若葉は合と離への分岐点
「真田さん、いいですか。頭痛がする時は無理せずに仰ってください。カウンセリング時でも構いません。記憶喪失の方の場合ですと、例によって無理に記憶を思い出そうとしてかえって脳が混乱し、頭痛を引き起こすことも少なくありません。ですので、絶対に無理に思い出そうとしないでください。分かりましたか?」
雄斗が双子のことを思い出したあとで、彼は頭が痛いと訴えだした。幸い、軽度の頭痛で異常はないようだ。雄斗は米倉から厳しい注意を受けた。薫は前回の自分の不注意を反省し、今日のカウンセリングに臨む。
「はい、大丈夫です。もう前みたいに無理はしません。あ、その目は疑っている目じゃないですか。本当ですって、自分だって頭痛引き起こしてまで、記憶戻したいって訳じゃないんです。いや、勘違いしないでくださいね。記憶は戻さないと、このままではダメだってことは分かっているんです。でも、白石さんと話してからなんだよね、双子の記憶を思い出したの。だから、白石さんと会話していれば思い出せるんじゃないかなーって気付いたんです。もしかして、白石さんって魔法使いだったりして」
そういって雄斗は悪戯っぽく笑う。
「何言っているのよ。そんな訳ないでしょ。はい、現実に戻ってきてカウンセリング始めます」薫はパチンと手を鳴らして話を終わらせる。
「分かりました。魔法使いは無しですね。話戻りますが、昨日また夢をみたんですよ。今度はちょっと嫌な内容だったんですけど、事実かどうか別として話していいですか?」
「良いですよ。確か初めに思い出した時も夢がきっかけでしたね。夢というのは脳が体験したことを長期記憶に書き換える為に見るものだと言われています。ですので、真田さんが夢から記憶を思い出すことも頷けるわけです。見た夢に自信を持って話してみてください」
「分かりました……本当に嫌な夢だったんですが――」
――そう、あれは二人が分離してしまう、本当に夢であってほしい記憶だった。
小学生になって、双子と同じクラスになった雄斗は困惑していた。二、三十人の保育所とは違い、小学校では一気に百人以上の同い年の子を見たからだ。そんな中、双子の二人は一気に人気者になった。
人気の理由はいたってシンプルだ。
同じ人間が二人居るように見えるから。
兄のマサオは、質問攻めや友だちが増えたことで誇らしげに胸を張っている。一方、弟のフジオは、兄とは違い大人しげで内気。いつも話しかけられることに正直ウンザリしていた。
一年生になって半年後、フジオがお腹痛いと体育の時間に倒れてしまった。原因は生卵による腹痛だった。身体が弱いこともあって一週間の入院となった。退院してから受けた国語の授業でのこと。
「この漢字は、このように書きます。この漢字の音読みはセイ、またはショウと読みます。訓読みでは、まさ、と読みます」
「はーい、先生」クラスの男子が元気良く手を挙げた。
「はーい、どうしましたか。こうじ君?」
「先生、ぼく知ってるよ。この漢字の逆のことばって、フって読むんでしょ?」
「すごーい、こうじ君。よく知っているね。はーい、みんな。いま、こうじ君が良いこと言ったので、皆さんにも教えます。この正って漢字は二つの逆の言葉があります。これを反対語っていうんだけど。一つは今、こうじ君が言ったようにフっていう言葉と、もう一つはゴって言葉です」
新任で一年生を担当する須藤恵は猛烈に感動している。自分が目指していた教育が少しずつ形になっていると実感しているのだ。この子達の生涯に残る教育の基礎を私が教えている。ただ、マニュアル的に授業を進めるだけでなく、子どもから質問を受け、誠意を持って答える。答えに正しさや綺麗さだけを追求するだけじゃない。この子達が真剣に考えた答えに、未来と希望の気持ちを乗せて、優しく教えてあげる。子ども達が上手にできた時は、感性と向上心を高めるために褒めてあげる。いつか彼らが《褒められて伸びる》ではなく自らの意思で成長する為に、助言や自分の欠点、考える力を求める心を持って欲しいと恵先生は願うのである。
「こうじ君が言った、フって言葉は三年生で習います。意味は……(プラス思考とマイナス思考って聞いたことないよね)えっと、良いことと、悪いことって言うでしょ。皆さんが良いことしたら、褒められるよね。逆に悪いことしたら叱られるよね。セイの字が良いこと、フって字が悪いこと。そして、もう一つ反対語の、ゴって言葉は間違いっていう意味で言います。ゴって漢字は皆さんが六年生になった時に習います。この時のセイって漢字は正しいという意味です。少し難しいけど、さっきのセイの良いこと。このセイとは別の意味になります。たける君、どう、わかる?」
「ぜんぜーん、わかんない!」
クラス一のお調子者のたける君は元気いっぱいに答え、みんなの笑いに包まれ少し照れたように頭を掻いた。
「そうね、少し難しいよね。そうね、みんなミカンは知っているよね。みかんはオレンジ色だよね? じゃあ、もし先生がみかんって赤色だよねって訊いたら違うって答えるよね? 本当の色は何かな、ゆいちゃん」
「オレンジー。赤色はイチゴやリンゴー」
「そうだよね。先生は間違いをしました。そして、ゆいちゃんは本当の色を答えました。それを正しいという風に言います。間違いと正しい。良いことと悪いこと。この漢字にはそういう風に使います。みんな、分かったかな?」
恵の声にクラスの子ども達全員の、はーいと元気のある声が教室中に響き渡る。
「よし。こうじ君、凄いね。お父さんかお母さんに習ったの?」
恵はこうじ君の活躍を褒め称える。しかし、答えは予想していない展開を迎えた。
「ううん。習ってないよ、聞こえてきたの。お母さんがたける君ママと電話していてね、話していたの。お母さんがね、言ってたよ。マサオ君とフジオ君は本当にセイハンタイねって。マサオ君はセイでフジオ君はフだって。マサオ君は元気良くて良い子だけど、フジオ君はいつもオドオドしていてあいさつも小さくてあんまりみんなと遊ばないし暗いねって。マサオ君と同じ顔しているのにフシギだねって。センセー、セイとフってそういうイミだったんだね。ぼくわかったよ!」
「めぐみセンセ! オレのかーちゃんも言ってた。遊ぶならマサオ君とにしろって。フジオ君と遊ぶと暗くなっちゃうって。センセー暗いって移るの。フジオ君と遊んじゃダメなの」
恵はこうじ君とたける君の発言に耳を疑った。しばらく固まったまま、顔が引きつっていることを子ども達に言われるまで気付かなかった。
「そんなことないよ。みんな仲良く、フジオ君と遊ぶんだよ」
恵はいつもより大声で全員に注意した。無理やり笑顔を作っていると、視界の片隅でフジオ君が一人俯いていた。
授業から数日間。藤雄は学校を休んでいた。僕はお昼休みに校舎内で遊んでいると、双子の母親とフジオが校長室から出てくるのが見えた。雄斗は咄嗟にフジオを呼び、近づく。しかし、フジオは一瞬振り向いて走り去っていった。
「おばさん、フジオ君、どうしちゃったの。身体でも悪いの?」
「ううん、フジオはどこも悪くないのよ、心配してくれてありがとう。ゆうちゃん、これからも友達として仲良く二人と遊んでやってね。よろしくね」
彼らのお母さんに言われた時、彼らが兄弟喧嘩中だとは想像できなかった。
そして、放課後に彼らの家に行くと、マサオはいつも通り「ねえ三人で公園に遊びに行こうよ」と雄斗とフジオを誘うが、「二人で行ってきたら良いよ。僕、家で遊んでる」とフジオはマサオを避けるようになっていた。
「フジオは二番目だからマサオに勝つことはないんだよ」
運動会のかけっこの練習で、順番待ちのたける君が悪戯っぽい顔でニヤつく。
「たける君、それどういうこと?」
ふと、雄斗の胸にモヤっとした雲が掛かる。もちろんその場にはフジオも走るのをジッと待機して待っていた。恐らく聞こえているが無視しているのだろう。マサオは走るため、スタートラインに着いていたはずだ。
「先生が話してたじゃん。マサオのマサは正しいの正なんだ。オは男の男。フジオのフは正のハンタイの負。ジは二番目の二で、オは男。二人の名前を漢字にするとこうなるじゃん? だからマサオは良い、でもフジオは悪いんだ。何をしても勝てないよ」
そんなこと…………ないよ。心の声が反響を繰り返す。
「そんなこと絶対ないよ!」
雄斗はマサオやフジオの本当の漢字なんて知らない。習ってもない。自分の名前も漢字で書けない。そんな雄斗が怒りの感情を抱く。
そんなはずない! そんなはずないじゃないか。だって、だって……二人のお母さんは、いつも双子のことを気にしていたよ。心配してたんだ。自分に友だちでいてくれってお願いしたんだ! お母さんが二人にそんな名前を付けるはずがないじゃいか!
恵先生が笛を鳴らしながら走ってくる。雄斗は気付くと先生に強く肩を掴まれていた。たける君を見ると体操着を土で汚し、尻餅をついて半べそを搔いている。たける君を押し倒して、地面に何度も身体を打ち付け大声で叫んでいたと知ったのは恵先生から説教されている時だった。
そんな問題もしばらくすると、クラスは再びのどかな日常が訪れる。みんなは何も変わらず元気に笑い声をあげて遊ぶ。給食たくさんおかわりをしてお昼休みに突入していく。
双子は未だにケンカ中――
雄斗は双子に仲直りをしてもらおうとフジオの席に近づく。マサオはいつでも三人でまた遊ぼうと誘うが、フジオが加わらない。
「フジオ君、一緒に遊ぼうよ」
「ごめん、できない」フジオが目を逸らして答える。
「そっか……マサオ君と待ってるからさ、いつでも遊びに来ていいからね!」
靴を履いてグラウンドに向かおうと教室を出る直前、フジオに呼び止められる。
「ゆうちゃん……ごめんね。体育の時、嬉しかったよ僕。でもゆうちゃん。あれは僕が悪いんだ。僕が悪いんだ……。だから、たける君があんな事言ったのもしょうがないよ。ゆうちゃんに嫌な気持ちさせてごめんね。ありがとう」
フジオ君の言葉は、悲しく寂しそうな印象を残して深く心に残った。その時には分からなかったが記憶の中の彼はそういう感じだった。
次の日、三人が仲良くグラウンドで走り合っていた。昨日のフジオ君と違うフジオ君はどこかぎこちない笑顔をしていた。
「どうです。悲しい内容じゃなかったですか?」
「そうね。小学一年生にしては残酷な現実ね。そのあと彼らはどうなったのかしら」
私は臨床心理士で彼は患者なのだ。目の前の患者の記憶が戻るまでカウンセリングを続けていかなければならない。彼が感じることを共感して、薫が雄斗を適切に誘導し、記憶を戻す。それが彼にとって辛く険しい道になっても。
「二人とは二年生に上がるまで仲良く遊びました。二年からはずっと別々のクラスになり、三人で遊ぶことも、楽しく話しながら帰ることもなくなった。幸い、自分は双子と話すことは問題なかったのだけど、兄弟は話や目を交わすことが途絶えていた。本当の兄弟で双子なのに分裂した生活。もちろん帰る家は一緒だけど、家族っていう名前だけの形式的な間柄になってしまったとマサオは言ってました。たしか双子の家族も母親だけで、境遇が一緒だから長年、交遊関係が結べていたのかもしれません」
雄斗は鮮明に少年時代を思い出し、懐かしい感じを含みつつ、切実と言葉を紡ぎだしていった。
「オッケー、分かったわ。疲れたでしょう? 少し休んでいて、私は少し席を外すわね」
薫が労わるように微笑み、病室を退室しようとすると、雄斗が呼び止める。
「付け加えるわけじゃないけど、双子にはある口癖がありました。兄のマサオは〝何とかなる〟で凄くポジティブでした。対して弟のフジオは〝僕が悪い〟とか〝どうせ〟という極端にネガティブな人になってしまったんです」
「無い。無い。無い。無い。どこにもない」
静恵と一緒に雄斗のアルバムを何度も何度も目を凝らして探すが、それらしい双子は見つからない。それに最悪な事態は連続する。有力な手掛かりである学級写真が無いのだ。おそらく雄斗が一人暮らしを始める時に思い出として持って行ったのだろう。そう静恵は言うが、住んでいた部屋は消失していてアルバムは灰となっていた。
「無い……ですね」静恵が老眼鏡を外して、目頭を押さえながら呟く。疲労が溜まって疲れたようだ。
雄斗の話だと、双子とはいつも行動を共にするほどに近い存在だったはずだ。薫は想像力を働かせた。目を閉じると、写真を眺めていたせいで疲労が押し寄せ、眠気に襲われそうになる。
薫は静恵に出してもらったお茶をおでこに当て、脳の熱を逃がすイメージをした。汗をかいたグラスが、コースターに輪っかを作っていた。
双子。同級生。写真に映っていない。いや、見つからない。写真嫌いなのだろうか。しかし、雄斗の話を聴く限りでは兄、マサオはポジティブだという。ネガティブなフジオならともかく、マサオが写真に映りたがらない理由などないはずだ。もしかして、転校したとか……。うん、それなら筋が通る。でも、どうやって調べればいいのか。面会には友達は来てないと雄斗は言った。
「あの、真田さん。雄斗さんの面会に、どなたかいらっしゃいましたか」
雄斗から誰かが来ていた、と聴いていたが、それ以上聴き入ることは無かった。しかし、静恵ならその人が何者か知っているかもしれない。
「あ、拓也君。そうだ彼が面会に来てくれてたわ。雄斗の友達だったはず。彼なら知っているかもしれない」
薫は片眉をピクリと反応させた。
「よろしければ、その拓也さんと連絡を取っていただけますか。双子のことについて、伺いたいのですけど」
「大丈夫よ。私に任せなさい」
静恵は溌剌に応じ、スマホを操作しはじめた。いつから使っているのだろうか、指の操作が大きく動く。
よし、これで良いの。薫は双子のことについて、確実に近づいていると自信を噛み締め、電話を掛ける静恵を見守った。
――高校二年の初夏。
会場内に響き渡るBGMは、身体の芯まで響きわたる。神奈川スーパースタジアムで俺は有頂天になっていた。虹色に輝くリングを左腕に身に着け、サウンドのテンポに合わせリズムを刻む。前々から行きたかったライヴに、雅雄はいつもより高揚する。
会場全体がステージに注目し、スポットライトのアーティストが先導を切る。
一月の抽選で《サンウィンド》のチケットが当たってからというのも、六月のライヴ当日まで毎日が楽しかった。ワクワクが止まらない。一回のライヴで、こんなにも熱狂させるなんて思いもしなかった。抽選が当たるまで知らなかったこの気持ちを友達へ話すと「子どもだな」とか「所詮、ライヴだろ。大袈裟だな」と言われたが、みんな分かっていない。初めての感動がどれだけすごいのか、どれだけ影響力があるのかを忘れている。それか、友達はこんなライヴも飽きるほど行っているのだろうか。
「やばいな、超楽しい! やっぱサンウィン最高だわ」
隣で海藤が、熱を帯びてタオルを振り回している。彼とは同い歳であり、本当は雄斗の友達だが、ひょんなとこから一緒にライヴに行くことになった。
彼はファンクラブに所属しており、高確率で当たるようになっているという。俺はファンクラブの会員ではなく、一般選考で当たった。会員になると様々な特典があるらしいが、グッズ等に興味はなく、俺は純粋に曲が聴きたいだけなのだ。
「どうした、身体の調子が悪いのか?」
拓也は俺の様子を見て、怪訝な顔を浮かべた。
「別に、何でもない。……ちょっとトイレに行ってくる。すぐに戻る」
体調は悪いとは思わなかったが、海藤の引きつった顔を見ると気を取られてしまう。俺の顔がどうかしたのか、そんなに酷い顔してるのか。休憩時に俺はトイレに駆け込み鏡を見た。いつもの洗面所でみる顔がある。ただ少し青白い。俺は元々色白だが、自分でも分かるぐらいに青白い。海藤が心配するのも頷ける。海藤だけじゃなく他人が見ても異常なほど体調が悪そうだ。
「海藤、海藤っ。俺、ちょっと体調悪いみたいだから先帰るな。途中で悪いな。じゃあな」発汗しはじめたことを身体中で感じる。
海藤は俺を呼び止めたが、海藤の制する声はスタジアムの喧噪に簡単に掻き消された。
自分で気付けない青白い顔。スタジアムを出るまでの間にかいた尋常なまでの汗。そして改札を抜けて電車に乗り込むまでの少しばかりの過呼吸。どうかしてしまった俺の身体。帰りの電車を降り、バスを待つ間に落ち着きを取り戻し、バスから眺めた見慣れた景観にリラックスする。
先程の動悸のような感じは一体何だったんだろう、と不思議なくらい穏やかになった。一時間前にはトイレの鏡で顔面蒼白だったなんて到底信じがたい。
もしや、と雅雄は弟の藤雄の身を案じた。占いや運などの目に見えないモノを信じないが、兄弟のシンパシーというものは奇妙に信じていた。これは双子独特の感受性だと雅雄は考えている。
「ただいま、大丈夫だったか」
疑問を浮かべた弟の姿を目にした雅雄は、単なる勘違いではないと思いながらも胸の内にしまった。