#05 盟 約
椎名くんが手を離すと、病室の引き戸はゆっくりと閉まっていった。
廊下から差し込む蛍光灯の光が次第に細くなり、やがて辺りは暗闇へと沈み込む。
不気味な静寂が流れるなか、わたしは状況が呑みこめずにただ呆然としていた。
だって、どうして椎名くんがここに?
仮にわたしを訪ねてきたとしても、面会時間はとうに過ぎてるはずなのに。
「大丈夫か、御園」
部屋に入るなり異様な空気を感じたのだろう、椎名くんは一呼吸おくと硬い声音で問いかけてきた。
「椎名くん、あの……?」
「ああ。お袋が入院してるんだ。御園と同じこのフロアに」
オレ、今夜はその付き添いでさ、と。
わたしの質問を先回りして、椎名くんが淡々とした調子で説明する。
声のトーンが、少し低い。
「そ、そうだったんだ……ビックリした。わたし、椎名くんのお母さんが入院してるなんて知らなかったから……」
「ばか。ビックリしたのはオレだっつーの」
「え、なんで?」
ポカンとして聞き返したら、椎名くんは呆れたようにため息をついて。
「で、御園。誰なんだよ、そいつ?」
いきなり切り出されて、わたしはドキリとした。
暗くて顔はよく見えないけれど、その声は明らかに怒気を帯びている。
椎名くんは大股で近付いてくると、わたしと男の前に仁王立ちになった。
「なあ、あんた誰?」
月明かりのなか、青白く浮かび上がった椎名くんの表情を見て、わたしは思わず息を呑んだ。
だって椎名くん、ものすごく怖い顔をしている。
それに、何でか知らないけど、いきなり喧嘩腰だし!
っていうか、この男相手に喧嘩吹っかけるなんて、まじ無謀すぎるんですけど!?
「どうしちゃったの、椎名くん?」
「いいから、おまえは黙ってろ」
「よくないよ! お願いだから落ち着いて」
「落ち着けってなんだよ! さっきの悲鳴あげてたの、おまえだろ!?」
「えっ、悲鳴!?」
目を丸くしたら、椎名くんは軽く舌打ちして。
「ああ、そうだよ。便所に行こうとしたら、いきなりおまえの悲鳴が聞こえてきてさ。じゃなかったら、こんな夜中に部屋に押し入るような真似するか!」
頭ごなしに怒鳴られて、わたしは顔から血の気が引く思いだった。
どうしよう。
椎名くん、わたしの悲鳴を聞きつけて助けに来てくれたんだ!
確かに、さっきは絶体絶命だったし、わたしとしたら助かったんだけど……。
(……でも!!)
一難去ってまた一難。
わたしは、自分の背後にいる存在を痛いほど意識しながらも、怖くて振り向けないでいた。
そう。
それは、悪魔でもなければ死神でもない――わたしに召喚されたと言い張っている、この男。
彼は、いきなり現れた椎名くんのことを、どう思っているのだろうか?
(いや。ていうか……!)
問題なのは彼が「どう思っているか」じゃなくて、「どうするつもりか」だ。
母さんにしたみたいに、おかしな力で椎名くんの記憶を掏り替える?
それとも、あの変な光を使って窓から放り出す?
どの可能性も考えるだに恐ろしすぎて、頭の中が真っ白になってゆく。
「あんたさっきから黙ってるけど、オレの質問に答えろよ!」
椎名くんの怒声に、わたしは弾かれたように顔をあげた。
相手が何も言わないことに業を煮やしたのか、まるで掴みかからんばかりの勢いで、椎名くんが男に詰問している。
その表情を見れば、頭に血が上っているのは一目瞭然だ。
っていうか、ヤバイ!
本当に掴みかかったりなんかしたら、それこそシャレにならないし!
ヘタしたら、椎名くん死んじゃうかもしれないし!
「椎名くん、やめてっ!」
大声で言うと、わたしは咄嗟に腕を広げた。
そして、この場をどう収めたものかと必死になって考える。
「ちょっと待って! ごっ、誤解なの!」
「おまえ何言ってんの? 悲鳴あげといて、誤解も何もねーだろ!?」
「違うの! あれは、ちょっとふざけてただけで」
「あれが? とてもじゃないがそんな風には聞こえなかったね。つーか、こんな時間にふざけてたとか、おまえ嘘つくの下手すぎだろ」
「うっ……」
「……どうしてそんなヤツ庇うんだよ。マジでそいつ誰なわけ? おまえの兄貴か何か? でも、確かおまえ一人っ子だったよな?」
「そ、それは……」
「なんだよ。なんか言い難いことでもあるのかよ?」
「いや、言い難いっていうか……」
「……まさか……おまえ、こいつに変なことでもされたんじゃねーだろーな!?」
「えっ、変なこと? 変なことって何!?」
「もういい、おまえ黙ってろ! テメー御園に何しやがった!!」
「わーっ! 椎名くん、やめて! てか、マジ落ち着いてーっ!」
興奮した椎名くんを宥めるために、慌てて腕を伸ばす。
だけど、わたしが伸ばした指先は、結局椎名くんには届かずに――。
「僕が、何者かって……?」
穏やかな声音と共に、冷たくなったわたしの指先が、男の手に絡め取られた。
そして、そのまま背後から、やんわりと羽交い絞めにされてしまう。
小さく息を呑んで見上げれば、底光りする青い瞳に見つめ返されて。
男は薄く笑みを浮かべると、暗闇の中で徐々に輝きを増し始めた。
闇に溶けていた黒い翼が、青白い光に映えて艶やかに浮かび上がる。
「嘘だろ……!」
その光景を目の当たりにして、椎名くんは一歩後退った。
「それ……本物なのか!? あんた、一体なんなんだよ!」
「人に名を尋ねるときには、まずは自分から名乗るものだろう?」
冷ややかに言うと、男は椎名くんを威嚇するように背中の翼を大きく広げた。