#06 眩 暈
濃密な闇が彼方へと追いやられて、長い夜がようやく終わろうとしていた。
瞼の裏に感じる、明け方の青い光。
冷たく澄んだ空気の匂い。
どこか遠くでカラスの啼く声がする。
「うーん……」
不機嫌に唸りながら、わたしは泥のような眠りからゆるゆると浮上した。
普段ならば、まだ眠っている時間帯なのに、執拗に鳴り響く携帯に根負けしてしまったのだ。
おかしな時間に起こされたせいか、なんだか身体がダルイし、やけに頭がズキズキする。
目を擦りながら窓へ目を向ければ、カーテンの向こうはまだ薄暗い。
「わたし、あのまま寝ちゃったんだ……」
己のあまりの呑気さに呆れつつ、寝ぼけ眼で枕元を探りながらも、携帯を開いた瞬間、わたしは一気に目が覚めた。
――椎名くんだ!!
『御園っ、無事か!?』
「いや、ソレこっちの台詞だし!」
電話に出るなりツッコミつつも、椎名くんの無事を確認して身体から力が抜ける。
電波が弱いのか、ちょっと雑音がするけど、彼の元気そうな声が聞けて、わたしは心底ホッとした。
だって最後に見たとき、椎名くんほとんど消えかかってたし。
それに、本当に助かったのかどうか、あの時は男の言葉を信じるしかなかったから、正直、物凄く不安だったし。
「無事でよかった……! てか、あのあと椎名くんどうしてたの!?」
『ああ、オレ? よくわかんねーけど、気がついたら自分の部屋にいた』
どうやら男の言っていた“安全なところ”とは、椎名くんの自室のことを指していらしく……。
あの言葉に嘘はなかったようで、ホッと胸を撫で下ろす。
だけど、そんなわたしを余所に、椎名くんはすごーく不機嫌なご様子で。
『つーかさ、オレまじ納得できねーんだけど』
「え、なんで? いきなり部屋に飛ばされちゃったから?」
『まあ、それもだけど……どういうわけか、部屋の外に出られなくてさ』
「は? 何ソレどーゆーこと?」
『どーもこーもねーよ。部屋のドアから外に出ようとするじゃん? そーすっと、やっぱオレの部屋に戻っちゃうわけ。アレ、なんなんだ?』
「いや……そんなのわたしに聞かれても……」
『つか、部屋の外に出たのに、またオレの部屋っておかしくね!? オレ、馬鹿みたいに何度もドア開けちゃうしさ……。ドアから出ても、やっぱオレの部屋だしさ……。御園に連絡しようにも、ケータイ繋がんねーし。今はヘーキみたいだけど……』
不貞腐れながら説明する椎名くんの声を聞いて、悪いと思いつつもわたしは噴出してしまった。
そして、それと同時に申し訳ない気持ちで一杯になる。
気絶したまま呑気に眠っていたわたしとは違って、椎名くんは一晩中やきもきしていたに違いない。
「椎名くん、昨日は色々ありがとう。それから……なんか、ごめんね」
『ごめんって、なんだよ』
「だって心配かけちゃったし。それに、いっぱい迷惑かけちゃったから」
だからゴメン、と。
もう一度謝ったら、携帯の向こうから深いため息の音が聞こえてきた。
『なんだよ。謝るなよ』
「だって……」
『だってじゃねーよ。オレ、迷惑だなんて思ってねーし』
少し怒ったような声音に、ハッと息を呑む。
『オレさ、嬉しかったんだ。夏前の……あんな事あった後でさ、おまえと普通に話せて』
「……え」
『だから謝るなよ……み……その――』
急に電波の入りが悪くなったのか、雑音が更に酷くなった。
声が、やけに遠い。
妙な不安を感じて、わたしは場所を移動するために、急いでベッドから抜け出したのだけれど。
『……オレさ――オレ、おまえの……こと――』
椎名くんが何かを言いかけた、その刹那。
携帯から砂嵐のような雑音が聞こえてきて、わたしはぎゅっと目を閉じた。
突然激しい眩暈に襲われて、その場へしゃがみこむ。
頭の中が霞がかって、次第に意識が朦朧としてゆく。
「椎名く、ん……!」
呼びかけど、携帯からは、もう何も聞こえずに……。
ますます酷くなる眩暈と雑音に、わたしは必死で吐き気をこらえた。
割れるように頭が痛い。
強く瞑った瞼の奥で弾ける白い光。
この光は。
この光は、まるで――。
(なに、これ……!)
病室の冷たい床に倒れこみ、喘ぐように息をする。
閉じた瞼の裏に浮かんできたのは、満開の桜。
どこまでも続く、モノクロームの世界。
力なく横たわるわたしの頬に、髪に、まるで雪のような花びらが、ひらりひらりと舞い落ちる。
しんしんと降り積もる花びらに、身体が覆い隠されてゆく。
息が、出来ない。
酸素を求めて開いた口の中も、桜の花びらが入り込んでくる。
(……誰か!)
死の予感を覚えて、わたしは叫んだ。
すると、その時。
「綾音!」
不意に、腕を強くつかまれて。
「……あなたは、桜が好きなんじゃなかったの?」
その声に、薄く目を開けたその先には……
こちらを心配そうに覗き込む、美しい瑠璃色の瞳があった。