#07 潮 騒(5)
如月ゆりの頬を、涙が伝い落ちてゆく――。
声も出さずに泣き続ける彼女を前にして、わたしはただ呆然としていた。
(椎名くんが、わたしのこと……?)
フリーズしそうな頭で考える。
だって、いきなりそんなこと言われても。
(そんな。てっきりわたしの勘違いだと思ってたのに……)
突きつけられた事実に困惑する。
椎名くんのことが、「好き」か「嫌い」か選べって言われたら、もちろん「好き」だ。
だけど、それが恋愛感情なのかはハッキリしなくて。
(もともと椎名くんとわたしの関係ってすごく曖昧だったし……)
友達以上かもしれないけど、恋人未満ともいえないような――そんなふわふわした微妙な関係。
だけど、それが妙に居心地良くて、わたしは無責任にも“こういう気楽な関係もいいな”なんて思ってた。
でも、彼女は違う。
彼女は椎名くんのことが好きなんだ。
本当に本当に、大好きなんだ。
それなのに、中途半端なわたしのせいで、彼女は涙を流すばかりか、こうして頭まで下げている。
いくら知らなかったとはいえ、こんなことさせてしまった自分に嫌気が差すし、腹が立つ。
だけど、彼女のために、今わたしに何が出来るというのだろう?
(わたしが慰めるのもおかしいし……)
だって、これっていわゆる三角関係ってヤツだろうし、と。
アレコレ考えながら、自分の置かれた微妙な立場に、わたしはほとほと困り果ててしまった。
すると、その時。
「僕に紅茶のお代わりを」
重苦しい沈黙を破った涼やかな声に、わたしはハタと我に返った。
ビックリして横を見れば、彼が軽く手を上げてウェイトレスを呼び止めている。
ていうか、なんで今?
このタイミングでしれっとお代わりとか、意味が分からないにも程があるんですけど!
「……何やってんの!?」
「ああ、少し喉が渇いたから。あなたも紅茶でよかった?」
「えっ、わたし? わたしはアイスコーヒーの方が……って、ちがーう!!」
いつもの癖で、思わずノリツッコミしちゃったけど、ホントなんなんだ、この男は!!
勝手について来たうえ、空気読めないとか最悪なんですけど。
ほら、彼女だって呆れてこっち見てるじゃん!
「というか、なに勝手に頼んでるわけ? 信じられない!」
「ああ、これは失礼。如月さん……だったよね? 君はどうする? 紅茶で良かった?」
「そーゆーことじゃなくて! 空気を読んでよ、空気を!」
更に突っ込むも、彼はちょっと肩を竦めただけだった。
そして、小さくため息をつくと、瑠璃色の眼差しで如月ゆりをじっと見つめて。
「綾音はこう言っているけれど、君も喉が渇いただろう? 沢山泣いたし……ね?」
穏やかに言うと、彼はうっとりするような微笑を浮かべた。
すると、驚いたことに……彼女がピタリと泣き止んだではないか!
なにこれ、なんてイリュージョン?
なんか負けた気分なんですけど……。
「自己紹介がまだだったね。僕は氷川晃」
「あっ……わたし、ゆりです。如月ゆりっていいます。あのう、失礼ですけど、氷川さんは……?」
口ごもった如月ゆりに、彼はちらりと微笑んだ。
「僕と綾音はね、いとこ同士なんだ」
「いとこ同士?」
「そう。いとこ兼、幼なじみ。君たちの関係ととても良く似ているね」
「祐ちゃんとわたしの……そう、ですね」
如月ゆりはひっそり呟くと、やがて寂しげな表情で頭を振った。
「ううん。わたしと祐ちゃんは……氷川さん達とは違います。全部わたしが悪いんですけど……」
表情を曇らせる如月ゆりを見て、わたしの胸はズキリと痛んだ。
こんなにも健気で可愛くて、しかも小さい頃から椎名くん一筋なのに。
もしかして、あの一件のせいで喧嘩でもしてしまったのだろうか――。
そう思ったら居ても立っても居られなくて、お節介とは思いつつも、わたしは思わず聞いてしまった。
「椎名くんと喧嘩したの? それとも何か言われた、とか……?」
「いいえ。祐ちゃんは……何も。おまえを責めるつもりはないし気にするな、とは言われましたけど」
「じゃあ椎名くん怒ってなかったんだ。良かったじゃない」
わたしの言葉に、如月ゆりが力なく首を振って項垂れる。
「でも、祐ちゃんすごく落ち込んでて……。怒らないからこそ、逆にわたしも申し訳なくて。結局わたしからは何も話せないまま……」
「話せないって……まさか、わたしと会った日からずっと?」
「はい。でも、もういいんです。自業自得ですし、今更どうしようもない事ですから。祐ちゃんには謝れないけど、こうして御園さんにちゃんと謝れただけで、わたしはもう……」
「そんな……ちゃんと仲直りすればいいのに」
そう言ったら、如月ゆりは弾かれたように顔をあげた。
長い睫毛に縁取られた、黒目がちな目。
こちらへ向けられた眼差しが、あまりにも虚ろで、ぞっとする。
「――もう止めた方がいい、綾音」
彼に優しく腕を撫でられて、わたしは我に返った。
気遣うようにこちらを見つめる、深い瑠璃色の瞳。
その目が、これ以上踏み込むなと言っている。
(確かに、こんなの出すぎた真似だし、大きなお世話だろうけど……)
でも。
こんなにも傷ついている彼女を放っておけないし。
自分も関係していることなのに、見てみぬふりなんて、わたしには出来ないし。
「あの……もしよかったら、なんだけど」
意を決すると、わたしはテーブルに身を乗り出した。
「わたしから椎名くんにメールしてみようか?」
「え……?」
「こういうのって、きちんと話し合った方が良と思うんだ。時間が経つと余計に拗れるものだし」
そう言って、わたしがバッグから携帯を取り出したら、如月ゆりが目を見開いた。
そして、次の瞬間、彼女が怒りに顔を歪める。
「御園さん、なに言ってるんですか?」
「ご、ごめんね。わたしが口出しする事じゃないって分かってる。だけど椎名くんなら話せばきっと――」
「それ……本気で言っているんですか?」
「え? わたしは、そのつもりだけど……?」
「そのつもりって!? あなた、わたしのこと馬鹿にしてるんですか!?」
「そんな! 馬鹿にしてるなんて、わたしは……!」
「さっきから祐ちゃんと話すとか、連絡取るとか……そんなこと、出来るわけないじゃないですかっ!」
「ええっ、なんで!? と、とにかく落ち着いて?」
興奮した彼女を宥めつつ、わたしは携帯を開いた。
真っ黒なディスプレイを見て、慌てて起動ボタンを強く押す。
取り乱す彼女を見ていたら、妙に胸がざわついてくる。
何ともいえない嫌な気持ちが喉元まで競りあがってきた。
――突然わき上がる、純粋な恐怖。
無性に椎名くんの声が聞きたくて、わたしは何度もボタンを押した。
でも……どのボタンを押しても画面は黒いまま、携帯は一向に反応しなくて。
「そっか……昨日の夜から、ずっと充電切れてたんだったっけ……」
惚けたように呟いたら、耳元でパチンと乾いた音が鳴り響いた。
続いて聞こえてきたのは、「ふざけないでよッ!!」 という如月ゆりの怒鳴り声。
そして、困惑した店員の声と。
でも。
じんじんする頬の痛みも。
如月ゆりの怒鳴り声も、周囲のざわめきも。
何もかもが、今のわたしにはどうでも良いことだった。
(そうだったんだ……)
ようやく悟った事実に、呆然とする。
今朝方、携帯の電波が入りにくかったのは。
あの時、電話口から聞こえてきた音は、雑音なんかじゃなくて――
「潮騒の、音だったんだ……」
かすれ声で呟いたら、彼の腕が伸びてきて、優しく抱き寄せられる。
足早に去ってゆく如月ゆりの後ろ姿が、彼の肩越しに滲んで見えた。
「そう、か……」
呻く様につぶやいて。
そのまま肩に顔を押し付けると、わたしは声を殺して泣き始めた。