傍まで来て手を翳し自身の身体に戻る。あの面妖な鬼は姿を消し、また小さなミイラに戻ると大切そうに包み、封印を施して鏡の中に収める。
「なんか空間を移動するってのはあんまり気分の良いモンじゃねぇな‥」
明希は身体をあちこち動かしながら違和感を拭う。
「そうですか?
慣れれば大した事は無いですよ?」
相変わらずニコニコしながら返してはいるがその額には汗が滲む。
「もしかしてかなり無理さしちまったか?」
「いえ、ミイラ化してからも力を注いできたので元の身体に戻るには差し支えないんですよ‥ただ本来の身体なので離れる方がきついんです
この身体はあくまで人として生きるためのモノですから‥」
明希の問いに答えながら東條は鏡を元の引き出しに直す。
「で、話は出来ましたか?」
振り向いて言った東條に明希は少し視線を逸らして沈黙した。
「まぁ、思うような結果にゃならなかったがそれなりにな‥
それでも少しは気持ちが落ち着いたよ」
「ではまずまずですかね」
「ああ‥で、あんたの確かめたい事ってのは解ったのか?」
「ええ、予想通りで参りましたけどね‥敵側にいる陰陽師は私の師匠でした」
サラリと返す東條を呆気に取られながら見ると明希は手にした煙草をポロリと落す。
「貴方の知人が敵わなかった訳です
あの方と真っ向から勝負して術で競える者など世の中、片手ほどもいないでしょう
今は仮初の姿で動き回っているようなので大した事はありませんけれどね
生身で無いのがせめてもの救いです」
続けるとお茶を入れ直し明希に差し出して微笑んだ。
「確かあんたの師匠は化学やこういう自然の流れを壊す行為を嫌ってなかったか?」
落とした煙草を拾い上げ咥えると明希がようやく口を開く。
「そうですね、だからこそ何か深い意図があるのだと思います
今の私には解りませんがきっとこの戦いが終われば解る事なのでしょう
とにかく宣戦布告はしてきましたからこれからは私も本気で協力させて頂きますよ」
涼しい顔で答える東條に明希は暫く沈黙したがその表情に迷いも躊躇いも無い。
「まぁ、期待してるよ‥」
無茶はするなという言葉を飲み込んで半分諦めたような表情で明希は返す。それから暫く二人は無言でお茶の味と香りを楽しんだ。
明希はその後、ミシェルとトニーが戻ってくるのを待って皆をラウンジではなく司令室に呼び出すとミーティングを始めた。そこへバタバタと海が飛び込んできて明希に真っ直ぐ駆け寄り胸座を掴む。
「何だ、もう目が覚めちまったのか?」
「てめぇっ!一服盛ったろ!?」
「油断してる方が悪いんだろ‥」
「その辺にしとけ‥それより先にしなきゃなんない事が有んだろ!?」
二人の言い合いにマリーが口を挟むと海は渋々、明希を離して不服そうに黙り込む。
「んじゃ、とりあえず手に入れた情報から順を追って話すよ‥」
トニーは言うと目の前の画面と床に資料を映し出す。
「今までノーマン・コルティが指揮権を持っていたノアだけど此処、数ヶ月前くらいから異変の兆しはあったみたいだ
新参のジョー・トラスト博士が来てから度々この博士の采配で実験が行われててそれに伴い幾つかの研究施設はこのトラスト博士が実権を掌握していたらしい
本部や大きな研究施設はともかく小さな施設はほぼトラスト博士が実質上のオーナーだと思って良いかもね
今まで俺らが潰してきた施設とその二人の力差体系はこんな感じだよ」
床にある世界地図の映像にそれぞれの研究施設が浮かび上がり二人の力関係の差が表示される。各国で確認されている施設全体の5分の3を潰している。残っている施設の半分弱はノーマンが、残りはトラストの力が及ぶ範囲だった。
「ノーマン博士の直接指揮下にあった施設は内部分裂をしてもう機能していないよ
他の一部の施設もとりあえず表向きの研究はやってるけどエレメンツに関してや人体実験は停止状態になってる
だからこの分は放置しておけるんだけど現状で稼働してる施設は手を打たないと‥
一番、問題が有りそうのはこの二ヶ所‥たいがい研究所を渡り歩いてる職員が多いんだけど此処だけは職員の異動がシャットアウトされてる
二ヶ所ともトラスト博士だけが管理してる施設だよ」
次にトニーは目の前の画面に資料文書を表示した。
「これがシルビア・コルティ博士に提示された研究結果なんだけど実際に俺とミシェルでこの二ヶ所に軽く潜った限りでは提示された資料と同じ研究をしているみたいだった
一ヶ所はトラスト博士の直轄施設でセキュリティーと結界が強くて入り込めない
多分だけど組織に隠れた個人的な研究は此処でしていると思う
それとこれはデータには無かったんだけど他にも別に秘密の施設を持ってるみたいだ」
「そりゃ恐らく英梨香達が今いる所だろう」
トニーが話し終えると明希が口を挟む。
「空間を移動したのではっきりした場所は解りませんが多分この辺りだと思います」
補足するように東條が日本の一部を指した。
「って‥何時の間に行ったんだよ?」
ハッとして海が突っ込むと皆も驚いたように明希と東條を見る。明希は目覚めたばかりで東條は迂闊に此処を動けない、なのにどうしてという思いがはっきり顔に出ていた。
「ちょっと裏技をね‥何はともあれ解った事が幾つか有ります」
東條はそう言うと明希にその先を促すように視線を送る。
「英梨香達は自分達の目的のためにトラストって奴を利用してるって事とトラストも自分の目的のために英梨香達を利用しているそうだ
だが英梨香達にしてみりゃかなり不本意らしい‥トラストとかいう奴の最終目的までは英梨香達にも分からんそうだがヤツはヴァンパイアの血で織彩と同じモノを作り出そうとしているようだと言っていた
英梨香達の目的については教えちゃ貰えなかったがな‥」
「それとこの件に関して私の師も関与しています
師の思惑はどうあれかなり惨い戦いになると思って間違い無いでしょう‥」
明希の後にそう東條が付け足すと皆は静まり返った
「もう一つ情報があるんだがね‥」
そんな中にヒューバートがコツコツ杖を突きながら入ってくると皆はそちらを見る。ヒューバートの後ろにはシルビアがいた。
「ノーマンが死んだ後のノアのCEOに先ほど魔術師でありコーディネーター筆頭だったヴァネッサ・ロットバルトが就任したらしい
ずっと裏方だった彼女が表舞台に出てきたという事は彼女がクーデターの首謀者なのだろう‥立場上、軽率に動けなくなった筈だがその分、こちら側も迂闊に潜り込めなくなってしまった
これからは探り合いよりも直接対決を余儀なくされるかもしれん」
ヒューバートはそれだけ言うとシルビアに少し前に出るよう促す。
「トラスト博士に関して分かっている事は此処数年でいきなり研究者の間で名前が挙がりだした奴だって事くらい‥後は妻子がいたみたいだけど事故で失ったらしいわ
それから二ヶ月前に本部の私設研究室に幼女の遺体を運び込んで何かしていたようよ
誰も研究室に入れず一人で作業していたらしいから何も分からないけど‥その遺体はすぐにベトナムの施設へ移されて以後、消息が分かってないの
もしかしたらそれが新しい実験体なのかもしれないわね」
一歩前へ出るとシルビアは生気の抜けたような顔で説明した。
「ノーマンが死んだ今となっては彼の怨念ともいえるあの組織を葬るのが今の私の使命だと思っている
これ以上、犠牲者を出さない為に今、少し力を貸してくれんかね?」
改めてヒューバートが言うと皆は表情を厳しくして頷く。
「これからは私も協力する‥これ以上、パパに罪は犯させない」
視線を落とすとシルビアが小さく言った。例え自分を愛して無かったのだとしてもシルビアは、死んで尚、ウイルスの如く広がる父親の罪の証を母の為にも消滅させたかった。
「思う所はそれぞれあるだろうが彼女にも力を貸してやって欲しい」
かつて実験体として扱われた明希達に視線を向けるとヒューバートはシルビアの代わりに助力を乞う。三人は当時の苦痛を思い出しながら複雑な表情で小さく頷いた。
その後も細かい事を打ち合わせ、それぞれどう動くかの指針が決まり、ミーティングを終えると各自は早速、行動に移る事になった。