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二つの螺旋  作者: 蒼井ワタル
プロローグ
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プロローグ

甲高い音で深い眠りから覚めた雄斗は、ぼんやりとする頭と重い身体を起こし、ボーっとしたまま台所へと向かう。ココアを作ろうと戸棚からいつもの缶に手を伸ばした。冬の間は決まってココアと決めている。

 音はまだ続いていて、(ひど)く頭を攻撃し続ける。多分耳鳴りだろう。五分もすればおさまるさ、と雄斗は高をくくっていた。いくら目覚めだとはいえ、冴えない頭にはどんよりとした(もや)が掛かっている。わけもなく次第に不安が湧き上がってくる。何かが変だ。

 いやに頭に響く高音。ぼんやりとする頭。徐々に湧き上がる不安感。

 何だろうこの違和感は、と彼はマグカップ二杯分の水を薬缶に注ぎながら考えた。違和感の正体はすぐに分かった。彼が先ほど眠っていた場所はベッドでもカーペットでもなく、冷たいフローリングの上だったのだ。

 どうして床で寝ていたんだ……。

 さっきまで自分が横たわっていた床をまじまじと見つめた。

 普段から寝つきが悪く、枕の高さがしっくりこないと更に時間がかかってしまうのだ。しかも季節は冬で、お世辞にもこのアパートが上等だとはいえない。冷たい床の上で寝たいと考えるということは昨晩、たらふく酒を飲んだのだろう。しかし、雄斗の記憶に昨晩の記憶はなかった。

 ま、いっか、と冴えない頭で考えていたためか、急にどうでもよくなった。

 ケトルをコンロにセットして、つまみを捻った時、ガスホースの方から『シュー』と音がなっていることに気付く。やばい、と思った時には遅く、雄斗は爆風に吹き飛ばされ橙色の炎の中で気を失った。


 ようやく家に着き、一息吐く日向(ひなた)(せつ)は着ていたコートをハンガーに掛けた。

 部屋の照明をつけるより先に例によってテレビをつける。そこには今日の昼過ぎに起きた火災が報道されていた。身に着けている装飾品を外して体を解放する。

 報道される事の大半は興味を引くものではなかった。ニュースを流したままにするのは、世間に後れを取らないためなのだ。

「――現在まで、確認されている情報によりますと町内に住む会社員の(さな)()(ゆう)()さん 二十歳、同じく町内に住む――――」

 雪は頭に落雷したような錯覚に(とら)われてしまう。「いま雄ちゃんの名前呼んだ?」

 急いでテレビを見ると、アナウンサーはすでに別のニュース原稿を読んでいた。慌ててチャンネルを変えると、他局でも同様のニュースが取り上げられていた。報道の内容は、火災が起きたアパート内に居た真田雄斗という男性が大火傷を負ったが、すぐに病院に担送されたそうだ。命に別状は無いと聴いて安堵しかけたが、次の言葉で再び奈落へと落とされた。

「意識が戻っておらず昏睡状態のま――」

 最愛の恋人を失う恐怖に打ち拉がれたまま、雪の頭の中はパニックに陥り視線が宙を彷徨(さまよ)った。しばらくして正気を取り戻した彼女はすぐにスマートフォンに手を伸ばした。

「お母さん。どうしよう、どうしよう……お母さん、彼が大変なことになっちゃった」気が動転してしまい、電話が繋がると唐突に雪は母に助けを求めた。

「落ち着きなさい。何があったの?」

「彼が……彼が火事に遭って、病院に運ばれたって、テレビでやってて……」涙でメイクが崩れ嗚咽を漏らしながら、彼女は母にどうにか状況を伝えることができた。

「命は大丈夫なの」

「生きてるけど、意識が無くて昏睡状態だって。どうしよう、どうしたらいいのお母さん」胸が押し潰されそうになりながら、抱えきれない苦しさを母にぶつけた。

「落ち着きなさい! とにかく今からそっちに向かうわ。その間、深呼吸して待ってなさい」

 電話が切れても泣き続けたが、母の言葉を思い出し深呼吸をする。だが、雄斗のことを思い出しては涙で視界がぼやけ、込み上げてくるものがある。落ち着こうとするものの、深呼吸をしては泣く。その繰り返しだった。母が来るまでの間、彼女は平常心に戻ることはなかった。

雪の母、雪江は三十分程で彼女の住むアパートに到着した。雪は()れた(まぶた)を開いて母を見た。冬の空気は室内に居ようが相当冷える。ましてや深夜の外気で芯まで冷えた雪江の顔は紅潮していた。一月も中旬に入り、断熱とはかけ離れたちょっと古いアパート。言うまでもなく冷え込みが激しく、冬は厳しかった。

 家に上がり込んだ母は彼女に「酷い顔して。洗面所へ行って顔洗ってきなさい」そういって台所に行き、湯沸かしポットに水を注ぎはじめた。

 雪の住んでいる相模原の1Kアパートまで、実家の小田原からだいぶ遠い。恐らく母は、高速を飛ばしてきたのだろう。

「眠ってたんじゃない? 急に電話掛けてごめんなさい」

「どうしたっていうのよ急に。夜中に起こされることなんて、しょっちゅうあるじゃない。それにいつも緊急緊急って騒いでいたけど、今回ばかりは本当のことだし」

 母がいつの間にか淹れてくれたコーヒーを一口飲んだ雪は、少しずつ落ち着きを取り戻しはじめていた。

 何度口にマグカップを運んだか覚えてないが、雪が話をするまでの間、母はじっと待っていてくれた。腫れた目を擦り、鼻水をかんだあと顔を上げ真っ直ぐに母を見る。

「……意識戻るよね?」

 細かいことは全く分からないけど、と母はいった。

「テレビでは生きてるって言っていたんだよね?」

 数時間前の悪夢に落とした数分の出来事を雪は思い出し(うなず)いた。

「そう……なら戻るよ。そうよ、戻ってくれる。そう信じるしかないでしょ」

 母は潤んだ瞳で雪を見つめて、雪は顔を埋めるように抱きついた。昔より小さくなった背中に回した手は自然と力が入ってしまう。彼女は思いっきり抱き締めないと、わずかに生まれた心の安定が決壊しそうで怖かった。そうして彼女は母が与えてくれる温かみを懐かしんだ。

 ――――あぁ、いつ頃だろう。

 記憶が幼小期を脳裏に映しだす。トイレに行くのが怖い私が母に抱きついている。

 ――そっか、あの時だ。確かに母の温もりを感じていたなあ。

 トイレに一人で行けるように何度も起きてみるが、小さい私はとても暗闇が怖くて夜が大っ嫌いだった。友達は一人で行けるのに、と私は随分と泣いた。それを見かねた母は大丈夫、大丈夫と慰め抱きしめてくれた。

 母の身体はとても温かく優しさに包まれていた。母に包まれたまま目を開ける。何も見えない。

 ――同じ真っ暗のはずなのに、なんだか違う。

 それから暗闇は少女にとって不安ではなく、母がいる安心感に変わった。私はトイレに一人で行けるようになって暗闇は怖くなくなった。


 翌朝、私は食器がぶつかる音で目が覚めた。

 ぼーっと台所を見ると母が洗い物をしていた。ソファの前に置かれた黒く小さなテーブルには、できたての目玉焼きと美味しそうなウインナーがあった。

 あら起きたの、おはよう、と母が淡々と言う。

「あんた、あのまま寝ちゃって、大変だったんだから」一息吐き、苦労したのよ、と不満を口にした。

「あんた、いつもこんなに洗い物貯めてるの?」

「違うよ。最近バイトが忙しかったから、たまたまそうなっただけで。本当は昨日洗う予定だったの……」

 雄斗のことを思い出し、私の表情が曇ったからだろう。母が話題を変えた。

「今日はいい天気だったから、洗濯物さっき干しておいたわよ」熱いお茶を飲むため、お湯を急須に注ぎながら母はいった。

「そんなことまでしなくて良いのに」私は素直に喜ぶことができない。

「しょうがないでしょ、母親の癖なのよ。それにこの部屋に来たのも久しぶりだし」

 母は二週間に一回の間隔で私の様子を窺いにくる。友達から過保護だと笑われていたが最近、母は全く来ていない。理由は大体想像つく。父の(まさ)(たか)のせいだ。

 昼は掃除洗濯の専業主婦。夜の空いた時間は、厳格な父にこき使われ抜け出せないのだろう。

「お母さん。今日一緒に買い物に付き合ってくれない」

 全くそんな気分ではないのだが、今日は日曜日。週に一度しかない休みで、食材を買わないとコンビニに頼るのは目に見えている。しかし、本心では雄斗のことをじっくりと相談するためだ。私達はある理由で距離を置いていた。買い物なんか到底集中できそうにない。

 もちろん、と母はゆっくりいった。「衝動買いしないか、チェックしなくちゃね」

 わがままな私に母はいつも優しい。これでは過保護と言われてもしょうがない。


 午後七時頃に買い物を終えて、私は部屋の明かりをつける。買い物と共に話も終えていた。買い忘れた物も多分あるだろうが、そんなことどうでもよかった。やはり母に相談して良かった。光が小さく胸に灯る。

 高校の時に私は雄斗と出会った。彼が私に声を掛けたのがきっかけだ。付き合っていることを公開せず、プラトニックな関係を二人の空間を温めていた。その時すでに母は薄々、勘づいていたらしい。

 高校を卒業して、私達は別々の岐路に立った。私は地元(神奈川)の短大に入り、彼は静岡で自動車部品を製造する会社に就職した。新生活に馴染むため二人とも必死だった。遠距離ということもあり、関係が危うくなったことは何度もあった。だけど喧嘩の始めは違っても、最後はいつも決まっていた。

「俺のこと、嫌いになっちゃったの?」

「そんなわけないじゃん。私ね、とても冷めてるの。無駄なことに、一瞬も人生を費やしたくないの。ずっとずっと成長してたいだけなの。雄ちゃんと一緒にね」

「そうだよね……互いに成長しあって、二年後、雪ちゃんが卒業したら成長した姿を見せ合おう」

 あの頃の約束まで、あと二か月を切っていたのに……。

 翌日、私はバイトに行って事情を説明して辞めてきた。深夜までやっていた居酒屋で、居心地が良く何より給料が良かった。本当はバイトを辞めたくはなかったが、下手に数週間休んで店長や他のスタッフに迷惑を掛けるぐらいなら、新しく次の子を募集してもらった方が気も楽である。それに私の精神はそこまで強くない。彼のことを考えると、すぐにでも静岡の病院に行きたかった。バイトや学校などで悩みたくなかった。

彼にサプライズさせるための貯金が、こんな形で使うとは思ってもみなかった。

 最後に店長から「今度は、元気な彼氏と一緒に(くつろ)ぎにおいでよ」と店の名物の唐揚げと、裏メニューの(まかな)いでもあった、焼き鳥丼を作ってもらった時はちょっとばかし目頭が熱くなった。


 バイトを辞めた数日後、雪は静岡にある沼津第一総合病院の前に来ていた。そこに雄斗が担送されているとニュースで言っていたからだ。

 受付で案内されたのはNCU(脳神経外科集中治療室)という初めて聞く言葉だった。

 部屋は病院の奥に、まるで隠されているかのようにあった。受付案内を待つ病人やその家族、看護士の行き交う待合ホールから遠ざけた場所。部屋の前には、一人の女性がベンチに座っていた。

「あなたは……えっと、確か雪さん、でよろしかったかしら?」

 はい、ご無沙汰しています、と挨拶して雪は自分より少し背の低い彼女を見る。

 雄斗の母、静恵だ。彼女とは彼の家に招待された時に会っていた。前に見た時より、ずいぶん(しわ)が増えた気がする。

「雄斗君は、大丈夫なのでしょうか?」

「あなたの声を聴かせてやって。もう少しで面会時間だから。説明は医者から聴いてちょうだい。先生には私からお願いしておくわ。とても私の口からは……」最後まで言えずに、静恵は顔を覆った。

 面会時間を迎え、私達は衛生上から、ガウンとマスクそれからキャップを着用するように看護士にいわれ通された。医者が容態について説明をしている間、別人となってしまった彼に絶句した。一瞬にして衝撃が時を止める。時折、心に医者の声が欠片になって落ちてくる。

「――術後は一定の脈を――」

 沢山の管が彼に(つな)がれていて。

「――火災での損傷で皮膚に約20%――」

 全身に包帯が巻かれ、白い(まゆ)に包まれていた。

「――昏睡状態ですが回復した例もありまして――」

胸に灯った光が大きく揺れうごく。

 次の言葉ははっきり聴こえた。

「ただ、彼の場合は昏睡状態から戻るのは困難だと思われます。仮に戻ったとしても、いわゆる植物状態になる確率が高いと思われます……」

 悪魔が発した真実は、小さな希望を容易く持ち去っていった。

「どうしてよっ、戻ってきてよっ……約束したじゃない!」

 包帯で太くなった彼の腕を揺さぶるが、すぐに看護士に止められた。

「約束まであと少しなのに、どうして、どうしてこんなことになってしまったのよ」抑えていた悲しみが、反応しない彼に小さく震えながら呟いた。

「あなたが起きてくれないと、成長した姿なんて見せられないじゃない。あなたが起きてくれないと、今まで待った時間が無駄になるじゃない。そんなの酷い話じゃない。約束をこんな形で反故(はご)にされたのは初めてよ」

 彼の前で初めて泣いた。いや、違う。初めて男性の前で泣いた。

「ごめんなさい。私、やっぱり冷めた人なのかもしれない。あなたが起きるまで、待つつもりはないの。私は自分の人生を大切にする女。あなたと過ごした時間は無駄じゃなかったと思う。だって、あなたにいっぱい笑顔貰ったもの」

 これまで温めた二人の世界に終止符を打つ。遠距離恋愛を始めた時点で関係は破綻していたのかもしれないが、現実を受け入れる勇気がなかった。辛くても苦しくても、そうしなければ私は持たないと悟ってしまったから。人生を歩むっていうのは、見かけ以上に苦しいものだな、と最後の涙を流し終えた時に深く痛感した。

「それじゃあ、さよなら」

 それから私は、何年も雄斗の前に現れることは無かった。

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