#05 盟 約(4)
「契約……?」
「そう。契約だ」
「あの……それって、具体的にどんな?」
恐る恐る聞き返したら、男がピクリと片眉をあげた。
そして、その唇が愉快そうに弧を描く。
「説明してもいいけれど、それを聞いたところで何になるの?」
そう言って、彼が向けた視線の先にあったのは、今や薄っすらとしか見えなくなってしまった椎名くんの姿だった。
光の繭に包まれて、椎名くんが消えようとしている。
力なく垂らされた小麦色の長い腕。
茶色の髪は汗で額に張り付いている。
椎名くんは大きな身体を胎児のように丸めて、苦しそうに顔を歪めていた。
男の言う『契約』が、一体どんな事なのか想像もつかないけれど……
わたしがそれに応じなければ、椎名くんはこのまま吸収されて、やがては消滅してしまうに違いない。
「僕と契約を結ぶのなら、彼に手出しはしない」
甘く暗く響く、心地よい声音。
長い指が、わたしの唇にそっと触れる。
「約束するよ、綾音」
男の言葉に、わたしは目の前が真っ暗になる思いだった。
椎名くんが消滅するか、男と契約を結ぶか――。
わたしに残された選択肢は、最早この二つしかないのだ。
(どうしよう……!)
半ば呆然としつつ、椎名くんを見つめる。
すると……驚いたことに。
意識を失っていたはずの椎名くんが、目を開いたではないか!
「椎名くんっ!」
思わず叫んだわたしに、椎名くんは顔をあげて苦しそうに微笑んだ。
少し虚ろではあるけれど、こちらを真っ直ぐに見つめてくる、澄んだ鳶色の瞳。
やがて椎名くんは口を開くと、声にならない声でわたしの名を呼んだ。
――そして。
“逃げろ”
驚いて目を見開いたら、椎名くんは顔を歪めて弱々しく首を振った。
まるで、自分のことは構うな、とでも言うように――。
「――僕と契約を結ぶのなら、僕はあなたに仕えよう」
耳元で甘く囁く、悪魔の誘惑。
奇妙なほど穏やかな声音。
「あなたが願うなら、僕がその全てを叶えてあげる」
その言葉に、わたしはゆっくりと視線を男へ戻した。
美しく弧を描く唇。
細面の、まるで天使みたいな綺麗な顔立ち。
その顔を、わたしは正面から睨み据えた。
「……契約したら、椎名くんを助けてくれるのね?」
「ああ。約束する」
「本当に……?」
「言ったろう、僕は嘘は吐かない」
男がわたしの頬をそっと撫でる。
視界の端で、椎名くんが何かを叫びながら、わたしに向かって腕を伸ばすのが見えた。
だけど。
わたしは……
わたしは……
「わかった――あなたと契約する」
そう告げた瞬間、急に視界が暗くなった。
室内に溢れていた眩いばかりの光が消え失せて、唐突に辺りが闇へと沈み込む。
わたしは小さく息を呑むと、咄嗟に椎名くんの姿を探した。
しかし、必死で暗がりのなか目を凝らすも、椎名くんはどこにも見当たらない。
「しっ、椎名くんは!?」
「彼には退出してもらったよ。安全な場所へ移動してもらった」
安心して、と。
穏やかに言うと、彼は震えるわたしの背中を優しく撫でた。
「僕を見て、綾音……」
低く名を呼ばれ、そっと上向かされる。
男は覗き込むようにして、わたしをじっと見つめた。
見る者を溺れさせるような、深い瑠璃色の眼差し。
象牙のように滑らかな肌が、暗闇の中で鈍く光を放っている。
「これでもう、あなたは僕から逃げられない」
笑いを含んだ声で言うと、男はゆっくりと首を傾げて。
次の瞬間――わたしは彼に唇を奪われていた。
驚いて押し戻そうとするも、覆いかぶさる様に抱きしめられてしまい、身動きが取れなくなってしまう。
「綾音……」
呻くように言うと、彼はわたしの唇を優しく吸った。
繰り返し角度を変えて、まるで宥めるように、何かを問いかけるように。
「あなたは、僕のものだ」
掠れ声で囁くと、男の舌は歯列をやすやすと割り、わたしの上顎をゆっくりと辿った。
そして、そのままわたしの舌を絡めとる。
次第に深まる口付けに、わたしは指先から溶けてしまうような錯覚に陥った。
緩慢な動作で唇を吸われて、身体から力が抜けてゆく。
冗談じゃないと思いながらも、何故か足が萎えてゆく。
どうすることも出来なくて、わたしは溺れる人の様に男の身体にしがみ付いた。
「綾音、誓うんだ……」
男がうわ言の様に呟いた。
彼の膝がわたしの膝を割り、互いの足と足とが絡み合う。
少し身を硬くしたら、宥めるように背中を優しく撫でられ、彼が低くため息をついた。
「あなたは僕のものだと、そう誓え」
頭の芯がじんわりと痺れて、わたしは耐える様にきつく目を瞑った。
その刹那、瞼の裏に白い閃光がパチッと弾ける。
その光は、ひらりひらりと舞い散って、やがて桜の花びらとなった。
――あの桜の森へ行ってはいけないよ
頭の中で、誰かがわたしに語りかける。
視界いっぱいに広がる、満開の桜の森。
聞き覚えのある、懐かしい声音。
なぜ、と聞き返すわたしに、その声は答えて。
――だって、あの森には鬼が棲んでいるから……
軽く肩を揺さぶられて、わたしは喘いだ。
ぼんやり目を開けると、こちらをうかがう様にして、サファイアの瞳が瞬いている。
「――誓って、綾音」
「ち、かう……?」
「“アキ、汝と契約す”」
「な……」
「“アキ、汝と契約す”。さあ、言うんだ、綾音……」
甘く暗く響く、心地よい声音。
酷く優しく、噛んで含めるように男に即されて。
「アキ、汝と、契約、す……」
乞われるままに言うと、わたしは男の腕の中で意識を手放してしまった。