狼陛下の婚約者4
「はあぁ、疲れちゃったわ……」
教育を終えて自室に戻ったコレットは、しなだれかかるようにしてベッドに座った。
アーシュレイはすごく厳しくて、容赦がない。
『よろしいですか。あなたの教育の期間は、例えるならウサギの尻尾よりも短いのですよ!』
そう言ってメガネをギラリと光らせるから、コレットはまったく逆らえない。
今日はずっと歩く練習をしていた。
『姿勢よく、美しく歩くためには』の講義から始まり、実技まで。
頭に分厚い本を乗せて、部屋の中を何往復しただろうか。おかげで上達したけれど、足が痛くなってしまった。
本当なら横になって休みたいところだが、そんなことをしたら、ドレスがしわになるからぐっと堪える。
いつも着ている木綿のワンピースなら、草の上でも平気でゴロゴロ転がれるのに。綺麗なドレスを着ていると、行動が制限されてしまってとても不便だ。
牧場の生活はのんびりしていて自由があった。休憩時間には、ぽかぽかと日のあたる草むらでお昼寝をしたこともある。
風に吹かれてさわさわと揺れる木の葉の音に、鼻をくすぐる草花の甘い香り。のんびりと鳴く牛の声を子守唄に、自然を感じながら眠るのはとても気持ちがよかった。
絶えずなんらかの音がしていて賑やかで、いつもぬくもりがあった。
だけど、お城の部屋の中では物音ひとつしない。とても広くて美しい部屋だけれど、冷たく感じる。
今、城の中には誰もいなくて、コレットひとりきりのように思えてしまう。
しーんと静まる部屋の中を見回すと急に孤独感が増して、牧場が恋しくなり胸が締め付けられる。
偽物王妃の務めを果たして国の平和を守ると決めたのに、もうくじけてしまいそうだ。視界がぼやけ始めて、くすんと鼻をならすと、コンコンと扉を叩く音がした。
「コレットさま、お茶をお持ちしました」
「あ、はい。どうぞ」
急いで目に滲んだ涙を拭いて、扉の向こうに返事をすると、リンダが顔をのぞかせた。「失礼いたします」と言って、小さなワゴンを部屋に運び入れてくる。
「コレットさま、お妃教育お疲れさまですわ」
そう言ってにっこり笑うリンダだが、ベッドの上に座っている主を見て、すぐに顔を曇らせた。
ワゴンを扉近くに置いたまま、駆け寄るようにしてベッド脇まで行く。
「お顔の色が優れませんわ。医師を呼びましょうか」
「リンダ、平気だから心配しないで。お城の生活に慣れてなくて、少し疲れちゃっただけなの」
コレットは努めて明るい声を出し、笑顔を作って見せる。
陛下の婚約者が沈んだ顔をしていては、どんな噂がたってしまうか分からない。
アーシュレイから念を押されるように何度も言われているのだ、偽装だとばれないように気を付けてくださいと。
「そうですか。それならいいんですが……体調が優れないときは早めにおっしゃってくださいね。コレットさまは、陛下の大切なお方ですもの。お体になにかあれば大変ですわ」
リンダはまだ心配そうにしつつも、てきぱきとお茶の準備を始めた。
金の縁取りのある美しい花柄のティーカップとソーサー。桃色の薔薇の刺繍が豪華なティーコゼー。シュガーポットとミルクポットについた金の取っ手は、優雅なS字カーブを描く。これら全部、陛下が急ぎで揃えさせた、コレット専用のティーセットだ。
リンダがティーコゼーを取ると、爽やかなハーブの香りが部屋に広がる。カップにお茶を注いだリンダは、ワゴンをコレットの前まで動かし、しゅんと眉を下げた。
「すみません、このままお召し上がりくださいませ。本当に、ご不便をおかけしますわ」
ワゴンの上には、ほかほかと湯気の立ち上るお茶と、小さな焼き菓子が載せられている。
言われたコレットの方は、きょとんとしてリンダを見た。なにが不便なのか、ちっとも分からないのだ。ベッドに座ってお茶を飲むのは至極当然なことで、牧場の部屋では常にそうしていたから。
頭の中に小さな疑問符を浮かべつつ、カップを口に運んだ。
一口飲むと爽やかな香りが口いっぱいに広がり、牧場の草原を思い出させ、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ気分になれた。
次に焼き菓子を頬張ると、程よい甘さが疲れた体に染みわたっていくようで、気分をほっこりさせる。
「リンダ、これすごく美味しい! おかげで、疲れもどこかへ吹き飛んでしまったわ。ありがとう!」
晴れやかな笑顔を見せるコレットに、リンダはホッと安堵の息を漏らした。
「それはよかったですわ! でも、私、コレットさまがお疲れになるのよく分かりますの。勝手が違うと誰でも戸惑いますから。ですから、なにかあれば、なんなりと、このリンダに申し付けくださいませ! 全力で、お役にたってみせますから!」
困ったことや頼みごとは全部引き受けます!と、リンダはポンと胸を叩いて背筋を伸ばす。とても頼りになる侍女だ。
「リンダは、お城でのお勤めは長いのですか?」
「いいえ、正直に申しますと、まだ二日目です」
「え!? それなら、わたしと一緒なの?」
あのときお風呂に入れてくれた様子は、百戦錬磨のベテランに見えたのに。今も手慣れた様子でコレットの世話をしているように見えるのに。
驚いているコレットを見、リンダはちょっと恥じらうように笑った。
「はい……私はつい三日前まで、アーシュレイさまの、ナアグル家に奉公していました。今回『信用のできる侍女が必要になった』と言われてお城に上がりましたの。迷いましたけれど……アーシュレイさまに『リンダが必要なんです!』と、熱く言われて……」
そこまで言うと、リンダはポッと頬を染めた。そのときのことを思い出しているのか、頬を押さえて少し瞳を伏せている。
「それで城に来まして、コレットさまにお会いして、納得いたしましたの。私は、陛下が一目惚れして、どうしようもなく恋い焦がれて。妃にお迎えになられるお方をお守りするために、アーシュレイさまに選ばれたのだと」
リンダの話す様子。うれしそうだけれど恥じらっていて、けれど話さずにはいられない。こんな姿をどこかで見たことがあるとコレットは感じていた。
そうだ、アリスがニックとの恋のなれ初めを話すときにとても似ているのだ。うれしそうに話してくれるアリスがかわいらしくて、聞くたびに、うらやましくなったものだ。
コレットもいつかこんな感情を抱ける日がくるのだろうか。リンダをほほえましく見つめつつも、新事実にちょっとした驚きを覚えていた。
アーシュレイは貴公子だったのだ。彼にはいろいろ驚かされるが、道理で礼儀作法等々詳しいはずだと納得する。
「リンダは、とても彼を尊敬しているのね?」
コレットが満面の笑顔を向けると、リンダはますます頬を赤らめてモジモジと話した。
「はい。アーシュレイさまは、とても素敵なお方ですから……」
恥じらいながらも正直に話すリンダの様子は、コレットにとって、好感が持てるものだった。彼女となら仲良くなれると思え、偽物王妃となる緊張が少しだけ和らいだ気がした。なんでも話すわけにはいかないが、少なくとも孤独感で心が押しつぶされることはない。
それからしばらくの間、コレットはリンダと他愛ないおしゃべりをして過ごした。