#08 二つの海(4)
不意に辺りが暗くなり、濃厚な潮の匂いが鼻を突く。
驚いて目を見開いた刹那、足元から無数の泡が立ち上り、視界が遮断されてしまう。
悲鳴を上げるも、その声は荒れ狂う波の音にかき消されて……。
気が付けば、わたしは独り、紺青の海を漂っていた。
口の中に感じる塩の味。
まるで何かに導かれるかのようにして、光の差さぬ水底へと、わたしの身体はどこまでも落ちてゆく。
(御園)
遠くでわたしを呼ぶ、耳馴染んだ声音。
不意に暗闇から伸びてきた大きな手に腕を掴まれ、抱き寄せられる。
(ずっと、一緒に……)
鼻先で、少し色の抜けた髪の毛が、まるで海草みたいに揺れている。
鉤裂きになった黒いウエットスーツ。
折れてしまったサーフボード。
わたしの身体に回された腕には、長い携帯のストラップが巻きついていた。
(あの日……椎名くん、携帯持って海に出たんだ)
見覚えのある携帯を眺めながら、わたしはぼんやり思い巡らせていた。
そう、あの日。
季節外れの大型台風が吹き荒れた、あの日。
椎名くんは海に出て、そのまま帰らなかった。
沖に流されそうになった友達を助けに行ったのだ。
遺体が見つからなかったため、祭壇に安置された棺の中は空っぽで、白菊に囲まれた遺影に向かって、椎名君に救われた男の子が土下座して謝っていたのを覚えている。
おまえから止められたのに、海に出た俺が馬鹿だった。
おまえが死んだのは俺のせいだ、と。
(このまま、わたしも死んでしまうんだろうか……)
抱き寄せられるがまま、彼の胸に顔を埋めて、ゆっくりと目を閉じる。
すると瞼の裏に浮かんできたのは……こちらを見つめる明るい薄茶色の瞳。
女の子達を誤解させる、子供みたいに無邪気な笑顔。
その優しい眼差しも、ふざけてわたしの髪をくちゃくちゃにする暖かくて大きな手も。
本当に……全部、全部、大好きだったのに……!
「――放して!!」
弾かれたように顔を上げると、わたしはその手を拒絶した。
そして、最後の力を振り絞って海底を蹴ると、水面へ向かって手を伸ばす。
(御園)
「お願い止めて! こんなの嫌!」
(どうして。何でだよ、御園)
「だって、わたし……友達に殺されたくないよ……!」
悔しくて、悲しくて、涙で顔がぐちゃぐちゃにしながら、尚も引き止めようとする椎名くんの腕を振り払うと、わたしは無意識の内に大声で叫んでいた。
今まで決して呼ぶことの無かった、あの男の名を。
「――アキ!!」
絶叫した瞬間、わたしの額に刻まれた印から眩いばかりの光が溢れ出た。
驚き立ち竦むわたしの目の前で、水底の闇が見る間に払われて、足元から立ち上る無数の泡が白い花びらへと変わってゆく。
青白い光の波は、そのまま途切れる事無く溢れ出て、椎名くんを遠くへ押しやる一方で、わたしを保護するように取り囲んだ。
全てがあまりに突然で、思考が付いてゆかずに呆然と立ち尽くす。
すると、やがて背後から人の気配がして。
「綾音……」
まるでビロードのような心地よい声音。
安堵のあまり、その場に座り込みそうになったところを、後ろから抱きとめられる。
「ア、キ……?」
確かめるように名を呼ぶと、わたしはのろのろと振り返った。
細面の輪郭に、滑らかな白い肌。
青白い光の中で、艶のある黒髪が濡れたように光っている。
不思議な輝きを放つサファイアの瞳。
その瞳に怒りの色が浮かぶのを見て、わたしはゆっくりと瞬きした。
「まったくあなたという人は。もう少し早く僕を呼ぶべきだ」
その厳しい目つきや口調とは裏腹に、優しく頬を撫でられて。
わたしはため息を吐くと彼の胸に顔を埋めた。
「間に合ったからよかったものの、僕は危うくあなたを失うところだった」
「ご、ごめんなさい……」
「理解してもらえるまで、何度でも言うけれど。契約を交わした以上、あなたは僕のものなんだ。それがどういうことなのか……あなたはここで見ているといい」
ぞっとするほど冷淡な口ぶりに、わたしは慌ててアキを仰ぎ見た。
すると、彼は意外にもその顔に微笑みを浮かべていて。
「椎名祐樹。やはり、おまえはあの時始末しておくべきだった」
冷ややかに言い放つと、アキはゆっくりと椎名くんに向き直った。