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幼い日の父の記憶

作者: ホッコクのクワズイモ

父が亡くなる前に語った幼い日の記憶を、1周忌の供養にと、千字程度にしたためました。

セピア色になったポンポン蒸気舟を浮かべ、一読いただけたら幸いです。


 記憶はポンポンと鳴っては遠ざかっていく蒸気船の音から始まる。そのときが三才だった私は全てを覚えているわけもなく、あらかたは先に死んでいった姉たちの昔語りによるのだが、あのポンポンと鳴り続ける蒸気船の音だけは自らの記憶として(とど)まっている。

 母は三才で死んだ。四十を超えて間もない頃で、早くに死んだ仔もいれて九人も産んだというが、三才の末の子を残して死んでいく(さま)は、当時としてもそこいら中に転がっている話では決してなかった。九人の中でひとりだけ歳の離れた長兄が少しは働き手となっていたが、ほかの幼い姉妹達に三才の子を任せられるはずもなく、父は困り果て、顔はいつも足元ばかり見つめていたという。

「何時もらわれていくんかと想うと、ふたりしていつも気が気じゃなかったわねぇ」その話をする度に、上の姉たちは子どもの顔に戻っては泣いた。

 姉たちは何も聞かされずにその日はやってきた。

 父は手荷物をまとめ、私は一番上の姉の背におぶらされ船着き場までやってきた。荷を運ぶ船の隙間に父と姉と一緒に潜らされ、船は川を上っていく。流れが見えないどんよりした川面を、ひと漕ぎひと漕ぎ船は精一杯水をかいていく。ポン、ポン。ポン、ポン。ひとつ鳴るごとに岸は遠くなり、姉の手は熱く冷たくを繰り返した。

 私を送り届けて帰った日、父は何も語らなかったという。

 その父も、私が五才のときに亡くなった。目尻も肩もなで肩の、ポンポン蒸気船のような景気のいい音を立てて川をかき分けることには不向きの人だった。

 実家には貰われたのか預けられたのか、姓は変わらずに佐藤のままだった。父が亡くなり家長となった上の兄は、周りから何度「いつまで、あんな宙ぶらりんにしておくんだ」と突つかれようと、あんなにも饒舌だった兄の口は、そのことにはピタリ閉じていたという。長兄としての矜持だった。

 二十年預けられた後、私は、闇屋を畳んで左官屋に戻った兄のもとに帰った。二十四才になっていた。

 私は幸せであった。

 幼くして母を亡くし、実家とはいえ貰われていった私の不憫(ふびん)さに周囲は憐憫(れんびん)ではなく愛情を注いでくれた。そして血の繋がらない伯母は、私の母になって呉れた。そのお陰で、兄のもとに戻る頃も私の顔はねじ曲がることはなく、近所では映画俳優が戻ってきたと評判になった。















父が亡くなる前に語った幼い日の記憶を、1周忌の供養にと、千字程度にしたためました。

セピア色になったポンポン蒸気舟を浮かべ、一読いただけたら幸いです。


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