#06 眩 暈(3)
「約束して、綾音」
耳元でくぐもった声がして、髪に何かがふわりと触れた。
それが唇だと気付いた刹那、今度は額にキスされて頭の中が真っ白になる。
羽毛で撫でられるような唇の感触に、わたしは首筋から血が上ってくるのを感じていた。
だって、こんな風にされちゃうと、否が応でも昨晩のことを思い出しちゃうわけで。
――あなたは僕のものだ。僕のものだと、そう誓え
見る者を溺れさせる深い瑠璃色の眼差し。
鈍く光る、象牙のように滑らかな肌。
その唇がもたらす、指先から溶けてしまうような不思議な感覚。
「僕らは一蓮托生だ。今あなたを失うわけにはいかない」
その言葉に“そういう事か”と納得しつつも、体を包む彼の腕には抗えずに。
頬が、熱い。
無茶苦茶なこと言われた後に、ちょっとキスされたくらいで力が抜けちゃうなんて、やはりコイツは悪魔なんじゃないかと思う。
昨晩のことといい、わたしは何をしているんだろう。
なんかもう恥ずかしすぎて死にそうだ。
「綾音……もしかして、昨夜のことを思い出しているの?」
「えっ、何が!?」
図星を指されて、思わず身体がビクッと跳ねた。
驚いて顔を上げると、瑠璃色の瞳が楽しそうにこちらの様子を窺っている。
「“あなたが願うなら、僕がその全てを叶えてあげる”」
「……え?」
「昨日、僕があなたに誓った言葉。お望みなら、この続きもあるけど?」
「つ……続き……!?」
恐る恐る聞き返したら、彼は甘く微笑んで。
「キスの、続き」
耳元で低く囁かれた瞬間――わたしの思考は、完全に停止した。
目をまん丸にして、彼の顔をマジマジと見つめる。
すると、彼は不意にわたしから顔を背けて。
「く……!」
震える肩。
続いて聞こえてくる、咳き込むみたいな声。
顔は隠れちゃって見えないけど……
これって、もしかして笑ってる?
てか、わたしからかわれた!?
ムカつくーっ!
「そういう冗談やめて!!」
「冗談だなんて、酷いな。僕は至って真面目だけど?」
優しく抱きしめてくる腕を、怒りに任せて振り払う。
笑いながら言われたって、全然説得力無いんですけど。
なんか、目に涙まで浮かべてるし!
「嘘つき! からかってるくせに!」
「なら、嘘かどうか試してみる?」
「なんでそうなるわけ! 馬鹿にしてるの?」
「まさか。あなたの期待に沿えるよう、僕は精一杯手を尽くすつもりなのに」
「な・な・何言ってんの!? そんなのお断りだし! もうっ、これ以上ヘンな事ばっか言うんなら、契約なんて破棄するからねっ!」
ムカムカしながら言い放ったら、彼はすうっと目を細めてわたしを見つめた。
「……あなたは僕との契約を無効にしたいの?」
ゾッとするほど冷ややかな声。
その面から笑顔が消え失せて、長い睫毛の下の瞳が濃いブルーに変わる。
その表情の変化に驚いて、わたしは咄嗟に身構えたのだけれど。
「無理だよ、綾音」
――もう遅い、と。
彼が告げた瞬間、わたしは小さく悲鳴をあげた。
突然の痛みに、訳が分からず手で顔を覆う。
「な、に……?」
額の中心が焼けるように熱い。
何が起こったのか理解できぬまま彼の腕から抜け出すと、わたしは覚束ない足取りで病室の鏡の前に立った。
すると、信じられないことに……
わたしの額の中心に、なにやら不思議な模様が浮き出ているではないか!!
てか、なにコレ!?
「印さ」
「は? しるしっ!?」
「そう。綾音が僕のものだという印。契約しましたっていう、認印みたいなものかな」
「認印!?」
サラリと告げられて、わたしは唖然としてしまった。
だって認印て。
そりゃ、何か契約したら捺印くらいするだろうけど……でも!
「だからって、なんでデコ!?」
しかも、こんなにクッキリハッキリ信じられない!
一応わたし女なんですけど!
もしかして、わたしのオデコに認印を押す欄でもあったとか!?
それで否応なしにデコだったとか!?
「まさか。欄なんてないよ。印を付けるのはどこでもよかったのだけれど」
「けど!?」
「あなたが僕のものだと周囲に知らしめるには、判り易いところでないと意味が無いからね」
しれっと言い放つ男の顔を見て、わたしは馬鹿みたいに口をパクパクさせた。
だって……そんな理由で?
そんな理由で、乙女のデコに認印!?
ふざけんな、このヤロー!!
「酷い!!」
「落ち着いて、綾音」
「落ち着つけってなにさ!? デコとかマジ信じられない! こんなの恥ずかしくって外歩けないじゃんよ!」
「ああ、それなら大丈夫。普通の人間には見えないから安心して?」
彼は穏やかに言うと、宥めるようにわたしの頬を優しく撫でた。
そして、わたしの目をジッと見つめて。
「全ては、あなたの為だから……」
甘い、ベルベットみたいな声音。
深い瑠璃色の眼差し。
こちらに向けられた天使のような美しい微笑みに、言葉を失ったわたしは、ただ涙目で彼を睨んだのだった。
以上、デコに認印の章でした。