#02 白い部屋(2)
確かに怪我をしていた筈なのに、なぜどこにも傷が無いのだろうか?
あの時の出血量からして、すぐに塞がるような傷だったとは思えないし。
それが綺麗さっぱり消えて無くなってるって、どういうこと!?
「御園の勘違いじゃね? よかったじゃん、怪我してなくて」
のほほんと笑う椎名くんを見て、わたしは眉間にシワを寄せた。
「よくないよ。だって、わたしメチャクチャ出血してたんだよ?」
「でも、現に無傷なんだろ?」
「だって変じゃん! こんなのおかしいよ!」
「んなこと言ったってさ、医者が無傷だって言ってるわけだし、御園の勘違いなんじゃねーの?」
「それは無いよ。だって、ちゃんと覚えてるもの。わたし、確かにあの時――」
言いかけた刹那、わたしはハッとした。
頭の中に、“あの男”の姿がまざまざと蘇ってきたのだ。
男の体を取り巻く、眩いばかりの青白い光。
怖いくらいの美貌に、思考へ直接響く不思議な声音。
そして、背中に生えた黒い翼――。
『あなたは死なない』
気を失う寸前に、男がわたしに言った台詞。
もしかして。
わたしの傷がキレイさっぱり消えちゃったのって、あの男と何か関係があるんだろうか?
「そんな……てっきり死神だと思ったのに……」
呆然と呟くわたしに、椎名くんが眉をひそめる。
「おい、御園?」
「わたし……逃げてたの。それで、あせって道に飛び出しちゃって」
「逃げてた……? 逃げてたって、何から?」
「……変な男から」
「変な男って……まさか変質者か!?」
「ち、違うの! そういうのじゃなくて。なんていうか……その人、光ってて」
「はぁ? 光ってる?」
わたしは頷くと、記憶を手繰りながら少しずつ話し始めた。
最初は目の錯覚かと思ったけれど、確かに男が光ってたこと。
そして、その光に追いかけられて、逃げた挙句に車にひかれてしまった事。
「それから……これも、ほんとに驚いたんだけど」
そう言って、わたしは椎名くんに向き直ると更に続けた。
「背中にね、翼が生えてたの、そいつ」
「つばさ? 翼って……鳥とかに生えてるアレ?」
「そう。黒いヤツ」
わたしの言葉に、椎名くんが目を丸くする。
「信じられないでしょ? だってさ、黒い翼だよ? わたし、本当にびっくりしちゃって」
「そ、そりゃそうだろうな……」
「それ見たとき、わたし大怪我してたから、“コイツ絶対死神だ!”って思ったんだ。でも、それは違ったみたい」
「……なんで?」
「だって、ほら……わたし、死ななかったし」
椎名くんに説明しながら、わたしは不思議に思っていた。
あんなタイミングだったし、おまけに翼も黒かったから、てっきり死神だと思ったのに。
だけど、わたしはこうして生きている。
そうなると、あの男って一体何者だったんだろうか?
「死神じゃなかったら……天使?」
やたら光ってたし、と。
腕組みしながらアレコレ考を巡らせる。
彼は瀕死のわたしを救いに現れた天使だったのだろうか?
いや、それはないか。
だって、わたしが事故にあったのって、元はといえばあの男のせいだし。
「なら悪魔とか? 翼も黒かったし……」
思いつく中では、これが一番しっくりくるかもしれない。
ただし、この場合ちょっと引っかかる点がある。
それは、わたしが事故ったときに見せた、あの男の表情だ。
「なんか困った顔してたんだよなぁ……」
ていうか……悪魔って、そんな顔する?
困り顔の悪魔なんて、いまいちピンとこないんですけど。
「死神、天使、悪魔……」
考えれば考えるほど、どれにも当てはまらない気がする。
本当に何なんだろう、あの男は!
普通の人間じゃないことだけは確かなんだけど。
「駄目だ。全然わからない!」
八方塞の状態に、わたしはイラつきながら頭を掻き毟った。
すると、今まで黙ってわたしの様子を窺っていた椎名くんが大きなため息をついて。
「……なあ、御園」
「ん?」
「おまえさ、その……大丈夫なの?」
その硬い声音に、わたしはハタと我に返った。
気が付けば、椎名くんが顔を強張らせてわたしの顔を見つめている。
その表情からは、“こいつヘンだ”って思ってるのがありありと見て取れて……。
もしかして、なんか変な誤解されてる?
というか、なんだかすごーく微妙な雰囲気なんですけど。
「えっ、なんで? もちろん大丈夫だよ!?」
「とてもそうは思えねーけど……」
「いやいや、元気だって! ほんと絶好調だってば!」
笑顔で必死に取り繕うも、椎名くんの表情はますます曇ってゆく一方で。
「そういや御園、頭打ったんだってな……」
「え?」
「もしかしたら、その時のショックで……」
「えっ!?」
「こりゃアレだな。脳震盪的なものによる一時的な記憶の混乱的な、なんかそんな感じじゃね? オレ医者じゃねーから、よくわかんねーけど」
「ええっ、何それ!?」
額に伸びてきた椎名くんの手を、慌てて振り払う。
ていうか、ヤバイ!
完全におかしな方向に誤解されちゃってるし!
「ちょっと待ってよ! 確かに自分でもおかしなこと言ってるって思うけど、わたし本当に見たんだってば!」
「幻覚だろ……」
「そんなんじゃないよ! そいつ、ほんとに光ってたんだって!」
「で、翼まで生えてたんだろ? わかったよ。まぁなんつーか、要は混乱しちゃってんのな、おまえ」
「違うー! 全然わかってない!」
必死で食い下がるわたしに、椎名くんはそっとため息をついた。
少し憐れむような視線が、物凄く痛い。
「でもまあ、アレか……前向きに考えれば、打ったのが顔じゃなくて後頭部でよかったか」
「え……なんで?」
独り言のように呟いた椎名くんに、不安な気持ちで聞き返す。
「少々アレでも、御園なら今更だし……」
「え、なに? 今更って?」
「手前に倒れてたら、御園の顔面凹んでたかもしんねーし……」
「へ、凹む?」
「もともとあって無いような御園の鼻が、これ以上低くなったら、目も当てられねーし……」
「えっ!?」
「見てるこっちが居たたまれねーっつーか、なんつーか……」
「えーっ!?」
あまりの言われようにムッとして睨んだら、椎名くんは深刻そうに見つめ返してきたのだけれど。
――次の瞬間。
「……ぷはっ! おまえ、その顔……!!」
盛大に噴出すなり、椎名くんは大口を開けてゲラゲラと笑いはじめた。
どうやらわたしは、からかわれていたらしく……。
まあ、これっていつものパターンなんだけど。
だから、慣れてはいるんだけど。
でも。
「“その顔”って、なによ!?」
「や、悪ィ……はははっ!」
ちょっと笑いすぎなんですけど!
焼けた肌に、白い歯が忌々しいほど眩しいんですけど!!
慣れているとはいえ、やっぱムカつくんですけどー!!
「椎名くん、ヒドイ!!」
「だけど、さっきより元気になったじゃん?」
「今のって元気付けてたわけ? わたし一応怪我人なのに……」
「御園が変なことばっか言うからさ。事故のせいで混乱してるんだろうけど、そんなの全部幻覚に決まってるって」
「でも、わたし本当に……」
「ハイハイ、その話はもう終わりね」
そう言うと、椎名くんはポンポンとわたしの頭を叩いて椅子から立ち上がった。
「椎名くん、どしたの?」
「御園も元気になったみたいだし、オレそろそろ帰るわ」
「え……もう行っちゃうの?」
「ほら、ゼミの片付けまだやってるかもしんねーし。そのあと、サークルにも顔ださなきゃだからさ」
「……そっか」
いざ病室に一人になると分かると、なんだか急に心細くなってしまって、わたしはちょっと俯いた。
すると、大きな手で髪の毛をクシャッと撫でられて。
「そんな顔すんなって。おまえの母ちゃんに連絡ついたらしいから、そろそろ来るだろうしさ」
オレもまた来るし、と。
そう言って、ニッと笑った椎名くん顔を見て、わたしの心臓の鼓動は一つ飛んだ。
気心知れた友人だけに見せる、子供みたいな、びっくりするくらい人懐っこい微笑み。
椎名くんは、結構モテる。
それはやっぱりこの笑顔のせいだ。
屈託の無い、相手に対する好意全開のこの笑顔。
そしてわたしはこの笑顔に参っちゃってる女の子を何人も知っている……。
「じゃ、またな。元気出せよ!」
ニコニコしながら手を振られたので、つられて振り返す。
足取り軽く去ってゆく椎名くんの後ろ姿を見送ると、わたしはそのまま枕に倒れこんでしまったのだった。