マザコンの婚約者が、母親の指示で婚約破棄してきた!?
「どうアルフちゃん、アップルパイは美味しい?」
「はい母上! とっても美味しいです!」
「うふふ、そうよね、アルフちゃんは私の作ったアップルパイが、子どもの頃から大好きだったものね」
「はい! やっぱり母上のアップルパイが一番です!」
「……」
我がアディエルソン家の東屋で開かれている、私の婚約者であるアルフ様との茶会の席。
何故か今日もその場には、アルフ様のお母様であるヴァレニウス夫人が同席しており、そして何故かアルフ様は、私の作ったイチゴタルトではなく、ヴァレニウス夫人が持参したアップルパイをムシャムシャと食べている。
「……アルフ様、また口元に食べカスが付いてらっしゃいますよ。そんなことでは、他の貴族との会食の際に笑われてしまいます」
「うっ……!」
ちょっと私が注意しただけで、怯えて涙目になってしまうアルフ様。
まったく、なんでこの方はこんなにメンタルが弱いのかしら。
……まあ、理由は言わずもがな、ヴァレニウス夫人が甘やかしてらっしゃるからだと思うけど。
「ちょっとイーリスさんッ! そんな言い方はないんじゃなくて!? ホラご覧なさい! 私のアルフちゃんが、こんなに怯えてるじゃありませんか!」
「は、母上ぇ……」
「ああ可哀想なアルフちゃん! こっちにおいでなさい。私が抱きしめてあげますからね」
「はい、母上!」
「…………」
私の前にもかかわらず、熱い抱擁を交わす二人。
思わず吐き気を催しそうになるのを、必死に堪える。
「……ですがヴァレニウス夫人、アルフ様が恥をかくのは、夫人としても不本意ではないでしょうか? それに、ヴァレニウス家の沽券にも関わりますし……」
「まあ!? 元平民の小娘に、貴族の沽券なんてものがおわかりになるの!? ホホホ、これはなかなかに面白いジョークだこと」
「……!」
痛いところを突かれ、グッと奥歯を噛み締める。
そう、私は元々はアディエルソン家の人間ではなかった。
孤児院で育てられた私を、今のお義父様であるアディエルソン子爵に拾われ、養子になったのだ。
拾っていただいた恩に報いるため、自分なりに必死に貴族令嬢としてのマナーは学んできたつもりだけれど、生粋の貴族であるヴァレニウス夫人にそう言われると、何も言えなくなる……。
「おやおや、これは美味しそうなイチゴタルトだ。俺も一ついただいていいかな、イーリス?」
「お、お義兄様!?」
その時だった。
私の義理の兄である、ヨアキムお義兄様がどこからともなく現れた。
お義兄様はお義父様の実子で、いずれアディエルソン家を継ぐお方。
いつもながらの威風堂々とした佇まいに、思わず見蕩れる。
「あらヨアキムさん。今はアルフちゃんとイーリスさんの茶会の席ですよ。婚約者二人水入らずの席に入って来るなんて、随分無粋ではなくて?」
頭に特大ブーメラン刺さってますけど、大丈夫ですか夫人?
「まあまあそう仰らずに。俺は来週の剣術大会でアルフと当たるんで、軽く挨拶に来ただけですよ」
「まあ!? そうなのアルフちゃん!?」
「……! う、うん……」
おずおずと首を縦に振るアルフ様。
お義兄様とアルフ様は貴族学園の同期なのだけれど、学業、武術、人望、全てにおいてお義兄様に劣っているアルフ様は、お義兄様に並々ならぬコンプレックスを抱いてらっしゃるのだ。
「お互いいい勝負をしよう、アルフ」
「あ、ああ……」
真っ直ぐにアルフ様を見下ろすお義兄様に対して、アルフ様はせわしなく目を泳がせている。
そんなお義兄様のことを、ヴァレニウス夫人は眉間に皺を寄せて睨んでいた。
「邪魔したな、それではどうぞごゆっくり」
お義兄様は私の頭を軽く撫でると、イチゴタルトを持って颯爽と去って行った。
お義兄様……。
「いいことアルフちゃんッ! 絶対に、あんな男には負けるんじゃありませんよッ!」
「も、もちろんだよ、母上」
妹である私の前で、お義兄様を『あんな男』呼ばわりするなんて……!
それだけ夫人にとって私は、空気のような存在ということなのだろう……。
お義兄様のお力になれていないことが心底悔しくて、私は二人からは見えないように、テーブルの下で震える拳を握り締めた。
因みに翌週の剣術大会では、案の定お義兄様が圧勝したそうだ。
「イ、イーリス、た、ただ今をもって、君との婚約を破棄するッ!」
「――!!」
その翌月に開かれた、ヴァレニウス家主催の夜会の最中。
宴もたけなわとなったところで、唐突にアルフ様が私に人差し指を向けながら、震え声でそう宣言した。
そ、そんな――!
アルフ様の隣では、ヴァレニウス夫人が勝ち誇ったような笑みを浮かべている……。
来賓者たちも何事かと、好奇の目をこちらに向けて動向を窺っている。
「……どういうことでしょうかアルフ様。本日はヴァレニウス家主催の大事な夜会でございます。どうかご冗談はほどほどにしていただきたく存じます」
「もちろん冗談などではございませんことよ。これは我が家の総意です。そうよね、アルフちゃん、あなた?」
「は、はい! 母上!」
「う、うむ、そうだな」
ヴァレニウス夫人にそう訊かれ、満面の笑みで頷くアルフ様と、気まずそうに私から目を逸らすヴァレニウス伯爵。
この瞬間、私は全てを悟った。
――この婚約破棄劇は、ヴァレニウス夫人が仕組んだものだと。
婿養子であるヴァレニウス伯爵は、基本ヴァレニウス夫人の操り人形だ。
実質ヴァレニウス家は、ヴァレニウス夫人が掌握していると言っても過言ではない。
夫人が私との婚約を破棄させた理由は、私が元平民の分際で何かと盾突いていたからか――それともアルフ様が、ヨアキムお義兄様に何度も惨めな思いをさせられているからか――はたまたその両方か……。
いずれにせよ、このままではせっかく結んだヴァレニウス家との縁が、水の泡になってしまう……!
やっと私でも、お義父様とお義兄様のお役に立てると思ったのに……。
――いや、査察で今日はこの場にはいないお義父様とお義兄様のためにも、ここで簡単に引き下がるわけにはいかないわ。
「ヴァレニウス夫人、いくらそちらのほうが家格が上でも、これはあまりにも礼を失する行為ではございませんでしょうか? 元々この婚約は、ヴァレニウス家から我が家にいただいたお話でございます。どうか今一度貴族の矜持に則り、お考え直しいただけますように、お願い申し上げます」
私は深々と、夫人に頭を下げた。
「フン! だから元平民の小娘が、貴族の矜持を語るんじゃないわよッ! 平民は平民らしく、貴族の指示に大人しく従っていればいいの! おわかり?」
「くっ……!」
あまりの悔しさに、視界が水の膜で歪む。
嗚呼、ごめんなさいお義兄様……。
私に力がないばかりに……。
「頭を上げろイーリス。お前は何一つ、間違ったことは言っていない」
「「「――!!」」」
その時だった。
長年聞き慣れた心地良いバリトンボイスが私の鼓膜を震わせた。
う、噓……!
この声の主は、この場にはいないはず――。
「――お、お義兄様」
「遅れてすまなかったな、イーリス。思ったより査察が長引いてしまい、こんな時間になってしまった」
だが顔を上げると、そこには私のお義兄様が、いつもの包み込むような笑みを浮かべながら、私の肩に手を置いていたのである。
嗚呼、お義兄様――!
「ご、ごめんなさいお義兄様……。私の不手際で、こんなことになってしまって……」
「さっきも言っただろう。お前は何一つ、間違ったことはしていないよ。もっと自分に誇りを持て。お前が誰よりも頑張っていることは、俺が一番よくわかっているんだからな」
「お義兄様ぁ……!」
大きな手で頭を優しく撫でられたら、もうダメだった。
貴族令嬢としてあるまじきこととはわかっていながらも、私はその場で嗚咽した。
「フ、フン、このくらいのことで泣くなんて、みっともない。やはりアルフちゃんにあなたは相応しくありません!」
「ええ、俺も同感ですよ、夫人」
お義兄様……!?
「こんなに可愛いイーリスが、アルフみたいなボンクラに釣り合うはずがなかったんです。俺ももっと早くに、それに気付くべきでした」
「な、なんですって!?」
「き、貴様、今僕のことを、ボンクラと言ったな!?」
お義兄様はその場で私をそっと抱きしめた。
嗚呼、お義兄様、私は世界一の幸せ者です――。
お義兄様はヴァレニウス夫人を真っ直ぐ見据えると、こう言った。
「ヴァレニウス夫人、この婚約破棄、謹んでお受けいたします」
「っ! フン、随分殊勝じゃない」
「その代わり、後で泣きついても知りませんよ? もう二度と、俺はイーリスを手放すつもりはありませんからね」
私を抱きしめる手に、ギュッと力を込めるお義兄様。
お、お義兄様……!
「フン! 人前で家族同士で抱擁するなんて、気持ち悪いったらありゃしない!」
頭に特大ブーメラン刺さってますけど、大丈夫ですか夫人?
「言われなくても、そんな元平民の小娘に未練なんか微塵もないわよ。ねえアルフちゃん!?」
「は、はい、母上!」
二つ返事で深く頷くアルフ様。
結局アルフ様も、夫人の操り人形の一人に過ぎないのね。
ある意味可哀想なお方……。
「それを聞いて安心しました。では俺たちはこれで失礼いたします。行くぞ、イーリス」
「は、はい、お義兄様!」
私の肩に手を回しながら颯爽と去るお義兄様のことを、ヴァレニウス夫人は眉間に皺を寄せて、いつまでも睨んでいた。
「お義兄様、本当にごめんなさい。私のせいで、大事な婚約が台無しになってしまって……」
その帰りの馬車の中。
お義兄様と二人きりになって冷静になった途端、人前でお義兄様に抱きしめられた恥ずかしさと、私のせいで婚約を破棄されてしまった申し訳なさが同時に襲ってきて、頭がどうにかなりそうだった。
「俺は何度だって言うよイーリス。お前は何一つ、間違ったことはしていない。――むしろ俺は、婚約が破棄されてよかったとさえ思ってるんだ」
「え?」
お義兄様?
それは、どういう……。
「これでやっと、お前に婚約を申し込めるからな」
「――!!」
お義兄様はいつもの真っ直ぐな瞳を私に向けながら、真剣な表情でそう言った。
お義兄様ッ!?
「こ、こんな時に、冗談はやめてください!」
「もちろん冗談なんかじゃないよ。俺がこういう時冗談を言う性格じゃないのは、お前が一番よくわかってるだろう、イーリス?」
「そ、それは……」
確かにそうだけど……。
お義兄様が私のことを女として見てくれていたなんて、にわかには信じられないわ……。
「……ずっと黙っていたけど、実はイーリスを我が家の養子にしようと父上に頼んだのは、俺だったんだ」
「えっ!?」
そんな!?
不意に告げられた衝撃の事実に、頭の中が真っ白になる。
「俺が慰問で孤児院によく訪れていた時、孤児なのに一切悲観することなく、常に真面目に物事に打ち込んでいるイーリスの姿に、心を打たれたんだ」
「お義兄様……」
嗚呼、私こそ、貴族でありながら、孤児である私たちにも分け隔てなく慈悲を与えてくださるお義兄様に、ずっと憧れていました……。
「だからヴァレニウス家から婚約の打診がきた時は、胸が抉られるほど辛かった。……でも、イーリスが幸せになってくれるなら、我慢しようと必死に今日まで自分を抑えていたんだ」
「……そうだったのですか」
お義兄様にそこまで想っていただいていたなんて……。
「でもこうなったからには、もう俺は我慢しない。――俺と結婚してくれ、イーリス。一生お前のことを、幸せにしてみせるから」
お義兄様は私の両手をギュッと握りながら、頬を染めたお美しい顔を私に向けた。
「……はい、ありがとうございます。でも、私も絶対お義兄様のことを幸せにしてみせますから」
「ハハ、じゃあどっちが相手のことをより幸せにできるか、競争だな」
「フフ、そうですね」
でもきっとこの競争は、私の負けです。
だって既に私は、世界で一番幸せなんですから――。
「イーリスさん!? イーリスさんはいますか!?」
「――!」
それから数ヶ月が経ったある日。
突然ヴァレニウス夫人が、血相を変えてアルフ様と一緒に我が家に乗り込んできた。
「……我が家に何の御用でしょうかヴァレニウス夫人。婚約破棄の諸々の手続きは、全て済んだと存じますが」
暗にもうあなたとは他人なのだから、さっさと帰ってほしいというニュアンスも込める。
「フン! 光栄に思いなさい! 仕方ないからもう一度、アルフちゃんと婚約を結ぶことを許します! ねえアルフちゃん?」
「は、はい、母上!」
「…………は?」
夫人の言っている言葉の意味が理解できず、開いた口が塞がらなくなる。
私がもう一度、アルフ様と婚約?
じょ、冗談じゃないわ!
もう今や私は、お義兄様――じゃなかった、ヨアキムの婚約者なんだから!
「どういうことなのでしょうか、ヴァレニウス夫人。私との婚約破棄を希望されたのは、そちらではございませんか」
「フン! 過去のことにいちいちこだわるなんて、これだから元平民の小娘は! ……でも、そんなあなたでも、他の女に比べればマシだということに気付いたのです」
「……!」
他の女に比べれば……マシ?
「あれから何件も、アルフちゃんの新しい婚約者を探しました。でもどの小娘も甘やかされて育った箱入り娘ばかりで、貴族マナーもなっちゃいない!」
「はぁ……」
私は何を聞かされているんだろうという気分になってくる。
「何よりアルフちゃんに対する敬意が足りません! 女たるもの、主人のために誠心誠意尽くすのが義務というもの! それなのに自己主張が強い小娘しかいないんだから! これだから最近の若い者は! あなたもそう思うわよね、アルフちゃん!?」
「は、はい、母上!」
最早アルフ様は、「は、はい、母上!」しか言わない機械になってませんか?
それにこう言ってはなんですが、とても夫人は主人のために誠心誠意尽くしているタイプには見えないのですが。
「これはこれは、随分楽しそうな話をしていますね。俺も交ぜてもらえませんか?」
「「「――!!」」」
その時だった。
例によってヨアキムが、どこからともなく現れた。
どうしてこの人はいつも、風のように突然現れるのかしら??
ひょっとして私の影の中に潜んでたりする??
「あ、あなたには関係のない話ですヨアキムさん。私はイーリスさんと話をしているんですから」
「そういうわけにはいきませんよ。――何せ今のイーリスは、俺の婚約者ですからね」
「な、なんですって!?」
「そ、そんな!?」
ヨアキムは私の肩を抱き寄せながら、二人に対峙する。
嗚呼、私の今の婚約者は、何て頼もしいのかしら。
「こ、これは上級貴族である、ヴァレニウス家からの命令ですよッ! 子爵家如き下級貴族が、その命に逆らえるとでもお思い!?」
「――!」
……確かに、そこを突かれると痛い。
上級貴族と下級貴族では、身分は雲泥の差だ。
上級貴族の言うことは絶対というのが、我が国の不文律だけれど……。
思わずヨアキムの顔を見上げると、ヨアキムはいつもの威風堂々とした佇まいで、不敵な笑みを浮かべていた。
ヨアキム?
「上級貴族ですか。確かに上級貴族からの命とあらば一考が必要かもしれませんが、果たしていつまでヴァレニウス家は貴族でいられるのでしょうね?」
えっ!?
ど、どういうこと、ヨアキム!?
「な、なんであなたが、それを……」
「何、たまたま造船業者にツテがありましてね。そこで噂話を聞いたんですよ。ヴァレニウス家が造船事業で失敗して、多額の負債を抱えている、とね。その返済のため、近々爵位を売却するそうじゃありませんか」
「くっ……!」
そうなの!?
ヨアキムはそんな話、私には一度も……。
いえ、きっとヨアキムは、私にヴァレニウス家のことを二度と思い出してほしくなかったんだわ。
本当に、優しい人……。
「そ、そうなの母上!? そんな話、僕は聞いてないよ!?」
あら、まさかアルフ様にも秘密だったなんて。
まあ、夫人がアルフ様に秘密にしていた理由は、ヨアキムが私に秘密にしていた理由とは真逆でしょうけど。
「なんでも職人たちを不眠不休でこき使った挙句、ボイコットされたとか。いけませんよ夫人。時代は変わったんです。今は労働者と雇用主が、対等に支え合う時代です。旧時代的な考え方では、取り残されてしまいますよ」
「う、うるさいわねこの若造がッ! 私の半分も生きていないクセに、偉そうな口を利くんじゃないわよ!」
遂にマウントを取れるものが年齢くらいしかなくなってしまった夫人、哀れだわ……。
私は年を取ってもこうならないように、気を付けないと。
「帰るわよ、アルフちゃん!」
「は、はい、母上……」
帰り際、アルフ様は不安に満ち溢れた顔を私に向けてきたが、私は笑顔でそれを無視した。
「さて、と、今日は久しぶりにイーリスの作ったイチゴタルトが食べたいんだけど、いいかな?」
「うふふ、いいわよヨアキム。すぐ作るから、待っててね」
私は鼻歌交じりに、キッチンへと向かった。
既に今さっき起きたことは、どうでもよくなっていた。
拙作、『塩対応の結婚相手の本音らしきものを、従者さんがスケッチブックで暴露してきます』が、一迅社アイリス編集部様主催の「アイリスIF2大賞」で審査員特別賞を受賞いたしました。
2023年10月3日にアイリスNEO様より発売した、『ノベルアンソロジー◆訳あり婚編 訳あり婚なのに愛されモードに突入しました』に収録されております。
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