姉妹.2
放課後になっても、紅葉は教室へ戻ってこなかった。
担任が家に電話したが、連絡は取れないとのことだった。きっと、今もどこかで、一人きりで悲愴に暮れているのだろう。
授業中、紅葉の席が空っぽになっているのが嫌でも目に入った。その度に、雪花の胸は罪悪感で押し潰されそうになる。
一瞬、どこかに探しに行こうかとも思った。しかし、彼女とのつながりが薄い自分ではそれも叶わないと諦めた。
(それに、どうせまた会える。アリスが言ってた――夢と煉獄の狭間とやらで…)
アリスは先日のゲームが終わった後、『それでは、また明日、ここで』と告げた。
つまり、そういうことなのだろう。
「…はぁ」
一つ、大きなため息を吐く。
もしも、またゲームが始まって、誰かと戦うことになったら?
私はいい。死ぬ恐怖より殺す恐怖のほうが小さいと割り切れる人間だ。
でも、彼女は?
「はぁ…」
また一つ、ため息がこぼれる。
駄目だ。一人で考えていても仕方がない。
雪花は鞄を手に立ち上がると、我が家に帰るべく教室の外へ足を向けた。途中、クラスメイトが声をかけてきたが、まともに会話することなく振り切った。ノリが悪い、と言われているようだったが、もうどうでもよかった。
すると、教室の外に出て、数歩歩いたところで見知らぬ声に呼び止められた。
「ごめんなさい、貴方が皇雪花さん?」
「はい?」
億劫そうに顔を上げれば、そこには顔も見たことのない女生徒が立っていた。
眉のあたりで切り揃えられた前髪。肩甲骨まで伸びた髪の先は緩くウェーブがかかっている。瞳には犬っぽい忠実さと賢さ、そして、ある種の獰猛さが込められていた。
「えっと、そうですけど」青いタイ。三年生だ。「先輩、何か御用ですか?」
問いかけを無視して、先輩はこちらをじっと凝視している。睨みつけていると言うべきか。
面識のない人間に睨みつけられて嬉しいはずもない。これだけ敵意を剥き出しにされればなおのこと。
「…いえ、別に」
やっと答えたかと思えば、要領の得ない返事だ。
「そうですか、それでは失礼します」
人に名前を尋ねておいて、『別に』はないだろう。
とはいえ、今、これ以上の面倒事はゴメンだ。
紅葉のこと、四姫戦姫のこと…。脳内リソースを割かなければならない議題はたくさんある。
行く手を遮るようにして立っていた先輩の横をすっと通り過ぎる。
「待って」
すれ違って、少ししてそう呼び止められた。走り抜けるべきだったと頭の中だけで舌打ちする。
「まだ何か?」首だけで振り返る。「あの、急いでいるので、手短にお願いします」
「ごめんなさい。どうしてもお聞きしたいことがあって」
決して気弱ではないだろう彼女が、何かに迷うように瞳を曇らせ、視線をさまよわせる。その姿に、雪花は自分が想像していた以上に大事なことかもしれないと考えを改めた。
きちんと振り返り、向き直る。
先輩は自分よりも少し身長が高かった。紅葉よりは低いだろうが…うん、スタイルが良い。
「その…」
「…遠慮なくお尋ね下さい。私に答えられることであれば、何でも答えますよ」
その返答に、先輩は少しだけ安心したふうに口元を綻ばせる。紅葉とは違ったタイプの美人だと、なんとなく思う。
「それでは聞かせてもらうわね?――貴方、日良李とはどういった関係なの?」
「え?」
突然、今朝知った名前を出されて目を丸くする。
「だから、小町日良李とはどういった関係なのと聞いているの」
「ど、どういうって…」
答えに窮している間に、先輩の表情がみるみる険しくなる。せっかくの美人がもったいないくらい、鬼の形相へと変貌した。
これ以上の無言は危険だと、直感が告げる。
雪花は慌てて言葉を紡ぐ。
「別に、昨日、ちょっとフォローしただけで――」
「フォロー!?」大きな声量に体が跳ねる。「ふぉ、フォローって、一体、何をどうフォローしたの!?」
「は、話しますから落ち着いて…」
「私は落ち着いているわ!貴方、まさか日良李にいかがわしい真似をしたんじゃないでしょうね!?」
「そんなわけない…ですよね?」
ナンパ紛いの声かけをしたことを思い出し、疑問形で返せば、先輩はまた目くじらを立てて怒鳴った。
「どうして疑問形なの!」
このままでは埒が明かない。それに廊下だから悪目立ちしている。
「先輩、ちょっと場所を変えませんか?」
「どうして」
「いや、人が――」
「分かった、逃げるつもりなのね。そうはいかないわ」
「えぇ、どうしてそうなるんですか…」
先輩は完全に自分が日良李をかどわかしたと思いこんでいる様子だ。というか、そもそもこうして日良李との関係を疑う彼女こそ、何者なのか…。
おそらく、振り切ることもできないだろう。そんなことをしたら、彼女は地獄の底まで追ってくる気がする。
どうしたものか、と雪花が苦笑いを浮かべた、そのときだった。
「お姉ちゃんっ!」
廊下に響き渡る、幼さを残した声。振り返れば、日良李の姿があった。
「もう、何をやってるの!」
雪花を追い抜いた日良李が、ぐいっ、と先輩の腕を引っ張る。おかげで、今にも掴みかかられそうな状況から脱することができた。
「ひ、日良李、これは、そのぉ」
「お姉ちゃん!絶対に皇先輩のところには行かないでって言ったよね!?」
「だ、だけどね?お姉ちゃんには、日良李に悪い虫がつかないよう追い払う義務があって――」
悪い虫ときたか、となんとなく事情が飲み込めつつある雪花は、つい鼻を鳴らして笑った。すると、また先輩の顔が般若の如く歪んだ。
「何がおかしいのかしら、皇雪花」
「え、あ、いえ、その…」
「貴方のように頭の黒い虫の影響を受けて、純真な日良李が穢れでもしたらどうするの!?」
「け、穢れ…」
「そうよ。私、小町真莉愛には、可愛い妹である日良李を不届きな輩から守る使命があるのよ!貴方みたいなねっ!」
「あ、お姉さんでしたか…」
合点がいった雪花がそう呟けば、真莉愛は鬼の形相をさらに険しくした。
「貴方にお姉さんなんて、言われたくないわ!」
娘さんを下さい、とでも言われた父親のような反応に、雪花はひきつった笑顔を浮かべる。
(うわぁ、これは笑えない。笑えないほどの過保護だ)
言葉を失って直立していた雪花の前に、日良李が割り込むように移動してくる。
「最低」
今朝の日良李からは想像もできないほどに冷たい声だった。
やがて、日良李はまだ何か言い足りなさそうな姉の背中を押して、雪花の行くべき道とは逆の方へと連れて行った。その途中、心の底から申し訳なさそうに、「本当にすみません、皇先輩!――ほら、お姉ちゃん、さっさと帰るよ!」と頭を下げた。
一人残された雪花に、周囲の生徒たちの視線が刺さる。
いたたまれなさを振り切るために、雪花も素早くその場を後にする。そうしながら、個性豊かな姉妹のことを思い、雪花はため息を吐く。
(あれは、『ちょっと』だけ変な人じゃないよ、小町ちゃん)
二度目の悪夢も、始まりは唐突だった。
零時ぴったりに布団の上で正座していた雪花は、またしても、チャンネルが切り替わるみたいにして上も下もない深い青の広がる空間に導かれていた。
目の前には、青いリボンとワンピース、白いエプロンドレスで身を包んだアリスの姿があった。
彼女は雪花と目が合うと、不気味なまでに上品な微笑を浮かべた。
「昨日ぶりです、スノウホワイト様」
「…アリス」事もなげに手を振るアリスの姿に、忘れかけていた苛立ちが蘇る。「昨日のあれはどういうことなの、ちゃんと説明して」
「説明もなにも、先日申し上げた通りでございます」
パチン、とアリスが指を鳴らす。すると、何もなかった空間に突然、テーブルとチェアが二脚、それから、湯気を昇らせたティーセットが現れた。
「え、なにこれ」
「どうぞ、我が主様。スイーツはございませんが、紅茶ならお注ぎします」
面食らっていた雪花に、アリスが片手を差し出して言う。
「いらないよ、そんなの」と言いつつ、促されるまま席に着く。「なんでまたここに呼んだの?ねぇ、夢ってなに?ゲームとか…昨日言ってたことは、本当なの?」
「せっかちでございますね、スノウホワイト様。すぐにご説明しますよ」
そう言って笑うと、アリスは指先をピンと立ててみせた。そして、それをくるくると回せば、青い光がその指先に宿った。
光は指が振り下ろされたのをきっかけにして、青く暗い床に降り立ったのだが、直後、光が人の姿を象ったのを見て、雪花は腰を浮かせる。
「あ、アリス!待って――」
「残念ですが、それは聞き入れられません」
アリスが鼻で笑うような調子で遮った後、光がぱあっと散って、降って湧いたみたいに大神紅葉が現れる。
彼女は目をぱちぱちとさせると、やがてこちらを見つけて、瞬く間に鬼の形相を浮かべた。
「…また、貴方のせいで巻き込まれるわけね、皇雪花」
「大神さん…」
申し訳なさそうに紅葉の名前を呼ぶ雪花を鋭く睨みつけた紅葉は、にこにことした笑みを崩さないアリスへと視線の矛先を変える。
「アリス、だったかしら。私は貴方の言うゲームに参加するつもりは微塵もないわ」
「もう夢とはお考えではないのですね。安心致しました」
煽るような台詞に、いっそう、紅葉の表情が険しくなる。
「いちいち苛立たせないと気が済まないのかしら、貴方たちは…!」
アリスの巻き添えを食らった雪花は不服そうに口元を歪めたのだが、どうでも良さそうに肩を竦めたアリスが続けた言葉に、それどころではなくなる。
「それでは、お嬢様方。私に許された範囲で改めてゲームのご説明を致します」
アリスが語ったゲームのルールは…以下のようであった。
一つ、『ゲーム』は季節が一周するまで、月に一、二回、継続的に行われること。
二つ、ここでの死は、当然ながら『あちら側』での死につながること。
三つ、生き残ればなんでも夢を叶えてくれるということ。
それらを説明し終えたアリスは、にっこりと微笑んでこちらの言葉を待っていた。
「季節が一周…?一年もの間、あんな馬鹿なことを続けさせられるの!?」
「ご安心下さい。四季を満喫できるものはごく一握りですので」
紅葉の怒りに皮肉で応じたアリス。紅葉はテーブルを叩いて立ち上がったが、雪花が言葉を挟んだことで怒りを解き放つことはできなかった。
「少なすぎる」
「…と、言いますと?」
きょとん顔で首を傾げるアリス。とぼけるつもりらしい。
「情報が少なすぎる。まだ話してないことがたくさんあるよね」
「はて?そうでございますか?」
「あのさ、馬鹿にしないでくんない?そもそも、そっちの目的も聞いてないんだけど」
「とは言われましても、私個人に目的などございません」
「じゃあ、それ以外――このゲームを仕切ってるやつは?」
アリスの表情が一瞬、真顔になった。
ビンゴだ、と舌で唇を湿らせる。
「ふぅ」アリスは一つ小さな吐息を漏らすと、「我が創造主様の目的については、お答えしかねます」と影の存在についてほのめかした。
「誰、それ」
「お答えしかねます」
機械的な返答だ。おそらく、粘っても無駄だろう。
「じゃあ、質問を変えるよ。どれくらいの人が参加してるの?」
「お答えできません」
「四姫戦姫の製作者とこのゲームに関わりはある?」
「一切ございません。基にするゲームのチョイスは完全にアトランダムでございます」
「実際のゲームとの相違点は?」
「お答えできません」
「夢が叶うって、どういうことなの?」
「そのままでございますよ」
淡白なやり取りをいくつか終えてから、雪花は鼻から息を漏らして机の上の紅茶が入ったカップを眺めた。
ここまで漂ってくる芳醇な香り。アップルティーらしい。
「…なるほどね」
「知りたいことは知れたのかしら」
嫌味を放つ紅葉に、雪花は軽く何度か頷く。
「うん。どうやらアリスは、ほとんど何も教える気がないらしいってことが分かったよ」
「そう、良かったわね」
聞いても無駄だということ。それはつまり、自分の五感で感じ取るしかないということだ。
雪花は躊躇なくアップルティーのカップに手を伸ばし、中の液体を喉奥へと注ぎ込んだ。
「まあ」とちょっとだけ驚いた声を上げたのはアリスだ。「向こう見ずでございますね、スノウホワイト様」
「馬鹿なだけよ」
揶揄と侮辱を含む言葉を投げつけられても、雪花の頭の中は自身の五感に向けられており、体の中に流れ込んできた熱と、舌が感じ取った上品な味を考察することに夢中になっていた。
やっぱり、現実と同じ感覚がある。
ここは現実であって現実ではないが、少なくとも肉体の感覚は現実と同じだ。
斬られたり、焼かれたりすればかなり痛いはずだ。それこそ、冗談なく死ぬほど。
「んー…まあ、美味しいのかな?ちゃんと味はするね」
「はぁ、我が主には少し大人向けの味過ぎましたか?」
「ちょっと、それどういう意味」
相変わらずの減らず口。自分がアリスに思い描いていた人物像とは真逆の人格である。
すると、雪花とアリスの、まるで人間同士みたいなやり取りを辟易とした顔で観察していた紅葉が、忌々しそうに舌打ちした。
「…馬鹿らしい。さっさと家に返しなさい、従者」
「ふふ」アリスはそれを見て、愉快そうに笑う。「おしゃべりはお嫌いですか?大神お嬢様」
「ええ。特に、嫌いな相手とする無駄話は最高にね」
ぶすり、と何かに貫かれたみたいに胸が痛くなる。さっき飲んだアップルティーが出てしまいそうだ。
明確な敵意を向けられても、アリスは平気そうだ。むしろ、心底楽しそうに口元を歪めて、小首を傾げる。
「貴方様の心は、随分と冷えておいでです」
紅葉の形の美しい眉が歪む。
「温もりが『生』を示すのであれば、その心は、生きているのか、死んでいるのか…。さて、どうしてその若さでそんなにも世捨て人然としているのでしょう?」
「貴方には関係ないわ」
コツ、コツ、コツ…と、気づけば、紅葉のすぐそばにアリスが移動していた。
「それはもしや…」
下から覗き込むように、アリスが紅葉を見上げる。
深淵を覗き込むには、あまりにあどけない顔つきだった。
「大神お嬢様の生い立ちに関係がありますでしょうか?」
刹那、紅葉の顔が驚愕に染まる。
「ど、どうして…」
独り言みたいに呟いた彼女は、ハッと我に返ると、今まで以上に怒りに満ちた表情になって言い放つ。
「黙りなさい…!」
「図星でしたか?」
「黙れと言っているのが、分からないの!?」
今にも自分を叩いてしまいそうな紅葉と相対しても、アリスは変わらず笑っていた。
「これは失礼しました。――それではまた、次の新月の夜に逢いましょう。この夢と煉獄の狭間で」
18時に続きを掲載致します!