覚醒
火災事故から、もうすぐで3年になる。雄斗は植物状態になり、一向に意識が戻る気配を見せない。
静恵は何気なく過ごしてきた3年を思い出す。
春が来て、世間では新たなスタートを踏み出し、楽しみの笑顔や別れの泣き顔といった感情が世界に溢れていた。
雄斗は感情を表してくれない。
夏が来て、夏休みやお盆休みで、帰省や旅行といった日程に身体をせっせと動かし、汗と熱帯夜に不満が飛び交う。
息子は身体を動かす喜びを忘れてしまった。
秋が来て、人々は過ごしやすい環境の中で様々な趣を嗜み、選び抜いたものに勤しみ、そして熱情を抱く。
この子は、何かに没頭し思考を巡らせることがどんなに素晴らしいのか、発するということを閉ざしてしまった。
冬が来て、寒くなり、人は優しさを与えて貰いながら温かみを糧とし、愛を溜めた住まいに戻る。愛に寄り添うために。
彼は自身の熱さを失い、この世界に寄り添うことを諦めてしまったのだろうか。
苦しみから抜け出せないまま、静恵は動かない息子と3つ歳をとった。
ここはどこだろう、と雄斗は思う。
事故からずっと彼は不思議な世界の中を彷徨っていた。そこは白く冷たい世界で、雄斗ともう一人そこに居た。二人だけの寂しい世界。彼、もしくは彼女は人のなりをした黒い影で、ただじっと胡坐をかいて座っている。
「ねぇ、あんた誰」訊いてみるが、ヤツは返事をしない。
「自分はどうしてここに居るんだ」
「自分は死んでしまったの」
思った疑問は全て、ヤツに訊いてみた。自分では何一つ理解できなかったから訊いていないと不安だった。ヤツはどんなに訊いたところで、何も答えてくれなかった。
どのくらい時間が過ぎたのだろう。ずっとこのままなのかと途方に暮れている時、それは突然起きた。
ヤツは二人に分裂した。全く同じ形をしたヤツらは、ただじっと並んで座っている。また同じ疑問や、どうして分裂したのか新しい疑問もしたけど、ヤツらは何も反応しない。
ずっとこのままなんだろうな、と諦めかけた時、ヤツらが揃って自分に問いかけてきた。
「君は……。君自身は誰だと思う」
「君は、何でここに居るの」
「君は、死んでしまったの」
何の冗談か、ヤツらは自分と同じ質問を投げかけてきた。
「雄、今日も良い天気ね」
静恵は息子に、常套句を口にする。
「さっきね、病院来る前に大きな三毛猫を見かけたの」
微動だにしない息子の表情を見つめながら話を続ける。
「ほら、あんた猫好きだったじゃない? だから撫でながら写真を撮ったのよ」そういって静恵は未だ慣れないスマホを操作し、息子の虚ろな視線の先に合わせる。
アングルを変えた写真を、スライドしながら話していく。画面には大きな野良猫が写っていて、寝転がりレンズ越しの静恵を見る眼や、顎を撫でられ目を細める姿から甘えているのが分かるが、息子にはそれが届かない。
「そうだ。この間ね、駅前に新しくラーメン屋さんができたの。雄が起きたら久しぶりに、一緒に食べに行こうか? ラーメン、好きだったもんね」去年開店した店の話を、静恵は何度したか覚えていない。
「先生がね、先月より顔色が良くなってるって言ってたわよ? 凄いじゃない。少しずつだけど、雄が元気になってて嬉しいよ」
息子は必ず生きて戻ってくる、と信じ続け、早3年。静恵は憔悴しきっていた。不変な日常にときおり静恵は、限界なのかな、という考えが頭を過る。
「ねぇ雄……。あんたはこのまま終わってしまっちゃうの」
重たい静寂が静恵を煩わしくさせる。深い心の闇でも、息子に聞こえてると思うほうが心は救われた。
「いつから、そんな子になってしまったのよ。私が知ってる雄じゃない……いや、そうじゃないわね。私が知ってる雄は、ずっと小さかった頃の雄だったわね。いつも私……仕事であんたのこと全く見てあげられなかったね。それなのに、あんたは寂しい振りもせずに仕事に行く私を頑張ってねって、いつも笑顔で送り出してくれたわね」静恵は次々に溢れてくる滴を、拭うことができなかった。最後まで話した時にようやく、また自分が泣いていたこと気付いた。
「あんたが……そうね、三歳の時に父親が亡くなってから仕事に復帰しないといけない私を、おばあちゃんと一緒に見送ってくれたね。あの時も苦しかったわ。あの時のあんた……私が玄関のドアを閉めた後で、凄く大泣きしてたの知ってたのよ。だって、あんたは父親に似て寂しがり屋だったもの」
感情の波は荒れていき、静恵はその波間で助けを呼べずに一人溺れていった。
「それでも数週間であんたは慣れてしまったのよね。小さいながらも、あんたは真実をひとつ理解してしまったのね……。母さん、仕事をしてても思い浮べる度に心が痛んだものよ」
バッグからハンカチを手にしようとするけど堪え、代わりに服の裾を強く握りしめた。あと少し、あと少しだけ話すのよ、と自分に言い聞かす。
「あの頃から、あんたは自分を犠牲にする儚い強さを覚えたのね」
顔が赤く、顔をくしゃくしゃにして送り出してくれた小さな息子は、静恵が気付いた時には寂しげな瞳で微笑みながら、ゆっくりと手を振る少年になっていた。
雄斗の父、真信が初め、私に与えた印象は不愉快極まりないものだった。彼は私が勤める観光バス会社に運転手として雇われた。
見るからに活力がなく無口だった。会社で会うと無気力な眼を向け、お疲れ様です、と無愛想に会釈をしてきた。
私が一つ上で、彼はまだ二十三であるのに人生に絶望しているようであった。
「お疲れさま。どう、仕事慣れた」
数週間後、修学旅行のクラスを受け持ったとき、同乗するバスで事務処理をしていた彼に何気なく聞いてみた。
「そうですね、業務内容は大方覚えました」
いつもの口だけを動かして、端的に事務報告をする彼に、私は疑問を投げかけられずにはいられなかった。
「どうしてあんた、いっつも暗いの」
「暗い……ですか」少し驚いた表情でいった。
「今頃気付いたの」私はため息を吐き、続ける。
「あんた、いつもいつも表情変えないで陰気な雰囲気を纏わらせて、周りが不愉快になるのが分からないの」
あの時の静恵は順風満帆な生活を送っていた。彼氏と三年目の交際期間になった。
バスガイドをしている静恵は入社したての頃、案内するための原稿を覚えるのに必死で、人前で話すことにも慣れなかった。しかし、今ではスラスラと台詞が出てきて、ジョークまで言える余裕もあった。だから真信の不愛想で覇気のない顔を見ると、自分まで暗くなった。
「すみません……。性分なもので」
「はぁ」真信の暗さが移ったのか、静恵の顔に翳りが出る。
「あんた、幸せなの?」
「えっ、何ですか」
だから、と苛々が増した。「あんたは、それで幸せなのかって聞いてるの」
いやな思い出も何十年経って思い出すと、かけがえない大切な物になってるのね。私が漠然と考えに浸っていると、かすかに何か動いた気がした。
「雄……」私は目を見張った。小刻みに指が震えているのが分かった。
すぐにナースコールを押した。「先生を、早く先生を呼んで下さい!」
興奮したまま息子に問いかける。「雄、聴こえる? 母さんの声が聴こえるの?」
さっきまでの息子の指が反応しない。幻覚だったのかしら、と静恵は半信半疑になる。疑っていてもしょうがない。静恵はひたすら息子の名を看護士が来るまで呼び続けた。
お願い、お願いだから戻ってきて。
その願いが息子の心に届いているのか、静恵は分からなかった。
いつも願ってたことのはずなのに、いざその日が来てしまうとどぎまぎする。看護士と担当の先生が駆けつけるまでの時間が長く感じた。脈と瞳孔の確認を簡単に済ませた先生は「息子さんの身体をこれから精密検査いたします」ときっぱりと言い、雄斗と看護士を引き連れて病室を出ていった。
「すぐに検査は終わりますので、お待ちください」看護士に、ついて行くのを止められた。
落ち着かないまま時間が過ぎ、十五分ほどして彼等は戻ってきた。
「先生、雄は、息子は意識が戻ったのでしょうか?」静恵は縋るように担当医に詰めよった。
エリート街道を突き進んできたのだろう。理智的でどこか冷たい顔をした担当医。感情というものを持ち合わせているのか、と静恵はこの医者を見る度に脳裏にチラついた。
「息子さんの大脳は、火災の時に何らかの衝撃で重度の頭部外傷を負い、私たちは緊急脳外科手術を行いました。術後、NCUにて私は昏睡状態から戻る可能性は低い。戻ったとしても植物状態からの回復する見込みは低いと申し上げました」
そうだ、確か三年前に先生はそんなことを言っていた。
はい、と静恵は小さく頷く。
「私はお母さんに謝罪しなければいけませんね」担当医は眼鏡の奥から、初めて真摯な眼差しを向ける。私はその眼が意味するものを理解できずにいた。何かが終わったと理解することはできる。でもそれが希望なのか、絶望なのかは判断できなかった。
どうしてですか、と恐る恐る伺った。
「それは、息子さんの意識が戻ったからです」担当医は頬を緩めながら答える。
噓でしょ、と静恵は蚊の鳴くような声で呟いた。
「もう一度、今何て言いました?」尻すぼみになる。
はい、何度でも申します、と担当医はゆっくりと続けた。「検査の結果で得られたことですが、雄斗君の大脳が機能していることが確認されました」担当医は雄斗を一瞥した。
静恵の方を振り返り、今度は流暢に説明した。
「今は眠っている状態ですが、数日程で目を覚ますと思われます。長い間、待っていた成果がありましたね。本当に専念した甲斐がありましたね。真田さん、おめでとうございます!」
「本当に? 本当に息子が目を覚ますのですか?」まだ胸に残った不安が払拭できずにいた。
「そうです。一時期は回復する兆しが見えず、心配させてしまうような発言をしてしまいました。その節は、大変申し訳ございませんでした」誠意を感じさせる担当医の謝罪は長身を折り曲げたものだった。静恵は初めて、枯れたと思った涙に終止符を打った。
担当医の言ったとおり、雄は二日後に目を覚ました。問い掛けるだけの人形から、生を自らの意思で示す、我が子に戻ったのだ。静恵は苦悩の連続だった三年間を思い出した。その苦悩にようやく幕が下りた瞬間だった。
包帯の巻かれた手を握ると、弱い力で息子も握り返してくれた。些細な反応だが、息子が生きて戻って来たんだ、と深く幸せを噛みしめていた。
黒い影が喋ったことで、雄斗はついに前に進めると思った。
「やっと口を開いたな。お前の質問の前に俺が質問しただろ? まずお前から答えろよ」二つの黒いシルエットをじっと見据える。
「…………」
まただんまりか、と雄斗が諦めかけた時、二人は立ち上がった。次第に黒い影が、足の先から掌の先まで変わっていった。片方は黒、もう片方は白のスーツを着ていた。
ただ一つ顔が黒く残っている。
「これでどうだ。何か分かるか?」二人そろって両手を広げた。
「さっぱり分からねぇ。お前ら一体何者なんだ? どうして顔を見せない。何だこの世界は」
どうしたら、この世界から抜け出せるんだ、と詰問しようとすると、二人に遮られた。
「お前って奴は、自分では何も考えようとしないんだな」怒りを含んだ言葉が返ってくる。
「俺等のことより、自分の心配した方がいいんじゃないのか? あんたは自分が何者か知ってるの」二人は雄斗を指さした。
自分が誰かだって、くだらない質問しやがって、と雄斗は嘲笑した。
「俺が何者かは俺が一番知ってる! 俺はなぁ…………」自分を何者かを説明しようとするが言葉が出ない。投げかけてきた質問が、煙のように消えていく。
「俺は……誰なんだ」考えれば考えるほど、堂々巡りしてしまい混乱した。
さっきまでの白い世界は、いつの間にか黒に変わっていた。答えがどこかに在るのでは、と探すが見つかるはずもない。やがて瞳が捉えたのは、顔のない禍々(まがまが)しい白黒の男二人。
ふと耳を澄ますと、何かが小さく鳴り響いていることに気付く。蚊が飛んでいるのだろうか、と辺りを見渡してもそんなものはいない。はっきりと聞き取れない音は、次第に大きくなっていった。カンカンカン――。警鐘の如く鳴り響く音は轟音となり、空虚な世界を揺るがして崩壊させた。
目覚めると、目の前には白い正方形がいくつも並んでいた。正方形が天井のタイル模様だとわかるのに数分かかった。
先ほどまでの轟音とは違って静かだった。聴覚と嗅覚が徐々に戻りはじめると、少しずつ自分のいる場所の情報が流れてくる。微かに香る薬品の臭いと、ピッピッと単調に鳴る電子音。そして誰かの声。男だった。
身体が重くて動かない。唯一動かせたのは右手の指先までだ。動くといっても、弱く曲げることができるだけ。痛覚が遅れて戻ってくると、電流を流したように全身に激痛が走った。
体を無理に動かさないように瞬きを繰り返しながら、天井を眺めていると、男の顔が映りこんだ。
「よう、雄。久しぶりだな」
端正な目鼻立ちと、くっきりと開かれた目は心配そうに自分に向けられている。
誰だこの男は……。
ユウ……確かコイツは、自分にそう言っていたな。自分の名前なのか、と考えを巡らすが脳ミソを抜き取られたかのように何も浮かばない。ただ《ユウ》を心中で唱えるだけだった。しかし、それも長くは続かなかった。
男が何か話してたけれど、聴覚のつまみが回されたかのように音を消されていってしまった。やがて瞼は、油が切れた機械みたいに開くことも困難になった。心中で呟き続けていた《ユウ》という言葉が、気持ちいい子守唄となり意識を失った。