二つの螺旋
カウンセリングを開始して数週間が過ぎたが、これといって雄斗が記憶を戻すような進展は無かった。しかし、前回のカウンセリングでは彼が奇妙な夢を見たことを思い出した風に語っていた。
要約すると、雄斗は植物状態時に夢を見ていたらしく、内容は正体不明の男二人が登場する。真っ白な世界に知らない男二人と彼以外何も無い、無を表現したような世界。
薫はカウンセリング時、ボイスレコーダーに録音するようにしている。彼には了承済みで、後から何か解るかもしれない、と彼の精神心理を各方面から分析してみるが、終了の時間がきてしまい断念せざるを得なかった。そんな時録音しておけば便利だ。
心理学一般において、夢というのは個人の精神分析するための大切な情報源だ。薫は発展が無い現状で降って湧いた希望を逃したくはなかった。
カウンセリング時間を延長すれば情報を多く得られ、早期解決に繋がると考えるのが一般的な発想かもしれないが、佐伯臨床心理士事務所は違う。カウンセリングによって精神状態や感情、疲労度が高まり、患者やクライアントに負担がかかるからだ。
「こんにちは、今日の調子はどう?」
「ええ、好調です。薫さんはどうですか。隈できていますけど、大丈夫ですか?」
「問題ないよ。貧血気味によるものだと思うから、野菜を摂取すれば良くなるの。お喋りはこれくらいにしてカウンセリングに入りましょうか」
もちろん薫は、貧血でも何でもない。栄養管理は昔からしっかりしている。本当はあなたの夢の分析で睡眠時間が短くなった、なんて言えない。
「前回の続きは知らない男二人と一緒だった――ですね。それからなにか思い出したことはありましたか?」
「それが、薫さん。男は双子だったんですよ。最初は顔だけでなく体が黒い影で分からなかったけど、次第に分かったんですよ。あいつらは双子です」
「双子……。それはあなたの知っている人でしたか」
雄斗はしばらく押し黙ってしまい、知らないと答えて、でもねと話を続けた。
「知らない人だったけど……顔はハッキリと覚えているんだ。だから、自分のことでは無いと思うんだ」
雄斗が何を言いたいのかは解る。前回のカウンセリングで帰り際に、夢は自分の深層心理を表す、と薫が言ったのだ。
「そうですね、確かに夢はあなた自身を表すこともあります。しかし、今回の夢は違うようですね。その夢はもしかしてあなたの記憶の中の誰か、かもしれませんね」
そうか、と雄斗は目を閉じる。「自分の夢が記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない」そう考えると見た夢はとても重要な意味を成してくる。
そう言われてみれば、と雄斗は何かを思い出したのか、いつになく真剣に薫を見て徐に口を開いた。
「確かに、夢の中に出てきた双子は何だか懐かしい感じがします」
「懐かしい感じ?」
「そうです。ずっと昔から知っている関係のような気がするんです。まだハッキリとは思い出せはしないけど、なんとなく自信があるんです。……どう思いますか」
「どうって、その感覚はあなたの中にあるんですよね」
「はい……。でも確実かって訊かれると不安で。自分の感じているのって正しいのかなって不安で。こんな曖昧なこと話しても良いのかなってなります」先程とは打って変わり、雄斗は自信を失くしたかのように俯いて、自分が変なんですかね、と自嘲的に笑って薫の反応をみた。
「変ではありません。真田さんは今、記憶を失くしている状態です。普通の反応だと思います。それに真田さんの感じたことは真田さん自身にしか分かりません。ですから、自分の気持ちに素直になってください。感じたことや思ったことは、自ら発信していかないと誰にも届きません。もちろん私も真田さんのことを分析して分かることもありますが、ごく一部です。他者の協力も必要ですが一番に大切なことは真田さんの気持ちだと思います」
「そうですよね。すみません、何か弱気になっちゃって。薫さんってポジティブなんですね」
「そうじゃなきゃ、臨床心理士なんて仕事していませんよ」
薫の返答に、二人は笑いに包まれた。
その時、突然雄斗が「あっ」と大声を出した。
「ちょっと、ビックリするから大声出すのやめてって初めに言ったでしょ」注意を強調させるように薫は声を小さく、早口でまくしたてた。
「それより、思い出したんです! 双子を」
「それホントっ」
「はい!」
「あなた自身の記憶も思い出した。双子はあなたの知り合いなの。それよりどうして急に思い出したの」
矢継ぎ早に質問してくる薫に、戸惑いながら手で制する雄斗は、彼女から仄かに香ってくるフローラルの匂いにどぎまぎしていた。
「自分のことはまだ思い出せません。双子だけの記憶です。友達のような関係だったと思います。思い出したのは、双子といまみたいに楽しく笑ったからだと思います」
雄斗は双子のことを薫に話しはじめた。それは雄斗と双子が再び強く結ばれたことを意味していたが、二つの螺旋として繋がっていくことに彼はまだ気づかないでいた。
カウンセリング後、病院の近くにある喫茶店『かなた』で薫は二杯分の紅茶を店員に頼んだ。静恵に双子のことを訊くためだ。
「それで、カウンセリングは順調に進んでいるのでしょうか」
「ええ、まあ記憶が戻っていることは確かなようなのですが……」
「あの、何か問題でもあったのでしょうか」
彼女の表情が曇っているので、静恵は眉を顰めた。
「問題ではありませんが、少々気になった点がございまして」
「何でしょうか。私にできることはします、ハッキリと仰ってくれませんか」
これを見て頂けませんか、と静恵に差し出したのは、薫がカウンセリングに使っている記録の為のノートだ。
「拝見します」静恵は外出に欠かせないバッグから老眼鏡を取り出した。
ノートの表紙に《真田雄斗 ~カウンセリング~》と綺麗な文字を一瞥する。更にページを捲るごとに「まあ」や「凄いわね」といった反応を見せた。
「以前の趣味も、記憶を戻す鍵にはならなかったのね」
静恵も期待しただけに落胆したが、思い出したようにノートから視線を薫に移す。
「でも、雄斗の記憶は、どのようにして戻ったのかしら」
「記憶は戻ってはいますが、彼自身のことではありません」
「それ、どういうことなの。ごめんなさい。私ちょっと理解力が無くて、詳しく説明してくれないかしら」老眼鏡によって大きくなった目が、瞬きが増えたことにより眼鏡の奥で見え隠れする。
「はい。次のページを捲ってください。……雄斗さんが思い出した友達についてです」
「友達ってどういうこと?」
「雄斗さんと幼年期から友達だった双子のことです。覚えてないでしょうか?」
薫と静恵は互いに、なにを言っているのだろうと疑問に思った。
「覚えているもなにも、記憶に無いわ。本当にその……友達っていう双子? を思い出したっていうの」
「はい、確かに。あれ、おかしいですね……雄斗さんはこと細かに覚えているようでしたけど」
「そうなのね……あり得るかもしれません」
額に手をあてる静恵に、真田さん、どうしました、と薫は声を掛けた。
「あの子はきっと恨んでいたのよ。でも、恨まれて当然の母親かもしれないわ」
「雄斗さんが真田さんを恨んでいるなんて、なに言っているんですか。子が親を怨むなんて、あるわけないですよ。どうしてそう思われるのですか」
「雄斗はね、おばあちゃん子だったのよ」
「どうしてですか。だって静恵さんというお母さんがいるじゃないですか」
薫は静恵が居るのにどうして、祖母に子が懐くのか瞬時に理解できなかったが、静恵の説明を聞いて納得した。
「私は雄斗にとって一人親なの。私、未亡人なんです。夫は息子が三歳の頃に交通事故で他界しました。私は息子を養うために必死に働きました。仕事中の間は母に預けて面倒を見てもらって、帰宅時には寝顔を見る。そんな生活が続きました。息子が一人で留守番できるようになると、祖母から離れて家で一人、私の帰りを待っていました。それに私は仕事に追われ、息子の授業参観や運動会、部活の試合や学園祭などで、息子の活躍する姿を見たことがないんです」
「そうだったんですか。あれ、でも運動会や学園祭って確か週末にしませんでしたか。週末ならお仕事、お休みではないのですか」
「私、青陽観光バスでバスガイドをしているんです。ですから、休日は皆さんと違って平日なんです。出られたとしても、家庭訪問や三者面談で先生に、学校での様子を訊く程度なんです」
――どうして私、この女にこんなこと話しているんだろう。
静恵は、前は毛嫌いしていたのに、不思議と胸の内をさらけ出している自分に驚いていた。
これも臨床なんとかっての話術かしら。もしそうなら、この人なら雄の記憶をどうにか引き出してくれるかもしれない。そんな風に期待をしている自分がいることに再度驚いてしまう。これまでは期待するより自ら行動することによって問題を解決してきたからだ。だが、今回はそういうわけにいかない。静恵は以前にも増して、希望の意を込めた熱い眼差しを薫に向けた。
「息子の交遊関係は話したとおり、私には分かりません。ですが、このようないびつな家族でも、写真はアルバムとして大切に閉まっています。もしかすると、その友達の写真もあるかもしれません。白石さん。宜しかったら、一緒に探してもらえませんか? 息子は私を怨んでいるのか、私が家にいる時、友達を家に呼ぶことはほとんどありません。雄斗が高校の時にお付き合いしていた彼女さんと挨拶したのも、私がたまたま仕事から早上がりしたときでした。一度だけ、事故の後に面会に来られたんですが、そのあとはもう……。そのような方でも、双子のことでなにか知っているのであれば頭を下げてでもお願いするのですが、連絡を取ることもできません」
静恵が身の上話を、恥として晒すように悲しんで話すので、薫はいたたまれなくなり話を早く切り上げたかった。
「真田さん、雄斗さんはきっと怨んでなんかいないと思いますよ。友達をお母さんに見せるのが恥ずかしかったんじゃないですか。雄斗さんはきっと理解してくれていますよ。だって小さい頃からお母さんが、バスガイドをして頑張っているんですから。きっと学校の行事にお母さんが行けなくても、お母さんが頑張っているから、自分も頑張らなくっちゃって思っているはずですよ。けど、雄斗さん、本当は寂しかったんじゃないかなと私は思います。どんなに誇りに思える人でも、彼からすれば世界で一番のお母さんなんですから。だから、雄斗さんは恨んでいません」
「ありがとう。そんなお世辞言ってくれると、とても心が楽になるわ。あなたって、人の心を感じ取るのが巧いのね。流石に臨床なんとかっていうだけあるわね」
「臨床心理士です。人の心が分かる技術なんて、私にはありませんよ。ただ、そうじゃないかなと思っただけです。それに私が言ったのは全部お世辞じゃありませんよ。私、本音しか言いませんから。あっ、もうこんな時間。アルバムの件はどうか、手伝わせてください。すみません、今日は急にお茶なんか誘ってしまって。ここは私が払いますね」
このあと事務所に帰って報告書の提出をしないといけないので、と薫は慌てて会計を済ませ店を出た。
一連の動作をあっという間にした薫に、「臨床なんとかって……忙しいのね」と静恵は微笑みを浮かべレモンティーを啜った。
喫茶店を出た薫は、病院の駐車場へと歩いていく。
真田さんの彼女さんか……。何気なくクライアントの元恋人について考えていると、薫は早歩きになっていることに気付いた。足を止めて、何気なく振り返ってみる。さっき出てきたばかりの喫茶店はもう見えない。今度は早歩きにならないように心掛け、薫は再び駐車場を目指した。