狼陛下の婚約者2
「さあ、お支度が整いましたわ。お食事の間までご案内いたします」
ささどうぞと、ヒール付きの靴を履かせられて立たされたコレットは、リンダの後に続いて廊下に出る。
おぼつかない足取りでゆっくり歩いていると、前方の廊下の隅に人が立っているのが見えた。遠目だが、その人は壁に背中を預けて立ち、腕組みをしてはいるが、リラックスしているようにも見える。
紺色の服を着ており、髪は銀色で……。
靴音を耳にしたのか、その人はスッとコレットの方を向いた。だんだん近づいていく姿を、腕組みをしたままじーっと見つめている。
そこに立っているだけで、じわじわと絞殺されていくような、とんでもない威圧感。あれは、サヴァル陛下だ……。
「まあ大変ですわ! 下でお待ちのはずですのに、あそこにおられるとは。まさか、自らお迎えに来られるなんて……急ぎましょう」
リンダは焦るように言って、ゆっくりなコレットを気遣いつつ少し足を速めた。
「陛下、お連れいたしました」
リンダが小さな声で言い、頭を下げたまま後ろ足ですすすとコレットの背後まで下がっていく。
陛下は壁に預けていた背中を放して腕組みを解くと、緊張と恐怖で青ざめているコレットと向き合った。
廊下には三人以外誰もおらず、ぴりっと張り詰めた空気が漂う。
「遅い」
低く響いた声は冷たく、コレットの背後では、リンダがハッと息をのんでいた。
「大変申し訳ございません。なにぶん初めてのお支度でございましたので、お時間を取りました」
頭を下げたままのリンダが震える声で応えると、陛下は「そういうことを言っていない」と言葉をかけ、リンダを部屋に下がらせた。
そして、ふたりきりになったことを確認すると、眉間にしわを寄せて少し首を傾げた。その表情は、怒っているというよりも、困惑しているように見える。
「君は、床が硬い廊下であっても、歩くのが遅いのだな」
「あ……申し訳ございません。ヒールの付いた硬い靴は、慣れていないんです」
普段、足にぴったりフィットする布の平たい靴を履いているコレットにとっては、硬い踵の付いた革の靴は歩きにくいことこの上ないのだ。
陛下は表情を変えずに「ふん」と軽く鼻を鳴らすと、くるりと背中を向けた。
「朝食の予定時間を大幅に過ぎている。急ぐぞ。君はなるべく早く歩け」
「は、はいっ」
陛下の後について懸命に歩き、階段まで来たコレットは、ここで愕然とする。
階段を下りられる気がしないのだ。
ドレスの裾に隠れて足元が見えないうえに、ヒールが高いせいで体の重心が前にあるので転げ落ちそうになる。手すりに掴まれば、ふわりと広がっているドレスの裾をうまく上げられない。
いったいどうすればいいのか。貴族の令嬢方は、普段どうやって階段を下りているのか。
それもこれも全部不慣れなせいだと思えど、コレットはあまりの恐怖から目に涙を浮かべた。勇気を振り絞って一段下りたはいいが、そこからまったく動けないのだ。
自分のほかに足音がしないことに気づいた陛下は、手すりにしがみつき顔面蒼白で震えているコレットを見、少しだけ口角を上げた。
「ああ……まったく。先ほど“急ぐ”と、申したはずだが?」
そう言いながら傍らまで戻った陛下は、青い瞳に浮かぶ涙を親指でそっと拭った。
「ひとりで下りられないならば、早く言え」
陛下がスッと屈んだ瞬間、コレットの体はふわりと宙に浮かんでいた。
「きゃあっ」
急な浮遊感で思わず陛下の肩にしがみついてしまった自分に気づき、無礼だと思えど、怖くてどうにも手が離せない。
サラサラと揺れる銀の髪と紫の瞳が、コレットの間近にある。陛下の、綺麗な瞳。誰にも惑わされない強い意思を表すかのような、輝きを放っている。その中心にコレットが映っているのが分かる。それまでの恐怖も忘れてしまうほどに、吸い込まれそうな美しい瞳に見惚れてしまっていた。
「君は、本当に世話が焼けるな。そのまましっかりしがみついていろ」
陛下は怒っているのか。スタスタと言うよりも駆け下りるといった速さで、階段を下りていく。くるくると動く景色に目が回りそうになり、陛下も下りる速度も恐ろしく声も出せない。
やがて階段を下り切り、そっと床に下ろされたコレットは、「ありがとうございます」とどうにか声を絞り出した。だが、再び歩き出そうにも、陛下も廊下もぐるぐると回って見え、その場にへたり込みそうになる。
「なんだ?……今度は、目が回ったのか」
陛下はコレットの小さな手を取ると腕に捕まらせ、今度は歩調を合わせてゆっくりと朝食の席に誘った。
食事の間には、茶色の長いテーブルがひとつ真ん中にあり、背もたれの高い椅子が五脚ある。白いお皿とナイフとフォークが準備された席がふたつ。
そのうちのひとつの椅子が給仕の手に寄って引かれ、コレットは陛下に誘導されるまま、そこに座った。そして陛下が向かい側に座ると、待ち構えていた給仕たちは朝食をテーブルに運び始める。
湯気の立ち上るポタージュに新鮮な野菜を使ったサラダ、香ばしい香りを放つ焼きたてのパンに卵料理に肉のソテー。それにみずみずしいフルーツ。
お腹が空いているはずなのに、美味しいはずなのに、コルセットの締め付け感と緊張のせいでまったく味が分からない。
陛下はなにを話すでもなく、黙々と食べている。給仕の静かな足音と、カチャカチャとカトラリーが皿に当たる音がするだけ。それに、たまに給仕が言う「失礼いたします」と「お下げします」のみ。
コレットは、こんな静かな中で食べるのは初めてだ。牧場ではいつだって誰かが話をしていた。とても楽しくて、食事もおいしく感じられたのに。ここは豪華だけれど、冷たい食事だ。
食べている気がしないまま、お皿を空にして朝食を終える。
先に食べ終わりコレットの食事が終わるのを待っていた陛下は、カトラリーを置いたのを見届けるとスッと席を立った。
それを見て慌ててコレットも立ち上がり、居住まいを正した。
「君の教育のことは、アーシュレイに任せてある。基本的な作法はもちろんだが、なによりも先ずは、歩き方を覚えろ。今のままではどうにもならない」
「はい……かしこまりました」
コレットがしゅんとして返事をすると、陛下は少しだけ口角を上げた。
「私は政務に行く。君はここでアーシュレイが来るのを待ってろ」
そう言い残して、足早に出て行く。
歩き方を覚えろと申し渡されたのは、これで二度目だ。教育をがんばろうと思うとともに、少し不安にもなる。
教育係であろうアーシュレイとは、どんな人だろうか……。
狼陛下が信頼を寄せてお任せするほどの人だから、とても厳しくて怖い人に違いない。年配の男性で、眉間にしわを寄せた神経質そうな人かもしれない。
年齢や容姿などを想像しながら、食事の間で待つコレットを迎えに来たのは、なんと、メガネの騎士だった。
「え! あなたが、アーシュレイさんですか!?」
驚いたコレットに対し、当のメガネの騎士は「あれ? 名乗っていませんでしたあ?」と、しれっと言った。
でも驚くのと同時に、すぐに納得できた。そういえば、陛下にミルクをかけたときからずっと関わっている人だったと。陛下はメガネの騎士になんでも命じているようで、すごく信頼しているのだろう。
でも戦い専門の騎士に、女性の教育ができるんだろうか。そう思ったのも事実。
コレットは目の前にいるアーシュレイの顔をじーっと見つめた。
少しウェーブのかかったブラウンの髪に銀縁のメガネ。陛下と比べれば体の線は細めで、武闘派というよりは頭脳派っぽい。
「失礼しましたね。改めてご挨拶します。我が名はアーシュレイ・ナアグル。一等騎士の称号を持っています。今日より、あなたの教育係を任じます」
礼儀正しく挨拶をするアーシュレイに対し、たどたどしいながらも、コレットは挨拶を返したのだった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」