#07 潮 騒(2)
「あなたに許しを乞うためならば、僕はあなたに跪こう」
突然の展開に目を見開く。
片膝を立てて身を屈め、こちらを見上げる彼を見て、わたしは呆気にとられていた。
まさか、こんな行動に出るなんて思ってもみなかったのだ。
「あなたが微笑んでくれるなら、僕はこの場に額づくことも厭わない」
彼の澄んだ声が、病院のロビーに響き渡る。
気が付けば、辺りは水を打ったように静まり返っていて、わたし達は周囲の視線を集めていた。
ちょっ、なにこの状況?
恥ずかしすぎるんですけど!
「なっ、なに? イキナリどうしちゃったの!?」
「見ての通り、あなたに許しを乞うている」
「何それ……こんなところで止めてよ!!」
慌てて立ち上がらせようとするも、頑として聞き入れようとしない彼に、わたしは狼狽えた。
謝るのは良いけれど、どうしてこうなっちゃうわけ?
いきなり跪くとか極端すぎるし……!
「愚かな僕を許してくれないか……」
低く言うと、彼はわたしの手を強く握りしめた。
青ざめた顔。
まるで何かに耐えているかのような瞳。
形の良い唇が幽かに震えている。
その思いつめた様子に戸惑っていたら、彼は酷く神妙な面持ちでわたしの手に顔を近づけてきた。
「なに、を……」
「見ての通り、あなたに謝罪の口づけを」
くぐもった声。
やがて唇を離すと、彼は名残惜しそうに親指の腹でわたしの手の甲を撫でた。
「それから、これは服従のキス」
そして、もう一度手の甲にキスが落とされる。
ゆっくりと、まるで味わうかの様なキスに、わたしは思わず息を呑んだ。
次第に熱を帯びる唇の感触に動揺しながらも、震える手をなんとか引き抜こうとする。
本当に何なんだ、この男は。
こんな場所で信じられない!
「手、放してっ……!」
「嫌だね。あなたが“イエス”と言うまで放さない」
わたしの願いを優しく拒むと、彼は掬い上げるようにこちらを見つめた。
長い睫毛の奥の瑠璃色の瞳。
その頑なな眼差しに、わたしはすっかり困り果ててしまった。
(ここで許しちゃうのも、負けたみたいで悔しいし……)
とは言え、ロビー中の人々が、いまや興味津々でこちらの様子を窺っているのだ。
こんな中、盛大に言い争って見世物になるのはゴメンだし、かといって逃げ出そうにも手を取られてしまっているからそれも無理なわけで。
つまりは、わたしはいつの間にやらにっちもさっちも行かない状況に追い込まれてしまったのだ。
それもこれも……全てコイツが暴走しちゃったせいなんだけど。
「なにこれ。新手の嫌がらせ?」
「嫌がらせだなんて、酷いな……」
嫌味を言っても、しおらしく返されてしまい、どうも調子が狂ってしまう。
でも、こんな顔されたからって折れるもんか。
どんな手を使おうが、もう騙されるかって感じだし。
「酷いのはそっちじゃん。ちょっと大げさに謝れば、わたしが許すとでも思ったわけ?」
「まさか。僕は真摯な気持ちであなたに謝罪を」
「そんなの信じられない。これだって、どうせわたしの事からかって面白がってるだけなんでしょう?」
「それは……」
言葉に詰まった彼を見て、わたしは内心“ほら、やっぱり”と思ったのだけれど。
「楽しんでいることは……否定しないよ。僕はあなたの声が聞きたかったから」
「え?」
「昨夜から、あなたはずっと口をつぐんだままだったろう? でも今は……」
――こうして会話している、と。
彼が控えめな微笑を浮かべたのを見て、わたしは呆然とすると同時に、胸がズキリと痛んだ。
だって、気付いてしまったのだ。
なぜ彼がここまで必死になるのかを。
(彼には、わたししか居ないんだ)
そう。
この世界で、彼の置かれた状況を知っているのはわたしだけ。
わたしの他には誰も居ない。
(いくら変な力とか使えても、やっぱ不安だよね……)
たしか、元に戻る為にわたしの存在が必要だとも言っていた気がするし。
うな垂れてしまった彼の旋毛をしみじみと眺めながら、わたしは少し彼に同情していた。
勝手に印を付けられたのは頭にきたけれど、彼なりに必死だったに違いない。
「……もう、いいよ。分かったから」
小さくため息を吐く。
すると、彼はゆっくりと顔を上げた。
「分かったって――それはどういう意味?」
「あなたの、気持ちが」
呟くように言ったら、彼は目を見開いた。
「それは……僕の謝罪を受け入れてくれるということ?」
「うん。ただし、もう二度とあんなことしないって誓ってくれれば、だけど」
「誓うよ、綾音。だから僕に言ってくれないか……イエスと」
「……イエス」
乞われるままに言ったら、彼は素早く立ち上がるなり、満面の笑みでわたしをギュッと抱きしめてきた。
苦しかったので身を捩ったら今度は顔中にキスされる。
そんな彼の行動に戸惑いつつも、『よほど不安だったのかなぁ』などとわたしがしみじみと考えていたら。
「おめでとう!」
「よかったわねぇ!」
突然、大きな歓声と共に割れんばかりの拍手が巻き起こり。
驚いたわたしは、思わず硬直してしまったのだった。