兄弟の災難
雄斗は週二回のカウンセリングを日程として組んでいる。だが、それも困難になってきた。彼がカウンセリングを始めると頭痛を引き起こしたり、動悸がしたりするからだ。薫は急に変化していく雄斗の身体になにが起きたのかと、米倉にきいた。
「おそらく、彼は記憶の一部を思い出したのだろう。その記憶はトラウマの核に近く、思い出してしまうと身体が頭痛や動悸といった拒否反応を引き起こしているのかもしれない。もちろん、そうでない場合も考えられるが、トラウマと考えた方が辻褄は合う。ちなみに今回の頭痛は前回のような軽度ではない。片頭痛だ。それもかなり重度だ」
酷く顔面蒼白した雄斗と対面した薫は思わず、野菜ジュースを売店で買って渡そうかな、と心配してしまう。それぐらい雄斗はカウンセリングできる状態ではなかった。
「あー、薫さんお久しぶりです。すみません、何度もキャンセルにしちゃって。でも、もう大丈夫ですんで始めましょうか」
「本当に大丈夫なの? 思い出した記憶がトラウマで苦しくなっていないですか」
「ええ、前は辛かったですよ本当。やっと乗り越えられたんで話します。いや、話させてください。ほら、バイタルサインチェックってあるじゃないですか。看護士が脈拍や体温を測るアレ。あれしてるときにナースの人にきいたんですよ。ストレスを抱えたとき、どうやって発散してるんですかって。そしたら、ジョギングと友達と息抜きすることかなって教えてもらって。特に親友に話を聴いてもらったときは本当にスッキリするって言ってたんで、自分も倣ってみようと思ったんですけど。運動は無理ですもんね。でも自分、友達、居ないなって気付いてしまって。母には心配掛けちゃうんでダメじゃないですか。友達と話すのとなんか違うじゃないですか。それで人の心理に詳しい薫さんに話を聴いてほしくて」
「そう……だったのね。わかった。話を聴きます。でもね、この前も言ったけど、絶対無理だけはしないでくださいね。いくら私が心理に詳しいからって本当に真田さんの心は読めません。真田さんだけじゃなく、誰の心も私は読めません。人より知識があって、注意して話を聴くだけです。……よし、では真田さんの心の準備ができたら話しはじめてください」
薫は、いつもより弱弱しく言葉を繰り出す雄斗の話に、彼の心の叫びを垣間見た気がした。
「双子が学級も仲も離れ離れになって四年生に進級したときでした。弟の藤雄が女子に傷付けられたんです。人生で一度の初恋。元々、ネガティブになってしまっていた藤雄にとってそれは地獄だったと思います」
――クラスの女子に告白された。どうしてだと思う、雄ちゃん。
たしか、ある日の学校帰り。珍しく興奮気味に彼が口にした。
四年生に進級してから、二人だけで下校するようになってしまったはずだ。それまでは兄の雅雄も帰り道は一緒だった。自分と雅雄が横並びで、後ろに藤雄がついてくるという感じだった気がする。雅雄がサッカー部に入部してその均衡が崩れた。藤雄が夢中になって話す姿が鮮明に脳裏に蘇る。
告白した女子、仮に優子。優子の友達に彼は呼び出された。ちょうど四時間目が終わった給食前だという。場所はパソコン教室の前。人通りの少ない、閑散とした廊下をわけもわからず進む。
教室の前には優子が待っていた。藤雄は普段からクラスメイトと面識はなく、三年生になるまでその子が同じクラスであったかどうか。その程度の記憶で、優子は数少ない覚えていた中の一人だった。
「まず、突然呼び出してごめん、困ったよね」彼女はそう謝まった。
「大丈夫だけど」言葉を濁して相手をまじまじと見る。
僕は何か悪いことでもしたのだろうか。しばらくの沈黙が藤雄を不安にさせる。けれど、彼女の口から出た言葉はまったく予想しないことだった。
「三年生の時に藤雄君のことを知って、気になっていました」
好きです、と言い残し、頬を赤らめて微笑み優子は去った。それから優子は度々藤雄を意識して見てくるらしい。
「ねえ、どうしたら良いのかな。僕」
「藤雄自身、どう思っているの」
「うーん。なんか言われるまで気にしなかったけど、いまは意識しちゃって夜も眠れないんだよ。これってなんなのかな」
「恋じゃん。もしかして、誰かを好きになったことないの?」
周囲を見渡し、聴こえやしないかと注意を払って藤雄は頷いた。
「えっ、初恋じゃん。藤雄それ、すげえよ!」
とりあえず藤雄の気持ちを伝えたら、と自分は伝えた。藤雄の初恋を共有した自分はそれからアドバイスをしていった。藤雄のことだが、なんだか自分までもが幸せな気持ちになった。それも束の間の出来事で、初恋の結末はとても二人の予期せぬものとなった。
数日後、あっさりと藤雄の初恋は相思相愛になり、二人は小学四年生ながらも恋仲になったのである。
一方の自分は、夢中になっていた女子はいなかったのだろうか、と考えてみる。その頃、流行したドラマが強烈にフラッシュバックした。
期待の新人として、主人公の華を飾った新人女優は後々、大物女優になるだろうと皆が噂した。自分もそのファンの内の一人だったかもしれない。学校の女子より、画面越しのドラマに映る女優に釘付けされていただろう。
ネガティブだったはずの藤雄から惚気話が増え、久しぶりに彼の表情に笑顔が戻った。
交換日記。繁華街へのデート。初めて家に遊びに行ったときは心臓が口から飛び出しそうだと藤雄は語った。藤雄が付き合いだしてから、彼はネガティブ思考を止めていた。
「私ね、大輔君も好きになってしまったらしいの……。でね、ごめんだけど、藤雄君。どうしよう」
笑顔を浮かべ、悩んだようなフリをする女子。よく知らない男子と僕。しかし、そんな彼の目は自信たっぷりのまま僕を見つめていた。藤雄は訳が分からず、気付けば衝動的になりその場から走り去っていた。雄斗も、もし同じ立場なら、相当混乱して取り乱していただろう。
大輔君はクラスで物静かだけど、身長が高く空手を習っており、強そうなオーラがあった。優子は元々、好かれたい願望が強かったらしく、誰にでも愛嬌を振りまく女子だった。彼女が目立たない男子二人を巻き込んだのには理由があった。
優子はバスケットボール部に所属していて、部活の仲間たちと冴えない男子たちが一喜一憂する姿を見て楽しんでいたのだ。恋愛ゲームの如く友達四人で考えた、などと噂が流れた。もちろん藤雄達は笑い話の種として、クスクスと笑われていた。
リーダーは藤雄を呼び出した女子だった。リーダーがこの遊びを考え出した背景にはブームになったあのドラマがあった。
当時は……昔の学園恋愛ドラマのリメイクで、笑顔が可愛いモデルが流行していた。和風美人の瓜実顔で白く透き通った肌と、磨き上げられた歯は苦笑いでも好感をグンと上げてしまうほどだった。学校の大半がテレビを観ていただろう。そのドラマは一躍ブームとなった。主人公が二人の男子生徒から告白を受けて、どっちの男子を選ぶかで迷走する女子を演じている。無理やりドラマの配役にされてしまった藤雄と大輔君は真実に気付かず、一人の女子を巡り精一杯、優子にアピールをしていく。そんな腐った日常を彼女たちは夢見たのだろう。もちろん本気になど、微塵もなるつもりはなかったのだ。
自分も藤雄に、下校途中に切り出されるまで意識しなかった。親友が笑い者にされているとは知らず、友の恋愛を純粋に応援していたのだ。
「優子さんが急に冷たくなった。もう無理って、どういう意味なのかな」
別れ話を切り出された藤雄は、クラス中から笑い者にされていた。雄斗は精一杯話し掛けて慰めたが、藤雄は再び、元のネガティブに戻ってしまった。
「もう良いよ、雄ちゃん。僕が悪かったんだよ。もう終わったんだし、僕は大丈夫だから。もう人を好きにならないと思うし」
それに、と藤雄は薄く笑いかけていった。
――僕、疲れたよ。
「本当に長い間、お世話になりました。皆さんのお陰で、身体はこの通りピンピンですよ」
雄斗のリハビリが終了し、予定通り退院日になり、沼津第一総合病院のロビーでは世話してくれた看護士と米倉による見送りがあった。
……記憶が戻ればなあ。
みんな笑顔で見送っていたが、それぞれが胸の中で思っていることを雄斗は知っていた。そして雄斗もその事実をこの場で口にしてはいけないことを重々、心得ていた。
病院を出て、母とバス停のベンチで駅向けのバスを待っていた。
久し振りに新鮮な空気を身体に溜めこむように呼吸し、開放感を存分に味わっていると、一匹の野良猫が反対道をトコトコ歩いていた。
白くモフモフと肥えた貫禄のある猫。一瞬歩を止めると、片足上げて雄斗達の方を一瞥した。ブスっとした表情をチラっとさせて曲がり角から消えていった。
――あ、双子も白猫飼っていた時あったな。
双子の家は県営の団地でペット禁止だった。だけど、よく、あのお母さん許してくれたよな。双子が白猫を飼っていたという事実から雄斗は、目を瞑り断片的な記憶の発端を想起していった。
小学校四年生の夏。ちょうど、藤雄が失恋からネガティブ思考に戻って夏休みは始まっていた。夏休みは子どもが大好きなイベントだが、藤雄は相変わらずネガティブであった。
「朝早くラジオ体操になんか行きたくない。誰にも会いたくない」
スタンプ全部集めると図書券が貰えるよ?
そう藤雄のやる気を雅雄と二人で引き付けようとした。しかし、返ってきた言葉は余りにもひねくれていた。
「そんなの要らないし、本も読まない。大体、毎朝六時に起きてラジオ体操してもたったの五百円の図書券にしかならないのに起きるわけないよ。僕は寝ているから、二人で行ってきたら」
仕方なく雅雄と二人だけで自治区の公民館に向かってラジオ体操をしてくる。眠たい目を擦りながら、ゾンビのように集まって解散する姿は、夏の名物だったと思う。
スタンプが二週目も貯まり三週目に突入しようとする頃、帰り道にソレはいた。
白く毛むくじゃらの物体が鳴いていた。
ミーヨ……ミーヨ……ミーヨ。
雅雄と一緒に駆け寄ると、子猫がチヨチヨと何度も転びながら、ぐらつく足取りで雄斗達の方に向かってくる。
目もろくに開けない子猫は、まるで小さな怪獣のように一歩進むごとに、ミーヨ、と鳴く。それから判っているというように雅雄のスポーツシューズに突っ込んでいく。
「雄ちゃん、コイツ可愛いな」雅雄はそう言いながら小さな怪獣の頭を指先で撫でた。
「俺、ミーちゃん飼う」
雅雄はそう言って怪獣を大事そうに抱き上げ、自分の家に走って行った。あとで聞いたら、雅雄はあの後コッソリと家に入り、冷蔵庫の牛乳を子猫にあげているところを母親に見つかったという。こっぴどく叱られながらも、説得に次ぐ説得を重ね、雅雄が面倒を見ることで納得してもらえたそうだ。
「でもな、一つ面白い発見があってな。俺、すぐ子猫の名前、ミーちゃんって呼んだろ」
そう、雅雄は子猫の名前を付けてから自分の家に走って行ったのだ。
「俺、てっきりメスかと思ったんだよな? そしたらアイツ、オスだったんだよ。でも、アイツ会った時、ミーミーミーミ泣いてたし、それに《ちゃん》付けの方が愛着湧くだろ」雅雄は途中から笑いながら説明した。
こいつは……凄い。前向き過ぎる。雄斗は確かに呆れていたことを思い出す。
雅雄といると本当に悩みなんか無くなってしまう感覚に落とされそうになる。雅雄は自分自身だけでなく、近くに居る人も前向きな気持ちにする、弱い魔法をかけるようだ。
魔法の効果は、雅雄と会話してる時だけ。バイバイして三分過ぎると現実に戻ります――。
雅雄は母親との《ミーちゃん》を飼うにあたってのルールを、楽勝楽勝と語った。
・エサは雅雄があげ、フンも片づけること。
・お風呂は週に一回は入れること。
・外から戻って来る時も足を拭いてから家にあげること。
・近所からクレームが来ないように躾けること。
・最期まで面倒見ること。
「おいおい、それって本当に部活と両立できるのかよ」
大丈夫、大丈夫と雅雄は笑顔で払い除けた。
双子の家に行く度に、ミーちゃんを見つけた時の黒く汚れ弱っていた姿と見違える。見る度にすくすくと成長し、白く艶の良い毛並みがモコモコと触り心地が良かった。
小さな怪獣も、やがて立派なオス猫に成長していく。白猫はいつも雅雄に付きっきりで、学校に行くときも玄関までずっと付いてきては鳴いて引き止めるらしい。
一度脱走して学校まで付いて来た、と雅雄が腹を抱えて笑いながら話していた。凄く相思相愛だなと雄斗は思った。人と猫。異生間交流とでもいうのだろうか。とにかく、雅雄は猫に、癒されていた。猫は雅雄に、至極当然のように懐いた。眠る時は雅雄の足と足の間か、顔の近くで一緒に眠っていたそうだ。
ミーちゃんは雅雄達家族はもちろん。雄斗も遊びに行く度に顔と声を覚えたのか。呼んだら近づいてくるようになった。白い綺麗な毛並みと青い瞳からは、高貴でセレブの猫に見えるが猫じゃらしにじゃれたり追いかけっこして遊んだりと、雅雄と同じで人懐っこく活発に育った。
藤雄には、そこまで寄り添おうとしなかったミーちゃんだったが、ある時期から藤雄の傍に居座るようになった。そのことを雅雄に問い訪ねても、いつも通りの呑気に前向きな言葉を口にした。
「ほら、藤って暗いじゃん。だからミーちゃんパワーで元気出せやって気持ちになるんじゃん。それに猫って、ちょっとツンデレっていうじゃん。俺はあとの甘えを存分に味わえるし、ラッキーラッキーだよな」
雅雄が前向きな発言をしてから一週間。二週間。一ヶ月経っても結局、ミーちゃんは雅雄の傍に近づくことは無くなった。
雄斗が見る度に身体中にケガを負い、白く優美な毛並みも黒く汚れていった。徐々に酷くなり、やがて雅雄達の家には白い怪獣の姿は見えなくなった。帰って来なくなったらしい。
ミーちゃんが居なくなっても、雅雄は相変わらずのポジティブ思考だった。
「アイツ、ちょっとなよってた所あっただろ。だからケンカして鍛えてたんだよな、きっと。そんで多分、いまごろアイツは修行の真っ最中なんだよ。だから、俺たちもアイツに負けないように頑張ろうぜ」
雅雄はそう言って、今日は練習があるからと校庭のグラウンドに走っていった。
アイツ……。
――どうして、ミーちゃんを名前で呼ばなかったのだろうか。
雄斗は雅雄の言葉に疑問を感じたが、白い怪獣のことを思い出す機会と同時に消えていった。雄斗にとって解決しなきゃいけない問題ではなかったが、思い出す度に胸に引っ掛かる感覚を覚えた。
「凄い部屋ね~」白石薫は雄斗の部屋を見渡しながら答える。
赤と黒のダーツの的。所狭しとパズルの壁。作者別に並んだ小説の本棚。天井に張られたWORLDHELLのポスター。ドア前に同じ歌手のCDが入ったウォールポケット。インテリチックな書斎机には山積みされた数独本。その横にはルービックキューブ、パソコン、ハロウィン用の仮面。瓶に入った蝋燭。なぜか万華鏡や会議用の指示棒までもが、乱雑に放置されていた。
「どう、実家に帰って自分の部屋を見た気分は」
「うーん。自分が家を出ていったあとも母がそのままにしてくれていたのは嬉しいんですが、なんともピンとこない感じですよね。本好きだったなんて、ビックリしてますもん」机上の物を一つずつ手に取って確かめているようだ。雄斗は顔を歪ませ、焦れったさを無理やり苦笑いで抑え込んだ。
「なんかこれ良い匂いがする」
雄斗が鼻を近づけ、薫に差し出したものは瓶に入った蝋燭だった。
「あ、これアロマキャンドルじゃない? ただの蝋燭じゃなくて、火を燈すとリラックスする匂いを出してくれるんだよ。良いね、これカウンセリング中にやってみよっか」
雄斗は、ふーんと興味ない素振りをしながらダーツをしてみた。見事なまでに針が円の外の壁に激突して無様に落ちた。残りの一投でようやく右斜め、数字の四と一八の間に刺さる。得点なし。
次にルービックキューブに手を延ばしたが、カシャカシャと数回動かしてやめた。
薫は気づいていた。そして、雄斗もいまので理解したらしい。
ダーツもルービックキューブも記憶が戻らなければ、巧くできないことを。薫同様に雄斗もまた、知らない人の部屋に居ると感じているのだろう。
薫がカウンセリングを開始して十五分が経過した。先日思い出した、雅雄の猫について話した。
「うちも猫飼っていたけど、茶トラとハチワレ。猫って、死期が近づくと主人の元から姿を消すっていうじゃない。それにしても、どうして突然、藤雄の側にミーちゃんは行ったんだろうね」薫はいつものようにメモを取りながら、時に質問を投げかける。
「さあ、どうなんだろうね。動物は本能的にわかっちゃうのかな。その時期は知らなかったんだけどね、あとで藤雄から聞いたんだ。……悪いことをしていたんだ、藤雄」
「えっ。なにをやらかしてしまったの」
薫は走らせていたペンを止めて話を促した。表情が強張いくのが自分でも分かった。
「犯罪だよ。小学生だから少年院に行くことはなかったけど、彼の人生の最悪な失敗だったんじゃないかな」
藤雄が犯した罪。それを知ったのは、藤雄と雄斗が小学五年生に進級した晩夏のこと。藤雄はある男子とつるむようになっていた。
ネガティブな藤雄が? そんな風に思うこともあったが藤雄にも友達がいたのだ。
「友達も僕と同じ考え方だったんだ。〝自分が悪い〟……そういった考えなんだ。でもね、友達は考えをそこで止めなかった。『自分が悪い。でも、この世界も悪いんだ。そうなんだよ』そう言ったんだ」
藤雄は歪んだ友達と遊ぶようになり、溜めていた感情を解放していった。
――なあ、お菓子を食べに行こうぜ。
「放課後、僕は友達に誘われ、街の栄えにあるゲームセンターで遊んでいた時だった。彼の目は日常に退屈したように精気が無かった。僕がお金を持っていないことを伝えると『大丈夫だよ、この世界も悪いんだから』と意味不明な返事をして、笑みを浮かべたんだ。彼はゲームセンターを出ると近くにある駄菓子屋に入り、品定めをしながらお菓子を見ていく。通路の狭い棚を一周し、二週目に入ろうとして、膝上程の棚を見入るようにしゃがみ込んだ。三つ程、お菓子を手に取り、店主から死角になっている所で、ズボンのポケットに入れた。明らかな万引きだった。僕でもそれが犯罪だと知っていたさ。でも、あっけに取られ、そのまま見過ごしてしまった。彼は店を出て、ほら、と当然のようにお菓子を差し出した」
藤雄は話を一旦区切り、鼻を啜った。自分の行いを一から思い出して、後悔の荒波が彼を蝕んでいた。ごめん、と少し落ち着いてから後悔の話を続けた。
「彼には全く悪びれる素振りもなく、ただ好きなお菓子をポケットに入れる。当たり前というように行動に移していった。僕は淡々とこなされていく作業を毎回、極自然のように目の当たりする。罪の意識は次第に消えていった。馬鹿みたいに悪さをすることに平気になっていたみたいだ。僕もお菓子を盗った。いや、お菓子だけじゃない。彼と僕は、隠せる物で好きな物はみんな盗っていった。流行中のカードゲーム。火薬を使った銃の玩具。他の面白そうな玩具も全部盗った。場所も駄菓子屋、スーパー、ホームセンターと毎回、僕らは最高を求めて街を闊歩していた。満足される日は来ないのに」
話をする藤雄に、次々と変化が起こり始めていく。頭の血管が浮き出て、目頭を押さえ隠した手の下から涙が零れるのを自分はジッと傍で見ているしかなかった。いや違う、何も変化が無かったわけではない。
正確には鼻の奥の空洞が重く、拡がっていくのを感じていた。最初に鼻が痺れたようになり、痺れは涙腺を緩めた。
藤雄の感情と自分が同期するのは時間の問題だった。藤雄が話を再開するが、そこから最後まで震える声を抑える程、彼の精神は強くなかった。
「いつものように彼とゲームセンターで遊んだあとにスーパーでお菓子を盗ろうと思ったら、買い物中の女性に腕を掴まれた。『ねえ君、ちょっと来てくれないかな』女性に誘導されながら、僕らは事務所に連れていかれた。事務所で店長らしき人と女性(あとで聞いたら万引きGメンだった)に問い詰められて、僕らは万引きを認めた」
警察と先生と親が来るまで、友達は黙って不貞腐れていたようだ。その時に僕の呪い解かれ、ようやく我にかえった。
自分が平然と人の物を取っていたという事実に、善悪を判断するのを止めてしまった自分に、後悔と憤りを感じていた。二つの感情は、弱い藤雄の涙腺をノックした。事務所には藤雄の鳴き声が弱弱しく、だけどしっかりと反響していたそうだ。
今までどれだけの水分を排出したのだろう。記憶の中の藤雄は、澄んだ涙が赤く腫れた目から流れ落ちてった。
たとえ小さな罪でも藤雄は、後生ずっと背負い続けるだろう。彼は悲観的で行動力や社交性に欠けるが、人一倍の純粋であることを雄斗は知っている。
藤雄は、いまどこにいるのだろう。どこにいて、なにを考えてなにを受け入れるのか。なにを拒み、なにを、なにを……会いたい。彼の如何なんてどうでもいい。一目でいい、一言でもなにか、顔を突き合わせて言ってくれないだろうか。
雄斗は罪を犯した小学生の友達のように、ただただ涙が溢れていき、その涙に居るはずのない彼を映した。
いつもより緊張した気持ちで薫は先程から何度も腕時計に視線を落とす。男性との待ち合わせなんていつぶりなんだろう、と変に気持ちがゆらゆらしていた。
静恵に頼んで〝雄斗の唯一の知り合い〟という拓也君と会う約束を交わしたのは静恵が拓也に連絡を入れて三日たった頃だった。
「沼津第一総合病院の最寄り駅に土曜日の三時に待ち合わせで、拓也君は青のニット帽を被って黒縁眼鏡、マスクという出で立ちだから、必ず見逃さないで声を掛けること」
静恵から電話が入った時、薫は、えっと思わず声が上擦った。大丈夫よ、あなた専門だから、と静恵は早口で捲し立てて一方的に会話を終了させた。
どうにかこうにか拓也と会えた薫は、口を半開きにさせたまま拓也のあとをついていく。拓也はそのままスタスタと駅の喫茶店に入った。
「すっごい、挙動不審だからさ、もう少し冷静になって」拓也は喫茶店で運ばれてきたアイスココアを片手にいった。
「私、知ってます。サイキックスのボーカルの方ですよね? 友達に勧められてファンになりました。友達はサイキックスの大ファンなんです。彼に会わせてあげたいくらい」
薫は臨床心理士でプロだ。精神的に並みより強いと思う。だが、相手が芸能人だと知らずに、さらに若者が注目するバンドのボーカルがいきなり目の前に現れたら、驚愕するのが当たり前ではないか。私は間違っているのだろうか、と薫はプロの自信がグラついていると感じつつアイスコーヒーを口にした。薫は臨床心理士である前に、一人の一般人であることを忘れていた。
一呼吸ついて冷静になる。
「すみません、突然。失礼しました。真田雄斗さんの友人とうかがってます。単刀直入ですが、彼の周りに双子が居たかどうかを確認したいのです」
「双子?」
はい、と応じた薫は、ようやく自分の流れで会話が成立していると落ち着きを取り戻していた。今までの雄斗とのカウンセリングを順を追って説明していった。
「なるほどね、うーん……。確かに雅雄と藤雄って名前はどっかで聞いたことあるんだけどな。もしかしたら、高校の時に雄斗から聞いたかもしれないな」
拓也は期待を込め過去の記憶を辿ってみるが、その顔が晴れることはなかった。
「実を言うと、雄斗とは高校で知り合ってるんだ。だから小、中は別だったわけ。もしかしたら、その双子って奴は別の高校に進んだのかもしれないな」
拓也は高校時代を思い出しながら、同級生に双子は居なかったと薫に伝えた。
「要件は分かった。とりあえず、高校の奴らに雄斗と同じ小中の奴らが居るか聞いてみるよ。それで良いか」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」薫は、丁寧に頭を下げながらお礼をいった。
「いいよいいよ、これも雄斗の記憶の為だろ」笑ったあとで急に拓也の顔が曇った。
拓也は訝しげに、「君、ところでいくつ」と訊いた。
薫が年齢を伝えると「なんだ、同い年じゃん。全然タメ口で良いよ」と顔を綻ばせた。メディアで見るよりも良い人だな、と薫は待ち合わせのときの緊張感は全く感じなくなっていた。
部屋を隅々まで目を凝らして睨んでみるが、思い出す気配は感じられない。雄斗は退院してから、なにかと試行錯誤してみても自分と双子の記憶が甦る契機を掴めずにいた。
ダメだ、まるで他人の部屋だ。椅子に座り貧相な体躯を思いっきり仰け反らすと、他人の部屋が逆さまになる。
少し肩の荷が下りたようで気持ちいい。下に蛍光灯があって、上に本棚、地面と変な絵図になる。本棚は隈なく手に取ってみたがダメだった。
雄斗は仰け反ったまま、下の蛍光灯の方に視線を移した。その時、本棚の下に長方形の木みたいな物があるのが見えた。
「何だあれ」
椅子から立ち上がり、本棚の後ろの隙間から覗くとクローゼットがあった。そして今まで気付かなかったが本棚はキャスターが付いていて動くようになっていたのだ。本棚を動かしてクローゼットを開けると、ガラクタがぎゅうぎゅうに積み上げられていた。ガラクタのラケットに釘付けになった時、ズキッと電流が流れたような痛みがこめかみに走った。
「もしかして、雅雄の……」
断片的な映像が脳内で再生された。
「なあ、雄も一緒にテニスやってみようぜ」
中学、高校と雅雄はサッカーを辞めて硬式テニス部に入部した。
サッカーを小学生で辞めた訳を聞いても「テニスが楽しそうじゃん」とか「なんとなく」とか「友達に誘われた」など聞くたびに理由がコロコロと変わっている。それを雅雄に問い詰めても、まあいまが楽しければいいじゃんとポジティブな発言が返ってくるのだ。
「これやるよ」雅雄が入部当初に買った中古のラケットを貰い、雄斗はたまに雅雄に習うのだった。いつものようにテニスの誘いがあったとき、「怠いから」と断ろうとすると、有無を言わせない雅雄の無邪気な笑顔があり、結果、汗を流すことになるのだ。
「結構ラリーが続くようになったな」雅雄がスポーツドリンクを飲み干し、無垢な笑顔を向ける。
雄斗はテニス部に入らないが、アクティブな雅雄のお陰で、習いたてのテニス部員よりは上手いと思う。
「こんなに動いたの久し振りだよ。雅が左右に振って動かすんだもん、しんどいよ。それに全部ギリギリ取れるような場所だし、何かムカつくなあ」水で冷やしたタオルで顔を覆ったまま答える。
しばらく場が静まり、雅雄が口を開かないことに異変を感じた雄斗は、タオルを取り雅雄の様子を窺う。
「どうした、いつもと様子が違うな」
「ちょっと色々あってな。俺にしては珍しくへこんだわ」普段の活き活きとした表情を崩して、雅雄は寂しそうに笑った。雄斗は、初めて彼の弱音を聞いた。
「俺が中学校からテニスしてるのは知ってるだろ。俺は初心者で、周りのみんなも似たようなもんだった。でも、元々運動部で足の速さには自信があったし、周りの奴らも文系ばかりが揃っていた。俺はすぐにコツも掴んで上達するのが早かった。みんなも少しずつ慣れて上達していったが、俺は常に上位にいた。俺はそんな中で、部員の奴と親友の仲になった。彼は努力家でいつも頑張っていた。俺が身体的に優れていたように彼は精神的な面で優れていた。彼は俺にどうしたら上手になるかを訊き、俺は彼にどうしたら忍耐強くなるのかを訊いたりする関係で常に向上心を滾らせていた。しかし、そんな彼にも欠点があった。お調子者だった。並みのお調子者だったら良かったんだけどな。彼が俺と仲良くなるにつれ、隠していた欠点が徐々に露呈していった。場の空気を察して、軽いジョークを口にする粋な奴だと思っていた。彼は次第に、人の名前を馬鹿にするように呼び始めたんだ。俺の名前を〝ガオー〟と茶化しはじめた。ライオンの真似事までして。初めは俺もちょっとだけ乗ってたんだけど、次第に彼の図々しさに怒りを覚えていったんだ。「今日は動物園は休園か」とか「危ないぞ。猛獣が居ます、避難するんだ」なんて言われたら誰でも怒るだろ、普通。俺は怒りを覚えて限界に達したら無視したくなる。まるで彼が居ないように学校生活を送る。それが俺の中の答えだった。実際、その方が楽だったからな」
ハハハハハハはぁ、ふぅ……。雅雄は似合わない作り笑いをわざとした。
「ある日、俺の対応を阻害してきた男がいた。担当の顧問だよ。その時期中三で、俺は部将で顧問から『部将がみんなに隔てなくコミュニケーションが取れないと困る。先生が間を持つから仲直りをしてくれ』と頼み込まれて、俺も周りを巻き込むのも迷惑だし一度だけなら、と折れて仲直りしたんだ。それから以前の茶化しが嘘みたいに仲良くなってさ。『悪ふざけが過ぎた、ごめんな』と恥ずかしいぐらい真剣に謝ってくれて、コイツが親友で良かったと、あのときは心の底から思ったよ。あのときは本当に自分がゲイじゃないかって疑うくらいに、親友として一緒に学校生活を送っていたんだ。高校一年まではな」
先程のラリーで得られた高揚感と熱気は、ときすでに二人から消え去っていた。話に夢中になっていた雅雄も冷えた汗が冷たくなり、少しでも温めようと擦るように首筋を拭いた。
「彼のお調子者は高校一年まで冬眠していたんだ。この前、春休みあったろ、二週間程の短いやつ。春休み中、俺はのんびりと家で過ごしていたんだ。休み半ばの夜にアイツから電話があってな。家に泊まらせてくれと言われて、俺は何だか高校生らしいなってワクワクして二つ返事で承諾したよ。雄も知ってると思うけど、俺の部屋って藤と一緒だろ。だから藤にお願いしてリビングで寝てもらったんだ。俺だけの部屋になって、俺は朝までアイツと語り合う予定でな。学校の嫌いな奴や、部活のことや、たまに好きな女子の話なんかしてさ。最後は真剣に将来のことを語り合って、お互い頑張ろうなって言って、昼まで眠って。俺たちがオッサンになっても、あの話したの覚えているかって感じに思い出にしたかったなぁ。でも現実は違った。実際に来たのはアイツだけじゃなくて、俺が嫌っている友達をアイツは知らずか二、三名呼んで、どんちゃん騒ぎ。高校生だから酒じゃなくてジュースで、お菓子を散らかして、部屋を汚して馬鹿みたいに笑っていた。俺は一人だけ無視してパソコンをいじっていた。心底がっかりしたよ。アイツらが家に来たときは、まだ『次があれば良いか』なんて思っていたけど、最後はパソコンを閉じて、居たたまれない気持ちで、ベランダに出て、夜風が身震いさせる寒いなかジッとしてた。深夜三時ぐらいだよ? 面白いでしょ。なにを考えていたかあんまり憶えてないけど、俺って友達選ぶの下手なんだな、次は慎重に選ぼうって問題解決に辿り着いたな……。ある意味、凄くねっ俺。やっぱり人生なんとかなるんだね」
雅雄はサラッと言い残し、笑いながらトイレに立った。彼の後ろ姿は不思議と小さく見えた。
「雅雄は、あのとき本当に笑っていたのだろうか」
雄斗は一刻も早く雅雄に会いたくて彼らの情報があるかクローゼットを整理しはじめた。
「それってなんか切ない話だね。ポジティブ過ぎるような感じがするんだよなあ、雅雄君。なんかなあ……」
「あ、ごめん。まだ自分の記憶全部は戻ってないんだけど、双子と過ごした断片的な記憶なら――」
そうじゃなくて、と薫は雄斗の話を遮る。
「双子の不幸な話ばっかり聴いてる気がする。いい思い出はないのかい、双子の話で」
薫の言葉に、思わず雄斗は噴き出した。
「なによ」
「いや、なんでもない」
雄斗は、薫がカウンセリング中であることを忘れて、雄斗と共に双子を気にかけている事実に気づいていたが伝えなかった。正しく表現するならば、伝えたくなかった。自分自身でもそんな感情になるなんて思ってもみなかったが、その感情は記憶に関係なく、生物すべてに備わっているのかもしれないと感じた。
自分は、白石薫という女性が好きなんだ――。
薫さんと話している時間が自分のなかで大きく環を描き、幸せな気持ちのまま時間の流れを早くさせる。目の前にいる薫に、ハッキリと言葉にして伝えられない。胸に残った毒は、知らず知らずのうちに自分の心を蝕んでいった。
それは恋に囚われた人がかかる病気。恋煩い。
「ん……。双子の良い話か」
雄斗が思案しているとまた、ズキンと頭痛がした。雄斗は瞬時に理解していた。この痛みが走ったあと、自分は雅雄の記憶を思い出したのだ。きっとまたなにかが脳裏に残るはず。
「どうしたの、頭が痛いの。大丈夫?」
薫が顔を覗き込むように近づけたので、雄斗は思わず顔を背ける。感の良い薫さんなら、目の前の男は、自分に恋をしていると簡単に見抜くに違いない。そうなると、次回からカウンセリングは誰かと交代になってしまうかもしれない。それだけはなんとしてでも阻止しなければ。
恍惚顔を隠した束の間、眠りから覚めたモノクロのシーンが瞼の裏を覆う。モノクロはやがて彩り、無声映画に音が吹き込まれ彼を魅了した。
「真田さん、大丈夫ですか。私の声聴こえていますか?」
神妙な顔で再び薫が訊いてくるので、雄斗は現状を説明した。薫は慌ててボイスレコーダーを操作して、雄斗は脳内に流れる記憶をなるべく伝わるように実況した。
記憶を取り戻すためのカウンセリングだが、会話の内容は一方が喋り続けるだけの異様な光景。
この関係は記憶が取り戻したのならきっと解消する。気持ちを知られてもダメ。記憶が戻ってもダメ。問題は記憶が戻り、気持ちを整理する時間が必要だと、雄斗はいつの間にか理解した。
「雅雄だと思うんだけど、なんか笑ってる……」
高校二年の夏休み、近所の喫茶店に来るよう、雅雄に呼び出されたのだ。連絡はいつものように他愛なくしていたが、高校ではクラスがバラバラで顔を合わせて話す機会が減り、疎遠になっていた。なので連絡を取り合っているといっても雄斗にとっては、顔を合わせて話すことに清々しい気持ちを抱いていた。
「久し振りだな、こうして会うのも。良いことあったのか」
「お、おう。あったんだけど。なんで知ってるんだ。もう、噂になってるのか」雅雄は雄斗の発言に狼狽え、噛みながらも恐る恐る尋ねた。
「こうして会うことは稀だし、良いことがあった。そんな顔してる。噂は知らないよ。どんな噂だよ」
「それなら、良かった。噂になるまえに俺の口から話す。実は、俺な。彼女ができたんだ」
「はあ⁉」
雄斗の驚嘆に、飲み物を運んできたウェイトレスがトレイをグラつかせ、オレンジジュースを零しそうになった。
「店内ではお静かに願います」黒い髪をゴムで後ろに束ねた彼女は、読書用眼鏡の奥で冷めた目を向けた。
「だから、俺に彼女ができたんだよ」
雄斗の二の舞にならぬように、雅雄はニヤついて話しはじめた。
「始まりは入学式の日まで遡る。入学式が午前中で終わって、俺は帰り道を歩いていたんだ。同じ高校の一年生も大勢いてな、それぞれが友達や親や兄弟との会話に夢中になっていた。そんな同一方向の群れを縫うように、歩いてくる女子がいたんだよ。その女子もその日が入学式だったんだな。新しい制服を身に着けていた。しかし、うちの制服とは違った。たぶん、あれは私立の高校の制服だろうな。彼女はただ一人で歩いていた。また表情が何故か悲しそうな、寂しそうな、なんか一言では言い表せない切なさを全身に纏っているようだった。そのときは変だなって思うぐらいで、なにもなかったんだが、二年の春休み明けにうちの学校に編入してきたんだよ。それも同じクラスに。でな、ちょっと話逸れるけど、どこのクラスもグループチャットってあるだろ? 大体、新学期にイケイケの奴が作って、クラス全員がほぼ強制参加のやつ。名目上は、同じクラスでグループになって仲を深めようってことらしいが、情報伝達くらいの意味しかない。俺はそれまでスマホを持っていても特にすることなくて、通知があれば確認して、あとは放置だった。でも、彼女が編入してからは気になって連絡を取り合う為に参加したんだ」
「でもさ、チャットでいきなり個人にメッセージを送ったら、変な人ってレッテル張られるだろ」
疑問に思った雄斗は、無意識に声が大きくなった。その声が届いたのか、先程のウェイトレスが視線を送るが、話に入り込んでいて周りが見えていなかった。
雅雄はウェイトレスを気にしてか、それとも周りに聞かれたくないのか声を抑えて答えた。
「だから、周りはどうでもいいと思う気持ちの俺と、彼女に近づきたい気持ちの俺がいる。普通ならどうやって物事を進める?」
「まさか、直接彼女に話しはじめたのか」
急に出されたお題に、まんまと雅雄のドツボに嵌ってしまった。
「それが普通だろ。しかし、そうしてしまうと彼女に避けられてしまう可能性大だろ。この問題を解決するには恥を捨てること。だからさっきの答えも、あながち間違いではない。彼女に自然に近づくために、俺は恥を捨てて全員に個人でチャットをしたんだよ。普段、顔を見て挨拶をしない人にでも、メッセージで挨拶から始めてみる。周りからどんな反応があろうが、どうでもいい。所詮興味無いからな。目指すは彼女の謎だ。彼女と話を進め、自然に趣味嗜好を聞いたら、形を変えてアプローチしてみる。時には返事を遅らせたり、彼女を否定してみる。何気なく『頭良いな』って誉めたりもした。彼女が知らなかったら、雰囲気がある、と褒めてみたりして、俺なりにやってみた」
雅雄は熱中して話し込んだ。次第にボリュームが大きくなると、また先程のウェイトレスに注意された。二人して謝罪し、オレンジジュースで高ぶった体の熱を冷ました。二人共、声にリミッターを付けて話を続けた。
「この間には初めてカラオケにデート行ったんだけど。俺恥ずかしくて手も握れなくて困ったな。本当は握りたいけど、いきなり握ったら変かなとか思ったりして緊張しっぱなしだった。それに彼女を笑わせるためにデート中はお祭りのマスク付けてたりして、彼女笑っていたけど引いてなかったかな……なんか藤雄みたいだな。恋愛のことになると、俺ネガティブになるんだってはじめて気づいた。いままで考えたことなかったなあ、異性なんて。恋愛しなくたって楽しいこと沢山あるし、色んなことした方が楽しいじゃん?」
「そうなのかな……」
雄斗はゆっくりと考えてみる。だが、雄斗には彼女なんていたことがなかった。当然、健全な男子であるため女性と付き合いたいと思う。考えを雅雄に伝えると、そんなの普通過ぎる、と机の対面越しに雄斗の肩を叩きながら笑った。
「なら、何が楽しいか言ってみろよ」雅雄の手を払いのけ、挑戦的に雅雄に訊いた。
「考えることだよ。知識を広げ、未知の欲求に向かって突き進むことさ。俺たちは発見されたことや解っていることしか教えてもらえない。だから、この世の中には知らないことが無限に拡がっている。俺らはその端くらいしか知らないんだ。どうだ、ワクワクしてこないか?」
「ごめん、さっぱり」
前向き思考の彼は、ポジティブの枠を通り越して、思考を膨らませたらしい。凡人の自分には理解できない。それで、と話を元に戻した。
「それで、そんな彼女は文字通り俺の彼女となった。彼女は学校では教室の片隅でいつも読書をしている感じの子なんだ。でも、素の彼女は違う。縁無し眼鏡の奥はキラキラと輝き、いつも短くなるようにと束ねられた髪を解くと、もう誰も同じ子だなんて思わない。もっと凄いことに彼女は絵を描くのが好きなんだ! 凄くないか? 相性抜群なんだよ」
「え、雅雄って絵なんて好きだったっけ?」
「違う。俺が好きなのはパズルだ。だから、俺が白いパズルを完成させて、彼女がそこに絵を描く。最高のアイデアだと思わないか」
雄斗は話を一旦区切って、自分の謎が一つ解けたことを知った。
「どうりで! 自分がパズルなんてするのかなって思っていたけど、雅雄の影響なんだ。ああ、ちょっとスッキリした――ん、どうしたの?」
「なんでもない、他人の恋バナ聴いて、良いなって思っただけ」
雄斗が話すことに夢中になっている間に、薫は顔を赤らめていた。どうやら内容に魅了されていたらしい。
可愛いな。いま、カメラが手元にあったらシャッターをバシャバシャと押したい。雄斗は部屋中を見渡し、カメラを探す。どうやらガラクタだらけのこの部屋にもカメラだけは無いようだ。
「ねえ、早く続きを話して!」
「わかったから、焦らせないでよ。混乱しちゃったら話せなくなる」
「分かった。黙っています。雅雄がどうなったか話し終わるまで、待っています」
ベッドに腰かけて、デスク椅子に座る雄斗をまじまじと薫は見る。表情はどこか不貞腐れたような、いじけたような印象を雄斗に与えた。
やっぱり可愛い。
病院のテレビでも恋愛ドラマをやっていたけど、どうして女性は色事にこんなに胸をときめかすのだろうか? 先程の記憶のなかの自分とは違い、いまは恋愛に疑心暗鬼だ。恐らく、記憶のなかの若き自分は、好きな女の子ができたら迷わず好意を伝えていただろう。しかし、いまはそんなことを考えると不安に駆られてしまう。可愛く実直な薫の機嫌を損ねないように雅雄の恋愛話を再開した。
「彼女は絵を描くのが好き、俺はパズルをするのが好き。そこで二人でやったんだよ。俺は彼女にパズルを貸して、彼女は教室で絵を教えてくれたんだ。俺、滅茶苦茶に絵心なさすぎて二人で笑ったよ。放課後に二人して残って、黒板に桜を描いたときは青春を感じたよ」
「よくいうよ、恋愛しなくたって楽しいことあるんじゃなかったのかい、先生?」
雄斗の茶化しに雅雄はたじろいだ……。
…………。ん? 途切れてしまった。
「どうしたのよ、早く続き話しなさいよ」
雄斗がずっと黙っているので、痺れを切らした薫が促す。が、雄斗は口を開かない。
「頭のなかの映像が切れた。記憶が戻ったのは途中までなのかな? いままで最後まで双子の記憶戻っていたのに、急にどうしてだろう」
「そっか、記憶が止まったんならしょうがないね。今日のカウンセリングはここまで。また記憶を無理に思い出さないように注意してね。危険なんだから」
「あ、ちょっと待ってよ。もうちょっと休んだら戻るかもしれないし!」
「ダメ、今日は終わり。じゃあ今度ね、バイバイ」薫は、四の五をいう彼を部屋に残し、真田家をあとにした。
――元気ですか、君はいま笑顔になれていますか♪
――僕が生きるこの夜には、君へ届けこのラブソング♪
ウォールポケットから適当にCDを取り出し、雄斗はパソコンを起動して曲を流した。
パソコンを使ったのは、彼の部屋にCDを聴く手段がそれしかなかったからだ。ずっとパソコンで聴いていたのかもしれない。
「ああ、良い歌だな」雄斗はCDジャケットと歌詞カードをじっくりと眺めがら、思わず口にでる。
WORLDHELLの曲名が『スイッチ』のジャケットには、黒い液体に染まろうとするハートが描かれている。歌詞カードを読んでみると、曲名の意味がわかった。
最愛の恋人を失った男は、人間の脳のなかで繰り広げられる感情や心が、電気信号であることを知る。愛もまた信号なのだという切ない事実を受け入れた男は、愛するスイッチを押したことに対して、幸せな行為だと感じていた。
雄斗はリピートをして、サビを口ずさむ。
――君がいない世界で君を想う僕は取り残された♪
――君と愛した時間は、届いてたこのスイッチ♪
――もらった笑顔と涙の日々、僕を幸せにしてくれた♪
――いつまでも忘れないよ、幸せだったあの二人♪
目を閉じて心のなかで歌詞を反復していると、ふっとサビの途中で気を失ってしまった。意識が飛んだ先は、いつか見た白い世界だった。
「ここは……」
「やあ、また逢ったね」
いつかの白黒スーツ。
「お前たち、双子だろ」
「ほう、どうしてわかるんだよ」
「わかるんだよ、だってお前ら親友だろ。予想では、白が雅雄で黒が藤雄だろ、違うか」
…………。
「確かに俺達は双子だ。これから最後の映像を流す。あとはお前が最後まで考えろ」
「おい、ちょっと質問に答えろよ!」
双子は叫ぶ雄斗に背を向け去ってゆく。二人が視界から消えると、空間は彼を追い込むように闇に変わっていった。しばらくして彼の意識に映像が流れだした。雄斗はどうすることもできず、ただ見ているだけだった。
「もう終わりにしたかったんだ」
映像では藤雄が俯いていた。そこは病室だろうか、病衣姿でベッドに横たわっている。
「女性を信じること。人を信じることを諦め。罪の消えない過去に死ぬまで雁字搦め。世の中は悪い部分が目に余り、僕は悪い方にしか考えられない。これ以上生きていても、意味ないのかなって思えたんだ。罪の償いも含め、悠々と生きちゃいけないのかもしれない」
「そんなの、過去の話じゃんか」
誰かが藤雄に問い質したが、雄斗は誰の声か思い出せない。
「罪は一生消えないよ。話を変えよう。最後の夜になるはずだった話。あの日は物凄く憂鬱でね、原因を聴いたら馬鹿らしく思うだろう。深夜の二時ぐらいだったかな、台所に包丁を取りに行ったんだ。包丁しか刃物がなくて、それを持ったまま洗面所に行った。洗面器に水が溜まっていくなか、過去がフラッシュバックする。思い返すと、笑っちゃうような出来事ばっかりでね。最後に思ったんだ。僕は弱い人間だろうから、死ぬ寸前で涙が溢れるだろうなって。最後は笑って逝きたかったから、雅雄のピエロマスクを取って被ったんだ。雅雄はぐっすりと眠っていたよ。僕と違い、本当に前向きで良くできる人だよ。洗面所に戻って鏡を見ると、ピエロが笑っているんだ。これでいい。僕は左手首の静脈なのか動脈か、どっちかの青筋に刃を突き立てて引き裂いたんだ。水の溜まった洗面器に手首を浸けると、血液が踊るように噴き出してさ。ぬるっとしていたけどなんだか綺麗だった。変かもしれないけれど、そう思ったんだ。ちょっとすると勢いがなくなって血液が止まるんだ。栓がされたみたいに。多分、止血作用が起きたんだね。僕は何度も手首を切った。ある程度の痛みは覚悟していたけれど、痛みは感じなった。感情が高ぶっていると痛覚は鈍るって聞いたことがある。思い返すと傷が浅かったのだと気づいたよ。看護士が話しているのを聞いたら、たった一ミリの傷口だったらしい。殆ど切り傷だ。これでも死を決意したんだ。笑えるだろ」
「そうかな」
「まあいいさ。自殺なんて二度としない。運ばれた病院でのことだった。薬を服用していないか、調べるんだよ。睡眠薬とかの服薬自殺も在るから。検査方法がね、僕の尿を無理矢理採取するんだ。管を通すのが物凄く痛いんだ。最悪の気分だったよ。……ごめん僕の話ばっかりでつまらないでしょ? ――の話を聴かせ――」
話の途中で映像の質が悪くなっていった。色彩映えた過去の映像は、最低にコマ落ちし、音も鮮やかさも後味の悪さばかりが目立つ。
雄斗はどうすることもできないので最後まで見届けるしかない。
「――は良いんじゃないかな? ――だから、――――」
双子が残した映像は、最後まで謎を含んでいた。藤雄と会話していた人は誰だったのだろう。意識が戻ってから、眠りに落ちるまで考えに耽った。
翌日のカウンセリングで薫に、藤雄の哀しい過去をありのまま伝えた。雄斗が話し終わると。薫は泣いていた。
「どうしてあなたが泣くのですか」
「だって、哀しいじゃない。藤雄さん。私、こういう話、無理なの。とても他人だと思えずに泣いちゃう。泣いてしまう。早く会いたいですね、双子の兄弟。興味がすごい湧いてきます。だって私を泣かせるんだから、謝ってもらわないと」
薫はハンカチで目尻を拭った。
早く双子を彼女に紹介したい、と雄斗は心で呟く。もう自分の記憶より、双子を彼女に会わせたい衝動に駆られ、彼は確実に深い恋に落ちていった。
――高校二年の冬。
ポーン、ポーン、ポーン……。
なまりきった身体に鞭打ち、壁打ちをして二十分弱。
駅近くの庭球場で壁打ちをするのが、雅雄の習慣となっていた。近くといっても家から二十分かけて自転車を漕いで辿り着く場所にある。運動不足解消を兼ねて週三日、壁打ちをすることに決めたのだ。
高校二年生で運動不足といえば笑うかもしれないが、一年のときにテニスを辞めてから、体育の時間以外で運動していない。
こうしてヘタクソな壁打ちの回数を重ねていると、初めて壁打ちをした時を思い出す。
ラケットの中心に巧く当たらずにボールが予想しない方向に飛ぶ。何度も何度もボールを拾いに行き来した。初めは酷かった。フレームに当って明後日の方向に飛んでいったり、思いっきり振って当たったと思ったら、ボールは後ろにあったりする。運動音痴なわけではないけど、サッカーとは違い、足でボールに触れていいわけではない。それでも時折、足元に来たボールを蹴りたくなってしまう衝動に駆られる。
二度目の休憩で雅雄は考えてしまう。いまと反対の選択をした自分の未来を。
テニスをあのまま続けていたら、何か違うものを見つけられたのかな。俺と奴が、今でも親友だったら、何か変わっていたのかな……。
考えが下へ下へと流れるのが分かった。過去を悔やむのは、藤雄みたいな奴がすることだと思っていた。けれど、違う。手にできなかった良い方向に進んだ未来を想像するのも俺は苦手なんだなと痛感した。藤雄の思考回路は、理解しがたいものがある。もしかすると、と彼の精神状態を心配してしまう。
藤は、いつもこんな苦しいことをひたむきに考え続けているのだろうか――。
たった刹那の違いで兄か弟で別れた俺たち。兄であるはずの俺は時折、藤に劣っているのでは、と劣等感を抱いてしまう。テストの点数や友だちの多さではない。もっと深く、大切なモノで例えば、人生を見据える姿勢というのだろうか。人を信用する難しさ、真意を問い続ける力などもそうだ。
誰かが俺ら双子を見て、初めはこう言う。
「兄だ、雅雄の方だ」
でも、後々になって、好みなどすぐに変わるだろうと、俺はびくびくしている。
「藤を選べばよかった」と言われないだろうか。
そんな弱気は心の底に秘めた、俺が表面だけの薄っぺらい男であるからだ。中身が薄く味がない人間だからだ。
いつもは前向きに考える俺は、藤のことを考えると暗くなってしまう。だから俺は俺自身でいるために、明るくなれるように藤のことを考えないようにしていた。いつも笑顔で過ごすために。分身から目を逸らした。
ただ近頃は一人になると考えてしまう。やはり俺らは、双子の枠から離れられないらしい。もうずっと藤の顔を直視していない。面映ゆいのだ。
世間ではできる双子の兄を演じ続けているが、藤はきっと知っているだろう。俺が無理をしていることに。中身が無いことに。
藤を嫌っているわけでも妬んでいるわけでもない。それどころか俺は藤を応援している。これは俺も薄々気付いていたことだ。原因不明でいて、しかし現実味を帯びたもの。そんな、どこか不明瞭な憧れから来ているのだろう。
俺にできない武器で世間と戦い続ける雄姿に、俺は密かにエールを送っていた。
ちょっぴり考えすぎたな……。
ヒヤッと身体を伝う汗を拭い、再び雅雄はラケットを握った。