#03 再会
男の指先が、頬を優しく移動する。
まるで壊れ物でも扱うかのように、酷く緩慢な動作で。
やがて頬を逸れると、指はわたしの首筋をゆっくりと辿り始めた。
「綾音」
名を呼ばれ、そっと顎を上げられる。
長い睫毛に囲まれた藍色の瞳。
優雅な曲線を描く唇。
やがて男は、何の反応もしないわたしを見て、微かに眉をひそめたのだけれど。
「……うわああああああ!」
わたしは突然堰が切れたように絶叫した。
男の手を振り払うと、大急ぎで背後の壁にへばりつく。
っていうか、なにこの状況? なにこの展開!?
一瞬、思考がショートっちゃったし!
「な、な、なっ……!」
「綾音、落ち着いて」
「ううううるさいーっ!」
動揺するわたしを見て、男はチラリと愉快そうな笑みを浮かべた。
そして一歩わたしへとにじり寄る。
「なるほど、覚えているわけだ。僕の刷り込みが効かないなんて、あなたは本当に面白い人だな……」
そう呟くと、彼は低く笑った。
羽で撫でられるような、ソフトな笑い声。
でも、わたしとしたら、何がそんなに面白いのかさっぱり分からないわけで。
(何が“なるほど”なの? それに“刷り込み”って!?)
恐怖に耐えながら、わたしは必死で考えを巡らせた。
この状況は、マズイ。
マズすぎる。
さっきは外だったし、少し距離もあったから逃げようがあったけれど、今は狭い病室で、しかもこの距離だ。
逃げようとしても、容易に遮られてしまうに決まってる。
ならば大声で助けを呼ぶ?
いや、それも無理だろう。
この男が居るという時点で、わたしは日常から完全に切り離されてしまっているのだ。
「……なんでここに居るの?」
「綾音……」
「気安く人の名前呼ばないで! 大体なんでわたしの名前知ってるわけ!?」
取り乱すわたしに、男は相変わらず微笑んだままで。
その美しい微笑みが、たまらなく恐ろしい。
「あなた何者なの……?」
そう言いながら、わたしは男に気付かれないように、じわじわと壁に沿って移動した。
こうなったら、一か八か自力で逃げるしかない。
できるだけ距離を取って、ベッドを乗り越えて……
その後は、入り口まで全速力で走ってやる!
「わかった。あなた、やっぱり死神なんでしょ?」
「死神?」
「惚けないでよ。わたしの魂取りに来たんでしょう?」
「僕があなたの魂を? そんなわけないだろう」
男は穏やかに言うと、うっとりするほど優しい笑みを浮かべつつ、わたしに向かって手を伸ばした。
けれど、その目は全然笑っていないわけで。
「触らないでっ!!」
伸ばされた男の手を、わたしはピシリと叩き落とした。
「死神じゃなければ、あんた何なの? 悪魔? 天使!?」
「まさか」
「まさかって……。じゃあ、何? 妖怪とか?」
「どれも違うよ」
男はこちらへゆっくりと近付いてくると、わたしの手首を強く掴んだ。
そして、長い睫毛の向こうから、値踏みするようにこちらを見つめて。
――僕が誰なのか、あなたは知っている筈なのだけれど
直接思考に響く、不思議な声音。
驚きのあまり、わたしは目を見開いて固まった。
「何言ってるの……?」
「聞こえるんだね、綾音」
思わず足が萎えそうになるのを、男の腕に支えられる。
こいつ何言ってるの?
覚えてるって何を?
いや、それよりも……!
「これは、何なの!?」
「綾音、落ち着いて」
「うるさいッ! あんた、一体何者なのよっ!!」
恐怖と怒りがない交ぜになる。
悲鳴のように叫ぶと、わたしは男の手を振り払った。
すると、その時。
「――従兄のアキちゃんでしょッ!」
突然、ヒステリックな叫び声が室内に響き渡って。
驚いて振り返えると、そこに居たのは、今しがた着いたばかりなのだろう、顔を真っ青にしたわたしの母親だった。