一一七七年七月 「時忠の犬」
安元三年七月 京 六波羅 平時忠邸
伊豆国の伊東荘を領する伊東祐親は、平家に近づき、その力を背景にして一族間の争いを制していった。ゆえに平家の犬として源頼朝の監視を行い、飼い主である平時忠への報告を欠かさなかった。
この年、大番役として京に上っていた祐親は、時忠に頼朝を殺すよう命じられると顔をこわばらせた。頼朝が伊豆に流されて十七年。品行方正な暮らしぶりは知られており、評判は悪くない。見張り役の祐親にとっても楽な仕事だった。だが、殺すとなると話は別だ。
「謀反の兆候がある。怪しい動きを見つけ次第、斬れ」
「息子どもに見張らせておりますが、そのようなことは一切…」
「信じぬ。そなたの目に見えず、耳に聞こえぬだけだ。必ずある」
「はぁ…。しかし、どうやって調べてよいものか」
「偽の密告で捕え、謀反の言葉を口にするまで拷問にかければいい」
時忠の声が凄みを帯びたので、祐親は動揺した顔を隠すために平伏した。
(先月起こった鹿ケ谷の事件は平家が仕組んだでっち上げに違いない)
この時期の京では、後白河法皇と平清盛が高倉天皇の後継問題で対立し、そんな中で起きたのが鹿ケ谷事件である。法皇の手足となる院近臣が平家打倒の陰謀を巡らせたとして、捜査の指揮を執る時忠によって一斉に処断された。この事件後、力を失った法皇は清盛の要求を飲むことになる。
(時忠様は良いかもしれぬが、源氏の棟梁を拷問で殺した伊東家はどうなる? 悪名が広まるだけではないか…)
「どうした? やり方がわからぬなら、そなた自身で試してみせようか?」
「い、いえ。滅相もない!」
「頼朝はかつて、己が動いたときはすでに勝っている、そうほざきおった。ならば、動く前に仕掛ければいい。勝負の時期を己が決められると思い込んでいる頼朝はさぞかし慌てるだろうよ。ダーハッハハハ!」
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安元三年八月 伊豆国 伊東祐親邸
大番役の任を解かれた祐親は伊豆へ戻ると、直ちに息子の祐清を呼んだ。
「時忠様から頼朝を謀反の罪で斬れと命ぜられた」
「父上、それはおかしい。佐殿をずっと見続けていましたが、謀反どころか血気に逸る郎党を叱るような御方です。女衆だけのときも、妹の八重姫に見張らせましたが、謀反の話が出たときなど一つも」
「密告があったのだ!」
「…父上。佐殿は若者から一目置かれています。謀殺のような真似をすれば、伊東家は伊豆の豪族の衆望を失います」
(そんなことは京からの道中、何度も考えたわ! だが、平家に逆らって生きていけるほど、この世は甘くないのだ。それにしても祐清が頼朝にこれほど親しみを覚えているとは…)
「明日、頼朝を捕えにゆく! 郎党を集めておけ!」
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安元三年八月 伊豆国 蛭ケ小島
その日の夜、伊東祐清は安藤藤九郎に事態の急を告げ、頼朝と面会する。慌てて逃亡を進める藤九郎とは対照的に頼朝は落ち着いていた。
「余は謀反を考えていないが、逃げれば謀反の証となる。それぐらいわかれ、阿呆」
「なにおう! でっちあげの罪で殺されるほうが阿呆だろうが!」
「藤九郎、今すぐ、ここによく訪れる者を集めろ」
「そうか! 若者を集めて祐親を殺すのだな」
「大事を告げてくれた祐清の父を殺すなどよく言えるな、阿呆。祐清、明日は八重姫も連れてこい。皆で楽しもう」
祐清を見送った後、頼朝が言った。
「藤九郎、流れが変わろうとしている」
「何言ってやがる。どう見ても窮地だろうが!」
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翌日、頼朝の家を訪れた伊東祐親は若者の多さに驚いた。頼朝を慕っている者たちだとすれば、捕え方次第では伊豆中に悪評が広まるだろう。
(覚悟の上だ。ここで手柄を上げれば、時忠様も伊豆一国を任せてくれるかもしれぬ)
祐親は頼朝の前に立ち、一気に罪状を読み上げる。その最中、頼朝が動じたところを一つも見せないので、祐親は苛立った。
「さあ、立て! 申し立てがあれば我が屋敷で聞く」
「祐親、書いてあることが正しければ、罪はどのくらいだ?」
「聞くまでもなかろう。謀反は死罪。縁者も流罪だ」
「そうか。なら、お前は流罪になる」
「はぁ? 言っていることがまるでわからぬ。中納言様が狂人と呼ぶのもわかる」
頼朝は黙って八重姫を見たので、祐親もつられて見ると、八重姫が腹を撫でていた。
「おい、まさか…。頼朝の子を宿しているのか…」
祐親は目の前が真っ暗になるのを感じた。平家に、時忠に知られたら身の破滅だ。
「時忠様の言う通り、私の目は節穴だった…。見張らせた子が篭絡されていたとは…」
「伊東家を守りたければ、時忠に正しく伝えるしかない。謀反の疑い無し、と」
「そうよ。お父さま、佐殿は謀反など口にしたことはないわ」
(世間知らずの娘よ。そうはいかぬのだ。頼朝を殺さねば、時忠様にどんな恐ろしい目に合わされるか…)
祐親の顔に無数の汗が浮かび、息が荒くなる。
「お父さま、大丈夫。これで汗を拭いて」
「こんなはずではなかった…。なぜわしが追い詰められている? どうしてこうなった? 誰のせいだ? …わかったぞ。こうすれば!」
祐親は太刀を取ると、鞘のまま八重姫の腹を打ち据えた。
「ギャッ! 千鶴丸に何をなさるのです。痛いっ!」
「生まれる前に名などつけるな! いいか、腹の子などいない! いないのだ! わしが姫と頼朝との縁を断ち切ってくれる!」
八重姫の腹から血が流れ出ても、打ち続ける祐親に、非難と悲鳴が飛び交う。そんな中、頼朝は落ち着いた声で問うた。
「そのあと、どうする?」
「貴様を謀反の罪で叩き切る! 自白などもういらぬ!」
「太刀を抜けば、時忠の怒りを買い、家が滅ぶぞ」
「馬鹿なことを! 時忠様の命で貴様を斬るのだ。どうして怒りを買う!」
「今、時忠は院との政争で手一杯だ。乱を望んでいない」
「乱? 乱だと? フハハハ! 貴様一人で何ができる。ここにいるヒヨッコどもを連れて戦うのか? 笑わせるな。一捻りで潰してくれる!」
「余は女子に好かれるらしい」
頼朝は再び黙って視線を動かすと、祐親はドキリとした。
(今度は誰を見ている。まさか、まさか…)
「お爺さま。わたくしの子には触れさせない」
「政子! 政子もそうなのか!」
祐親の娘と北条時政の間にできた孫娘が、祐親に挑むように睨んでくる。
「おのれぇ外道が! 娘だけではなく、孫にまで手を付けおって!」
「外道はお前だ。罪亡き者を陥れ、娘の腹の子を打ち殺した」
若者たちから「そうだ! そうだ!」と声が上がる。
「ぐぬうっ!」
「北条時政はお前ほど外道じゃなかった。他の者たちも」
(他の者だと? もし頼朝の縁者が伊豆中にいるとすれば、謀反の罪を受け入れず、戦いになるやもしれぬ。そうなったら…)
ありえない話ではなかった。古来より地方に名族がきた場合、地元の豪族たちは貴種の血を一族内に取り込もうと娘を抱かせることが多い。源氏嫡流の血を欲しがる豪族がいてもおかしくはなかった。
「くっ! いいだろう。貴様にかかった嫌疑については調べなおすことにする。だが、次に謀反の疑いがあれば決して許さぬ! 例え兵馬を交えてもだ!」
祐親が去ると広間は歓声に包まれた。
頼朝は八重姫に寄り添うと腹をやさしく撫でる。
「佐殿、申し訳ございません。千鶴丸を…」
「余の恩人だ。二代続けて命を助けてもらった」
頼朝は八重姫の裾から息絶えた鶏を取り出すと、静かに手を合わせた。