狼陛下の婚約者1
全てのものが色を失くすような夜の帳の中、アルザスの山の稜線がにわかに光を帯びる。夜の闇を破って徐々に広がっていく柔らかな陽光は、星々の小さな瞬きを打ち消していき、ガルナシア城の尖った屋根を照らし始める。夜の内は黒々と見えた屋根は美しい藍色をしており、朝日を受けてキラキラと光を放つ。
白亜の壁に、藍色の屋根。五階建ての城は正面玄関を中心に左右対称の造りになっており、四角い建物の両端に丸い塔がくっついているような形だ。
最上階の左端の広い部屋はサヴァル陛下のもので、窓には藍色のカーテンがぴっちり引かれている。そこから数えて九個目、クリーム色のカーテンがかかっている三つの窓は、コレットにあてがわれた部屋のもの。
お沙汰婚約者の仮住まいはとても広い部屋で、美しい彫刻の施された白色の調度品が揃えられている。床にはふかふかのクリーム色の絨毯が敷かれ、部屋のほぼ真ん中辺りには、柔らかな風合いの幕に囲まれた、天蓋つきのベッドがある。
そこでコレットは、毛足の長い毛布にくるまってすやすや眠っていた。豊かな髪は白いクッションの上に広がり、いつも輝いている青い瞳は、長いまつ毛に縁どられたまぶたの中にある。
カーテンを透かした光がベッドを優しく照らすと、小さなうめき声がし、毛布がもぞもぞと動いた。
コレットは微睡みの中で朝の気配を感じ、まだ眠気の残る目をこすりながらぼそぼそとつぶやいた。
「ん……朝……なの?」
いつも耳にする朝鳥の鳴き声が聞こえてこない。静かで、風の音も獣の鳴き声もしない。
珍しいこともあるものだと思いながら起きようとするが、見慣れない天井を目にして目が点になり、カチンと体が固まってしまった。
今自分がどこにいるのか分からないでいるのだ。
クッションのいいベッドに、ノリのきいた真っ白なシーツ。毛足の長い毛布は柔らかく、いつまでもくるまっていたくなる心地よさがある。
そして、周りを囲むレースの幕から透けて見える光景を目にし、ああそういえばお城にいるんだったと、ようやく思い出した。
頭を抱えてため息を吐けば、昨日の目まぐるしい一日がありありと蘇ってくる。
たった一日にして、牧場の娘から狼陛下の婚約者に変わってしまったのだった。
「でも、本当に夢じゃないのかしら……」
罪に対する罰であるのに、あまりの待遇の良さに辟易している。
身につけているものはシルクのネグリジェで、いつもコレットが着ているワンピースよりも、はるかに上等なものだ。薄桃色で胸元と裾にリボンとレース飾りがあり、このまま街を歩いても平気なほどのかわいらしさ。
昨夜メガネの騎士にこの部屋まで案内されて、待ち受けていた侍女に問答無用で着替えさせられたのだった。
待ち受けていた侍女とは、コレットをお風呂に入れたリンダである。
「えっと……これからどうしようかな……」
昨日は心身ともに疲れ切ったおかげか、ベッドに入ってすぐに深い眠りに就くことができた。おかげですっきり目覚めたのはいいが、一日をどう過ごしていいのか分からず、困ってしまう。
牧場の娘であるコレットの朝はいつも早く、夜明けとともに鳴く朝鳥の声で目覚めるのが常だ。簡単に部屋の掃除をし、そのあと手籠を持って鶏小屋に行って生みたての卵を回収する。
牧場の仕事の中でも、コレットは卵回収の作業が一番好きだった。鶏小屋の寝床に敷き詰められている干し草の中に、ころんと卵が転がっていると、宝物を見つけたような気分になれる。
そしてしぼりたてのミルクと一緒に、アリスが作ってくれるふわふわオムレツを毎朝食べるのが楽しみだった。
コレットはベッドから下りて、カーテンを開けてみた。
もうすっかり日が昇り切っていて明るく、見下ろせば、白い服を着た人たちがこんもりと茂る木の葉の下を歩いているのが見える。
「騎士団がお城の中を見回りしているのかしら」
ニック夫妻も、今頃は普段通りに牧場の仕事を始めている頃だ。
ニックの腰は、少しはよくなっただろうか。働き手である自分がいなくなって、さぞかし大変だろう。
コレットは遠くにそびえる山を眺め、ふたりの心配をするのだった。
ふいに扉を叩く音が聞こえ、応答するとリンダが顔をのぞかせた。
「おはようございます。良かったですわ~。もう起きていらっしゃったんですね」
リンダはいそいそと部屋の中へ入るとすぐにクローゼットの扉を開け、ミントブルーのドレスを取り出してにっこり笑った。
「さあ、早くお支度をいたしましょうか。サヴァル陛下が朝食のお席でお待ちでございます」
「え!? まさか……陛下と一緒に朝ごはんを食べるんですか!?」
「ええ、もちろんでございますわ。さあ、急ぎましょう」
コレットの着ていたネグリジェは、リンダの手によってするりと脱がされた。婚約者としての、生活の始まりである。
お沙汰婚約者の部屋には、楕円の鏡の付いたドレッサーがある。
鏡の周りの白い枠には薔薇の花の彫刻が施されており、金糸で編まれた紐が縁を飾っている、とても美しい造りだ。
クローゼットの前でぎゅうぎゅうとコルセットの紐を絞められて、ミントブルーのドレスを着せられたコレットは、そのドレッサーの前に誘われた。
「わあ、かわいい……」
見た瞬間に感嘆の声が出る。
昨日はとんでもない出来事の連続で、周りをじっくり見る余裕など一ミリもなかった。姿を見るだけの鏡がこんなにかわいいなんて!と、とても感激してしまう。
牧場の自分の部屋にはドレッサーなどなく、小さな手鏡のみだった。それも手のひらサイズというべきか、顔全体が映るのがやっとの大きさだ。
両親と一緒に都に住んでいたときは、お針子だった母親の仕事のおかげで大きな姿見がひとつだけあった。櫛などの道具類は、使い込まれてあちこちに傷のある小さな木箱に仕舞われていた。それが、平民の一般的な持ち物である。
身支度をしてもらいながら部屋にある調度類をよく見れば、みんな同じ飾りが施されている。ベッドまでもが、天蓋部分と柱に飾りがついていた。
「全部、お揃いなんですね」
感心しつつ、元からこのお部屋にあったものかと訊けば、これらの道具類は全部昨日のうちに運び込まれたものだとリンダは言う。
「お気に召されたようで、よかったですわ~。きっと陛下もご安心なされます。でも、急なことでしたので、まだ揃えられていないお道具がたくさんございますの。ドレスもそうですし……ご不便をおかけいたしますわ」
鏡の中のリンダの眉が下がり、心底申し訳なさそうな顔になる。
大きなクローゼットにチェストがふたつ、それにベッドとドレッサー。これだけあれば、コレットにはすべて揃っているように思う。これ以上何の道具を入れるのか。
コレットが首をこてんと傾げると、リンダは笑顔になった。
「ですが、ご安心くださいませ! 婚姻を結ぶ日までには、なんとしても揃えますから!」
リンダは目を輝かせて断言する。
彼女はコレットが牧場の娘で、お沙汰でこの場にいることを知っているのだろうか。それとも全く知らず、陛下の本物の婚約者だと思っているのだろうか。
本当は偽物の婚約者なのに、これ以上のことをしてもらえる気がしない。コレットはどう答えればいいのか分からず、曖昧に微笑んで見せたのだった。
リンダは、コレットに好きな色や食べ物に関して問いかけてくる。時々笑い声を交えながら話をしていても、リンダの手はくるくると動きまわり、鏡の中の素朴な牧場娘の姿がどんどん変わっていく。
その様子を、コレットは半ば信じられない気持ちで見つめていた。
ミントブルーのドレスを着た自分の姿はとても華やかで、意外にもよく似合っている。肌にはパフパフとおしろいが叩かれ、唇にはうっすらと紅がさされる。
普段は洗っても櫛を通すだけだった髪は、花の香りのする髪油が塗られてとても艶やかになり、見た目だけは貴族の令嬢のようだ。これなら黙って立っていれば、身分が低い者だとは、誰にも分からないかもしれない。
“容姿の美しさ”を見込まれたと、メガネの騎士が言っていたのを思い出す。よく見れば、リンダ自身も、髪と肌をよく手入れしているようで、とても美しい。
侍女といえども、城に上がれるのは綺麗な人でなければ駄目なのかもしれない。リンダと自身を交互に見つめ、コレットは妙に納得したのだった。