一一六〇年二月 「源太産衣」
平治二年二月 近江国
街道から外れた田舎道をさまようように歩いている男がいた。名を安達藤九郎盛長という。来ている鎧はボロボロだが、瞳だけは獲物を探すようにギラついていた。そのくせに人の気配がすれば獣のように身を隠す。人が見れば食い詰めた盗賊と思うに違いない。
「いったいどこに隠れていやがる…」
藤九郎が落ち武者狩りを避けながら、主の源頼朝を探し続けて早一カ月を超えた。
去る年の十二月に頼朝の父・義朝は、平清盛に負けた後、再起を計るため、息子の頼朝らを伴って東国へ落ち延びていった。しかし、美濃国に入る前に頼朝ははぐれてしまう。藤九郎は義朝に頼朝の捜索を命じられたのだ。
「探している間に義朝殿は長田親子の裏切りで殺され、頼朝殿の長兄の悪源太義平殿は京に引返して、清盛の命を狙うが、捕まって六条河原で梟首されたと聞く」
藤九郎は知らないが、頼朝の次兄の朝長も太ももに受けた矢傷で無くなっていた。
「いっそ死んでいてくれたほうがいい。佐殿は源氏の嫡男にふさわしくねえ」
平治の乱の折、気勢をあげる源氏軍を十二歳の少年・頼朝は冷めた目で見ていた。源氏嫡男の証の鎧『源太産衣』を身に着けながら、戦などまるで他人事のようだった。藤九郎に唯一、話しかけてきた言葉は「この鎧を売ればどのぐらいになる?」だ。そのとき頼朝の兄たちがこちらを見たので、藤九郎のほうが慌ててしまった。
なぜなら、二人の兄は生母の血筋が劣るという理由で嫡男から外され、『源太産衣』を羨ましそうに見ていたのを藤九郎は知っていたからだ。
「人の心も戦もわからぬ阿呆だ。戦が起こる前も、女官に手を出したり、悪所に行っては博打ばかりしていた。そんな放蕩息子が生き抜いているはずがねえ。そうだ、もう探しても無駄だ。とっとと坂東へ落ちよう」
藤九郎は捜索を打ち切りたいがために、そう言って己を納得させた。そのとき、近くの民家から鶏の鳴き声が聞こえてきた。鶏を飼っている家は珍しい。
「落ちると決めた途端にこれだ。天が落ち延びる前に、肉を食らい、精をつけろと言っている。俺は間違っていないってことだ」
藤九郎は民家の陰に身をひそめると太刀を抜いた。人は逃げても構わない。だが、鶏を外に逃がしてしまえば捕まえることはできない。藤九郎は中に入ると素早く戸を閉めた。
「動けば斬る! 黙ってその鶏を渡せ。鶏ごときで命を捨てたくはあるまい」
「ごときだって? お前はなんにもわかっちゃいない。藤九郎」
「なっ!? お、おぬしは佐殿!!」
藤九郎の目の前にいたのは烏帽子に直衣という貴族の格好をした頼朝だった。
頼朝は鶏の入った籠に餌をやりながら言った。
「これは闘鶏の鶏だ。腹を満たすより、質に取ったほうが役に立つ」
「まさか? 鶏を人質になど信じられぬ」
「闘鶏屋は強い鶏を失えば飢えて死ぬ。そして鶏が質なら余でも逃がすことはない」
(確かに佐殿が人質を捕え、逃がさぬようにするのは難しい。しかし、鶏を人質の代わりにするなど誰が考えつくだろうか…)
藤九郎は檻の中の鶏が二条天皇と後白河上皇に重なって見えた。頼朝が平治の乱で指揮を執っていたら、幽閉していた天皇と上皇を逃がさず、源氏が官軍から賊軍に転落することも無かったかもしれない。
「この家の主はどこへ?」
「渡した鎧を持って京へ行っている」
「鎧って! まさか源太産衣を渡したのか!」
「いろいろと世話をさせたからな」
「清和源氏に代々伝わる鎧だぞ! 感心して損したわ。なんと愚かな!」
「それなら、父や兄はもっと愚かだな」
「何を言う! 頭殿や義平殿も代々の鎧を着けたが、人にくれてやるなどしなかった! 大事に身に着けて…」
そこまで言って、藤九郎はハッとした。
「…逃げる途中、身を軽くするために捨てた」
「私は身を守るために使った。それが鎧の役目だろ?」
「ぐぐぐ…。納得できぬ! 頭殿は捨てたくて捨てたのではない! 苦渋の思いで!」
藤九郎がそこまで言ったとき、家の外から人の声が聞こえた。
「藤九郎、追捕の兵が来たらしい。目当ては私だ。お前は隠れていろ」
「ほら見ろ! 源太産衣を売ったバチが当たったのだ! 鶏を人質に取られれば飢えて死ぬだって? 阿呆が。佐殿の居場所を密告した恩賞をもらえれば鶏一羽など惜しくもないわ! 六条河原でさらし首になって死んでしまえ…。うっ、うっ…」
「怒るか泣くかどっちかにしろ」
「こうなれば…、斬り死にしてくれる」
「楽しみの邪魔をするな。鶏につつかせるぞ」
「うわっ!」
尻もちをつく藤九郎の上に頼朝は藁を被せた。
戸口が開かれると頼朝が落ち着いた声で言った。
「源左馬頭が嫡男、源右兵衛佐だ」
「貴様はもう解官されておる。名乗りたければ前をつけろ。某の名は平尾張守が家人、平弥平だ」
「弥平、お前を待っていた」
「某を?」
「お前の目に余はどう映っている?」
「逃げ隠れていたわりには身綺麗にしているが、それがどうし……っ!?」
弥平が途中で絶句したのを、藤九郎は藁の中で聞きながら不思議に思った。