一一八三年七月 「割れる鎌倉」
寿永二年七月 京 六波羅 平時忠邸
平時実は慌ただしく郎党と雑色に家財を運ぶ指示をしていた。
「父上、都落ちが決まったのです。もう酒はお控えください」
「わしは義仲にも負けないだけの大軍を集めた。だが、崖相手では勝てぬ。たとえ兵を百万集めようともな。飲まずにやってられるか!」
四月に北陸追討に向かった平家軍は越前、加賀、能登で快勝したが、五月に越中で木曽義仲の主力軍と衝突。敵に幾倍する兵を持ちながら倶利伽羅峠で夜襲を受け、慌てた兵は暗闇で見えない崖へ導かれるように落ちていった。平家軍は建て直しを計るが、義仲の追撃を受け潰走。十万の大軍が雲散霧消したことで、京の平家は恐慌状態に陥っていた。
「時実、内府は何と言っていた?」
「父上には検非違使を使い、法皇を六波羅に連れてまいれ、と」
「他の一門には?」
「安徳天皇と二宮をお連れするようにと。三宮と四宮をどうするか悩んでおられました」
「譲位する相手をすべて連れていっても、義仲の手中には以仁王の子がいる。無駄なことだ。時実、検非違使を内裏へ向かわせろ」
「法皇の元ではないのですか?」
「あんな疫病神は義仲にくれてやれ。今、手に入れるべきは三種の神器」
「あっ!」
「たわけ。今頃、気づいたか。三種の神器が無ければ天皇の即位はできぬ。譲位できる皇子がどれだけいようがな」
「ハッ! 直ちに向かいます」
後白河法皇を比叡山に逃がした代わりに、時忠は三種の神器を手に入れた。
「ククク。次はわしの番だ。頼朝を討つ大駒を手中にする」
「大駒? 落ち延びる西国に、大豪族がいるのですか?」
「たわけ。狙うのは木曽義仲よ」
「お気は確かですか? 義仲は平家を討ちに来ている敵ですよ」
「わしが飼いならす。時実、義経と時家に密使を送れ」
七月末、京から栄華を誇った平家の姿が消え、木曽義仲が入京した。
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寿永二年十月 讃岐国 屋島 平時忠邸
九州大宰府へ落ち延びた平家だったが、味方は思うほど集まらなかった。時忠の予想に反し、後白河法皇は神器なきまま、後鳥羽天皇の即位を強行したためである。安徳天皇を擁している優位性が薄れた平家は拠点を四国へ変え、水軍をもって瀬戸内海を制する戦略に変え、力を蓄えていく。そして――。
「父上、ついに! 水島の戦いで木曽軍に大勝しました! 木曽義仲も備中国から京へ引き上げたようです」
「たわけ。平家が勝ったのではない。義仲が負けるべくして負けたのだ。兵糧不足による京での略奪。貴族社会を知らぬことで生まれる院との軋轢。義仲は大軍のように見えるが、その実、勝ちに便乗して京へ集まった諸国源氏の寄り合いでしかすぎぬ。頼朝上洛の噂を知れば義仲は不安になる。息子を人質に出したときに見た、頼朝の大軍が脳をよぎる」
「義経に出した密書が効いてきましたね。頼朝に上洛を促すように命じた」
「そして時家には上総広常を使い、上洛を止めろと命じた。だから決して上洛はしない」
「つまり上洛する鎌倉軍は父上が作り出した幻…」
「これで義仲を飼いならす支度はできた。今なら義仲も和議に乗るだろう。成れば平家・木曽の連合は越後国までを版図とし、頼朝にも王手がかかる。ダーハッハハハ!」
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寿永二年十月 相模国 鎌倉 大倉御所
平時家は連日行われている上洛派の源義経と坂東自立派の上総広常の論争を見ながら考える。
(父上の筋書きを知るのは私と義経だけ、上総広常は知らない片八百長。まったくの茶番だが、口論には挑発や侮辱が付き物だ。意図せず、互いに憎しみが生まれていく。さあ、どうする頼朝。放っておけば憎悪で坂東が割れる。そうなれば父上の勝ち)
だが、頼朝は一段高い畳の上で寝たまま起きようともしなかった。しびれを切らしたように安達藤九郎盛長が頼朝に向かって叫ぶ。
「おい! いい加減にしろ!」
「長い合議は嫌いだ。いるだけでありがたれ」
「嫌いなら、決断を下せ! それで合議は終わる」
「決める必要などない」
頼朝は人差し指を立てた。
「九朗と広常の相反する論争。一手だ。一手で片付ける」
「そんなことができれば苦労せぬ!」
「すでに手は打っている。藤九郎、梶原平三が帰ってきたら呼びに来い。お前らは気のすむまで合議しろ。たっぷりと時をかけてな」
「どこへ行く!」
頼朝は小指を立てた。
「政子には合議で帰れないと言ってある」
「なっ!? 合議を浮気の偽装に使うなあっ!」
頼朝が出て行った後、義経と広常は再び論争をはじめたが、浮気に利用されていると思うと、広常は馬鹿馬鹿しくなったのか、義経が挑発しても、乗ってこなかった。
(浮気に使われたことで怒りたいところだが、頼朝の言葉がそうはさせない。御家人すべてが二つの相反する主張を頼朝がどう裁くか気になっている。頼朝はおそらく法皇を使うはずだが、どう使うのか、それが読めない)
詳しくわからないままでは時忠へ密書を送ることもできず、時家は一人、頼朝の考えを想像することしかできなかった。
数日後、京から戻ってきた梶原平三景時は、多くの御家人が自分を出迎えにきたので驚いた。
(某はこんなにも慕われていたのか…)
勝手に感動している梶原平三を、御家人たちが合議の間に連れていくと、藤九郎がすぐに頼朝を呼んできた。
「さあ平三。話せ! 京で何をしてきた!」
「藤九郎、尋問のような聞き方をするな。某は鎌倉殿の命を受け、法皇と交渉をしていた。これを手に入れるために」
梶原平三は絹の布袋から恭しい手つきで書状を取り出した。
「院宣だ。中にはこう記してある。『東海・東山道等の庄土、服さざるの輩あらば、頼朝に触れて沙汰を致すべし』と」
「どういうことだ?」
「東海・東山道諸国に住む者はすべて鎌倉殿へ従えという意味だ。鎌倉と同盟している甲斐源氏に加え、義仲と共に京にいる近江・美濃源氏にも鎌倉の下につけと院が命令したのだ」
「源氏の棟梁ってわけか! そいつはいい! でも、どうしてこんな院宣がもらえたのだ?」
「止めていた年貢の納入の再開で取引をした。朝廷にはそれほど米がない」
頼朝が義経と上総広常の名を呼んだ。
「九朗、余の名代として上洛しろ」
「鎌倉殿、坂東を出るのは承服できませぬ!」
「広常、出るのは義経だけだ。坂東の御家人は一人もつけない」
「え!?」
義経だけではなく、御家人もざわめく。
「兄上、軍を持たずに上洛とはどういうことでしょうか?」
「院宣を渡す。坂東の西で兵を集めろ」
「鎌倉軍を使わずにですか…」
「余は敵だらけの中、格落ちの以仁王の令旨で集めた。お前が言っている上洛は口だけか?嫌なら他の弟に命じる」
「い、いえ! 必ずや集めてみせます!」
頼朝は上総広常の肩に手をおいた。
「広常、お前らは鎌倉でゆっくりしていろ。余は坂東武士を使わずに義仲と平家を討つ」
「ば、坂東の力がいらぬと…」
「難しい勝負ほど心が爆ぜる。政子相手の浮気と同じだ」
頼朝はそう言って笑うと、合議の間から出て行った。
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寿永二年十二月 相模国 鎌倉 上総広常邸
義経が兵を集めるため鎌倉を出ると、坂東御家人の中から上洛軍に加わりたいと申し出る者が続出した。坂東に籠っていては所領が増えず、武士としての名を挙げることもできない。そして何より頼朝に見捨てられるのではないかという恐怖が彼らの心を駆り立てた。上総広常は反対し続けたが、広常の周りから人が減っていき、非難の声が増えただけだった。
「なぜ、なぜこうなった…。私は坂東を守りたかっただけなのに…。このままでは、坂東一の豪族で居続けることも難しい。そうだ! そうなる前に、頼朝を殺し、この上総広常が坂東の主になればいい! そう思わぬか、時家殿」
落ちくぼんだ目で話す上総広常を見て、時家は潮時だと思った。
(この駒はもう死んだ。私も身の振り方を考えねばな)
その日の夜、時家は上総広常の謀反を梶原平三に密告した。
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寿永二年十二月 相模国 鎌倉 大倉御所
梶原平三が大倉御所内で上総広常を誅殺したことで、坂東自立派はいなくなり、次に開かれた合議で割れていた意見は統一される。
御家人が去った合議の間で、藤九郎と頼朝は二人だけになった。
「こうなることがわかっていたんじゃないか?」
「上総が挙兵してくれたほうが、おもしろかった」
「何を言っている!」
「九朗の元に坂東御家人がついていった。四万は優に超える」
「良いことではないか」
「藤九郎。もう義仲も平家も勝負相手には物足りない。退屈で心が死にそうだ」
「鎌倉殿…」
藤九郎の目には、頼朝の表情が平治の乱のときの頼朝と被って見えた。