#02 白い部屋
……どこか遠くで、声がする。
わたしを呼ぶ声が。
『綾音……』
暗く甘く響く、まるでビロードのような心地よい声音。
こんなにも優しいのに、絶対に逆らう事の出来ない不思議な響き。
『綾音』
綺麗な弧を描く、その唇。
男の長い指が、わたしの頬を包み込む。
その手のひらの感触も、わたしの名を呼ぶ声も、なぜかとても懐かしくて――。
「……御園!」
出し抜けに苗字で叫ばれて、わたしはパチッと目を開けた。
その瞬間、まず目に飛び込んできたのは、見知らぬ白い天井に白いカーテン。
そして同じく見知らぬベッドの上で、わたしは今まで眠っていたらしい。
そんな中、唯一見覚えがあったものはといえば……超どアップの、精悍な顔立ち。
「あれっ、椎名くん!?」
わたしは驚きの声をあげた。
大学で同じゼミに籍を置く椎名 祐樹が、なぜか覆いかぶさるようにしてわたしの顔を覗き込んでいたのだ。
「なんで? どうしたの、椎名くん」
「どうしたのって、おまえなあ……」
わたしの言葉に、椎名くんがガックリと肩を落とす。
「御園が事故ったからだろ……」
呆れたように言うと、彼は背中を丸めてハァと深いため息をついた。
そうか。
そういえばわたし、車に轢かれたんだっけ……。
なんか、すごく寝ぼけたこと言っちゃったし。
「じゃあ、ここって病院……?」
わたしは体を起こすと、しげしげと辺りを見回した。
備え付けのサイドボードに、小さなクローゼット。
部屋の片隅には、来客用のパイプ椅子が重ねて置いてある。
わたしが運び込まれた病室は、大部屋ではなく小ぢんまりとした個室だった。
「おまえさー、事故んなよなぁ。オレ、マジびびったし……」
「ご、ごめん。でも、どうして椎名くんがここに?」
「ああ。御園が運び込まれてきた時、偶然居合わせてさ。大学行く前に、オレ、ちょっとここの病院に用があったから」
その言葉に、自分も大学へ向かう途中であったことを思い出す。
「で、用事も済ませたし帰ろうと思ったら、救急車がきてさ。運び込まれてきたの御園じゃん? すげービックリした」
「……そうだったんだ」
なんだかどっと疲れてしまって、枕に体を預ける。
すると、椎名くんはちょっと心配そうにわたしの顔を覗き込んできた。
「具合どうよ?」
「うん。特に痛いところとか無いし、今のところは平気」
「そうか、よかった」
「それより……なんか迷惑かけちゃったみたいで、ごめんね」
少し落ち込みつつ謝ったら、大きな手で髪を撫でられる。
……そして。
「迷惑っつーかさ。オレ、すげー心配したから、おまえが無事でめちゃくちゃ嬉しいし!」
満面の笑みで言われて、わたしは思わず赤面してしまった。
だって、こんな笑顔でストレートに言われちゃうと、妙に照れちゃうわけで。
そういえば、まえに誰かが椎名くんのことを“仔犬みたい”って言ってたっけ。
(この笑顔が罪作りなんだよなー)
彼に髪の毛をクシャクシャにされながら、わたしはちょっと複雑な気分だった。
そう。
椎名くんは、結構モテる。
(まあ、見た目が良いっていうのもあるんだろうけど)
贅肉の無い引き締まった身体に、精悍な顔立ち。
でも、決定打は、なんと言ってもこの笑顔だ。
黙っていればクールな外見なんだけど、それを見事に裏切る子供みたいに無邪気な笑顔。
このギャップにやられて、しかも完全に誤解しちゃってる女の子を、わたしは何人も知っている。
なのに、当の本人は全く気付いていないのが恐ろしい。
「……椎名くん、日に焼けたね」
わたしは目を細めて彼を見た。
小麦色の肌に、ちょっと脱色した髪が良く似合ってる。
「ああ。海行ってたんだ」
「海?」
「そ。野郎ばっかで、サーフィン三昧。侘しいだろ?」
スゲー焼けたんだぜ、と言って、椎名くんはTシャツの袖を肩までまくって見せた。
肩の付け根あたりが、バニラとチョコの二色アイスみたいになっている。
「サーフィンかー。だからそんなに焼けてるんだ」
「まーね」
「久しぶりに会ったら、なんか黒くなってるからビックリした」
「それ言うなら御園の方がビックリじゃん? 久しぶりに会ったかと思ったら、救急車で登場なんだもんなー」
噴出すように笑われて、少しムッとする。
「笑うなんてヒドイ……」
「ははっ、悪い。でも、ほんと驚いたからさ。つーか、おまえ車の前に飛び出したんだって?」
「えっ、なんで知ってんの!?」
「看護婦のお姉さんが話してた。つーかさ、急に飛び出すとか、おまえ小学生以下だろ? 呆れるっていうか……なんか悪いけど、御園らしくて笑った」
その言葉に、ますます顔をしかめると、椎名くんはとうとう肩を震わせて笑い始めた。
「やっぱヒドイ。ていうか、そんなところで自分らしさとか演出したくないんですけど……」
「御園が悪いんだろ。おまえさ、道渡るときはちゃんと左右の確認くらいしろよな? 手ェあげて渡れとは言わないからさ。マジ大怪我なんてことになったらシャレになんねーし」
「う……。すみません、以後気をつけます」
「ほんと、気をつけろよ? ま、今回は奇跡的に怪我が無かったから良かったけどさ」
ほんと運が良かったよなー、と椎名くんはニッと笑ったのだけれど。
その言葉に、わたしは思わず首を傾げてしまった。
だって……わたしが無傷って、どういうこと?
事故ったとき、かなり出血してたと思うんだけど……。
「ねえ、椎名くん。担ぎ込まれた時、わたし怪我してたでしょ?」
戸惑いながら聞いたら、椎名くんは眉をひそめてわたしを見た。
「まさか……おまえ、どこか痛むのか?」
「ううん、そうじゃなくて。わたし、事故ったとき出血してたから、無傷ってことはないと思うんだけど……」
「でも、医者は無傷だって言ってたぜ?」
「ええっ、そんな筈ないよ。椎名くんの聞き違いなんじゃないの?」
変な顔をされたので、恐る恐る自分の後頭部を手で探ってみる。
すると、椎名くんの言うとおり、あるはずの傷はどこにもなくて……。
「なにこれ……どうして!?」
驚きのあまり、わたしは思わず大声をあげてしまった。