#07 潮 騒(4)
喫茶室の片隅で、アイスコーヒーのグラスが汗を掻く。
口を付けないまま、氷が解けて二層になってしまった液体を見て、わたしは内心ため息をついた。
『お話したいことがあるんです』
そう言って、あの場からわたしを強引に連れ出したこの少女――如月ゆりは、ここまでの道すがら二言三言話したきり、何やら思いつめた顔でずっと黙りこくっている。
先程チラっと聞いたところによれば、椎名くんの母親のお見舞いに来たらしいのだが、何故わたしを呼び止めたのかは良く分からない。
一方、ヤツはといえば、わたしの隣で優雅に足を組んでティーカップを傾けている訳だけども。
てか、なんでココに居るんだ、おまえは!!
(ついて来るかなー、普通……)
イライラしながら見ていたら、ヤツに笑みを向けられて慌てて目を逸らす。
まあ、いいよ。
あの状況から抜け出せただけでよしとしよう。
それよりも……彼女の言ってた“話”って、一体何なんだろう?
急かすつもりはないけれど、さっきからずーっと黙って下向いてるから、気になるし。
(やっぱり、また椎名くんのことかな……?)
すっかり薄くなってしまったコーヒーを一口すすると、わたしはチラリと如月ゆりの様子を盗み見た。
白く、ほっそりした首筋。
綺麗に切りそろえられた黒髪が、顎のラインで揺れている。
彼女と会うのは、これで二度目だ。
初めて会ったのは、前期試験の最終日だったから、かれこれ一ヶ月以上前になるけれど、あの時は本当にビックリした。
――わたし、如月ゆりっていいます。祐ちゃんの……ううん、椎名祐樹のカノジョです!
きっと、わたしが一人になるのを見計らっていたのだろう。
もの影から飛び出してきて、わたしの事を呼び止めるなり、彼女はそう宣言したのだった。
他にもいろいろ言われた気がするけれど、なにしろ突然のことだったから、あまりよく覚えていない。
(確か……椎名くんに付き纏うな、とか?)
あなたのこと迷惑なんです、とか。
そんな事を次々と早口で捲くし立てられたけれど、どれもこれも身に覚えが無いことだったし、おまけに支離滅裂で、あの時のわたしはただ戸惑うばかりだった。
(なんだかなぁ……)
気付かれぬよう、そっとため息をつく。
また呼び出されたってことは、椎名くん、彼女と上手くいっていないのだろうか。
そういえば、彼女、前に見たときよりも明らかに痩せてるし。
これってダイエットしたっていうよりも、なんだか病的で、見ていて少し痛々しいような……
「……御園さん」
「はいっ!?」
突然、如月ゆりに名を呼ばれて、わたしはピョンと飛び上がってしまった。
恐る恐る顔を向けたら、潤んだ瞳でジーッと見つめられる。
「あの、わたし……」
「え?」
「わ、わたし……」
「う、うん」
「わたし……あなたに謝らなきゃいけないことがあるんですっ!」
そう言うなり彼女が頭を下げたので、わたしは驚きのあまり目を丸くした。
そんなイキナリ謝られても……訳分からないし、ちょっとビックリだし。
「なんで謝るの? この間のことだったら、わたしは別に気にしてな――」
「そうじゃないんです。違うんです!」
「違う?」
「はい。わたし……御園さんに、嘘吐いてました。わたし、祐ちゃんのカノジョなんかじゃなかったんです!」
ごめんなさい、と。
声を震わせながら謝ると、彼女の瞳から涙が溢れた。
「祐ちゃんの家とは親戚で……家が近かったのもあって、子供の頃から家族ぐるみの付き合いで。わたし達、幼なじみなんです」
やがて、如月ゆりがポツリポツリと語り始めたのは、彼女と椎名くんとの思い出だった。
物心ついた頃から、椎名くんから妹みたいに可愛がられたこと。
大きくなったら結婚しようねって、二人で約束したこと。
「小さい頃から、わたし、祐ちゃんのことが大好きだった……」
そして、時は流れて。
中学生になる頃には、椎名くんってやっぱモテて、いつも付き合ってる女の子がいたこと。
だけど、椎名くんはデートするよりも、男友達とつるんで遊ぶ方が好きだったから、どの娘とも長続きしなかったこと。
そして、付き合っている女の子よりも、椎名くんはいつだって自分を優先してくれたこと。
だから、自分だけは特別なんだって思ってたこと。
でも。
大学生になってから、椎名くんは変わってしまった……。
「変わった?」
わたしの言葉に、彼女は静かに頷いた。
「いつからか……御園さんの話ばかりするようになって」
「へ? わたし?」
「あなたが教授の資料を間違って捨てちゃって怒られてた、とか。ゼミの飲み会で、酔っ払ったあなたがずっと笑い転げてた、とか……」
「なんか……それだけ聞くと、わたししょーもない人間みたいなんですけど……」
わたしが口を尖らせたら、如月ゆりは寂しそうに笑って。
「新しく付き合いはじめた人なのって、わたし、祐ちゃんに聞いたんです。そうしたら違うって。どうしたら良いか分からないんだって言うんです」
「え……」
「祐ちゃん困ったみたいに笑うんですよ。わたし、祐ちゃんのあんな顔見たの初めてで……だから、すごく焦っちゃって」
「そんな……」
「だからって嘘吐くなんて最低だし、今更謝っても遅いですけど……本当に、ごめんなさい」
そう言って、頭を下げた彼女は、こちらまで胸が苦しくなるような、とても切ない顔をしていた。