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二つの螺旋  作者: 蒼井ワタル
薫の熱意
3/11

薫の熱意

「おーい、ちょっとこっち来てくれ」上司の佐伯に呼ばれた(しら)(いし)(かおる)は、また雑用を押し付けるつもりだな、と足取りが重くなる。

「また何か模様替えでも?」

「違うよ。それは昨日やっただろ」彼はすまし顔でいった。

したのは私だけどね、と薫は心の中で毒づく。

 カウンセリングルームでは相談者がより良く心を開いてもらえるように、淡い緑を基調にした壁に、オレンジ色や黄色、ピンク色などの大小様々な円が壁に描かれている。全て所長である佐伯(さえき)和宗(たけむね)が手掛けた部屋だ。部屋には二脚の椅子が広々とした部屋の中央に置いてある。紫と白の単色で、どちらも座り心地が良さそうだ。昨日は赤色と茶色の椅子だったのだ。それを佐伯は、ちょっと出張に行ってくるからあと頼む、と手刀を切って車を走らせていった。先日買っていたという重たい段ボールに包まれた椅子と助手の薫を残して。

「じゃあ、何か買い出しですか」薫は佐伯の口からどんな指示が出てくるのか、暗澹(あんたん)とした表情を浮かべる。

「いーや、違う。君への……朗報だぞっ」

「はいはい、それは所長にとっての朗報でしょ? そんな手に引っ掛かりませんよ」

 佐伯は温和な顔して心では、助手の薫が困った顔をするのを見て面白がっているのだ。

「それで本当は、何の用ですか」

「あっ、君聞きたくないのかね。なら別に俺は良いんだが」意味ありげな目を向けたまま、佐伯は含みのある笑みを浮かべていった。

 面倒臭いな、と思いつつ、この態度は珍しいと思った薫は朗報の期待半分、冗談半分で「ぜひ聞かせてください」と上司の顔を見て賭けに出た。

 佐伯は両手で一旦顔を覆い、若干目を充血させながら言った。

「合格、おめでとう! 君は本当によくやったな! 証明書が届いてるぞ」

 薫は悪質な冗談でどうせ証明書なんてない。悪ふざけが過ぎる、と言葉を返すと、彼は一枚のクリアファイルを薫に出した。

「これは?」

「これは俺の言葉が嘘じゃないという無実の証明さ」

 まさか、まさかまさかとクリアファイルの中身を見た。そこには私のような助手や心理相談員たちが、喉から手が出るほど欲しい書類と一枚のカードがあった。

 臨床心理士――。

「遂に、遂に私も臨床……心理士」薫は邁進(まいしん)して手に入れた資格を握りしめ、その場にしゃがみこんだ。


カウンセリングルーム。事務所の二階にあり、佐伯がクライアントの心の深淵に時間をかけて埋める空間。私は模様替えの時や、お茶出しの時しか普段入らない場所だ。

 薫は部屋の中央にある、白い椅子に腰を下ろした。背もたれに体を預けて足を伸ばすと、ふと上を見る格好になった。天井はガラスの天窓になっていて日中はとても明るく、青空の下ですっきりと気持ちがいい。曇天の際はブラインドをして、壁に取り付けた暖色のライトを点けて明るくする。これも気持ちよく話してもらえるようにと佐伯が考案した造りとなっている。

 午後八時――。薫は部屋のライトを消してみる。たちまち無数の星が彼女の心を奪った。別に珍しいほど輝いてるわけではないが、久しぶりに見た夜空は多忙な日常を忘れさせる。この弱く存在を示す星たちは、プロが撮った等級の低い輝く星では無かったけれど、薫は好きだった。

「私が知らないあの光の向こうに、私が知りえる悩みは無いだろう……」この《佐伯臨床心理士事務所》で助手として見習いだった頃、佐伯は私にいった。

 色々あったな、と薫は数年の過去をざっと思い出した。忘れていた過去を思い出す機会なんて薫にはなかったから、余計に胸に込み上げてくるものがあった。

 壁際のライトを点け、何気なく座った白い椅子を見て、紫色の椅子に視線を移す。

 昨日、出張から戻った佐伯に椅子の色について何となく訊いてみた。

「白はクライアントで、真っ白な気分になって欲しい。紫は……俺が好きだから、俺が座る」そういって佐伯は笑った。

「私も、カウンセリングに……」紫の椅子を眺め呟く。

 数週間がたって、その日出勤した薫は例によって事務所周りの掃除をする。次にメールをチェックする。届いているメールが個人か企業か、それらの日程が近い順に纏めて佐伯に提出する。

未だに薫はカウンセリングを担当させてもらってない。佐伯にもそれとなく尋ねてみるが良い返事を貰えずにいた。

 まもなく佐伯がきて、薫は挨拶の次にまたやんわりと訊いてみた。

「おはようございます!」

「おはよう、今日はいつもより何か元気だな。良いことでもあったんか」

「その良いことを期待しているんですよね。例えば、そろそろ私も、クライアントの役に立っても良い頃じゃないかなあ、とかですね」視線をずらして、取って付けたように佐伯に《私を》を強調した。

「いやあ、君から、その話を切り出されるとは思わなかったな。昨日、君にピッタリのクライアントが見つかったよ」コーヒーを淹れながら佐伯は続ける。

「そのクライアントは病室にいてね、いま療養中らしいんだ」

「メンタルヘルス、悩み相談という具合ですね」薫はたまに佐伯が、病院に出張に行くのを知っている。珍しくないがカウンセリングに場所は決まっていない。クライアントが事務所に来てもらえるのなら事務所でカウンセリングできるが、そうでない場合は今回のようにコチラが出向くことになる。

「いや、それが従来のケースとはまた違うんだ」

「え? 病院だということは――」

「記憶喪失らしいんだ、そのクライアント」

 初仕事が重大なケースだったので、薫は軽く眩暈(めまい)を覚えた。


 静恵は雄斗が意識を取り戻した数日のうちに、天国から地獄へ突き落され、憂き目にあっていた。

 そういえば、あの時とよく似ている。静恵は真信との思い出を巡らした。

 バスガイドをしていた頃、休みの前夜は決まって彼氏とのデートに浮かれていた私は、その電話でデートどころではなくなった。

 開口一番に母が伝えた内容は、父が倒れた、という衝撃的なものだった。連絡を受けた私はすぐさま、母が教えてくれた病院へ向かう。先に帰っていた同棲中の彼に心配をかけないため、仕事で覚えないといけない原稿があって、朝方に帰るかもしれないから先寝てて、とタクシーを拾いながら電話で伝えた。

 病院に着き、慌てて病室に入ると、そこには頑固者で何かあるごとに怒鳴っていた頃の面影はなく、衰弱しきったまま眠る父がいた。心筋梗塞だったらしい。手術により心臓の動脈の血流は良くなったものの、今の生活を続ければ再梗塞になる可能性が高いらしい。病室の外の椅子で医者から説明を受けた後でまた病室に戻ると、父が起きていた。久し振りに見る父の顔には皺が増え、まじまじと視線を巡らせる白髪も大分増えていた。

 父は自分の身を酷く案じていて、私や母がいくら「お父さんの身体はもう大丈夫なんだよ? 健康に気をつけていればまだまだ長生きするそうよ」と説得しても納得しなかった。それどころか話が逸れて、私の将来や結婚、仕事について父は詮索しだした。耳を塞ぎたくなる話を繰り返す父に私はいつもなら反発するが、そのときは不意に、私をこんなに愛してくれているのだな、と妙に幸せな気持ちになった。

「おい、お前いつ身を固めるつもりだ。仕事もほどほどにしないと結婚も遠のくぞ、そこんとこどう考えてんだっ」

「まあまあまあ、その辺にしときなさい病人なんだから。今夜はわたしがついているから、静恵はもう家に帰りなさい」父の説教から逃すため、母が助け舟を出してくれた。優しく微笑む母と、話はまだ終わってない、と不満げな父に「じゃあ、また寄るね」と静恵は病室をあとにした。

 真夜中の歩道を歩く途中でおでんの屋台を見つけた。ご飯をまだ何も食べていないことに気付き、もし彼が私の帰りを心配して起きて待っているなら、と二人分のおでんを片手に、父と彼のことを交互に考えていた。

「ただいまあ」暗くなった部屋に小声で(ささや)く。やっぱり眠ってるよね、と思いながら玄関の灯りをともすと、私の持っていないハイヒールがあった。

 ハイヒールを見つめ、真っ白な頭から時間を少し掛けて、浮気という文字を浮かべると沸々と怒りを(たぎ)らせた。急いでリビングを遮り、寝室の(ふすま)を勢いよく開けた。裸の彼の隣で驚いている女と間抜け面をして横たわっていた彼の顔を見て、体の力が抜けていくのを感じた。

「藻奈美……」中学からの付き合いである彼女は、時々家に呼んでパーティーをするほど仲のいい親友だった。

 私は指の隙間から滑り落ちそうなおでんの袋を握り直して、部屋を出てった。

 あてもなくただ足を進めていたが、気付いたら会社の横まで来ていた。朝の習慣がそのまま会社へと足を動かしていたようだ。ふとフェンス越しに見渡していると、門の前に誰かいた。男だ。門に寄りかかりながらバスを見ていた。普通なら不審がるけれど、年季の入った街頭に照らされた横顔には見覚えがあった。

「あんた、こんな時間に何してんの?」

「あ、静恵さん。お疲れ様です」真信は、いつものように軽く会釈する。

「じゃなくて……もういいや」全てがどうでもよくなった私は、適当な場所に座った。今まで握り締めていたおでんの袋に改めて気付き、時間のたった冷えたおでんと、雑に扱って蓋から零れた汁が袋をびちゃびちゃにしていて笑いがこみ上げてきた。

 ――何してるんだろう、私。馬鹿みたい。

「何ですか、それ」真信が寄ってきて袋の中身を(のぞ)く。

「本当は二人で食べるつもりで買ったんだけど、一人になっちゃってね。どう、食べる?」言ったあとで、冷めてるから要らないよね、バカみたいだよねと私は自虐的になった。何でそんなこと言ったんだろう。

「俺ね、夜ごはん、まだだったんすよ」彼はしゃがみこんで汁で濡れた容器と割り箸で、冷たい大根を口に運んだ。

「俺の大好物、おでんとバスなんすよ。おでんってね、不思議なことに冷めている具でも、人から貰うと暖かくなるんですよ。なんていうか、その人の気持ちが伝わってくる感じですね。このおでんは……何かしょっぱいっすね」彼は食べながら初めて自分のことを素直に明かし、屈託のない笑顔を見せた。

 私は胸のあたりがムズムズとした感覚に陥り、何だろうと思い浮かばずにいると、また母から電話があった。

 父が急に発作を起こして亡くなった、という悲報を、鼻をすする音と嗚咽が交互に入り交じりながら伝えてきた。どうして、どうしてさっきまで元気に私を叱責してたじゃない。終電はとうに過ぎ、タクシーを拾えるほどの金額を持っていなかった。病院まで足がない私は事情を説明し、真信の車で病院に向かった。病室は先程と変わりなかったが、そこに父はもういない、と足を踏み入れた瞬間に感じた。

「お母さん」ベットの横に蹲った小さな背中の母に問いかける。私は知らず知らずに涙が滴っていて顔がぐしゃぐしゃになっていた。

「急に苦しみだしてね、急いで先生を呼んだんだけど間に合わなくて。静恵が帰って一時間もしなかったわ。あの時、お父さん知っていたのかもね。それで静恵に色々言っていたのね。ごめんなさい、少し失礼するわ」言い終わらぬうちに母はハンカチで目頭を押さえながら退室した。

「静恵さん。お父さんに沢山言葉を交わしてください。僕は終わるまで外で待っていますから」真信は私と父の二人を残して出ていった。

 ――分かった、分かったよ。お父さん。

 悲しみの中でいま見つけた気持ちを、私は亡き父に告げた。

 私……。彼を愛してるのかもしれない。私は父の白い顔を見ながら私は嗚咽を漏らし続けた。


 雄斗は目覚めていたが、知らない世界に居る気がした。

 そこには自分が知らない人たちがいて、いつも自分を看病している。どうやら事故に遭って入院しているらしい、とそこまでは理解できたが、いつも決まった時間に来る、おばさんが自分の母だということや、自分の名前が真田雄斗だということは全く知らない。いや、覚えていないという方が適切なのだろう。

 相当酷い事故だったのか、右手の指先以外動かせない。

「真田さん。真田さんの身体は左半身、主に上半身の皮膚が酷く火傷を負っています。真田さんは今、記憶が戻られていない状態ですが、記憶が戻るのは時間の問題だと思われます。なので、先に皮膚移植手術で皮膚を元のように戻して、リハビリをしてから記憶の療養に移る方向でよろしいでしょうか? はい、なら二回、いいえ、なら三回瞬きしてください」医者はゆっくりと説明し、判断を委ねてきた。

 もちろん医者が言うならその方が良いのだろう。迷わず瞬きを二回した。

「及び手術費、入院費等については昨日面会にいらっしゃった、真田さんのお母さんが負担してくれるそうなので、ご心配なく」医者は自分が理解したと判断した後、軽く会釈し病室から出ていった。

 自分の母が費用を持つ。まだ記憶が戻らない自分は退院したら大金を返すため、死ぬ気で働かないといけないな。ふとそんなことを考え、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 手術当日、記憶が戻らないまま、記憶にない母に見送られながら手術室に向かう。不安げに見つめ大丈夫よ、と念を送っているような母の姿に目頭が熱くなる。手術台に乗せられ、麻酔が効いてくると瞼が重くなり、そのまま目を閉じた。閉じる瞬間、溜まった涙が目尻から流れ落ちていくのがわかった。

 目覚めると医者から、手術が成功した旨を伝えられた。確かに移植されたであろう箇所からは、麻酔が切れていて、鋭い針を突き刺しているような痛みが熱を帯びて、体中を走っている。また術後の痛みを享受する感覚と同時に、母であるおばさんに改めて感謝の念が込み上げてきた。


「最近おまえ様子が変だぞ。何かあったのか?」ベースを担当している修二は練習が終わって、すかさず言った。

「何もねえよ、心配しすぎだよ。じゃあな。……お疲れさまでした」取り繕うように笑って、素早く身支度をした海藤拓也は関係者に挨拶をすませ、急いで沼津第一総合病院に向かった。ビル群が立ち並ぶ細道を通り、大通りに出てタクシーを拾う。ここ最近はずっと雄斗のことを考えていた。二か月前、面会に行ったときは運よく、一日のほとんどを眠りについている彼が起き始めた時だった。サイキックスというバンドのギター兼ボーカルを務める彼は、清純派バンドとしてメジャーデビューを果たし、(あわただ)しい生活を送っていた。隙間の時間をやっとみつけ、このチャンスを逃したら次いつ足を運べるか分からない。

 病院に到着して病室に入ると面会時間ギリギリだった。先に面会に来ていた静恵が気を利かして二人きりにしてくれた。

 学生時代、友だちを家に連れ込むことのない雄斗が、数少ない友人を招き入れた一人が高校の同級生である拓也だった。雄斗が記憶喪失で何も覚えていない事は、雄斗の母親から定期的に送ってくれるメールで知っていた。皮膚移植手術をして成功したこと。右手の指先で会話ができることもメールに書かれていた。

「おう、また来たぜ雄、俺のこと、もう思い出しただろ?」まだ傷が治ってないのか、包帯の巻かれた頭から覗く彼の目を見ながら問いかける。返事を知るべく、雄斗の右人差し指を掌の上に乗せる。

 し……ら……ない、か。拓也は落胆するのを隠せない。すると、雄斗がまた指先を動かしはじめる。で……も、と何か俺に伝えたいらしい、と拓也は時間を掛けて、彼が伝えたい想いを五十音のボード上で知った。

「君のことは覚えていないけど、君が夢の中に出てきたよ。そこは暗い部屋の中で、君は誰か外国人男性の親しそうな人だったかな。その人と一緒に寝ようとしていた。変な意味とかじゃなくて、仲良さげに君達は、修学旅行の夜のように異性について話していた。それで男が君に今の恋愛について何か訊いていたけど、よく分からないんだけど……答えちゃダメだと僕は思った。色々と君に答えさせようと話を上手く乗せていたけれど、答えちゃダメだと教えようとしてたら夢が終わった」

 何だよ、それ、と途中から拓也は笑っていた。最後に雄斗も変な夢だよね、と指で伝えながら目を細くした。本当は一緒に笑いたいだろうに、傷のせいで痛みが時々走るのだな、と拓也は不甲斐なく思った。

 

 面会から四日後、(うなぎ)登りのサイキックスは各方面のメディアから取材や出演で日程がパンパンに膨らんでいた。ある番組が持ち掛けた企画が、青少年たちに人気で多忙のサイキックスを癒しながら彼らの素顔、魅力をアピールしてもらうというものだった。北海道の湯の川温泉や海の幸のフルコースをロケという名目として一日満喫した。

 旅館で一泊する予定で、最後に収録カメラが切られて無礼講の宴会が始まった。酒豪の拓也もスタッフやメンバーたちに次々にグラスに酒を注がれ、少しばかり酔ってきた。旅館の都合上、部屋割りでは番組のナビゲーターとして同行し、タレントやモデルとして芸能界に入った部類のハーフの先輩と相部屋だった。ハーフの男。二人きり。何かあったな、と覚束(おぼつか)ない頭を働かせ思いだそうとする。寝るまでの間、先輩と他愛もない会話をしながら時間を過ごした。

「それでちょっと話変わるけどさ。どんな子がタイプよ?」

 酒で鈍った頭でずっと思い出そうと悩んだ結果、ようやく答えが出た。

 あー思い出した。雄が言ってた変な夢だ。

 雄斗の夢の話を思い出しながら、予言のように当たった現実。暗闇の中、ニヤつく先輩とは別の意味で拓也もニヤついていた。この質問をはぐらかしたら、どんなことが起きるのだろうか……。

 後日、番組が放送されていた。翌朝起きると、ドッキリ大成功とネタばらしされてリアクションに困ったが、何のことか全く意味が分からなかった。どうやらロケ中のみならず、カメラが回っていない時にもサイキックスの素顔を徹底解析という裏企画が遂行されていたようだ。他のメンバーにも寝る前に色々質問されたようだ。しかし、最終的には清純派バンドのボーカルのタクヤは、浮ついた女性関係など眼中に無く、向上心の塊を世間に公表する形となった。

 本当に雄斗の話を聴かなければ、高校の時から付き合っている彼女のことをバラしていて、たちまちサイキックスのイメージダウンになったはずだ。

 雄斗に救われたのはこれで二度目だ。


数日後、新しいミュージックビデオの撮影を取り終えた拓也は、一人電車を降り改札を出る。

 振るのかな、雨。

 拓也は、雄斗と初めて会った頃を脳裏に呼び起こす。

 高校二年の夏。拓也は修二と共にEVOLVEというバンドを結成し、不条理な世界を歌詞に込めて叫んでいた。拓也の透き通ったハイトーンボイスと、修二の卓越した指さばきで奏でるベースは、見事に周囲をバンドの渦に飲み込んだ。

 ボーカルだけ担当していた拓也は、俺もギターを弾けるようになって作曲したい、と修二に打ち明けた。

「お前がやりたいなら、ぜひ俺に見せてくれ」

 背中を押してくれる友達に、コイツとはずっとバンドしているだろうな、と落ち着いた。

 授業が終わり、ギターの本を探すべく拓也は三階の教室を抜け出し、急いで階段を駆け下りる。二階の踊り場に差し掛かり、行かないほうが良いよ、と呟き通り過ぎる男子がいた。

 名前は覚えてないが、同学年だったはずだ。彼が雄斗と知ったのは後のことだ。

 拓也は何のことだろうと、静かに手摺(てすり)から見下ろした。一階の踊り場にいたのは文武両道を目指すこの高校教師が厄介者と扱う、三年生の不良達だった。周囲にとって、気に障ることがなければ彼等は空気のようであった。だが、彼らは日頃から何かに対して鬱憤が溜まっているのか、いつもイラついていた。この人達も、何か本気で熱中できるモノに出会えれば、こんな場所で油を売っていないだろう。

 もし階段を下りれば、お金をせびってくるかもしれない。さっきの奴は、それを知っていて忠告してくれたのか。忠告通りに別の階段から学校を出て書店に向かった。途中まで晴れていたのだが、書店を出るとポツポツと曇天に姿を変える。

 いつもは嫌いな雨。特に梅雨の時期は拓也だけでなく、殆どの人が憂鬱にさせられるだろう。乾燥機のない家の洗濯物は、部屋干しで乾いた体操服は臭い。二つ上の姉は片頭痛持ちで、雨が降る度に何故か怒りの矛先が拓也に向けられる。雨の日はきまって頭がガンガンするそうだ。いつもはジキルの姉を雨は容易くハイドに変える。その効果は梅雨前線が過ぎ去るまで続く。

 そんな憎き雨だったが、今日は不思議と気分が塞ぐ気配をみせない。これも無事に教本を買えたお礼を明日、名前の知らないアイツに、さり気なく伝えようと拓也は思った。


 佐伯から事情を聴いた薫は、クライアントがいる沼津第一総合病院に愛車のハンドルを切る。

「クライアントは何年か前に起きた火災で被害に遭い、数年間、植物状態――。今年の六月に目が覚めたらしい。皮膚移植をしていて左上半身はあまり動かない。最初は指先や瞬きなどで意思表示をしていたが、リハビリによって自分の口で話せるくらい回復している」

 佐伯は知り合いの医者から経過を聴いたという。

 受付を通りすぎ目的の病室に近づくと、眼鏡を掛けた医者が立っていた。優秀という言葉を突き詰めた印象を薫は抱いた。薫の苦手なタイプだ。

「こんにちは、君が佐伯の……」医者は口を動かすのを止め、目を大きく見開いた。

「はい。先月の半ばに臨床心理士になりました。白石薫です」

 助手として使っていた名刺を破棄し、肩書を変えた名刺を初めて使う。名刺を受け取ると、彼は名刺と私を交互に見た。どうしてこんな小娘がこの肩書を持っているのだろう、とこの医者は内心驚いているに違いない。いままで助手と聞いて顔を曇らせた人達は少なくなかった。事務所の中で、助手の肩書は薫ただ一人だけなのだ。助手をしていて自己紹介が一番躊躇(ためら)っていたが、これからは堂々としてられる。名刺入れを取り出すたびに私はニヤけるだろう。

「私は米倉慧(さとし)です。いやあ、驚いた。君が、佐伯が話していたあの白石(・・)君か。白石さんが担当する患者の担当医です。もうご存知かもしれませんが、患者の名前は真田雄斗さん。今リハビリ室にいます。その間に彼の母親を紹介します」

 驚いた表情を初め見せただけで、感情を切った淡々とした口調に、台詞だけ覚えた三流役者みたいだな、と薫は考えながら米倉のあとに続き病室に入った。

 病室のベッドのそばに頬のこけた中年のおばさんが座っていた。明らかに入ってきた薫を凝視していた。

「あなたは……」

「真田さん、彼女が私の知り合いの助手で、雄斗君のカウンセリングを担当する――」

「白石薫ですっ。私が雄斗さんのカウンセリングを担当させていただきます。臨床心理士の、白石、薫です。いろいろな手段を駆使して、雄斗さんの記憶が戻るよう尽力します! よろしくお願いします」

 米倉の紹介に被さって薫は素早く挨拶した。若いからって自己紹介ぐらい自分でできます、と薫は内心でぼやいたが気分を変えて、真新しい名刺をまた一つ渡した。

「息子をどうかよろしくお願いします」静恵は一縷(いちる)の望みを彼女に託すように深く頭を下げた。

「はい、任せてください」

「それで、あの……具体的にカウンセリングというのは、どういう方法で?」

「通常の場合ですとクライアント、つまり依頼者が問題や悩み等、ストレスを打ち明けて私が聴き入れます。私が答えを示すのではなく、依頼者に疑問を問い掛けながら、最終的に依頼者自身が問題や悩みを解決するように導くのですが……」

「息子はいま記憶が無い……」

 問題の幅が大きい――。まず本人がどのくらい理解しているか、事故の件や嗜好等の記憶から、最近見た夢の内容といった記憶まで、どのくらいの記憶しているのかなどを静恵に述べた。

 そこで、と一旦区切り、静恵に頼みごとをした。

「お母さんに持ってきて欲しい物があります。まず昔のアルバム。雄斗さんの好きなCDや本、もしくは漫画や雑誌。それ以外に彼が大切にしていた物や、思い入れがある物を持って来てください。記憶を戻すには自分の過去に触れる方法が有効的です」

 静恵は急いでバッグから手帳を取り出す。走り書きでペンを執りながら話を聴く静恵に、薫は絶対に雄斗さんの記憶を戻してみる、と気を引き締めた。

 

 薫が来る前。術後、雄斗は包帯を外して鏡を覗くも、映っていた顔は他人にしか見えない。自分が何者なのか分からないもどかしさと、底知れぬ不安感がいつまでも漂っていた。

 ある程度皮膚の痛みが引いたころ、米倉は眼鏡をクイっと上げながら顔のリハビリについて説明した。

「だいぶ傷も癒えてきましたね。予定より早い回復力に驚きました。これからは顔のリハビリをして、表情筋と発声ができるようにしていきます。それができるようになりましたら、次は身体のリハビリに移ります。よろしいですね?」

 雄斗は瞬きをして理解した合図を出す。

「これから表情筋のリハビリを始めます。では、口をできるだけ大きく開けてみてください」

 開けようとしても左があまり開けなかった。植皮した左側はまるで縫われているかのように動かない。無理に力を込めると激痛が走った。

 痛がる雄斗の顔を見て米倉は、ははは、と笑った。

「いやいや、失礼。痛みが出ない程度に開けてください。そして閉じる。それを繰り返しながら顔に筋肉をつけていくのです。焦らないでゆっくりでよろしいですよ」

 米倉の説明を聞いて「それを先に言えよ、医者が患者を笑うかよ普通。このマッドサイエンティストめ」と声に出せない怒りを滾らせ、胸の内で毒を吐く。

 だが、米倉のアドバイスが的確なのか、リハビリで順調に口を動かせるようになっていった。二週間で驚異的に回復した雄斗は、動きはぎこちないが笑顔や膨れ顔、にやけ顔や(しか)め面など複雑な感情表現ができるようになっていた。それから更に一週間経つと、短く会話を交わせるほど回復していた。

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