#03 再会(2)
陽光降り注ぐ明るい室内に、まるでお通夜みたいな重苦しい空気がたちこめる。
わたしはベッドの上で半身を起こして、己の手のひらをじっと見つめていた。
「おまえが無事だって聞いて、母さんホッとしてたのよ? それなのに……あんたって子は……」
母親が涙声で呟く。
でも、わたしはと言えば、それに反応するでもなく、ただただ呆然とするばかりだった。
(どういうことなの……?)
手のひらを見つめながら、ぐるぐると考える。
これは一体どういうことなのか。
いくら考えても、さっぱり訳が分からない。
「恐らく脳震盪による一過性全健忘でしょう。こういったケースでは、よくあることです」
深刻なムードの中、医者は妙に明るい声でそう告げた。
だけど、そんな診断下されても。
(そういう事じゃないでしょ、これは……)
周囲に気付かれぬよう、そっとため息をつく。
だって、わたしを取り巻く状況は、そんな病名で片付けられるような事じゃない。
(ほんと訳が分からないよ……)
妙ににこやかな医者を余所に、室内はいっそう重苦しいムードに包まれた。
なんのリアクションもせずに、ムッツリと黙り込んだわたしと。
めちゃくちゃ不安そうな母親と。
「だから覚えていなかったんだね。大丈夫、綾音?」
そして、薄く笑みを浮かべたこの男。
名を《ひかわ》氷川 晃という。
本人と母親が言うに、わたしの従兄らしい。
“らしい”と断りを入れたのは、彼がわたしの従兄だなんて全くの初耳だったからだ。
だって従兄も何も、彼とは今日が初対面のはずなのに!
「あんた、アキちゃんのこと全く覚えてないの?」
「覚えてないっていうか、なんていうか……」
チラと横目で見たら、男が困ったような笑みを向けてくる。
その表情が、なんだかとっても胡散臭く見えるのはわたしだけだろうか?
「まさかとは思ったけど、本当に忘れちゃったのね?」
「いや、だから忘れたっていうか……」
「呆れた! あんたって子は……まずはアキちゃんに謝りなさい!」
「え、謝るって……」
「当然よ。事故にあってアキちゃんに迷惑かけたばかりか、忘れちゃうだなんて! 小さい頃から散々仲良くして貰ってたのに……事故のせいだとしたってね、薄情にも程があるわよ!」
「えっ……仲良くして貰ってた……?」
身に覚えの無い思い出に、わたしは目を白黒させた。
仲良くって……わたしが?
この男と!?
何それ、どういう事!?
「全くあんたって娘は、昔っから抜けてるとは思ったけど。ほんと母さん、アキちゃんに申し訳なくて涙出てくるわ!」
「そ、そんなこと言われても……」
「綾音ッ! あんたね、少しは反省なさい。今日だってアキちゃんが家に居てくれたから病院と連絡がついたものの、そうじゃなかったら、母さん仕事が終るまで事故のこと知らなかったかもしれないのよ? それを、ほんっとにあんたって娘は……!」
「ちょ、ちょっと待って。あの、家に居たって……?」
「何言ってんの! 一緒に住んでるんだから当然でしょう?」
「ええっ、一緒に住んでる!?」
母から告げられた更なる衝撃の事実に、目を丸くする。
っていうか、こんなサプライズ嫌すぎるんですけど!
全身全霊でお断りなんですけど!!
「父さんがロスに単身赴任になっちゃったから、アキちゃんに無理言って来てもらったんじゃない。女二人じゃ心細いからって。あんた、アキちゃんと一緒に住めるって、すごく喜んでたでしょ!?」
「ええっ、喜んでた!? わたし、父さんの単身赴任は覚えてるけど……」
言い淀むわたしを見て、母の目が釣りあがった。
「全く、あんたって娘は! そうそう、父さんにあんたのこと知らせたら大変だったのよ? すぐにでも帰国するって、そりゃもう大騒ぎだったんだから! それをあんたときたら、皆に心配かけて、そんな呑気に……!」
「まあまあ。伯母さん、落ち着いてください」
一気に捲くし立てる母に、男がにこやかに割ってはいった。
「お小言は後でいいじゃないですか。先生のおっしゃる通り、綾音はまだ混乱しているようですし……」
そう言って、やんわりと諭しながら、怒り覚めやらぬ母親に甘く微笑む。
すると、驚いたことに……
あの口煩い母が、渋々ながらも口をつぐんだではないか!
しかも信じられないことに、男に笑みを向けられて、薄っすらと頬まで染めている。
(何これ!? 母さん、どうしちゃったの!?)
わたしは驚きのあまり、ポカンと口をあけてしまった。
だって、こんな母さん初めて見た。
まさか母さんってば、すっかりこの男に手懐けられちゃった、とか?
(氷川、アキ……!)
わたしは男の綺麗な横顔をじっと見つめた。
抜けるような白い肌に、長い睫毛の影が落ちている。
(ほんと、コイツってば一体何者なの?)
氷川といえば、父方の伯母の苗字だ。
アメリカ人と結婚して、現在NYに住んでたはずだけど……
でも、わたしの記憶では、あの伯母さんには子供はいなかったはずなのに。
(それが、わたしの従兄って……どういう事なの?)
存在しないはずの従兄に、存在しないはずの思い出。
しかも、どうやらコイツとわたしは一つ屋根の下で一緒に暮らしているらしい。
わたしの伺い知らぬところで、なにやらおかしな事になっている。
この状況で、ただひとつ言えるのは、その原因が絶対こいつだって事だ。
(どんな手を使ったんだか知らないけど、周りの人間まで巻き込むなんて許せない)
ジッと睨みつけていたら、こちらの視線に気がついたのか、男は面白そうにわたしの顔を見つめてきた。
何その余裕の表情。
舐められてるみたいで、無性に腹が立つんですけど。
こうなったら、わたしだけは絶対に騙されないんだから!
「―― 一過性全健忘、でしたよね?」
気を取り直すと、わたしは努めて冷静に言った。
軽く咳払いをしてから、医者に顔を向ける。
「一過性ってことは、いずれ記憶は戻ってくるってことですか?」
「いえ。戻ってくる場合もありますが、一概にそうとも言えないんですよ」
「そうですか……分かりました」
医者の言葉に心配そうに眉を顰める母を横目に、わたし軽く頷いてみせた。
「ところで、御園さん。吐き気や眩暈を感じますか?」
「いいえ、全く」
「気分はどうですか? なにか思い出せそうですか?」
そう言って、医者がわたしの顔をじっと見つめる。
だけど、思い出せそうもなにも……
記憶に無いのは、アキとかいうこの男のことだけなのだ。
というか、そもそもこんなヤツ、わたしは知らないし!
「いえ、今はまだ」
「そうですか。まあ、翌日には記憶が戻っていた、なんてこともありますから。思い出せなくても、あまり思いつめないで下さいね」
「ありがとうございます。でも、思い出せなくても別にわたしは構いませんから」
その言葉に首を傾げた医者から目を逸らすと、わたしは男へ視線を向けた。
降り注ぐ陽光が、男の艶やかな黒髪に反射してきらきらと光っている。
吸い込まれそうな深い海色の瞳に見つめられて、一瞬怯みそうになったけれど……
でも、絶対に負けるものか!
「なぜって、覚えていない事は何なのか、わたしはきちんと覚えていますから」
わたしは挑むように男に向かって言い放った。
そして、彼を睨み据えながら、グッと奥歯を噛み締める。
すると、敵意丸出しなわたしを見て、男はなぜか心底楽しそうな笑みを浮かべて。
「覚えていない事を覚えてる、か……」
やっぱりあなたは面白い、と。
そう言うなり、彼は声をあげて笑い始めたのだった。