一一八三年四月 「心の天秤」
寿永二年四月 京 六波羅 平時忠邸
平時忠の頼朝包囲網が破られてから二年。源頼朝は北坂東を制し、平家は西国の反乱を鎮めたが、飢饉の影響で各勢力とも大規模な軍事行動は行わなかった。そして飢饉が収まった寿永二年、兵糧の供給源である北陸を制圧するために、平家は大規模な軍事行動を起こそうとしていた。その戦略を担うのが平時忠である。時忠は十万近く動員する計画を立てていた。
その計画書を見ながら、時忠の息子・時実が首をかしげる。
「これほどの兵が必要でしょうか?」
「敵は多い」
「北陸の反平家豪族を討つだけではないのですか?」
「一つはそうだ。二つ、法皇。三つ、平家のお調子者。四つ、木曽義仲。まとめて相手するには大軍がいる」
「京に大軍を集めれば、法皇がおとなしくなるのはわかります。ですが、平家のお調子者というのは?」
「勝てば平家が強いと驕り、負ければ平家が弱いと怯えるたわけ者どもだ。たわけ者はどんなに強くても必ず負ける。なぜだかわかるか? 負けるまで戦うからだ。博打で勝ち逃げせず、有り金をはたくまで勝負し、首をくくるように」
「それと大軍を擁することと関係が?」
「大軍は兵糧を常に気にする必要がある。わしは北陸遠征の分までしか兵糧を渡さない。どんなたわけ者でも腹が減れば家に帰る」
「それに、大軍なら勝負も早い」
「うむ。木曽義仲が出てくる前に終わらせたい」
「義仲は父上が密かに和議を進めていた相手ではないですか?」
時忠は頼朝が平家との和議を進めるふりをして、危機を切り抜けたやり方を、義仲でやろうとした。ただし、時忠の策はふりではなく、本当に平家・義仲・奥州で同盟し、義仲と頼朝を潰し合わせるというものだった。実現すれば北陸を義仲と挟むことになり、今度の北陸征伐も簡単にできたはずだった。
「ふん! これを見ろ!」
時忠が投げて寄こしたのは鎌倉にいる時家からの密書だった。
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二カ月前、
寿永二年二月 相模国 鎌倉 大倉御所
時忠の次男・平時家は大倉御所で合議に加わっていた。梶原平三景時が平家と木曽義仲の間で和議が結ばれるという噂を報告すると、安達藤九郎盛長が頼朝に進言した。
「義仲だけでも厄介なのに、平家と合流されたら、鎌倉の危機だ! 先手を取って攻め込もう!」
時家が義父の上総広常と目を合わせると、広常が藤九郎の進言を制するように口を開いた。
「坂東の外へ出て戦うのは賛同しかねる」
「上総殿は、まだそんなことを言っているのか!」
「坂東の平定が進み、朝廷からの干渉もない。御家人は今の状態を好ましく思っている」
「それは貴様の一派だけだろう! もう鎌倉殿は貴様らへの借りは返したはずだ!」
「なあに、鎌倉殿には二年前、包囲を一通の書状で崩した知略がある。此度も良い知恵があるはずだ」
上総広常がそう言うと、皆が頼朝の顔を見た。
「全軍で義仲へ向かう。一兵たりとも鎌倉に残すな」
「おおっ! 戦うのだな!」
「鎌倉殿! 私は賛同できませぬ」
「何にだ? 上総」
「無論、坂東の外へ出ることです」
「なら、問題ない。合議は終わりだ。さっさと散れ」
「「はぁ?」」
御家人すべてがきょとんとする中、全軍に召集がかけられた。大規模な軍事行動は当然、義仲側に漏れる。鎌倉軍が義仲との国境へ迫るころには、木曽軍も国境に兵を集めており、両軍がにらみ合う形になった。
藤九郎がくやしそうに言う。
「鎌倉殿、全軍を集めたのはいいが、時をかけすぎて、敵に備える時を与えてしまった」
「備える時? 余が与えたのは考える時だ」
「戦い方を考えるってことだろ? 何が違う?」
「阿呆、お前の出番は無いから寝ていろ」
「これから戦だっていうのに出番が無いだと! 俺に先陣をさせない気か!」
藤九郎が騒いでいると、義仲の陣に使者に行っていた梶原平三景時がやってきた。
「おお! 決戦場を叩きつけてきたか! 義仲はどんな顔をしていた?」
「やかましい、藤九郎。鎌倉殿への報告を大声で遮るな」
「平三、義仲が出した和議の条件は?」
「はぁ? 和議だと」
「嫡男・清水冠者義高を鎌倉へ差し出すとのこと。ただ、表向きは大姫様の婿にしてほしいと。いかがいたしますか?」
「話を進めろ」
「御意」
梶原景時は再び、義仲の陣へ向かっていった。
「おいおい。まさか、ここまできて戦わないんじゃないだろうな。俺の燃え昂った心はどうなる!」
「知るか、阿呆」
「義仲も義仲だ。人質を出すなんて、急に日和りやがって!」
「急にじゃない。交渉の前からだ」
「なぜ、そんなことがわかる!」
「平家と義仲の和議交渉は本来、秘密裏に行われなければならないものだ。それがなぜ噂になったか? 考えられる理由は二つ。一つは噂を戦略の道具として使うこと。余が藤原秀衡や城長茂の矛先をかわしたときのやり方だ。だが、義仲が和議の噂が広めても何の益もない。秀衡に狙われてはいないし、余や武田信義を警戒させるだけだ」
「二つ目はなんだ?」
「秘密が漏れるほど、多くの人に話したのさ。それは義仲の迷いの大きさを表している」
「なら、こんな大軍を動かさずに、お得意の交渉をすれば良かったではないか」
「交渉では義仲の心の天秤は動かない。義仲が迷っていたのは、平家との和議が益となるかだ。たしかに二つが合流できれば、坂東に攻め込むのも容易だ。だが、二つの間には――」
「北陸がある!」
「義仲としては平家と所領が繋がれば、和議を結んだだろう。でも、その前に大軍が迫ればどうなる? 見えない平家の味方と、返答次第では敵味方、どちらにもなりうる目の前の大軍。義仲の天秤は鎌倉へ大きく傾く」
「それで、戦わない大軍を集めたのか。考える時を与えたのは、急に攻めれば義仲が慌てて、予期せぬ戦になるかもしれないからだな」
「鎌倉と結びたいと決めた時点で、義仲の心には負い目が生まれる。平家と結ぼうとしていたことを知っている鎌倉は果たして和議を受け入れてくれるだろうか、と。結果、自ら卑屈な条件を出してくる」
翌日、鎌倉と木曽の和議は結ばれ、両軍は引き上げた。
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再び、
寿永二年四月 京 六波羅 平時忠邸
時実は時家からの密書を読み終わると、ため息をついた。
「義仲が頼朝と結んだということは、北陸へ出てきますね」
「その気にさせぬための大軍だ。おびただしい兵を目にして、義仲が平家と結びたいと考え直せば御の字。頼朝の真似のようで癪だが…」
一カ月後、十万を号する平家の大軍が北陸に向けて進発した。