狼陛下の婚約者3
教育の場は、最上階にある小さめの部屋。椅子が二脚と小さなテーブルがひとつあるだけというシンプルさで、場所的に言えば陛下の部屋のお隣である。
「まず最初に、これから式までの大まかな予定を言います。頭に叩き込んでください」
アーシュレイはメガネをギラリと光らせて微笑み、コレットは真剣な表情で大きく頷く。
「まずは、陛下たっての強いご希望により、歩く練習を重点的にします。それから食事や挨拶などの作法全般。さらに、ダンスも覚えてもらいます」
「えええ!? ダンス!? って、あの、偽物の王妃なのに、覚えないといけないんですか!?」
「当然です! 偽の王妃とはいえ、社交の場に出ることもあるのです! ダンスくらいできないと、あなたが困りますよ?」
左手を腰に当て、右手でメガネの蔓を持ち、アーシュレイはずいっとコレットに迫った。
「そして、なによりも、陛下の恥になるのです!」
ふんっと荒い鼻息を出したアーシュレイに気圧され、コレットは無言のままこくこくと頷く。
けれど、ちょっと待って?と、ふと思う。
そういえば、偽物王妃となる期間を教えてもらっていない。
昨日は『君を、私の妃とする』とのお沙汰を申し渡されただけだ。一時的というのは、いつまでのことか。今の口ぶりでは、とっても長い期間だと感じてしまう。
コレットはおずおずと口を開いた。
「あの、すみません……訊きたいことがあるんですが」
「質問ですね。なんなりとどうぞ」
「一時的な王妃とは、いつまでなんでしょうか?」
そう尋ねた途端、アーシュレイの顔色が変わった。
メガネの奥の瞳が鋭くなり、体全体が剣呑な空気を孕む。
「へえ……あなた、それ、訊いちゃいますか……」
ぽつんと呟いた声は抑揚がなく、静かだけれど背中がゾクッとする恐怖を感じさせるもの。狼陛下の右腕と称されるアーシュレイの腹黒な一面が垣間見えた瞬間だ。
『頭が切れる軍師として騎士団や大臣方が一目置く存在』
『敵に回すと怖い男』
『内戦を収めた立役者のひとり』
これらが、城でのアーシュレイの評価である。
だが余裕のないコレットはそんなことにはまったく気づかず、まっすぐに質問を繰り返す。
だって彼は家を出るときに言ったのだ、すぐに帰れると。ニック夫妻がコレットの帰りを待っている。すごく心配してるはずなのだ。これが訊かずにいられようか。
「はい。知りたいですっ。牧場にも連絡したいんですっ」
胸の前でお願いする様に手を組み合わせ、いつ帰れるのかと、アーシュレイに詰め寄るコレット。
青い瞳には切実な色をのせ、じっとメガネの奥を見つめる。
「う……」
きらきらと光る純粋な瞳を見て、アーシュレイはたじろぎ一歩後退りをした。
だがすぐに気を取り直し、少しずれたメガネをくいっと上げる。
「はっきり言ってしまうと、期間は定まっていません」
「え、定まってないって。どういうことですか?」
コレットの声が少し沈み、青い瞳は切なそうに潤む。それはとても美しく、またもたじろぎそうになるアーシュレイだが、ぐっと堪えた。
全部は言えないが、陛下の傍にいるためには、知っておかねばならないこともある。アーシュレイは頭の中で素早く話の重点をまとめた。
「どうやらあなたには、きちんと説明をしなくてはならないようですね。何故陛下はあなたを偽の王妃にするのか」
そう言ってコレットに椅子に座るのをすすめ、自らも椅子に座って向かい合った。
「内戦が終わって三年が経ちました。破損区域の修復が粗方すむと、国民たちの興味が他に移り、国の安泰のためにも陛下にお妃を望まれる声が高まります。城内でも声が高まりつつあり、大臣たちは貴族の令嬢方との婚姻をすすめてきます」
そこまでは分かりますね?と訊かれて、コレットはこくんと頷いた。
「ですが、陛下はまだ妃を迎える段階ではないとお考えなのです。これはあなたには難しい話で、内政や外交などが関わることでお話はできません」
そこまで言うと、アーシュレイはなにかを迷うようにテーブルの上に瞳をさまよわせる。
そして意を決したように顔を上げて、口を開いた。
「毎日のように来る縁談を断るのが面倒になったのか、陛下は、ついおっしゃってしまったのです」
「……なんて、おっしゃったんですか?」
コレットが真剣な眼差しを向けると、アーシュレイも同様に返してくる。陛下は、余程重大なことを言ってしまったのだと、コレットは覚悟したのだった。
「『縁談は必要ない。妃ならもう決めてある』と」
「あ、決めたお方がいるなら、その方をお迎えすればいいのではないですか?」
「いいえ、そんなお方は存在しません! 断言できます。陛下は、今も昔も、まーったく女っ気がないお方なんです!」
アーシュレイは頭を抱えるような仕草をして、さらに話を続ける。
それが丁度ひと月ほど前のことで、おかげで縁談はぴたりと止み、このままうやむやにできると考えていた。ところが、大臣たちはそれならそれで早く婚姻を結ぶよう要求してきた。
どうすればよいかと案じていたところ、コレットが罪を犯した。若い娘であり容姿も美しい。そこで、お沙汰として、偽の王妃を仕立てることを考え付いたという。
それは、主にアーシュレイの提案で、陛下に強く勧めたことだと話す。
「でも、それなら、本当のお妃さまを決めて、お迎えになればいいと思います。こんなの、面倒ではないんですか?」
コレットが遠慮がちに言うと、アーシュレイは首をゆっくり横に振った。
「城の大臣の中には、自分の息のかかった娘を王妃とし、陛下をたぶらかしてもらい、政務を牛耳ろうとする者もいます。あなたが偽でも王妃となることで、そんな者たちから陛下を守ることになるんですよ」
「わたしが、陛下をお守りする……?」
「そうです。ひいては国の平和を守ることにもなります。ですから、期間は、我々が、“心身ともに王妃にふさわしい娘を見つけるまで”、です」
アーシュレイはコレットが王妃となり大臣たちの目を欺いているうちに、しかるべきお相手を見つけるのだと言った。
「なるべく急ぎますが、お相手が見つかるまでは、あなたにはしっかり王妃を演じてもらわなければいけません! よって、ダンスも、流麗に踊れるようにしなければ! わかりましたね!?」
お沙汰ですが平和を守るためなのです!と拳を振るい熱弁するアーシュレイの勢いに押され、コレットは思わずピシッと姿勢を正した。
「は、はいっ。がんばります!」
わたしが国の平和を守る……と呟くコレットが頬を染めつつも決意を固めている様子を見、アーシュレイはメガネを光らせながら満足そうに口角を上げていた。