#01 光る男(2)
早く、早く。
出来るだけ早く遠くへ。
男から逃れるために、無我夢中で朝の人混みを掻き分ける。
ぶつかって迷惑そうに睨まれたりもしたけど、そんなの構っていられない。
だって、あんなのと係わりたくないし。
捕まったら最後、何されるか分からないし!
(早くここから離れないと……!)
恐怖心に突き動かされて、わたしはひたすら人の流れに逆らって前進しつづけた。
何はさて置き、今は早急にここから立ち去ることだ。
幸いにして男が追ってくる気配は無い。
ラッシュ時の駅前は大勢の人でごった返していて、思うように先へ進めないけれど、それを逆手にとって人波に紛れ込んでしまえば、男の方で勝手に見失ってくれるかもしれない。
(あとは駅へ逃げ込んじゃえば、きっとなんとかなる!)
大学へは次の駅からタクシーで行くことに決めて、地下鉄までの道のりを戻る。
ようやくロータリーの混雑を抜けたところで、わたしは少し歩調をゆるめた。
地下鉄の入り口はもうすぐそこだ。
(よかった。逃げ切った……!)
ここまでくればもう大丈夫。
そう思って、わたしはホッと胸を撫で下ろした。
――だけど。
その考えは、甘かったらしく……。
「えっ……!?」
小さく叫ぶと、わたしは咄嗟に立ち止まった。
目の前を、まるで行く手を阻むかのように、いく筋もの青白い光が横切ったのだ。
反射的に振り返る。
すると、信じられないことに、あの男の光がこちらへ向かって波のように押し寄せてくるではないか……!
「うそッ、何あれ!?」
余りのことに立ちすくんでいるうちにも、あっという間に青白い光の渦に取り巻かれて、わたしは腰が抜けそうになってしまった。
光の中心で、あの男が無表情にわたしを見ている。
深い瑠璃色の眼差し。
人目を奪う、凄絶なまでの美しさ。
あんなの絶対人間じゃない。
ていうか、普通の人間だったらこんな離れ業が使えるはずがないし!
(ヤバイ! 下手したら殺される……!!)
完全にパニック状態になったわたしは、男の発する光から逃れようとして、必死で身を翻したのだけれど。
――綾音!
頭の中で、男の声が大音量で響き渡った。
それと同時に、体に激しい痛みが走る。
強い衝撃を受けて、そのまま地面に叩きつけられた刹那、視界の端にタクシーのボンネットが見えた。
「女の子が轢かれたぞ!」
「出血してる! 救急車を呼べ!」
途端に周囲が蜂の巣を突付いたような騒ぎになった。
どんどん人が集まって来て、倒れているわたしを取り囲み、口々に何か叫びはじめる。
励ますような声や心配するような声、それから女の人の悲鳴。
だけど、その喧騒が、今のわたしにはやけに遠く感じて――。
(……なんか、寒い)
アスファルトに赤い血溜まりが広がるのを見て、わたしは少し咳き込んだ。
頭が割れるように痛いけど、本当に割れてるのかもしれない。
急激に体温が失われていくのを感じる。
それに、なんだかものすごく眠い……。
(わたし、死ぬのかな)
得体の知れない男に追い掛け回された挙句に、車に轢かれちゃうなんて。
人間って、こんなにあっけなく死んじゃうんだ。
なによこれ。
わたし、馬鹿みたいじゃん。
(なんか、ついてないなあ……)
半ば他人事のように考えつつ、徐々に意識が遠のいてゆくのを感じて、わたしはゆっくりと瞼を閉じた。
――と、その時。
「眠らないで」
思考に響いたのと同じ、暗く甘い声音。
薄く目を開けたら、驚いたことに、あの男が覆いかぶさるようにしてわたしを覗き込んでいた。
目が合った瞬間、“捕まった”とは思ったけれど、不思議と恐怖感は無かった。
それは多分、男が少し困ったような、わたしを気遣うような、そんな顔をしていたせいだろう。
とは言え、間近で見るその顔は、ますますもって背筋が凍るほどの美しさではあったけれど。
「綾音……」
名を呼ばれ、長い指で頬を優しく包み込まれる。
鈍く光るその手のひらが、とても温かい。
さっきまであんなに怖かったのにも係わらず、わたしは奇妙なことに男の光に安らぎを感じていた。
なぜだろう、と思う。
その手のひらの温かさも、光も、安らぎも。
「……なんで光ってる、の……?」
かすれ声で囁いたら、男は目を丸くした。
そして、探るようにわたしの目をじっと見つめて。
「綾音には、この光が見えるの?」
その問いかけに、わたしは答えようとしたのだけれど、声が出せずに――。
わたしを取り囲む人垣の向こうの、抜けるような青い空。
それを覆い隠すように男の背から広がったものを見て、わたしは息を呑んだ。
それはまるで闇夜のような美しい漆黒の翼。
男は大きく翼を広げると、周囲の喧騒から守るかのように、ふんわりとわたしを包みこんだ。
そして、ポカンとしているわたしを優しく見つめて、
「あなたは、死なない」
妙にキッパリと、そう宣言したのだけれど。
……でも。
光る身体に、背中に生えた黒い翼。
そりゃ鎌こそ持っていないけれど、今わたしが置かれた状況を考えれば――思いつくのは、ただ一つ。
(どう考えても、死神じゃん!!)
ふざけんな、このやろー!と。
最後の力を振り絞り、男に向かって悪態をつくと、わたしは敢え無く意識を手放してしまったのだった。