#07 潮 騒
病院のロビーは朝早くから診察待ちの人々で混雑していた。
待つ人々の顔ぶれは、大きな総合病院らしく、子供連れの女性や老人、出勤途中らしきサラリーマンと様々だ。
そんな中、わたしは医者との面談を終えると、鬱々とした気分で診察室を後にした。
気が塞いでいるのは、検査結果が悪かったからではない。
身体に関して言えば、“あなたは本当に運が良い!”と医者から感心されるほど、かすり傷ひとつ無くピンピンしてるんだけど。
(……やっぱ今日で退院か)
そう。
本日の午後、わたしは晴れて退院することになったのである。
これって本来なら喜ばしいことだし、素直に感謝すべきところなんだろうけど……
正直、すごーく複雑な気分だ。
なぜなら、わたしには素直に喜べない理由があるワケで。
「退院おめでとう、綾音」
耳をくすぐる、甘い声音。
その端整な面差しに浮かぶ天使のような微笑を見て、わたしは思わず顔をしかめた。
――氷川 晃。
表向きはわたしの従兄ってことになっているけれど、その実どこの誰なのか、というかその存在自体が何なのかよく分からない謎の男。
退院した暁には、この怪しい男との共同生活がわたしを待っているのだ。
母親はさも当然のように言ってたけれど、わたしはそんなの納得できないし……。
「大丈夫だとは分かっていたけれど、これで一安心だね」
「…………」
「あなたが無事で本当によかった」
「…………」
彼の微笑みからプイと目を逸らすと、わたしは重い足取りで自販機へと向かった。
早朝の一件から、ずーっと無視しているにも関わらず、彼はわたしの側を離れようとしない。
とはいえ、こっちが本気で怒っているのは承知しているらしく、過剰なスキンシップは控えてるみたいだけど。
それにしても、腹が立つ。
なんでわたしがこんな奴と一緒に暮らさなきゃいけないんだろうか。
どんな怪しい手を使ったんだか、いつの間にか母さんまで丸め込まれちゃってるし!
(こんなの絶対おかしい)
ていうか。
他人のオデコに勝手にハンコ押しちゃう人間と暮らすとか、マジで無理。
あの後、泣きながら“消してくれ”って頼んだのに、笑顔で却下されるとかあり得ないし。
大体、ヒトの身体にハンコ押すとか、わたし完璧にコイツの所有物扱いじゃん!
なんでわたしがこんな怪しい男に“俺のモノ”扱いされなきゃいけないわけ?
いくら契約したからって、ふざけんなって感じなんだけど!!
「綾音、どうかした?」
「…………」
「もしかして、今朝のことまだ怒っているの?」
その言葉に“当然じゃん”と思いつつ、無言で自販機に千円札を突っ込む。
すると、背後から伸びてきた彼の手に、手首をギュッと掴まれてしまった。
「どうすれば、機嫌が直る?」
咄嗟に手を引き抜こうとしても、やんわり押さえ込まれてしまう。
逃げようとしたらもう片方の腕が伸びてきて、わたしの身体は完全に彼の腕に囲い込まれてしまった。
ムッとしながら振り向けば、彼の顔が思っていたよりも近くにあって……心臓の鼓動が、一つ飛ぶ。
「無断で印を付けたことは謝る。けれど全てはあなたの為ためなんだ」
深い瑠璃色の眼差し。
長い睫毛が瞳に暗い影を落としている。
「どうか僕を信じて、綾音……」
その言葉に無言で首を振ったら、彼は困ったように微笑んだ。
その悲しそうな表情に、わたしの胸は少し痛んだけれど……
でも、この表情がクセモノなのだ。
そんな顔したって、絶対許さないんだから。
いくら顔が綺麗だからって、もう騙されるかっつーの。
「どうしても、僕のことが許せない?」
宥めるように頬を撫でられて、プイと顔を逸らす。
それでも尚、伸びてきたその手を、わたしは素気なく払いのけた。
すると、彼は小さくため息をついて。
「どうすれば、あなたに許して貰えるのだろうか……」
独り言のように呟いた、その瞬間。
彼はわたしの手を捕ったまま、流れるような動作で膝を折ったのだった。