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スタインベック

 玄関を入ってすぐの廊下には一台のベッドが置かれていた。僕はそのベッドに座るよう促され、それを素直に聞き入れ腰を下ろすと、体が大きく沈んで足から床の感覚が離れた。想像よりも中のスプリングが緩んでいるようだった。驚くほどのことでもないが、僕は二、三度座り直して束の間の浮遊感を解消する。Sは立ったまま、ベッドと対峙するような位置で壁によりかかるとその顔をこちらへ向けた。

「本当だったでしょう。話した通り、この家の廊下に住まわせてもらっているんです。」

 Sはそう気さくな口調で話すが、その顔には目も口も鼻もなかった。代わりに顔を占めているのは大きく開いた一つの穴であり、内側から鉛筆で突き破ったように乱雑な穴が、顎から髪の生え際のあたりまでを深い暗闇で覆っていた。首と繋がっているから辛うじて顔だと認識できるようなものである。当然表情は分からない。破けた肌の端切れがヒラヒラとSの呼吸をわずかに示しているだけだった。

「ええ、そうみたいですね。向こうから音楽が聞こえますけど、もしかして今そこにいらっしゃるんですか。」

「はい。おそらく隣のリビングに。そこから覗けますよ。」

 Sは言いながら自分でも覗く素振りをしてみせた。表情が出せない分、身振り手振りが自然と身についているようだった。僕もSの動きに倣って大袈裟な覗き方をしてみせ、その実、強張った背筋を伸ばしているのだった。漏れ出そうになったあくびをひっそりと噛み殺した。

 リビングの中は、上から土くれを塗したような汚れの目立つボタニカル調の壁紙だった。肥満体質の男が一人、手すり部分の禿げたソファに体を完全に預けてくつろいでいる。手元の端末から流している音楽は、ジムノペディ第一番がループし続ける改変曲であり、文庫のミリタリー小説を片手に、ジョッキからドロリッチを喉に流し込んだ。窓から差し込んだ夕日が男の肌を照らすと上乗りの脂が黄色く煌めいて、顔を何倍にも膨らせている脂肪が両目に被って視線の行方を隠蔽しているのが、まるで謎めいた植物の美しさを思わせた。

「あー、あの人なんですね。」

 リビングからSの方に向き直るが、僕は家の主人について何も感想が言えず、先にSの方が口を開いた。

「とっても優しい人なんですよ。ここなんてタダ同然ですしね。」

「へえ、ステキですね。タダで住めるなんて。」

「ええ本当に。」

 僕は軽い笑い声で時間を流した。

 つまらない会話はすぐに途切れた。僕はじっとベッドに腰を据え、立ったままのSは玄関を背負っているという構図。擦りガラスに燻られた西日が、Sの背後にうごめいてこの廊下の全体図を二次元の影へと落とし込んでしまった。Sの暗闇には工業油の虹色がさりげなく灯っていた。破けた顔の端切れが、息まいて僕の目の下をくすぐった。僕は恐れにも似たまた別の感情のまま、Sの顔に映る淡い虹色が揺れるのを眺めていると、鼻先からSの表層に触れやがては全身が無限の繭の内部へと包み込まれていくのだった。

 ベッドから落下したような衝撃で僕は海で溺れていた。呼吸のために見上げた視界に鉛みたいに動かない雲だけが映る。泳ぎの発想まで届かない手足を暴れさせ、正午を目指す日差しが雲間から水面の油に発色を与えて、蒸気船の汽笛が泡を砕いて渡り歩いている。石化の魔法を振り払うように弱りながらもがき続けた。急速に傾きのついた太陽が海上の背筋をつたって没し、なにか夢の明ける予感、その逆流に連れられいつか廊下のベッドの上に正気を取り戻すと、すぐ隣に横たわるSの顔の真っ暗闇に、白馬と赤いチューリップの喧嘩を仲裁するSの優しい背中が映っていた。

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