健忘症の現実
「あなたの名前は真田雄斗です。名前は覚えていますか?」
「いいえ……覚え……ていません」
米倉がバインダーを片手に何か書き込みながら質問する。リハビリで僅かに回復した声で雄斗は答える。彼がどの程度の記憶を失くしているのか、それらの範囲を確認しているのだ。
「では、過去に起こった出来事で覚えていることは何かありますか?」
「それも……無いです」
「あなたが好きだった物、嫌いな物は覚えていますか?」
「覚えていません」
「次の質問は単刀直入に現在で何か覚えていますか?」
「うーん……いや、すみません。まだ……」
「いいえ、謝ることではないですよ。では次、面会に来てくれたお母さんや友達の顔は覚えていましたか?」
「友達の方はまだ何とも。お母さんの方は何となくはそうだったのかなと……」
初めは全部の質問に対して覚えていないのでは、と訝しがったが、「まだ序盤だ。覚えていることはもっとあるはずだ」と米倉は安易な考えを牽制した。
「かけ算や割り算は覚えていますか?」
「はい一応……一から九の段まで覚えています」
米倉は確認の為、七と八の段を言ってもらったが問題なかった。
「では掛け算や割り算を習った時の記憶は覚えていますか?」
「…………」雄斗は黙ったまま俯き、思い出せない、と切実そうにこたえた。
思い出せないか。
覚えているならば、関連していることを辿っていける。しかし覚えていないのならば知識としてしか残っていないのだ。例えばリンゴは覚えていても、食べた時の記憶が無いのと一緒だ。
「少し休憩を挟みましょう」
「分かりました……」
一旦、頭を冷やそう。そして別の視点から考えられる問いかけをしてみよう。米倉は院内にある自販機に向かおうと病室のドアに手を伸ばした。ところが出ていく寸前で、雄斗に呼び止められた。
「先生……。あの、自分は本当に記憶が戻るのですかね? すみません。何だかちょっと不安になっちゃって」
雄斗は下を向いたままで表情が見えない。
「気にすることないよ。記憶が戻るのは、時間と、根気強く思い出そうとする気持ちが大事だから。前は動かなかった身体も、真田さんがリハビリを頑張ったから、表情も会話も良くなっているでしょ。心配しないで、きっと今より良くなるから」
米倉は笑顔を見せて言ったが、自販機でいつものスポーツドリンクを買った時に言ったことを少し後悔した。心配……するよな普通。記憶が無いって怖いもんな。真田さんに発言したことが頭の中で反響して、自分の考えと齟齬していることに米倉は情けない気持ちでいた。
「雄、母さんのこと、覚えていないの?」
「ごめんなさい。まだ何とも……」
静恵は他人行儀に謝る息子に、記憶が無いのだから仕方ないと分かっていても辛い現実に苛まれる。
「あの、自分は…………」
「何かしら? 思ったことは母さんに何でも言っていいのよ」息子が口を開いたので、静恵は暗い気持ちを悟られないように無理に明るく振舞った。
「すみません、ではお母さん。自分はどのような事故に遭って、どのくらい時間を過ごしたのでしょうか? それと自分はどんな人だったのでしょうか?」
真っ直ぐに見つめる息子の瞳は、別人のようだった。そう思って雄斗の質問に答える。
「そうね……。雄斗が遭ったのは火災事故。高校を卒業してあなたは神奈川の実家を離れて、静岡で就職して一人暮らしを始めたの。火災が起きた時、二十歳になった後の一月の寒い冬だったわね。アパートでガスが漏れていたらしくて、引火して大爆発を起こしたそうよ。すぐに消防車が来てくれて、火は鎮火されたわ。雄斗以外は火傷を負った住人も数人いたけど、命に別状は無かった。でも、あなたは爆風で吹き飛ばされて頭を打ったの。打ち所が悪すぎて緊急手術で一命は取り留めたんだけど、植物状態になってしまったの」
静恵は話を区切って、ごめんね、とハンカチを取り出しながら息子に謝った。辛い過去を思い出すのは何度経験しても苦しい。眠っている息子に一方的に話し続けた三年間は、半世紀以上の人生を歩んできた私の中で、生きた心地のしない三年だった。
「それで、そこから三年間の植物状態から意識が戻って、いまは記憶喪失ってこと」言い終わったあとに静恵はフウっと深い息を吐いた。
「そうですか……」
「それからね、雄斗のことなんだけど、あなたは凄く麺が好きだったわ。あんたはね、何を食べたいって訊くと決まって麺料理だったわ。ある日はラーメン。ある日はパスタ、またある日はうどんで、それらを却下するとあんた、何て言ったと思う? じゃあ、焼きそばって言ったの。さすがに母さんも笑っちゃったわ」
私はついつい昔のように、雄斗と話していると錯覚して口調が蘇ってくる。一人で突っ走っているような感じになり、ごめんなさい、と誰に責められるでもないのに何故か私まで他人行儀に謝った。
「良いよ……そっかあ、麺が好きだったんだ。じゃあ、栄養失調とか起こさなかった?」
他人行儀で謝る私に、雄斗は自ら殻を破って親しい口調で話してくれる。砕けて笑う雄斗に心が救われたような気がして、嬉しくなって続けた。
あの日はね――。
雄斗が朝から立眩みがする、と言うので「あんたが麺ばっかり食べるからでしょうが! 今日のお昼は、近くのスーパーでレバニラ弁当でも買って食べなさい」
高校生になった雄斗は給食から解放され、憧れだった《買い弁》に麺をチョイスすることにウキウキしていたようだ。それを阻止するべく母親の私は、毎朝早くから弁当作りに精を出す。しかしその日は朝早く会社に出勤しないといけなかった。仕方なく弁当代をテーブルに置いて家を出た。雄斗が起きた時間を見計らって電話を掛け、ボーっとした息子に活を入れる。仕事が早く終わって家で寛いでいた私は、電話によってささやかな休暇が終わる。学校から雄斗君が授業中に倒れた、と連絡を受けた。
急いで学校に向かって保健室に入ると、顔面蒼白の雄斗がベッドに横たわっていた。養護教諭から事情を聴いた。
すぐに目が覚めたようだが、様子を見ていても吐き気と頭痛がするという。弁当で食べた肉の脂が濃く、気持ち悪くなってトイレで吐いたという。また授業中、校舎の改築工事の音で片方の頭が痛くなったそうだ。
最後に養護教諭は助言してくれた。「一度病院で診察なされた方が良いのかもしれません。男の子には珍しい片頭痛の疑いがあります」そう言って私達を見送った。
学校から帰った雄斗は幾分血色が良くなり、大人しく晩御飯の白身魚のソテーを口に運んだ。
翌日、私は会社を休み、病院で雄斗の診察をしてもらうと、片頭痛で無理をしないように、と医者から忠告と薬を貰った。「あんた体大きいのに案外、繊細なのね」
「何だよ案外って」
そう言って私達は笑った。
どうしてあんたは麺が好きなのよ。
ある日、生臭さが充満したたらこパスタを頬張る雄斗に訊いたことがあった。息子は一瞬噎せて、お茶と一緒に口に入っているパスタを胃へ流し込んで爆笑した。
「母さん、それ母さんのせいだからね」
そう言ってまた笑う息子に、私は全く意味が分からなかった。
「母さん、覚えてないの? ほら、小学低学年の頃、母さんが帰ってから晩御飯で家の近所のラーメン屋にいつも行っていたじゃん。あれで俺の舌は米じゃなくて麺派になったの。そりゃあ、麺が嫌でも好きになるよ」
「そう、だったかしら?」
「そうだよ、無責任だな」
記憶に無い私を無視して息子は続けた。「麺は何でも美味しいし、良いね。麺ばっか食べてもあんまり栄養失調しないし、ほら、よく言うじゃん。麺を食べると長生きするって」
「それは、年を越す時だけでしょ」
「あれ、そうだっけ。でも気は持ちようとも言うじゃん。俺の人生は麺に恵まれている。これはもう天職じゃなくて天食だね」
いつもそんなに笑わない雄斗が珍しく、二度目の爆笑。
バカみたいな会話に、知らず知らずのうちに幸せだったのだ、と私は沈痛してしまう。
「逆行性健忘症?」
「はい、逆行性健忘症。記憶障害の一種で、雄斗君はその症状だと思われます。健忘とは記憶障害という意味で、逆行性とは意識障害の起こった時点より以前に遡って、思い出すことができないという症状です。記憶喪失で多いのは前向性健忘症といって、発症から新しく記憶することができない症状です。逆行性健忘症とは反対の症状ですね。ですが、どちらの健忘症も患者さんを苦しませていることに変わりはありません。雄斗君は火災事故の衝撃で頭を強く打ち、記憶を司る海馬や大脳に損傷を与えました。ですが、絶望的だと思われた、植物状態で機能が停止していた大脳が奇跡的に回復しました。でも、まだ気を抜いてはいけません。海馬はまだ回復していないようです。心配なさるのも無理ないですが、今は息子さんのリハビリと脳の回復を辛抱強く見守ってあげましょう」
「はい……息子と一緒に戦います」
逆行性健忘症――。初めて聞く病名だった。普通の生活をしていて聞く方が滅多にないだろう。静恵は米倉が説明し去ったあとで考え込んだ。
静恵と一緒に傍で話を聴いていた薫が口を開く。
「真田さん、明るくいきましょう! まだ始まったばっかりじゃないですか。話は変わりますが、この前申し上げた物は何か、持って来てもらえたでしょうか」
「CDと本なんですけど。雄斗の部屋から適当に持ってきたのですが、いまから息子に見せるのですか」
「いえ、それはまた今度にします。私が雄斗さんの状態を理解したうえで、彼に問い掛ける質問事項を纏めます。例えば好きな曲の歌詞を私が口ずさんで、彼がどう捉えたのか。昔聴いていた曲の記憶が想起されるかですね」
そんな回りくどいことをするより、手っ取り早く見せたり聴かせたりする方が良いのではないだろうか。静恵は怪訝な顔で質問した。
「大丈夫です。地道に思える方法かもしれませんが、確実に前に進むと思います。どうか私を信じてください」
そういって彼女はブラウンのカーリヘアの頭を下げた。
ごめんなさい。じゃあ、プロに任せるわ。そういった静恵だったが心では疑念を消せずにいた。
この子に任せて本当に大丈夫かしら? パソコンで調べたら、カウンセリングって、相談や会話を通して問題を解決するのではないの? そういった職種に関した疑問と、何なのこの子、髪も派手にカールして芸能人気どりかしら。普通仕事では髪を束ねるでしょ。どこか見覚えがあるなと思ったら、きっとテレビに出ている人と見間違えたのね。それにしても最近の子は、顔が皆同じに見えるわね。
静恵の個人的な怒りが、彼女のイメージを悪くさせていた。
彼の会話は自然体になり、皮膚の回復も順調だった。問診と触診を米倉は済ませてきたが、進展の傾向を全く見せずに三週間が過ぎた。彼は今日も記憶を取り戻している節はなかった。
新人時代に先輩が教えてくれたことを呼び覚ます。
「患者の役に立てない時、優秀な医者でもヤブ医者と思われるんだ。それでも自分にできることは、患者や家族の為に命懸けでやる。医者ってそんなもんだ」
俺ができること。限られた少ない情報を米倉はもう一度整理した。
名前。火災事故に遭ったこと。爆発の影響で植物状態。記憶喪失。火傷による左上半身の皮膚移植手術。逆行性健忘症。
事実を再確認しつづけていると気付かなかった点が浮かび上がる。
「どうして左上半身なんだ……」
爆発を左で受け止めた? しかし、上半身だけにしか酷い火傷は見当たらなかった。火傷の程度が違う爆発なんてあるのか? 自問自答しながらある答えに辿り着く。
「爆発で受けた火傷と、あとの火災で受けた火傷は別々なのか」
米倉は急いで雄斗のところに向かった。リハビリ室にいた雄斗は必死に腕を動かそうと、何度も意識を集中させる。セラピストにアドバイスを貰いながら肩や肘に力を籠めて顔が歪む。
「真田さん。すみません、リハビリ中に邪魔してしまって。すみませんが、上を脱いでもらえませんか? 再度、触診させてください。お願いします」冷静さを欠けた米倉に雄斗は呆然としてしまう。返事が遅れて意味も分からず、なすがままに服を脱いでいった。
左半身をじっくりと見ていた米倉だったが、左腕を見て納得した顔つきになる。
……誤診をしてしまったようだ。
彼は逆行性健忘症なんかじゃない。どうして気付かなかったんだ。彼は解離性健忘症だ。記憶が戻るのは困難な道になるかもしれない。米倉は新人臨床心理士の名刺を頼りに電話を掛ける。
自分のミスだ、と誤診をした事実と事態が悪い方向に向かっているような気になり二度程、番号を押し間違えて苛ついた。
「急用というのは、雄斗さんの記憶が戻られたのですか?」
翌日、米倉から電話を貰って朝早くに病院を訪れた薫は、カールがかったミディアムヘアの髪を耳にかけて仕事モードに切り替える。
「いや、彼の記憶は戻って無い。……誤診があってね、この前と症状の名前が違う」
「そうですか、そう簡単に戻りませんよね…………。え、いま誤診って仰いました」薫は聞き間違えかと思い米倉に確認すると、彼は自分が犯した悪事を認めるように肯いた。
「でも、記憶喪失なんですよね。現に彼は昔の記憶を取り戻していないのでしょ」
薫は全く理解ができず、米倉を質した。
「確かに記憶喪失だ。でも事故の影響では無い可能性がある」
「待ってください。彼は火災事故による爆発を受け、頭部外傷による記憶喪失。そういうことでは無いってことですか?」
「初めは私もそう思った。だけど不審に思ったことがあってね、昨日調べたら誤診だと八割がた確信したよ。逆行性の健忘症ではなく解離性健忘症だとね」
「カイリセイ……解離性障害のことですか?」
「そう。意味は分かるよね」
「当たり前です。佐伯先生も太鼓判を押す大学院で勉強しましたから。解離性とは自分が実体験した記憶や行動、培った考えや感情などの一部を、脳が勝手に意識から切り離してしまう現象――。で、当っていますよね?」
「そうだ」
「でも解離性ということは強い精神的ストレスが原因でしたよね。何か雄斗さんの言動に、精神障害を抱えている傾向が見られたということですか」
「いや言動ではない。身体だ」
身体に精神的ストレス要素。記憶を失くすほどだから蕁麻疹なんかの生易しいものではないはず。もしかして、と躊躇いがちに薫は口にする。
「自傷……行為ですか?」
「そう。彼は事故が起こる寸前、それもごく直近の内にリストカットをしていたのだ。初めは火傷によるケロイドだと見過ごしていたのだが、よく見てみると切り傷のあとだった。私は左上半身の火傷と下半身の火傷は損傷度合が違いすぎだと思った。もしかしたら爆発で受けたのは上半身の左部分だけで、下半身の火傷はあとで受けた損傷。あまり専門ではないが家庭用ガスは二つのガスのどちらかが供給されている。一つはプロパンガス、もう一つは都市ガス。プロパンガスは空気より重く、都市ガスは軽いから上に溜まる。もし彼のアパートが都市ガスを供給していたのならば、火傷の痕も説明がつく。彼は爆発が起きた時、不意に左で身を庇ったのではないか。そのとき偶然にも爆発で、リストカットの痕は隠れてしまったのではないか?」
「頭部損傷の記憶喪失ではなく、実は精神的による記憶喪失……ということですね。あり得るかもしれませんね」薫は米倉の説明を聞いて、強い精神的ストレスに関連した資料も集めなきゃ、とペンを走らせた。それに火災事故をもう一度調べる必要もあった。
どんなストレスを抱えているのだろう。早急に記憶が戻るようにカウンセリングの内容を考え直す必要があるな。心に闇が残ったまま記憶を失くしてしまうと、記憶が戻った時に何をしでかすか分からない。